「おいおい、この森どこまで続いてんだよ……」
歩き始めて一時間、サイタマはいまだ森を抜けれずにいた。太陽はまだ高い位置にあるとはいえど、それも時間の問題。いずれは沈み、辺りは真っ暗闇になるだろう。サイタマの体力的には問題ないが、暗くなったら暗くなったで、それはそれで歩くのがより面倒なサイタマは、さっさと森から出たい気持ちでいっぱいだった。
というよりも、サイタマの身体よりも手に持っている
だというのに、歩けど歩けど木々や草。道のない道を進むサイタマは、いよいよげんなりしだしていた。おまけに緑で覆われた頭上を見上げれば、さっきの快晴が嘘のように曇天が広がっている。いつ雨が降るかわからないような、そんなどんよりとした雲だ。
「ったく……今日はツイてねぇなぁ……お?」
己の不運を嘆いていた時、視界の先が明るく、開けているのがわかった。思わず顔が僅かに綻ぶ。
「やっと出れるな。いやぁ地味に長かったぜ」
重かった足取りが軽くなる。サイタマは草を掻き分けながら、気持ち弾むように歩を進めていった。やがて木々が途切れた場所まで出て、また歩みを止める。
「……なんだこりゃ?」
サイタマの目に飛び込んできたのは、見上げる程に大きな石造りの城。だが窓は割られ、城壁のそこかしこには蔦やら苔やら、挙句一部が崩れている等、ひどい外装だった。かつては立派で荘厳だったのだろうその城は、ただしく廃墟と呼ぶに相応しい荒れ果て具合だった。
「こんな森ん中に城? 変わったとこに建ってんな」
城の周りを見ても木しかない、完全に孤立した城。交通アクセスとか面倒臭そうという、場違いなことを考えているサイタマだったが、何か思いついたように「あ」と声を上げた。
「そうか、ここにいる人に道聞けばいいんだ」
他に行く宛もなし、なら森を抜ける道を尋ねればいい。こんな辺鄙なところに住んでるんだから、出口くらいわかるだろうと考えたサイタマは、得体の知れない城へと進んでいく。
近くに来れば来るほど、異様な雰囲気を放つ城。常人ならば何か危機感を抱いて、城に背を向けるだろう。
「すんませーん! 誰かいますかー?」
だがここにいるのは、常人とは遥かに違う精神を持った男。入り口であろう大きな門を前にして声を張り上げた。
「すんませーん!! …………やっぱ誰もいねぇのか?」
もう一度声を上げ、尋ねるサイタマ。が、待てど暮らせど返答はない。まぁ、こんな森の奥、しかも見てくれからして人が住んでいるか怪しい建築物に誰かが住んでいるというのも妙な話ではあるとサイタマは思い直す。
「…………勝手に入ったら、住居不法侵入になるよな……ヒーローとしてそれはダメだよなぁ……」
正直、森にもう一度戻るのは気が引ける。が、サイタマの中の常識が勝手に人の家(?)に入るのはダメだと告げる。
どうしようか、悩むサイタマ。と、そんな時だった。
「……あ」
ポツリ。サイタマの禿げ上がった頭に何かが当たる。それから少しの間を空け、一つ、二つ。サイタマが見上げれば、分厚い雲から幾つもの水滴が落ちてきており、やがてそれは勢いを増していく。
豪雨。まるでサイタマが森へ戻ることを許さず、城へ入るよう誘導するかのような雨量。うげぇという顔で、サイタマは覚悟を決める。
「……まぁ、ちょっと入るくらいなら許してくれるよな? うん!」
自己を正当化し、これは犯罪じゃないこれは犯罪じゃない、と呟きながらサイタマは門の扉を開ける。鉄製の門は軋んだ音をたてて開き、僅かな隙間に身体を滑り込ませたサイタマは素早く扉を閉めた。
重い音を鳴らして閉まる門。口を開いた蛇が飲み込んだのは、恰好の獲物か、或いは……。
「は~、結構広いな」
城のエントランスホールにあたる場所を歩くサイタマのブーツの足音が響く中、サイタマは高い天井に吊り下げられたボロボロのシャンデリアを見上げながら感心して呟く。正面には二階へ上がるために二つの階段がアーチを描く形で左右に設けられており、階段の先にはバルコニーが設けられている。やがてサイタマはホールの中央まで来て、改めて周囲を見回す。しばしそうしていると、眉をしかめた。
「ってか、外もボロければ中もボロいな」
置かれた机や装飾物は埃を被っており、床に敷かれてあるカーペットはボロボロ。さらに外の雨はさらに強くなり、割れた窓や壁の隙間から雨水が吹き込んでくる始末。明かりすら灯っておらず、昼間だというのに薄暗い、とても人が住めるような環境ではないことがわかる。かと言って外に出るのも躊躇われる。何せ、外から響いてくる雨音に混じり、空が不機嫌な音を鳴らし始めているのをサイタマの耳が拾った。
やはり単なる廃墟かと、少し期待していたサイタマはがっかりした……。
「このような場所に客人とは珍しい。何か御用ですかな?」
が、突如響き渡った声に驚き、サイタマは顔を上げた。
「あ、いた」
見上げた先は、二階正面のバルコニー。そこにいつからいたのか、長身の人物が立っていた。ちょうど暗がりで足くらいしか見えず全貌までは見えなかったが、声からして男性であることがわかり、人がいないと決めつけていたサイタマは思わず声を上げる。
