目の前に居る彼女の言葉は、自分の頭の中に嫌に響いた。
しん、と店内の中が静まり返った気がする。主婦達のしがれた声は疎か、ワックスのかかったフローリングの床を踏む、小高い音までもが聞こえなくなった。そんな気さえする。
彼女の茶色がかった黒い二つの瞳が、俺の何もかもを見通す。表情は何故か確信染みており、彼女は薄いピンク色の唇を、少しだけ釣り上げさせた。
向かい合う俺と彼女の顔。俺の表情はどのような感じで彼女に見えているだろうか。少なくとも、余裕たっぷりと言った表情には見えていないだろう。
背中に一つの冷や汗が垂れるのを感じる。この女に文の存在をわからせてはいけない。そう自分の本能が訴えかけてきていた。
彼女にバレたら最後、自分の何かが大きく変わってしまう。乾いた喉を小さく鳴らすと、か細い、消え掛かりそうな声色で俺は言った。
「天狗……? すいません、何を言っているのかさっぱり」
出来る限りの笑顔を作り、そう言ってみせるが対する彼女は小さな溜息を零すと、喜色と嫌味が混ざったような声色で、俺の言葉を返す。
「知ってる? 人間って嘘を吐いている時、無意識に右下を見てしまうんだって」
その言葉と同時に俺は、ハッとしたように彼女の顔へと視線を戻す。そんな俺の行動が面白かったのか、口元を手で軽く押さえながら、上品そうにクスクスと笑ってみせた。
「それと、他にも足をやたら組み替えるらしいわよ?」
俺は片手に掴む買い物かごの持ち手を強く握り締めた。コイツに嘘は通じない。俺が嘘を吐くのが苦手、ってのもあるのかもしれないが、少なくともコイツは、文の存在を知っている。
―――沈黙。彼女の言葉を返さずに俺は、精一杯彼女を睨みつけた。この女は、俺の敵だ。コイツと関わると恐らく、俺の未来は碌でもないことになる。生唾を飲み込み、俺は大きく息を吐いた。
早くこの場から立ち去りたい。出来ることなら俺は、買い物かごを地面に放り投げて全速力でこの場から逃げたかった。だけども、足は硬直したように動かず、一歩すら足を進めることも出来ない。
彼女は好物を目の前にした、蛇のように嬉しく目を細めると、一歩ずつゆっくり俺へと近づいてくる。
カツン。彼女のフローリングを踏む音だけが聞こえた。彼女が近づいてくる度に、死神が歩むような不気味な足音が耳の奥底に響く。
動けよ、動いてくれよ俺の足。瞼を強く閉じ、その呪縛から解かれようと試みるが俺の足は全く動かない。まるで足そのものが鉛に変化したようだった。
目を開けたくない。辺りが静まり返り、目の前には闇が広がる。目を開けたら最後、そこで何かが終わってしまうような気がするから。
ふと、頬に暖かい感触が伝わった。熱くも冷たくもない。人の温もりが。
さらさらとした髪の毛が鼻先をくすぐり、向日葵のような明るい香りが俺の鼻腔を刺激する。
文か? 俺は心の中で弱々しげに、そう呟く。すると、聞き慣れた文の、明るい声が聞こえたような気がした。
俺は意を決したように、ゆっくりと瞼を開く。目の前には明るい店内の光景は広がっておらず、”女性の顔が目の前に見えた”。
俺の両頬に、彼女は手を優しく添える。お互いの息が掛かりそうな距離まで近づいた彼女が、艶やかな表情でその口を開く。
「やっと捕まえた」
俺の意識は、彼女の
冷たい風が俺の頬を撫でる。
ぼんやりと目を開けると、目の前にはオレンジ色がかかった空が見えた。辺りからはカラスの泣き声が鮮明に聞こえ、排気ガスの嫌な匂いが鼻の奥を突く。
これほどまでに最悪な目覚めは無い。痛む頭を手で押さえながら、ゆっくりと起き上がる。
「あら、おはよう」
不意に隣から声が掛かった。頭が痛むので、ゆっくりとそこを振り返ると髪の長い、スーパーで会ったばかりの女性が俺の隣を座っている。
