穏やかな風が木の枝を揺らす。
じりじりと俺の身を照りつける太陽の光りは、ゆっくりながらも俺の身を確実に火照らせていく。緩やかな小風に吹かれ、新緑の艶やかな葉は美しくその身を靡かせた。
背中越しに感じる、柔らかな土のクッションは空に浮かぶ太陽とは真逆に、ひんやりと冷たい。ぼんやりと霞む目の前の光景を不思議に思いながら、ゆっくりと上半身を起こそうとする。
が、不意に声を掛けられた。覇気のある、可愛らしい女の子の声。その方向を向くと、小学生程だろうか、それ程に小さな少女が俺を指差し、言った。
「真君見っけ!!」
俺の名前を呼んだ少女は、左右にゴムで結ばれ、束ねられた髪の先を揺らしながら踵を返し、木々が生い茂るその奥の方へと駆けて行ってしまった。
何事かと声を上げた時には、もう少女の姿は見えない。怪我をしたら、もしくは迷子にでもなったら大変だ、と柄にも無い事を思った俺は、小柄な体躯をした少女の後を追いかけてしまう。
仰向けに寝かせていた身体を起こし、靴で土の地面を踏みしめながら背中を追いかける。三十メートル程走った辺りで俺は速度を落とす。
ちょっとした疑問――いや、違和感に囚われたのだ。進めていた足を止め、自分の手の平を広げて視界の中央に捉える。すると、自分の手の平が小さすぎる事が分かった。
普段の俺の手の平は、これよりも一回り大きくて、そしてか細い五本の指が繋がっている筈だ。だが、今の俺の手の平は――ふっくらと膨らんでいる。
そこで、更なる違和感に気づくことになった。周りに生い茂る木々の高さが尋常ではないのだ。
俺の身長は180手前か、ちょっと。だが、俺の周りを囲むように生い茂るこの木々達は、例え俺が空を見上げても頂辺が見える事は無い。首が痛くなる程に空を見上げて、やっと頂辺が見える程の身長をしている。
何かが可笑しい。そもそも、俺の身体が軽すぎる。長年親の遺産で生きてきた俺の身体はとっくに腐っており、逆上がりすら出来ないのが現状だと言うのに――自分の今の身体は、羽が生えたかのように軽い。
その代償と言ったところか、筋力が衰えたように感じられる。証拠に俺の腕や足はモヤシのように細いのだ。
頭の中に疑問が思い浮かばれる中、先程に聞いた少女の声が林の奥の方から聞こえてきた。その少女の声を目印に、俺はもう一度走り出す。
妙に背の高い木々の間を縫うようにして走り、漸く開けた所に出れた。
丁寧に刈られた芝生の中央には、三人の子供らが見える。
一人の少年は尻を土の地面にぴったりと着け合わし、その両足の膝に両腕を抱えるように座り――詰まるところ、体育座りをしながら無表情に俺を見据え。
もう一人の少年は詰まらなさそうな表情を浮かべ、胡座をかいている。上には白Tシャツ一枚を着用しており、下は短パンだけという――どこか昭和の雰囲気を匂わせる、坊主頭。
最後の一人は土の上に立ったコーヒー缶を可愛らしい桃色のラソックで踏みしめ、無邪気な笑顔で俺を指差す少女。良く良く見ると、先程に林の奥へと駆けていった少女だった。
俺の姿を見るや否や、坊主頭の少年はがっかりだ、と言わんばかりの失望の念を混ぜた表情で言ってみせる。
「やっぱり捕まったか。真なんかに期待した、俺が馬鹿だったよ」
「ちょっとちょっと。その言い草は無いんじゃないの? 真君だって頑張ったよ。ね、真君!!」
突然に少女に話題を振られ、戸惑う。そもそもここは何処だ。と言うか君らは誰だ。言いたい事は山ほどとあったが、取り敢えずは少女の言葉を返すことにする。
「あ、ああ。まぁ、俺も頑張ったよな……。てか、何のゲームしてるんだっけ」
「はぁ? 何言ってるんだ真は。冗談のつもりか? ったく……詰まらない冗談言ってんじゃねぇよ。ケイドロだよケイドロ」
坊主頭の下町生まれ風の少年は、怪訝そうな表情で言った。何故、俺はこんな薄汚いガキに呼び捨てにされているのだろうと、多少の憤怒を覚えながらも押さえつける。
だが、何だろう。この薄汚い少年に暴言を吐かれると――懐かしい感覚に陥ってしまうのは。坊主頭の言葉一つ一つが、俺の記憶を刺激させる。所々穴の空いた俺の記憶を――。