「って、ああすんません勝手に上がりこんじゃって。ちょっと道迷っちゃったんスけど」
ともかく、人がいるならありがたいとサイタマは謝罪を前置きに自らが置かれた状況を話した。
「おや、それはお困りでしょう。どこからいらしたのですか?」
「えっと、M市から来たんだけど、こっからZ市に帰りたいんだよな。どうやってこっから帰るか知らない?」
「ふむ……エムシ、ゼットシ、ですか……申し訳ありませんが、どちらも聞き馴染みがありませんね」
「え、マジで? やべぇどこまで吹っ飛んだんだよ俺。マジでどうしよう……」
男が考え込む仕草をしながらそう言うと、サイタマはいよいよ途方に暮れた。そんな遠くまで吹き飛ばされたのかと内心で愕然とした。頭を掻いて考え込むサイタマを、二階から男がじっと見つめる。
その視線に覚えがあるサイタマは、首を傾げた。
(なんか、スーパーで品定めしてる時の俺みたいな視線感じるな……)
何故そんな風に見られるのかわからないサイタマだったが、男は変わらずサイタマを見下ろし続ける。
「けれど、何も案ずることはありません。あなたはそこへ帰る必要はありませんから」
「あ? どういうことだよ?」
「わかりませんか? ならば、もっとわかりやすくお伝えしましょう」
男が一歩、足を進めてバルコニーの柵に手を乗せる。それにより、男の顔が顕わになった。
長い髪に、理知的な顔立ち。街にいる女性は彼が歩けばこぞって振り返るような美形だった。
「あなたは永遠にここから出られない、ということですよ、お客人……いや」
だが、見るべきはそこではなく、
「我々魔族の根城に迷い込んできた、哀れな人間よ」
頭に生えた、二本の角。そしてサイタマを見下ろすその目が、冷たい侮蔑のこもった物に変わったことだ。
(……まぞく? 窓際族みてぇなもんか?)
もっとも、サイタマはそんな目など気にすることもなく、魔族という言葉に引っかかってまるっきり見当違いなことを考えていたが。
「ってか、なんだその角。コスプレ?」
「……この期に及んで、随分と余裕を保っているようだが……肝が据わっているのか、身の程知らずの愚か者なのか」
自らが置かれた状況が理解できていないサイタマに、男は丁寧な口調を消して冷たく言い放つ。サイタマは男の変わりようにきょとんとしていたが、ふと視界の端に何か光る物が映った。何だろうとそちらに気を取られた瞬間、
「……お?」
突如として、スーパーの袋ごと身体に何かが巻き付いてきたのをサイタマは感じた。
この世には魔族という種族がいる。寿命が長く、神秘の力“魔法”を操る種族。魔族の始まりは、人の言葉を話し、欺き、人を食らう魔物であったという。
魔族に情や罪悪感といった人の心はない。そもそも、そんな物は不要だと、どの魔族は断ずることができるだろう。何せ、魔族を知る者は魔族をこう語る。
“言葉を発する、言葉の通じない猛獣”……リュグナーはそれを否定せず、寧ろ正しい表現であると思う。
人間など、ただの餌に過ぎない。この人間に近い姿も、所詮は人を欺くため、いわば虫等に見られる擬態と同じようなものだ。
唯一、外見で魔族と判別できる物といえば、頭の角。魔族の象徴でもあり、この角を見た瞬間、大抵の人間は恐れ慄くか、或いは警戒するか。
「なぁ、なんか身体に巻き付いてきたんだけど?」
だというのに、リュグナーはバルコニーの上からのこのこと魔族の根城に入ってきた闖入者の男、サイタマを見下ろす。当のサイタマはというと、遠目からではわからない何かによって拘束されていて尚、呑気な態度を崩さなかった。
「ドラート」
リュグナーは視線を男から外し、一階の柱へと向けた。声に応えるように、柱の影から現れたのは、薄緑の髪をした少年の姿をした魔族。さらに反対側の柱からも、桃色のツインテールをした少女が姿を現す。
「構わないでしょう? リュグナー様。こいつの立ち振る舞いは素人のそれです。アウラ様の軍勢に入れる価値もない」
嘲りを隠そうともしないドラートの指先が、キラリと光る。光は一筋の線となって伸びており、その先にはサイタマの身体がある。ドラートの指先から伸びているのは、魔力で作られた糸。ドラートの持つ魔法であった。
「まったく、血の気が多い奴だ……」
呆れるリュグナーだったが、ドラートの言葉を否定はしない。ドラートの言う通り、この男は戦士ではないというのがリュグナーの見立てだ。眩しい程禿げ上がった頭に、黄色い服に白いマント、赤いグローブとブーツという見たことのない奇妙な服装と、興味深い点はあるにはある。だが覇気のない顔に背筋の曲がった立ち姿、おまけにその辺の村人よりも少ない魔力。
長い年月を己の魔法に捧げ、数多くの修羅場を潜り抜けてきたリュグナーは理解する。目の前の男は力無き者、明らかな“雑魚”そのものだと。
視線を今度は少女、リーニエへ向けた。彼女はサイタマに興味すら抱いていない様子で、退屈そうに柱にもたれて片足をプラプラさせている。