ああ、最悪だ。今日が厄日と言うものだろう。心中でそう呟くと、隣に座る彼女は知らん顔で片手に持つ缶コーヒーを俺に渡してくる。買って間もないのか、アルミ製の容器はまだ暖かかった。
「はいどーぞ、体冷えてるだろうから、買っといたわ」
妙に優しい素振りを見せる彼女に、俺は不信感を募らせる。毒は入っていないだろうか。そう思い、中々にブルタブを開けられない。
意を決し、隣に座る彼女を一目見てから勢いよくブルタブを開ける。カシュ、と空気の漏れるような音が聞こえ、恐る恐る口元へと飲み口を近づけさせると――。
「別に、普通の味だな」
誰に言うでもなく、一人でにそう呟く。一気に飲み込んだせいか舌先を少し火傷しそうになったが、コーヒー特有の程良い苦みがそれをカバーする。
余程俺の体は暖かさを欲していたのか、口に含んだホットコーヒーを飲み込むと同時に、冷えた体は歓喜したかのように内側から体を温めた。満足げに俺は体の熱を外に放出するように、口から白い息を吐く。
ふと隣から綺麗な笑い声が聞こえてきた。俺は硬いベンチの背もたれに深くもたれながら、隣に座る彼女の姿を見やる。彼女は口元を手で押さえながら優雅そうに笑っていた。
「本当、貴方の一挙一動全てが面白いわ。あっちの自動販売機で買った缶コーヒーなんだから、毒なんて入ってないわよ」
彼女の指さした先を見ると、少し離れた道の端に赤色に輝く自動販売機が設置されてあった。目を細めながらその自動販売機を良く良く見ると、確かに下段の方には俺が飲んだらしき、缶コーヒーが見える。
「誰だって不審者から飲み物手渡されたら、不信に思うよ。というかここ何処だよ?」
「見てわからない? 公園よ。というか不審者じゃないし」
遊具が何も置かれていなくて気付かなかったが、どうやらここは公園らしい。公園と言うよりかは、少し小さめの空き地に見えるが。状況確認の為、辺りをしっかりと見渡すと何故か俺が座るベンチの隣には、ショッピングカートが見えた。
「不審者じゃなかったら、誘拐犯だ。俺をこんな辺境な地に連れてきて何をするかわからんが、金なら払わないぞ」
濃い茶色のベンチで、俺は偉そうに腕を組む。不思議と彼女に対しては、何故か接しやすかった。かと言って、接しやすいだけでまだ彼女に対する敵意は消えていないが。
「お金なんていらないわよ。それより、貴方には色々と聞きたいことがあるの」
そう言いながら彼女は、嬉しそうに目を細める。少しだけ釣り上がった口の端は、彼女の整った顔を不気味な色で染め上げた。
ゾクリと俺の背筋が震える。冬の訪れを感じさせる冷たい風と、彼女の捕食者を連想させるような不気味な笑顔が混ざり合い、俺の心までもを凍えさせる。
「奇遇だな、俺もお前に色々と聞きたいことがある。俺も出来る限りの質問は答えるから、お前も俺の質問に答えろ」
俺は精一杯の不敵な笑みを作り上げる。ここで彼女に流れを持って行かれてはいけない、出来る限りの反撃はしなければ。
彼女は相も変わらず、不気味な笑みを浮かべている。黒い瞳は少しだけ濁り、よく見ると目の下には隈が出来ていた。
「ええ、わかったわ。そうじゃないと平等じゃないものね」
薄い茜色の日が、彼女の黒く長い髪を薄く染め上げる。その光景に、少しだけ俺は目を奪われると突然に彼女は立ち上がった。
「こんな寒空の下だと、ちゃんと話し合いも出来ないしね。どこか暖かい場所で話しましょう」
名案だな。素直に俺はそう思う。正直俺も、こんな寒い風に吹かれながら話し合いなんてしたくなかった。ベンチの端に置いた缶コーヒーを手に掴み、中身を一気に飲み干すと俺は勢いよく立ち上がる。
「そうするか。ここらへんに喫茶店とかあるかな」