「まぁまぁ、落ち着いて下さいよ
「うるせぇよ。ガリ勉が一番最初に捕まったくせに」
「私はガリ勉って名前じゃなくて……列記とした
「うっせぇ。お前なんたガリ勉だ。毎度毎度難しい本開いてるくせに」
やや大人しめの少年は、坊主頭に散々な事を言われている。けれど、坊主頭の言い分には俺も一理あった。
体育座りのポーズを崩さない少年は、何処か秀才君を匂わせる者だったからだ。青色の、新幹線の模様が刻まれた半袖シャツは黒の半ズボンにインされているし、背筋だってピンと垂直に伸ばされている。更には少年の髪型は七三分けと言う、秀才君オーラが俺にも漂ってきていた。
下町生まれ風の少年と、名門校に通っていそうな少年は些細な言い争いをしている。その光景を微笑ましく、それでいて懐かしく感じながら、俺は彼らの傍らに腰を下ろす事にした。
すると突然に、俺の横腹から衝撃が走る。鈍痛に顔を顰めながらも、衝撃を感じられた箇所に目をやると――小柄な体躯をした少女が、俺に抱きついているのが否応なく理解できた。
「真君~」
「な、な、な……」
小柄な少女は俺の背中に腕を回しながら、上目遣いに俺を見据えた。これでは完璧に警察の御用になると踏んだ俺は、堪らず少女を引き剥がす。
意外にもあっさりと俺に剥がされた少女は、何が気に食わないのか可愛らしく頬を膨らました。
「やっと真君を捕まえられたから、甘えられると思ったのに……私を引き剥がすなんて酷いよ!!」
「い、いや……俺は」
可愛げのある少女の気迫に押され、しどろもどろになる十八歳俺。情けないと感じながらも、俺は小さな女の子から目を背ける事しか出来なかった。
そんな折に、俺の隣から横槍が入る。
「お? なんだなんだ、夫婦喧嘩か?」
「痴話喧嘩ですか。微笑ましいですね」
明らかにはやし立てるような口調で、俺の隣を座る少年二人ら。彼らの言葉に少女は反応し、ちろりと小さな紅色の舌を出す。
「そうだよー。真君は私のお嫁さんになる人だもん」
「熱いね~」
ヒューヒューと俺と少女二人を挑発する坊主頭。そこで、ズキンと頭の奥が酷く痛んだ。
強い
欠けていたパズルのピースが埋まるように、俺の脳に欠けていた記憶が呼び戻った。そうだ。俺は小学生の頃、この連中と毎回遊んでいた。
ガキ大将気質の
だけれど、何故に先程まで文達とクリスマスを満喫していたと言うのに、俺は過去に、ガキの頃に戻っているのだろう。その答えは直ぐに見つかった。
これは――
明晰夢と言うものだろうか。今の現状を不思議に思いながらも、一先ずはこの状況を心から楽しむ事にした。
少年時代の頃から、俺には苦悩が多くあったが――彼らと共に過ごす時は掛け替えの無い物だったのだ。ある日は皆で野原を駆け回り、またある日は山奥にまで登ったり、ある日は背の高い木々の頂点にまでよじ登ったり。そんな掛け替えの無い日々。
俺は何時から、彼らと離れ離れになったのだろうか。そして、彼らは今、何をしているのだろうか。そんな思考に更けていた俺を、再度いつの間にか俺の横腹に抱きついていた少女が呼ぶ。
「どうしたの真君。ボーとしちゃって」
「……いや、何でもないよ。少し熱いなーって」
「えぇ!? 大丈夫真君。私の水筒飲む!? 熱中症なんかになったら大変だよ!!」
どうやら俺の横腹に抱きつく彼女には、君が俺に抱きついているから俺が迷惑している。と言う遠回しな皮肉が通用しないようだった。穢れなき純粋なその瞳で見据えられると、俺としても色々――来るものがある。
そんな邪念が心中に湧き出てくる中、海斗――またの名を秀才君は、少女に言った。
「真さんには自分の水筒があるでしょ……。ただ
「あ、あ~……。えへ」
又もやちろりと舌を出す少女。誤魔化しているつもりなのだろうか。あざといなと思いながらも――秀才君がこの少女を、今何て呼んだのか果てしなく気になった。
「ま、待って。今……この子の事
「え、そうですが……。大丈夫ですか真さん? 暑さに頭をやられましたか?」
彼方。彼方。彼方……。
今、俺に抱きついている小さな黒髪の少女が、彼方だと?