(……魔族を前にして平然としているのを見た時は、大した器の持ち主か、或いは単なる物知らずの愚か者かのどちらかかと思ったが……この場合は後者か。全く、時間の無駄だったな)
ドラートの言う通り、主君に会わせるまでもない。ならば配下である自分たち“首切り役人”がこの邪魔者は処理しておくべきだと判断したリュグナーはドラートに視線を送ると、その意図を理解したドラートは口の端を吊り上げた。
「運が無かったな、人間」
「あ?」
傲慢さを隠そうともしないドラートに、サイタマは眉を上げる。何か言おうとするサイタマに、ドラートは人差し指を曲げていき、そして、
「くたばれハゲ頭」
一言。そう告げた瞬間、糸を引いた。
「あ」
グシャリ。サイタマの声と共に何かが落ちる音がした。
恐ろしい強度を持った糸は、刃となる。その刃が身体に、首に巻きつけられたサイタマに待つ運命。そこに広がっていたのは、糸によって無惨に細切れにされたサイタマの姿……
「…………ん?」
の、筈だった。
糸を引く際、ドラートの手に伝わる感触。本来ならば肉を裂いた手応えを感じる筈なのだが。
糸が、外れない……というよりも。
「なんだ? 硬い……?」
グイグイと、糸を掴んで何度も引く。結果は変わらない、まるで岩を切ろうとしているかのようで、切れる気配がない。
当のサイタマはというと……俯き、目元を暗くしていた。その視線の先には、袋がズタズタに切り裂かれ、それ以上に中身が無惨なことになってしまっている……今日の特売セールの戦利品たち。
「……ドラート、何をしている?」
「いや、その、それが、切れ……!」
一方、いまだ健在のサイタマにリュグナーが訝し気な声を上げ、ドラートはだんだんと声に焦りが混ざり始め、何度も何度も糸を引いていた。
どうなっている? ドラートだけでなくリュグナーも、ぼんやりと事の成り行きを見ていたリーニエすらもそう思い始めた時だった。
「おい……」
サイタマが動いた……その瞬間。
魔法の糸が、引きちぎられた。
「は?」
糸を握っていたドラートの口から、本人すら出したことのない間抜けな声が飛び出した。それもその筈、己が作り上げた魔法の糸は魔族の中でも随一と自画自賛する程の強度を誇る糸が……鋼など足元にも及ばない程の頑強な糸が、呆気なく千切れたのだ。
それも、魔法でもなんでもない、強引に、力任せに。呆けるのも無理はなく、思考が追い付かない。
そんなドラートの身体が、突然前へと飛び、続いて顎に衝撃を食らう。原因は単純。サイタマがドラートの指と繋がっていた糸を持って、一気に手繰り寄せたため。
「ハゲ関係ねぇだろ」
勢いそのままに、軽い感じで突き出されたアッパーがドラートの顎に炸裂したためだ。
ドラートは何が起きたか理解する前に意識を飛ばす。ついでにその身体も真上へ飛ばす。城の高い天井を破壊し、雨雲すらも突き抜けて飛んでいき、文字通り星になった。
「…………なに?」
突然すぎて、リュグナーの思考が止まる。目を見開き、らしくもなく唖然とする。一番近くにいたリーニエすら、無表情から一転、目が驚愕に彩られていた。やがて拳を突き上げているサイタマの頭上から降り注ぐ雨と小さな破片を見て、ようやく理解する。
ドラートは、殴り飛ばされたのだ。目の前の雑魚と認定した筈の男によって。
「テメェら……」
サイタマは身を屈め、ぐちゃぐちゃになったビニール袋の中身を拾う。その手にあるのは、黄色と半透明の粘液に塗れたプラスチックの残骸。それを見せつけるように、リュグナーに突き出す。
「特売で25円だった6個入り卵パックどうしてくれんだよ……最近値段高くなってる白菜だってめちゃくちゃ安く買えたってのに……」
卵パックの残骸を落とす。そしてその汚れた手をギュッと握りしめ、
「責任取りやがれ」
拳を作ったその瞬間、外で鳴り響く雷の轟音と、迸る閃光。その閃光が、サイタマの身体を照らし、影を作る。リュグナーを見るその三白眼には、激しい怒りが宿っていた。
「っ……!?」
リュグナーの身体が異変を起こす。これまで、かつてないほどに感じた背筋が粟立つ異様な感覚。こんなこと、かつて自分たちに辛酸を舐めさせた者たちにすら感じなかった。
先ほどまでは感じられなかった、サイタマから立ち上る圧倒的な闘気、もとい怒気。魔力とは違う、異様なまでの力がサイタマの身体から放たれ、リュグナーを襲う。
(なんだ、この力は……人間が出せるようなものではないぞ)
リュグナーは数分前の己の判断を呪う。どこが雑魚だ。雑魚どころか、とんでもない化け物ではないか、と。
「リーニエ!!」
が、いつまでも慄いている場合ではない。リュグナーはすぐさま思考を切り替え、叫ぶ。その声に応え、リーニエは右手を突き出した。
「『
呟いた瞬間、リーニエの右手に集まる黒い粒子。それは形となり、長柄の戦斧となる。それを掴んだ瞬間、斧の刃が地面に落ち、石造りの床の一部を破壊した。
「――っ」
