日は暮れ始め、辺りをオレンジ色に染め上げる。
オレンジ色の日が沈むに比例して、木々の影はその背を伸ばせていく。何処からともなく鳴り始めた、子供達の帰宅を促す懐かしのチャイムが耳に染み込んだ。
結局俺が彼方に捕まった後、その他誰ひとりとして鬼に捕まる事は無かった。
――いや、捕まえる気が無かった、と記述しておいた方がいだろうか。俺の背中に平らな胸を押し付けながら抱きつく少女に、何度目だろうか、嗜めるような口調で言ってみせる。
「……なぁ、そろそろ皆を呼ばないとヤバイんじゃないか? もうすぐ太陽も沈むだろうし」
「んー。あともうちょっと」
「それ言うの何度目だろうな」
じゃれつく猫のように、彼方は俺の首に手を回しながら耳に、肩に甘噛みをしてくる。少女の柔らかな吐息が首筋に掛かり、くすぐったい事極まりない。
まるで妹のようだと、家族との過去の思い出を全て忘れ去ってしまった最低な俺が、心中でそう呟いてしまう。
家族の存在や性格しか覚えていない薄情な俺が、自分の妹と彼方の存在を照らし合わせていい権利なんてない。不甲斐ない自分に自己嫌悪する中、俺の背中に抱きつく少女は腕に力を込めた。
離すまいと、俺の首に回す腕に更なる力を。だが、少女の力は酷く非力なもので、俺がちょっとばかし首に回された腕を払いのければすぐ外れてしまうような、そんな非力さ。
文達と登ったあの山で抱きつかれた彼方の腕力は凄まじいものだったのにも関わらず、俺の後ろに抱きつく小さな
多少の違和感を覚えながらも、俺は回された首をそのままに放っておく。あまりに彼方が俺の背に身体を密着させるものだから、ただでさえ暑い夏の夕暮れが、更に暑く思えた。
懐かしいチャイムと共に鳴る蝉達の合唱の中、俺と彼方はお互い無言を貫き通している。なのに全く気まずさなんて感じられない。
――しばらく二人で黙っているといい。 その沈黙に耐えられる関係かどうか――。そんな名言があったな、と何気なく空を仰ぐ。
オレンジ色に染まる空。耳に染み込む高らかなチャイムと蝉の合唱。それら全てが俺の記憶を刺激して、忘れ去られたものを呼び戻してくれる気がした。
背中を垂れる汗が服を引っ付かせる。最早俺と彼方の間には何もなく、肌で触れ合っているような気さえする中、ガサガサと林の中から三人の少年少女が広間に飛び出てきた。
「な――ッッ彼方!! どうして俺らの事探さないんだよ!?」
「本当ですよ、全く。何時間木の頂辺で待ちぼうけたか……」
慶太はその表情にイラつきを。海斗はその表情に色濃い苦悩を貼り付けた。彼方はそんな彼らの鋭い目線から逃げるように、俺の背中に隠れる。
これは誰がどう見ても彼方が悪い。いや、俺にも罪はあるだろうが、きっと二割程だろう。
夏だと言うのに彼らから漏れる雰囲気故か、冷ややかな空気が俺の肌に突き刺さる。するとふと、黒髪の少女が肩まで伸びたショートヘアを揺らして、俺達の方まで歩み寄った。
その小さな背丈からは感じられない、大人びた少女の雰囲気に些か困惑する。俺にとっては名も存在も知れない少女は、俺の目の前まで歩み寄って――立ち止まる。
「……彼方さん」
「――は、はひ」
少女の重苦しい雰囲気に押されてか、彼方は身を縮こませる。
まぁ、当然の報いだろう。何時間も待ちぼうけされた挙句、その理由が男とイチャイチャしていたからなんて事言われたら、そりゃあ怒れる。
さて、どんな罵声が飛んでくるのか。そんな俺の思いに反して――華奢な少女はさっと俺の背後に回り込むと、彼方の小柄な身体を抱きしめた。
「ああもうッッ!! 怯える彼方んの表情唆る!! 可愛いよ彼方ん!!!」
「ちょ、ちょっと……苦しい」
抱きしめる側から抱きしめられる側へとチェンジされた彼方は、目を回しながら苦しげに言ってみせた。だがそれに意をも返さず、少女は彼方を抱きしめ続ける。
――この子、そんなキャラだったのか。弛緩した空気の中、下町生まれの風貌をした慶太は苦笑を一つ。
「なぁ。五時も過ぎたし家に帰らないか? 日が沈んで迷子になるのも嫌だし」
「えーッッ彼方んともっと遊びたい!!」
「く、苦しいよ……死んじゃう」
少女、またの名を百合っ子は彼方の頬を自分の頬で擦り合わせている。それはもう、摩擦によって火でも生まれるような勢いだった。
が、そこで一頻り満足したのか、ふぅと溜息を一つ。艶やかになった肌が夕日によって美しく照らされている少女は、俺の方を向いた。
「仕方無いなぁ。じゃあ帰ろうか、皆」
「そうですね。これ以上遊んだら門限に間に合わなくなってしまいますし」
「あれ? 海斗君の門限って五時までじゃなかった? もう五時過ぎてるよ」
「いえ、もう夏ですので五時半までは遊べるようになったのですよ」
やっと少女から開放された彼方はげんなりとした表情を見せながら、海斗と会話を繰り広げる。
門限――か。
恐らくに門限を過ぎてしまったら、海斗は親から拳骨を貰う事だろう。それが少しだけ羨ましくもあった。
俺に親は居ない。何故いないのか、理由すら忘れてしまった。そして、何時からいなくなってしまったのかも、忘れてしまった。
親戚の連中が保険金がどうとか言っていた事から察するに、多分強盗か通り魔辺りに殺されてしまったのだと思う。気が付けば俺の元には、家族の代わりに多額の保険会社から払われた保険金だけが残っていたのだ。
そしてその多額の保険金を狙って、言い寄ってくる親戚の連中。家族を失くした俺を慰めるどころか、彼らは金欲に忠実なまでに従って、俺を陥れようとした。
忘れたくとも、忘れられない記憶。何故人間の脳は嫌な出来事だけを鮮明に記録するのか。
ふと、手を握られた。
隣を向くと、名前も知れない黒髪の少女が、俺の手の平を握っているのが分かる。
「ほら、何してるの真。帰るよ」
「――あ、ああ」
夜空のように美しい黒の瞳が、俺を見据える。
――よぞら?