有り得ない。そうだ、この子は俺の自宅にてプレゼント交換をした彼方とは、別人だ。
けれど、彼方なんて名前の少女――そう多く居る筈は無いし……。そもそも、赤髪の方の彼方は俺を幼馴染と呼んでいた。
言われてみれば、俺に抱きついている方の彼方は、赤髪の方の彼方と顔が少し似て……。あれ、彼方って単語がゲシュタルト崩壊を起こし始めたぞ。
考える事を放棄した俺は、赤髪の少女、彼方イコール、現在俺の横腹に抱きついている黒髪のビックテールの少女は、同一人物という事にした。それにしても何故、年少時代この三人らと遊んでいたと言う事は思い出したのに、都合のいいように少女の名前だけを忘れていたのだろう。
未だぽっかりと穴が空いている記憶を邪険に感じながら、取り敢えずは俺の横腹に抱きつく少女改め、彼方の頭を撫でる事にした。最早、考える事すら億劫に思えた俺に今出来る事は、これくらいしか無いように思える。
小さな小柄の少女は、身体を一度びくりと震わせる。その後身体の力を抜き、俺の横腹にしがみつきながら身を休めるその姿はまるで、飼い主の膝元に包まる犬のようだった。
そう言えば、赤髪の彼方の方も――俺の腕に抱きついていたな。やはり、彼女らは同一人物なのだろうと思うと同時に、俺の心中はちくりと罪悪感に痛んだ。
俺は、彼方の存在をすっかり忘れていたから。俺の腹に抱きつきながら、子犬のように身を休める少女の存在を、綺麗さっぱり忘れていたから。針先で刺されたように痛む俺の心は、罪悪感でいっぱいだった。
せめて、この夢の世界で少女に安らぎを与え――夢から覚めたら、赤髪の少女に一度謝ろう。忘れてしまってごめんと。
俺の左隣に座る男性陣から嫉妬のような視線を感じながら、俺は少女の髪をなぞるように撫で続けた。じりじりと身を焦がすように照りつける太陽を、その身に受けながら。
すると不意に、俺の背後に生い茂る木々の葉がざわざわと揺れた。小鳥でも飛び立ったのだろうかと、後ろを振り向いた瞬間――。
木の頂辺から、もう一人の
「――へ?」
俺がそんな、間抜けな声を漏らすのも束の間。猫のように軽やかな身のこなしで地面に着地した華奢な体躯の少女は、力強く地を蹴った後、猛牛の如く突進で俺の方へと走り寄る。
――やばい。あんな速度で突進させられたら、俺は死ぬ。けれども、身体は彼方に拘束され動かない。
詰んだ。諦めが胸中を占める中――少女は俺の三歩手前辺りにまで駆け寄ると、そこで地面を特別強く踏んで――飛んだ。
少女の跳躍力は凄まじいもので、俺の半身をハードルのように飛び越えると、また走った。
ふと目に入った、見覚えのあるロケットペンダントを俺は眺めながら、自我を忘れたかのように呆ける。人間、突然に出来事には頭が追いつかないものだ。
風の如くスピードで走り去った少女は、勢いに任せ地面に置いてあるコーヒー缶を遥か遠くの方へと蹴った。カーンと耳に響く金属音を聞きながら、少女は呆ける俺を無視して大声を上げる。
「皆、逃げろー!!」
その声が合図になったのか、黒のセミショートヘアの少女含め、俺を除いた男二人組は林の方へと逃げ隠れる。それに対して俺に抱きついていた少女、彼方は俺の背中に回していた腕を離し、さぞ悔しそうに吠えた。
「あぁぁぁ!! 蹴られたぁぁぁ!!! 真君のせいでもう一度初めっからになっちゃったじゃん!!」
「えぇ!? 俺のせい!?」
それはいくら何でも理不尽ではないか、と言う言葉を飲み込む。彼方は遠くの方へと蹴り飛ばされた空き缶を探しに、少女や慶太達が逃げた逆方向へと走り去っていった。
ポツンと、一人寂しく広場に残された俺は、あの少女の存在を必死に思い出そうとしている。だが、どんなに思い出そうと記憶を巡らせても、ショートヘアの少女の姿が見える事は無い。
小学生の頃、俺が共に遊んでいたのは慶太、海斗、彼方の三人だった筈だ。あんな少女は知らない。
多少の時を費やし、記憶を巡らすも少女の姿が映る事は無かった。溜息混じりに俺は立ち上がり、結局は逃げ隠れに行った少女達の方向へと駆けて行く事にする。
今俺が見ているこの夢は、俺の過去をそのまま映し出したものの筈だ。だが、俺はあの少女の存在なんて知らない。
可能ならば、あの少女に話しかけよう。君は誰だ、と。そう考え至った俺は、地面を強く蹴ろ――うとした。
「真君、捕まえた~」
「…………」
恐る恐る後ろを振り向くと、恐ろしい笑みを湛える彼方が俺の肩を掴んでいた。
小柄な少女は俺の肩に掛けていた腕を伸ばし、俺の首元を両腕で捕まえるように捕らえる。小さな少女だとは思えない程の艶やかさと、恐ろしさを兼ね備えた声色で、彼方はもう一度言う。
「真君。つ~かま~えた」
「……誰か、助けて」
俺の助けを乞うか細い声は、緩やかな小風にかき消された。
ちょっとした過去編。今話で終わらそうと思ったのに終われなかった(涙)