姿勢を低くしたかと思うと、一息、飛び出し、一瞬のうちにサイタマに肉薄。その時にはすでに斧を振りかぶり、サイタマの首を狙っていた。
「お?」
が、振るった瞬間にサイタマは身体を反らして回避した。焦りも何もない、声をかけられて反応したかのよう。
必中だと思った攻撃を躱され、一瞬動きが止まる。それでも、リーニエは冷静に攻撃を続ける。
リーニエの『
その筈なのだが……目の前の男、サイタマはそんなことなど知ったことかとばかりに、ヒョイヒョイと軽い感じで避けていく。それも焦りも必死さもない、無表情そのもので。
リーニエが斧を薙げば上半身を後ろに倒すように反らして回避、代わりに切れたのは城の柱。頭をカチ割ろうと振り下ろしても一歩横へ移動して避けられて、破壊するのは城の床と調度品。
全て見切られている。この男に攻撃が当たる未来が見えない。表情こそ変化はないが、リーニエの中に徐々に焦燥が芽生え始めていた。
そんなリーニエを見かねたのか、バルコニーからリュグナーが飛び降りる。そのまま落下するかと思いきや停滞、まるで足場があるかのように空中を飛んでいた。
そのままおもむろに、手首に歯を突き立てる。鋭い歯によって、手首からは血が流れ落ちていくも、リュグナーは痛がる素振りも見せずに、傷ついた手首をサイタマへと突き出した。
「仕方がない……『
流れ落ちていた血が凝固、歪な形へと変貌し、幾重もの鞭となってしなりながらサイタマへと迫る。
リュグナーの『
だというのに。
「ったく、何なんだよさっきから。俺なんか悪いことしたか?」
血の刃も、斧も、それら全てを瞬間移動もかくやと言わんばかりの速度で動き、いきなり攻撃を仕掛けてきたリュグナーたちにうんざりしながら、苦も無く躱し続ける。破壊されるのは城の壁、床、柱、調度品ばかりで、サイタマの身体に掠りもしない。
「人間め……調子に乗るなっ」
翻弄する筈が翻弄されてる事実に、リュグナーの冷徹な声に怒りが乗る。リーニエもまた、いい加減当たれとばかりにより苛烈さを増して斧を振るった。
それでも、サイタマには当たらない。掠りもしない……が、
「あ」
運はリュグナーたちに味方した。
二人の攻撃によって破壊された壁から落ちてきた瓦礫の一部が、サイタマの足元に落下。後ろへ下がろうとしたサイタマの踵に、その瓦礫が引っかかった。思わず声を上げたサイタマは、バランスを崩す。転倒することはなかったが、その隙はリーニエにとって最大の好機だった。
(獲った)
斧を振りかぶり、リーニエの渾身の力を込め、唐竹割の要領で振り下ろす。凶悪に光る刃が、真っすぐ、サイタマの光沢のある頭頂部目掛けて迫る。足元に気を取られていたサイタマは、避ける間もなく命を絶つ刃が眼前に来るのをただ見つめるしかできていない。
リーニエは勝利を確信した。そして、
「よ」
目にも留まらぬ速さで軽く指でつまむように受け止めてみせたサイタマに、今度は絶句した。
「――――っ」
確実に仕留めたと思った一撃が、指先で挟むだけで受け止められた。この事実を前に思考停止してしまったリーニエを、誰も責めることはできないだろう。
「ていうか今思ったんだけどよ、お前ら人間じゃなくて怪人なんだな。口ぶりからして人襲ってるっぽいし」
「っ、このっ」
リーニエは必死に斧を引っ張って取り戻そうとするも、ビクともしない。その間、サイタマは思ったことを口にし、リーニエの斧を掴む手を強くしていく。そして、
「まぁ、とりあえず……ほい」
ポイっと、さながらチリ紙の如く軽々と斧をリーニエごと投げ飛ばした。それも、宙高く。
斧を引いた瞬間の反動と、あまりに呆気なく自身が投げ飛ばされたことに思考が追い付かないリーニエは、宙を舞うしかできず……そして、飛んだ先にはリュグナーが展開した血の刃があった。
「しまっ……」
気づいたリュグナー。だが、もう遅い。
ザシュッ
「あ……」
「あ」
肉が裂かれる音。鋭利な刃によってリーニエの身体に袈裟がけに走る裂傷。飛ばした本人であるサイタマも予想外だったと思わず声を出した。
致命傷。血を吹き出しながらリーニエの身体が床へと落ちる。その時、すでにリーニエの瞳に光はなく……床に激突する直前、その身を塵へと化して消えていった。己の敗北の理由を察する間もなかったであろう。
「……なんか、すまん」
距離を離すつもりで投げ飛ばしたサイタマも、まさかこんな結果になるとは露知らず。思わず汗一つ流して謝罪した。
魔族は死ぬと、魔力の塵となって霧散する。そんな光景を前にしたリュグナーは、サイタマの謝罪など耳に入らず、眉間に深い皺を作る。そして、
「貴様……っ」
激昂。大声こそ上げることはなかったが、勢いよく左手首にも歯を突き立てた。そこから流れ出る血液はすぐに凝固し、無数の刃となって蜘蛛の巣状が張り巡らされていく。
リュグナーの思考を支配するのは、憤怒。身内をやられた、ということではない。魔族は群れをなして組織を作ることはあれど、仲間意識というものはない。攻撃を軽々といなされたばかりか、あまつさえ反撃に利用して部下でもあったリーニエを殺させたという、己の魔法に誇りを持っているリュグナーからすれば、それは耐えがたい侮辱だった。
