文と俺の、二人きりではない食卓は、酷く新鮮なものだった。
何故か文は、顰めっ面を浮かべながら丁寧に炒飯をテーブルスプーンで掬い、頬張っている。何時もなら彼女から話題を振ってくるくせに、今日に限っては無言を貫き通していた。
そんな文の表情に気づいているのか、気づいていないのか刹那は、上品そうに口に手を当てながら熱そうに餃子を頬張っていた。なんで少し空気が重いのだろう。俺は疑問に思いながら、餃子にタレを付ける。
「――――なぁ、夕方のカラス達は、なんだったんだ?」
俺は沈黙を破るように、そう言った。すると、二人が顔を上げる。
「あのカラスはですね――――」
「あのカラスの群れは、私に取り憑いてる天狗の仕業でしょうね」
文の言葉を無視して、刹那が言葉を重ねてくる。恐らく偶然だろうとは思うが、得意げに口を開いていた文は、口を開きながら数秒固まって見せた。文の後ろで映るテレビの映像と、文の姿が一致し、哀れみの念が俺の心の奥底から湧き出てくる。
「なんで、刹那に憑いてる天狗が俺達に危害を加えてくるんだよ」
「”俺達”じゃなくて、恐らく貴方だけね。カラスが上空から落としていった凶器、貴方の近くでしか落とされてないもの」
そう言われると、そんな気がしてきた。確かに石の入った袋も、空き瓶も刺身包丁も、俺の近くでしか落とされていなかった気がする。
「そうか……それじゃあ空家で、お前なんかおかしくなってたけど、あれってなに?」
「天狗の魅了の力、と言った所かしら」
流石に、憑かれているだけあって詳しいのか、刹那は俺の質問に間を開けず淡々と答えていく。卓球のラリーのような言葉の返しに、俺は感服の念を表すような溜息を吐いて見せた。
「じゃあ――――」
パキリ。そんな小気味良い、何かが折れるような音が聞こえてきた。次に、何か鉄製の物が落ちるような高い音が聞こえる。
何の音だろうか。そう思い音のした方を向いてみると、文がテーブルスプーン”だったもの”を握り締めながら、ワナワナと震えていた。ミニテーブルの上へと視線を落とすと、スプーンの丸い部分が無残な形になって落ちている。
俺と刹那、二人の視線に気づいたのか、俯かせ気味のその顔を上げ、笑顔を浮かべた。
「スプーンが壊れちゃったので、変えてきますね」
笑顔でそう言い、テーブルスプーンの残骸を手に持ちながら文はキッチンへと向かう。それにしても何故だろうか、先程の文の笑顔を見て、俺は恐怖心を抱いている。訳はわからないが、体が震えて仕方が無い。
「貴方も、大変そうね」
体を震わせる俺を見て、刹那が初めて、俺に同情の目を向けた。その言葉の意味を、俺は余り深く考えないようにする。
嫌に重たくなった空気は、体を震わせる俺を見て嘲笑うかのように、体に纏わり付いてきた。そんな空気から逃げるように、俺は首を横に、勢いよく振る。
「ま、まぁ。文の事は放っておいてさ、まだお前に聞きたい事があるんだ。例えば――」
「私が代わりに答えますよ」
不意に背後から言葉を投げかけられる。刹那じゃない。後ろを勢いよく振り向くと、いつの間に俺の背後に回り込んだのか、カラスの濡れ羽色のような、美しい黒の髪が肩に掛かる程の長さの、射命丸文がくの字に腰を曲げ、立っていた。
「ビビらせるなよ……後ろに居るんなら居るって言ってくれ……」
「すみません、真さんの驚いた顔が見たくて」
悪趣味だな。その言葉を投げ込もうとしたが、悲しくも喉からは空気の漏れるような音しか聞こえない。俺は代わりに、ごくりと唾を飲み込み、そうか。と震えた声で言うのが精一杯だった。
そんな余所余所しい態度を見せた俺が不服だったのか、新しく手に持ったテーブルスプーンを軽く噛みながら、文は腰を持ち上げ、小さく舌打ちをして見せる。俺はその舌打ちに、ビクリと体を震わせていた。
「さて、聞きたい事があれば、私に聞いちゃってください。何でも答えますから」
文は元の座っていた場所にゆっくりと腰を下ろすと、またも笑顔を浮かべ、得意げな表情で頬杖をして見せる。だが、俺にとってはその文の仕草が、恐ろしくて堪らない。チラリと、尻目に刹那の表情を見ると、居心地の悪そうな顔を浮かべていた。
妙な沈黙が、場を支配する。テレビから聞こえてくる、お調子者の芸能人の声が、酷くうざったく思えた。何か喋らなければ。そう強く思うも、喉はただ震えるのみ。
何秒、何分沈黙が続いただろうか。それでも文は、笑顔を浮かべ続けている。俺は、文のその笑顔が、いつものように見ている、その眩しい笑顔が酷く不気味に思えてきた。
「――――少し、貴方にお願いをしたいのだけれど」
凛とした、我を貫き通すような女性の声。その声に、俺は我に返ることが出来た。心中で、刹那に礼を呟くと、文が笑顔で言う。
「……お前じゃないんだけどな」
ゾクリと、冷たいその言葉に俺は大きく身震いをした。空気が嫌に重たい。俺は文のその言葉と、空気の重さに耐え切れず吐き気を催す。口に手を当て、小さく嘔吐く。
肩で息をしながら、隣に居る刹那の表情を伺う。文にあんな事を言われたにも関わらず、意外にも刹那は無表情だった。またの沈黙が辺りを支配する。俺には、もうどうする事も出来ない。