「喫茶店もいいけど、貴方の家がいいわね。そっちの方が手っ取り早く話すことが出来るし」
「……俺の家?」
彼女の言葉を疑問に思い、俺は反芻するようにそう言う。すると彼女は小さく頷き、二、三歩足を進めると俺が後を追っていない事に気づいたのか、長い髪を大きく揺らしながら俺の方を振り向いた。
「何を呆けているの、貴方の家なんて私は知らないんだから、早く案内しなさいよ」
「いや、それはないんじゃねぇの!? お前何様だよ」
俺の少し前を立つ彼女の言動に、多少の苛つきを覚える。人差し指を彼女に突き差し、怒りを孕ませた俺の言葉を聞くなり彼女は短い溜息を吐きながら、俺と向かい合う。
白のニットワンピースに浅く手を突っ込みながら、彼女は茜色の夕日に照らされる。彼女の長い黒髪は、夕日の色を吸収し漆黒のような黒を俺に見せつけた。
「何、不満なの?」
「いや、不満も何も……」
俺のことを責め立てるような鋭い瞳に、多少怯んでしまう。お互いの間に静かな静寂が訪れ、風の音や葉の揺らめき、車のエンジン音が嫌に良く聞こえてくる。
張り詰める空気に、俺はただ沈黙するしかなかった。何故俺がこんな目で見られなければいけないのだ、と心中で小さく呟きながら。
少しの時が流れると、彼女の鋭い瞳が和らいだ。それと同時に俺は深い息を吐く。
「わかったよ、俺の家で話しましょうか」
「ええ、悪いわね」
悪いなんてちっとも思っていない癖に、と俺は小さく悪態を吐く。そんな俺の言葉を彼女の地獄耳は聞き逃さなかったのか、またも鋭い目つきで睨まれた。
「じゃあ、貴方はそこのカートとレジ袋を持って。私は何も持たないけど」
「あのさぁ……。というかなんでこんな所にショッピングカートがあんだよ」
「貴方の質問は歩くついでに答える。私の質問は貴方の家で答えてもらうわね」
ああ、そうかい。俺は小さくそう返すと、彼女は口元を釣り上げ笑ってみせる。その笑みからは不気味さなんて感じられず、純粋な暖かい笑みを感じられた。
どうして、人と関わりを持つのはこう突然なのだろうか。事前にそのお知らせがあってもいいじゃないか。俺はそんな、心にも思っていない言葉を小さく呟いてみせた――。
どうやら俺が眠っていた公園から、俺の家までは余り遠くもないようで、歩きで二十分もあれば着く距離だった。
俺と彼女は、ガードレールも何もない道の端をゆっくりと歩く。俺が手に掴むショッピングカートと、取っ手にぶら下がるレジ袋が小石を踏む度小さく、音を立て揺れている。
彼女に聞きたい事は山ほどあった。夕日は既に傾き始め、辺りを薄い闇に広げていく中俺はゆっくりと頭の中を整理させる。
一先ずは、一番気になる質問から潰していこう。道の真ん中を時々通り、排気ガスを撒き散らして行く車を邪魔ったらしく思いながら、俺は口を開く。
「それじゃあ、一番気になる質問から聞いていくぞ。なんで、俺が天狗と一緒に住んでいる事を、お前は気付いたんだ?」
俺の隣を歩く彼女は、俺の質問にすぐには答えず道の先を遠目に眺めながら答える。
「私と同じ匂いがしたからよ」
「……ちゃんとした答えで頼む」
巫山戯ているのか? そう思うが、横から見る彼女の表情は真剣そのもので、とても嘘を吐いているようには見えなかった。
「詳しく言うと、私には妖しや幽霊に取り憑かれている人が匂いでわかるの。種類や性別、詳しいこと全部」
「へぇ、そりゃあ凄い」
全くの感情を込めず、そう言うと彼女は横目に俺を睨みつける。俺はその鋭い瞳から逃げるように目を逸らすと、隣から深い溜息が零れた。
「そして、貴方からは天狗の、それもかなり強い力を持ったね。そんな強烈で、濃い匂いが漂ってきたの。これほどまでに強い匂いを持っているってことは、長い間一緒にいないとそうそう漂ってこない。それこそ、一緒に同棲でもしない限りね」