その怒りが、リュグナーの本来の力の限界を超えた。両手から伸びる刃の数は、数十本にも及ぶ。それら全てを、眼下で棒立ちしているサイタマへと向けた。
「『
魔法を唱え、意思を持ったように血の刃はサイタマを肉薄する。先ほどのリーニエとの連携時とは比べものにならない、圧倒的手数。掻い潜る隙間など皆無に等しく、手練れの戦士ですら捌き切れず、魔法使いの防御魔法など質量で押しつぶす勢い。
今のリュグナーは、まさしく荒れ狂う刃の暴風雨。主君からは役立ちそうなら生け捕りにせよと命じられているが、今の彼にはそんな余裕はない。確実に目の前の存在を仕留めるつもりで挑まなければ、こちらが死ぬ……そんな決死の思いで、リュグナーは血を操る。
そんなリュグナーの不運は、
「おお、なんかすげぇ増えた」
相手が、サイタマであったということだろう。
(何故だ。何故当たらないッ)
表情こそ変えないリュグナーだったが、内心では苛立ちで歯ぎしりしたい気持ちでいっぱいだった。前後左右、上下ですら逃げ道はない筈。そんな怒涛の攻撃を前にして、サイタマは尚も余裕を崩さず軽口を叩く始末。しかも、まるで軽く投げたボールを避けるかのように軽々とした動きをしているのもまた癪に障った。
そしてそれ以上に、リュグナーは焦る。何故ならば、
(こいつ、徐々に近づいている……)
ヒョイヒョイと避けながら、着実にリュグナーへと距離を縮めてきている。さらに苛烈になる血の刃の嵐、それに対して尚もサイタマは避け続ける。
(こちらは空中、さらには手数では圧倒的に私が上……なのに、こうも追い詰められていくとは……)
アドバンテージはリュグナーが上。その優位性を、サイタマは悉く破壊していく。リュグナーの背中を、嫌な汗が伝う。
このままでは、負ける……ならばと、リュグナーは覚悟を決める。
(いいだろう、来るなら来るがいい)
サイタマが急接近してきたところを、でかい一撃を食らわせる腹積もりのリュグナー。そんなこととは知らず、サイタマは避けて避けて避けて、前へと進む。
やがて十分接近した距離まで来たサイタマは、そこからジャンプ。床からかなり距離があるにも関わらず、軽い跳躍でリュグナーの眼前へ踊り出たサイタマは、拳を振りかぶる。
「かかったな」
それを待ち構えていたリュグナーの両手首から伸びる、血で作られた巨大な手。爪先鋭い指が、10本の槍となってサイタマの急所に狙いを定める。
(私の全力だ。ドラートを殴り飛ばしたような威力では砕けんぞ)
攻防一対の攻撃。サイタマの息の根を止めると同時、リュグナー自身の盾でもある血の爪。サイタマは空中で身動きが取れず、避けようがない。攻撃したとしても、リュグナーには攻撃は届かない。
これで詰みだ……リュグナーは勝利を確信する。
だが、何度でも言う。
「連続」
リュグナーの不運は、サイタマを相手取ってしまったことにある。
「普通のパンチ」
ドゴゴォォン。
轟音、爆砕。サイタマの突き出されたパンチは一発ではなく、二発、三発、それ以上の数。あまりの拳速にまるで無数の腕が生えたかのように映る程の残像を残して繰り出されたそのパンチは、一撃一撃が破城槌を軽く凌駕する破壊力を有している。
そんなものを叩きつけられることなど想定していないリュグナーの血の爪は、呆気なく破砕され粉々となった。
「————ッ」
顔の右半分、左半身、右足、さらには背後の城の壁一面もろとも木っ端微塵にされたリュグナーは、最初は何をされたかわからず唖然とし、やがて己の身に何が起きたのか理解し、半分となった顔を驚愕に歪めた。
「———馬鹿、な」
背中から落下、石の床へと叩きつけられたリュグナーは、そのまま動かなくなる。己の弱点である心臓もろとも身体を破壊され、己の敗北、そして死を悟る。
勝者であるサイタマは軽やかに着地。壁を破壊され、雨風が吹き込む中、身体を濡らしながらリュグナーを見下ろした。
(ありえない……こんなことなど……)
血の池が、リュグナーを中心に広がっていく。身体の力が抜けていく中、リュグナーは自身の敗北を認められずにいた。
リュグナーは、相手の実力を素直に認めることができる性分だ。例え己が敗北したとしても、相手の方が強かった……それだけのことだ。
だがこれは違う。圧倒的過ぎる。人間が有していい力を超えている……リュグナーは、サイタマを人間だと認められなかった。
「き……貴様は、何者だ……」
薄れゆく意識の中、リュグナーは最後の力を振り絞って問う。この人間の姿をした怪物が何なのかを知るために。
それを聞いたサイタマは、呆気らかんと答えた。
「俺はヒーローをやっている者だ」
それだけ。たったそれだけ告げる。
ヒーロー……すなわち、英雄。こんなふざけた身なりをした英雄を名乗る存在に、自分たち魔族は、人生を捧げてまで練度を高めてきた己の魔法は完敗したのかと、リュグナーは自嘲する。そして、
「……化け物、め————」