「……わかりましたよ、その――刹那さん、でしたっけ? お願いって、何ですか」
ぶっきらぼうにそう答える文。対する刹那は、言葉が返ってきた事に小さく頷くと、ゆったりと言葉を紡いだ。
「貴方に、私に取り憑いている天狗を退治して貰いたいのだけれど」
懇願するようにそう言ってみせる刹那。確かに、夕方に退治したのはただのカラス達だ。刹那に取り憑く天狗とやらを、退治した訳ではない。
妖しを倒すには、妖しを。そっちの方が手っ取り早いと思ったのだろう。だから、昼時に俺に話しかけた。俺はただ彼女に利用されているだけのようで、いい気分ではなかった。文はそんな俺の表情を一目見てから、徐に口を開く。
「え、嫌ですよ」
文から出た言葉は、拒否の念だった。
せめて、詳しい話だけでも聞いとけばいいのではないか。俺はそう思う。が、文は彼女の説明を聞くのも面倒そうに、早くこの話題を終わらせたいと言うような表情で、更に言葉を紡いだ。
「私が何故、貴方に憑いている天狗の退治をしなければならないのですか。私も天狗、貴方に憑いている者も、天狗。同族殺しなんて、溜まったものじゃない」
文は吐き捨てるようにそう言った。彼女の言うことは正論だ。だが、もう少し言い包める事も出来るだろうに。いや、もしかしたらわざと、ハッキリ物を言ったのかもしれない。俺は荒い呼吸で、深く息を吐きながらそう考えた。
チラリと、刹那を見る。この時、刹那の表情を見なかったら、俺は行動しなかっただろう。だが、見てしまった。刹那の浮かべていた表情は、先程の無表情と比べ、痛々しい表情だった。
悲しげな彼女のその表情を見てか、俺はズキリと、切り裂かれるような鋭い痛みが胸に走る。普段、と言っても今日一日だけだったが、彼女が浮かべていた表情は殆どが、不敵な笑みか、無表情だった。そんな強い彼女が見せた、悲しげなその表情。ソレのせいで、俺の胸は鋭く痛む。
「…………そう、わかったわ。それじゃあ、今日はここいらでお邪魔させて貰う。聞きたい事は、聞いたからね」
そう言って、彼女は儚いその黒髪を靡かせ、踵を返した。後ろ姿は酷く痛ましく、見るに堪えない程小さい。刹那は俺達の方を向かず、レバーハンドルに手を掛けながら、震えた声で言った。
「それと、夜ご飯、ありがとうね。美味しかった」
「――――ッッ刹那!」
俺が立ち上がると同時に、刹那は大きく音を立て――――扉を閉めた。
俺は、刹那を呼び止める事が出来なかった。彼女の、最後に言った声と後ろ姿は、酷く痛ましく、悲しい、唯一の望みを断ち切らされた者の姿だった。
――――こんな自分が悔しい。刹那の心の糸を手繰り寄せる、と言っていた自分の言葉が恥ずかしい。結局、自分は何も出来なかったじゃないか。俺は、彼女に何も――いや、むしろ、傷つけたんだ。彼女の脆いその心を。
俺は立ち上がったその状態で、自分を責めていた。空気は弱い俺を攻撃してくるかのように、冷たく。食前に感じられた暖かい空気が嘘のようだった。
青白い人工的な光を発するテレビ画面から、陽気な笑い声が聞こえてくる。それが酷く苛ついた。何も出来なかった俺を嘲笑うかのような、その笑い声に。俺は強く歯ぎしりをした。やり場のないこの悲しみを、怒りをどこにぶつければいいのだと。
「……折角の夜ご飯が、冷めてしまいましたね。真さん」
俺はその声の主を睨みつけた。何故こうも、いけしゃあしゃあとしているんだコイツは。刹那の後ろ姿を見て、何も感じなかったのか。心中でそう呟いたつもりだったが、どうやら声に出ていたようで、文は少しだけ驚いたような表情を浮かべた。
「確かに、刹那さんの姿は、痛ましかったですね。ですが、私は思っただけの事を言ったまでです。同族を殺すなんて、私には出来ませんから」
――――嘘だ。俺はそう思った。何の根拠もないが、俺は心から強くそう思った。
何で、文は平然と嘘を吐けるのだろうか。彼女は、俺に何度も嘘を吐き、隠し事をしている。今まではその事実に目を逸らし続けていたが、目の当たりにした今、そうはいかない。俺は変わらず、文の事を鋭く睨みつける。
「……真さん、座ってください。料理が冷めてしまいます」
文が少しの怒気を孕ませ、そう言った。先程までの俺だったら、きっと黙って席に着いただろう。だが、今は違う。彼女の悲しげな、寂しげな声を聞いてしまった瞬間から、俺がすべき行動は、もう決まっているんだ。文の言葉に、ゆっくりと言葉を返す。
「――――少し、夜の散歩に行ってくる」
そう言って、俺は踵を返す。閉まっているリビングのドアを乱暴に開け、玄関にある靴を急いで履いた。彼女に、刹那に追いつく為に。
意外と言った所か、それとも、既に俺が刹那の後を追う事を予想していたのか、文は何も言わなかった。追いかけもしなかった。俺は、玄関の重い扉を開ける。
開けた瞬間に、冷たい夜の風が俺の体を冷やす。せめて、パーカーだけでも着ておけばよかったと思うが、一刻も早く彼女の元へ走らないといけなかった。俺は勢いよく玄関から飛び出て、地を蹴り続ける。
闇に染まる夜の街は、俺を歓迎するかのように冷たく出迎え、静かに俺の事を奥の方へ、招き入れた――――。