「同棲って言うな。じゃあ私と同じ匂いがするから、って何なんだよ」
俺がそう言うと、彼女は目を地面に伏せる。触れてはいけない話題だったのか、そう後悔するも、然程気にもしていないらしく、彼女はすぐに視線を道の先に戻す。
「私も、天狗憑きなの」
彼女のもの悲しげなその声色は、過去に起こった悲痛な出来事を表しているようだった。
あまり余計な言葉は返さず、俺は深く息を吐く。ショッピングカートが小石を踏むような、ガタガタとうるさい音が空に響いている。本格的に日も、その姿を隠し始めゆっくりと辺りは闇に覆われていった。
「過去に色々なことが起きて、そのせいで私は天狗に取り憑かれた。最近では夢の中でその大きな鴉が飛び回って――」
「ちょっと待て」
話の腰を折られたことを、快く思わなかったのか、首をガクンと傾け、溜息をこぼす。俺はそんな彼女の仕草を無視し、辺りを見回す。
――やはり、居る。
こんな偶然、ありえない。だが、一つ一つの事象が結び合い、その偶然を物語る。俺が見回した視線の先には、パッ見で七羽のカラスの姿が見えた。
七羽。流石に数が多すぎる。黒く、太い電線コードの上で羽を休めるカラス。葉の少ない、寂しい枝の先で羽を休めるカラス。ブロック塀や家の屋根の上で羽を休めるカラス。ソイツらは全員俺と彼女のことを、鳴きもせずじっと、黒い二つの瞳で眺めていた。
「もしかしてお前、怖い話とかネットに投稿したか? 題名は、天狗の悪戯って奴で」
目の前の異常な光景を目の当たりにして、思わず小声でそっとそう呟く。すると彼女は少しだけ照れくさそうに言った。
「ええ、隠す必要もないしね。投稿したわよ、それ」
やっぱりか。偶然にしては良く出来すぎているが、考えたって仕方がない。俺が今日の朝、あの恐怖体験に目を通したのも、スーパーの店内でコイツと出会うのも、なにかに仕組まれていたのではないか? そう思う程の、気味の悪い偶然だった。
「そうか、じゃあ何で俺に話かけたんだ、同じ天狗憑きだからなのか?」
「少し違うわね。貴方に話しかけた理由は――――」
彼女の言葉は、後ろから響く大きな落下音によって遮られる。何だ、と不思議に思い俺と彼女が後ろを振り向くと、液体の漏れ出た缶のコカ・コーラが見えた。
「空から降ってきたのか? 危ないな」
俺は余りそれを気にもせず、ショッピングカートを両手で掴み前へ進もうとするが、彼女に右腕を強い力で引っ張られ、そのまま俺は彼女の方に倒れこむ。
「痛った……。何するんだよ」
俺のその言葉を共に、ショッピングカートが大きな音と共に
「――は?」
刃物で切られたように切断面は綺麗ではなく、ショッピングカートの先端部分は遠くに吹き飛び、切断面がグチャグチャになっていた。
音のした地面に目を向ける。アスファルトの地面には、大小様々な石が入ったビニール袋が散乱していた。最も、強く地面に叩きつけられた為殆どが粉々になっているが。
恐る恐ると上空に目をやる。日の沈みきった薄い闇には、その闇に負けない程の黒をした、何匹ものカラスが上空を飛び回っていた。
――それぞれの足には、俺を殺そうと言わんばかりの凶器を持ちながら。
少しだけ皆様に聞きたいことがあります><
活動報告にも記した通り、メインオリジナルキャラクターを二人程増やしたいと思っていまして。
ですが、そうすると殆どオリジナル小説になってしまう上、オリキャラを好まない方々に良くは思われないと思うのです。
ですから、皆様にこのままオリキャラを増やして欲しいか、増やして欲しくないかを聞きたいと思います><
身勝手な質問で申し訳ございません、どうか、お力をお添え下さい。