最後の抵抗のつもりで、そう罵り、血の池に完全に力なく横たわり———雨が降る中、その身を魔力の塵へと変えて消えていった。
その光景を、サイタマはじっと見ていたが、やがて視線を先ほどまでリュグナーが立っていたバルコニーへと向けた。
「……なんか、まだいそうな感じするな」
サイタマの直感が告げる。そういえば先ほど糸を出してきた男が『アウラ様』なる名前を言っていた……つまり、彼らの親玉がいるということかと、サイタマは当たりをつけた。
「行くか」
人を殺すのに躊躇いがない連中のボスを放置してはおけない。サイタマは気を取り直して、階段を上がっていった。
城の奥まった場所に、その豪奢な両開きの扉があった。サイタマはその重い扉を何の躊躇もなく開き、中へと入る。
部屋は外の天候の悪さも相まって薄暗かったが、まだ日中ということもあってかろうじて視界は確保できている程の明るさ。広く、エントランスホールより豪華な部屋、だったであろう場所。壁は黒ずみ、天井には蜘蛛の巣が張っている、入り口に負けず劣らずの荒れ具合。
そんな部屋の奥まった場所。豪華で大きな椅子、所謂玉座に見える、一つの影。
「随分と好き勝手やってくれたじゃない」
影が、サイタマに語り掛ける。尊大な女の声だ。
「過去に手放さざるを得なくて、やっと取り戻せた私の城をめちゃくちゃにした挙句、配下である首切り役人三人が全滅……彼らにはこれからグラナト伯爵領に入り込んでもらうっていう重要な仕事があったっていうのに、あなたのせいで台無しよ」
ゆっくりと、女が立ち上がる。靴音を鳴らし、前へと進み出る……すると、その姿が顕わになった。
「どう責任取ってくれるのかしら?」
紫に近い赤い髪を6本結わえた髪に、露出の多い黒い服。勝ち気な性格が垣間見える顔立ち。
そして、頭に生えた二本の鋭利な角。
「お前あの三人のボスか。責任も何も、あっちから突っかかってきたんだろうが。せっかく頑張って買った特売品台無しにしやがって、そっちこそどう責任とってくれんだよ」
仲間がやられて怒り心頭というような口ぶりなのに、その声からは怒りが伝わってこないことに疑問を抱きながら、サイタマは三白眼を吊り上げながら応える。対し、女は「ふぅん」とサイタマをジロリと見る。
「……随分と妙な身なりしてるわねぇ。村人……という感じでもない……あなた何者? 首切り役人を退ける程なんだから、名の知れた戦士だと思うんだけど」
まるで召使いに尋ねるかのような物言い。サイタマは特売品について何も答えない女に内心腹を立てつつも名乗る。
「俺か? 俺はサイタマ。ヒーローをやっている者だ」
「サイタマ? ヒーロー? ……自分から英雄を名乗るだなんて、名前も含めて変な奴ね。ハゲだし」
「おいコラ、なんでハゲ付け足しやがったテメェコラ」
コンプレックスを弄られたサイタマは青筋を立てながら反論した。
「そういうお前は何なんだよ。こっちが名乗ったんだから、お前こそ名乗れよな」
言って、サイタマから聞かれた女はクスクス笑う……もとい、サイタマを嘲笑う。まるでその質問を待っていたかのように。
「あら、知らずにここに来たの? 討伐に来たならいざ知らず、本当に迷い込んだ運のない人間なのね」
「あ?」
何故バカにされているのかわからないサイタマは、ますます目を吊り上げる。それを無視し、女は告げた。
「私はアウラ。魔王様直属の幹部『七崩賢』の一人、断頭台のアウラ……名前ぐらいは知っているでしょう?」
女———断頭台のアウラは、サイタマを嘲る。人類の天敵である魔族、その中でも選りすぐりの存在が目の前にいて恐怖しない者などいない。当然、サイタマにもそれが適応される
「洗面台のアブラぁ? 人のこと変わってるって言いながらお前も大概じゃねぇか」
筈もなく。まるで知らないかのような態度の上、失礼にも程があるくらいの凄まじい呼び間違いに、アウラの口の端が引きつった。
「断・頭・台・の、アウラよ。どんな耳してんのよあなた……!」
名前を強調しつつ訂正。思わず怒声を張り上げようかとも思ったアウラだったが、ギリギリ持ち直した。
「まぁ、いいわ……どうも私のことを知らない、無知で愚かで可哀想な人間のようね」
「……さっきからバカにしすぎじゃねぇかテメェ」
アウラの哀れみの込められた口調にイラつくサイタマ。それでも尚もサイタマの文句は聞かず、アウラは嗤う。
「そんな愚かなあなたに一つ提案があるわ」
「提案?」
「……あなた、私の傀儡になりなさい」
「はぁ?」
意味が分からないと声を上げるサイタマに、アウラは続ける。
「あなたは私の配下である首切り役人を倒した。その強さに免じて、私の手駒の一つにしてあげるわ。勿論、破格の条件でね? どう?」
「いやなるわけねぇだろバカか。ヒーローが怪人の手下になってどうすんだよ」
「ふぅん……単なる人間が、私に盾突こうってわけね。いいの?」
「当たり前だろが。冗談じゃねぇよ」
憤るサイタマに、アウラはしばしじっとサイタマを見つめていた……が、やがてため息を一つ。呆れと、哀れみが含まれたため息だった。
「そう。残念ね……それじゃあ」
その時、頭上から殺気を感じ取ったサイタマは、ふと顔を上げる。
「死になさい」
その顔面に、分厚い刃が叩きつけられた。
「そいつは戦斧のグロース。魔族の中でも武を極めた将軍の一人よ」
アウラはほくそ笑みながら、目の前の光景を目にしつつ語る。部屋全体を揺らし、床が破壊されていくのも構わず、両手に持った巨大な斧を何度も何度もサイタマに向けて叩きつける無骨な鎧を纏った巨漢。顔は二本の角が突き出た兜に覆われて見えず、されどそこから意思は感じ取れない。ただただ雑務をこなすように黙々と、斧を振るい続けていた。
「もっとも、今は私の傀儡でしかないのだけどね。少なくとも下手な人間の戦士よりも強いから重宝してるわ……って、聞こえてるわけないわよね」
これは、アウラにとって最後の試練。首切り役人の三人を葬った男ならば、この一撃を躱せる筈だと踏んで不意打ちを食らわせた……その結果は、アウラの期待外れだった。奇襲に反応できず、こうして一番強い駒であるグロースの手でひき肉にされていくサイタマに失望の念を抱いた。もう生きてはいないのは火を見るより明らかだった。
(さて、どうしようかしらね……リュグナーたちがいない今、グラナト伯爵領に攻める手段を考え直さないと)
死んだ人間は忘れようと思考を切り替え、アウラは今後の予定を考える。かつて攻め込もうとして失敗した領への進軍。領を囲う“結界”によって入ることが叶わない以上、配下を使って人間を騙し、中から攻める作戦だった。が、それはもうできない。一から作戦の練り直しだ。
それでも、アウラに焦りはない。配下はもういないが、自分は生きている。魔族の寿命は長い。その分、考える時間はたっぷりとある。それに何より、
(もう勇者はいない……私を止める奴はどこにもいないんだから)
かつて受けた傷を思い、肩を摩る。この傷をつけた人間は、この世にはいない。アウラを阻む者は、誰もいないのだ。
だからこそ、アウラは余裕を崩さない。
ドォンッ
この瞬間までは。
「え……」
轟く打撃音。アウラがその音の発生源を見やれば、そこに立っていたのはグロース。
そのグロースの背中に、鎧ごと大きな風穴が空いていた。中身である血と臓物が宙を舞い、ビチャビチャと床を汚していく。
「ったく、こっちは道に迷うわ、雨に降られるわ、特売で買ったもん台無しにされるわで散々だってのに、何だってんだよホント」
ズズンと、床を揺らしながら仰向けに倒れるグロース。何度も斧を叩きつけられて陥没した穴の中から、のっそりと起き上がりながらぼやく男、サイタマ。一撃でも食らえば一たまりもない斧の刃を何度も叩き込まれたにも拘らず、その身体は怪我どころか傷一つついておらず、五体満足でピンピンしている。精々服と顔に汚れが付いた程度だ。そんなサイタマの拳からは摩擦熱によって煙が立ち上り、何をしたかを物語っている。
すなわち、グロースを、分厚い鎧をも貫通する威力のパンチで仕留めた、ということだ。
サイタマの一撃を食らったグロースの身体と、身体から飛び散った血と臓物が、黒い魔力の塵へと化して消えていく中、パタパタと服の汚れを叩き落とすサイタマ。その光景を前に、アウラは唖然としていた。
「……フ、フフフ、アハハハ」
やがて、アウラは笑う。おかしくなったというわけではない。アウラの中に生まれたのは、恐怖ではなく、歓喜。
首切り役人を倒し、そして目の前で魔族の将軍グロースをも葬った。さらにそのグロースによる攻撃すら通さない、鉄壁の肉体……ただの人間というには明らかに異様な存在だが、今のアウラにはこの際どうでもいい。
この男が欲しい———アウラの中にあるのは、その欲望だけだった。
「……? 何笑ってんだよお前」
いきなり笑い出したアウラを、サイタマは怪訝な目で見る。
「決めたわ。あなた、やっぱり私の傀儡になりなさい」
「いやだから無理だって言ってんだろうが。何度言われても同じだっつの」
アウラの言葉、もとい命令にサイタマはうんざりしながら返す。だが、アウラは気にも留めない。
「いいえ、あなたは私の傀儡になるわ……何故なら」
言って、手元にある物を顕現する。それは金色に輝く天秤。アウラは天秤をサイタマへと向けた。そして、
「私の方が強いから」
ほくそ笑み、口にした。
「『
アウラの身体から黒い魂が、サイタマの身体から白い魂が出てくる。二つの魂はアウラの持つ天秤にある二つの皿の上へとそれぞれ乗せられた。
アウラの持つ天秤は『服従の天秤』と呼ばれる物。アウラの魔法である『
それも、服従させる側が望む限り、永遠に。その身体が朽ち果てるまで、意思のない奴隷と化す。
当然、天秤がアウラとは逆の方へ傾けば、アウラは相手に服従することとなる。しかし、アウラはそんなリスクは承知の上、さらに言えば、自分が負けることなどありえないと確信していた。
アウラは魔族だ。それも、強大な力を持つとされている『七崩賢』の一人。さらに言えば、500年という魔族の中でも長寿と呼べる程に長い時を生きてきたアウラの魔力は凄まじく、そこらの人間など足元にも及ばない。それ故の自信だった。
そうして作られたのが、アウラの『不死の軍勢』である。その数、1000はくだらない。
それほどまでの数を使役するアウラの強大な魔力と、一般的な人間よりも遥かに少ないサイタマのちっぽけな魔力。それは比べるべくもなく……。
「フフフ……」
カタンと、天秤が傾く。魔力の多い方……すなわち、アウラの方へ。
勝った。アウラは確信する。これでサイタマを、アウラが知る中で最も強い力を持つ人間を傀儡にすることができた。これを笑わずにはいられようか。
この男がいれば、結界をどうにかせずともグラナト伯爵領を落とすのも容易い。不死の軍勢が一気に数100人増えたようなものだ。それほどの戦力が、今のアウラにはある。
アウラはおもむろに、近くに置いてあった剣を手に取った。後は仕上げれば、サイタマは完全にアウラの物となる。
断頭台のアウラと呼ばれる所以。操った者の首を落とし、完全に意思を失くす。そうして不死の戦士は完成される……それがアウラの仕上げだ。
「さぁ……跪きなさい、ヒーロー」
主人として、アウラは命ずる。そうして、傀儡となった男が頭を下げるのを待った。
「人の話を聞かない奴だな……まぁいいか」
が、下げない。寧ろ呆れながら呟いてから、アウラへと歩を進めていく。
(……? 命令が届かない? それほど意思が強いってことかしら……まぁ、それも時間の問題ね)
疑問を抱くアウラ。だが、別に不安にはなっていない。
この魔法の弱点は、意思の強い人間は一時的にある程度の抵抗ができるということにある。鍛え抜かれた者ほど、その抵抗は強い。
だからこそ、これまでアウラは首を断ち、その抵抗を挫いてきた。今回もそういうことだろうと、近づいてくるサイタマに対してアウラは余裕を崩さなかった。
(そろそろ跪くわね)
さらに近づいてくるサイタマ。
(……流石に、もう抵抗できない筈……)
歩みを止めないサイタマに、アウラの額から汗が伝う。
「止まりなさい」
止まらない。
「と、止まりなさい。止まりなさいったら」
一歩、二歩、三歩———
「止まりなさい……止まれ、止まれッ!!」
ようやく、サイタマは止まる。
アウラの目と鼻の先で。それも、明らかに意思を持った目で、アウラを見下ろした。
(な、何故……何故、意思があるの? どうして私の命令が届かない!?)
流石のアウラも、余裕を保てない。狼狽え、眼前に立つサイタマに対し、畏怖の目を向けた。
「くっ!」
咄嗟に、手が動く。その手に握られているのは、鋭利な刃を持った剣。アウラは真っすぐ、サイタマの首目掛けて剣を振るった。
「よっと」
が、それが届くことはなく。軽い感じで手刀を振るい、剣を逆に叩き割った。
「は……」
硬質な音が響く中、アウラは硬直する。そして剣を折られて確信する。
「あ……『
絶対不可避である筈の魔法が、サイタマに効いていないという事実に。
(そんなバカな……確かに魔力はこちらの方が多い筈なのにっ!?)
魔力が多い方が、相手を奴隷として使役することができる。それがこの天秤の力。それはこの世の理とも言える程に確かな物であり、破られる筈がない。
なのに、現実としてこの男は、明らかに魔力が極めて少ないにも拘らず、服従していない。確実に魔法はかかっている筈なのに、全然意思を失っていない。これはどういうことか、アウラは考えた。
考えて、一つの答えに行きついた。
(まさか……まさか、まさか……そんな、ありえない! ありえていいわけが……!?)
服従の天秤の弱点である『強い意思を持つ者はある程度の抵抗ができる』……アウラが服従させてきた戦士たちの多くは、一時的にではあるが抵抗できた。それは彼らが“鋼の意思”と呼べる程に強い意思があったからだ。
その意思が……目の前に立つこの男の意思が、“鋼”ではなく、“鋼以上”の意思を持っていたとしたら……。
この男は、魔法が効いていない云々というより『服従の天秤の力そのものを跳ねのけてしまった』ということになる。
それは、魔法に関わる者が聞いたら卒倒するような、ありえない話であった。
「ふ……ふざ、ふざけるなっ! 私は500年以上生きた大魔族よ!? それも80年前よりも遥かに強くなったというのに! それが、それがこんな、こんなバカげた理由で! こんな意味のわからない奴なんかに、私がっ!!」
「とりあえず」
信じがたい現実に狼狽え喚くアウラに、サイタマは覇気のない顔のまま握りしめた拳を、
「お前悪人だから一発ぶん殴っとくな」
アウラ目掛け、振り上げた。
(あ……ありえない……)
かつて自身を追い詰めた、人類を守るために剣を振るった人間が脳裏をよぎるが、ここまで非常識ではなかった。故に、受け入れたくない。受け入れたくないが、現実は赤いグローブを纏った拳という形で眼前に迫りくる。
(この私が……!)
恐怖に顔を歪めて悔し涙を流しながら、アウラはそれをただ受け入れるしかできなかった。