目の前の光景が徐々に歪んでいくのを感じられた。強い不快感が俺を襲い、堪らず少女の手の平を振りほどいて、地面にしゃがみ込む。
まただ。何度目だろうか、この感覚を体験するのは。
忘れ去られた記憶が、無理矢理に俺の脳の奥へと入っていくかのような不快感。曖昧模糊とした過去の記憶が、段々と再構築されていく。
それはまるで、散らばったジグゾーパズルのピースをハメこむような。だけど、どうしても最後の1ピースが見つからない。作為的と思えるほどに。
再び視界が歪曲する。そして、プツン――と電源を切るような電子音と共に、俺の意識は再び刈り取られた。
★
「――はぁ。やっと起きましたか、真さん」
目が覚めるなり、文の第一声はそれだった。
「ん……ああ。どれくらい寝てた?」
「三十分程度ですよ。いきなり倒れるんですから驚きましたよ」
痛む頭を手で抑えながら、寝転がっていた身を起こした。ソファに腰掛ける俺を、文は心配そうに見下ろす。
「本当に、大丈夫ですか真さん」
「ああ。大丈夫だよ、心配かけたな。それにしても、わざわざ倒れた俺をソファに寝かしてくれるなんて、意外に優しいじゃん」
「いやいや……流石にそのまま放置なんて事はしませんよ。私とてそこまで人の心を無くしていません」
「いや、お前人じゃないから」
「そこは突っ込んだら負けですよ」
どうやら文は、本当に俺の身を案じていたようで、軽口こそ言ってみせているものの、その表情は決して穏やかではなかった。
彼女の顔を視界の端に捉えながら、周りを見回す。不自然な体制で寝ていたせいか首を回す度に骨の鳴る音が聞こえてくる。
「……で、あれはなんだよ」
椅子に縄で縛られ、身動きの取れない彼方と、その傍らで彼方の顔を凝視する刹那を指差しながら、文に言った。
理解できない状況を前に、文は恐ろしい笑みを浮かべる。
「いえ、彼方さんにはお仕置きが必要だな……と」
「ま、真君~助けて……」
懇願するような目線を送る彼方を一瞥して、俺は思わず苦笑した。
重い腰を上げ、立ち上がる。その際に瞳を輝かせた彼方を瞬間程眺め、俺はゆっくりと踵を返し、扉のレバーハンドルを手に掛けた。後方から少女の疑問そうな言葉に呼応するように、後ろを振り返る。
「……あんまりはしゃぎすぎるなよ。ご近所に迷惑だから」
「分かりました。さて、彼方さん。楽しみましょうか」
「ま、待って真君!! 彼方汚されちゃう、汚されちゃうのッッ!!」
少女の悲痛な叫びを背に、リビングを後にした。
☼
数十分程経った後、再度リビングに入ると文がとても楽しそうな笑顔で俺に寄り添ってきた。
「ふふふ……彼方汚された。汚されちゃったよ」
「いや~彼方さん良いリアクションしますね。楽しかったですよ」
どんよりと項垂れる彼方とは対照的に、文はオモチャで遊ぶ子供のような笑顔だった。その絵面に見覚えを感じながら、苦笑する。
何度目の既視感だろうか。頭が痛むのを他所に、未だ椅子に縛られている彼方の傍らに寄った。神妙な表情を作る俺を疑問に思ったのか、ソファに移動した刹那と椅子に縛られたままの彼方は不思議そうに目を丸くした。
「思い出したよ、彼方の事。仲の良かった幼馴染を忘れるなんて、最低だ。……ごめん」
気付けば謝罪が口から溢れていた。視界の隅に映る刹那は、然程興味が無いのか携帯を弄っている。
俺の真正面に位置する小さな少女は、見開いた瞳から透明の涙を頬に流していたけれど。
「……思い出してくれたんだ、彼方の事。嬉しいよ、真君」
「まだ、ほんの一部しか思い出していないけどさ。これからどうにかして、昔の思い出を思い出してみるよ」
そう言うと、彼方は小さく首を振った。目の前の華奢な少女とは正反対の、灼熱のような赤い髪が少しだけ靡く。
「いいよ。大丈夫。真君が私の名前を思い出してくれただけで、私はもう満足だよ。それに……夜空ちゃんの事を思い出して、昔のトラウマが再発したら大変だし」
「トラウマ……? 何の話だ」
「ううん。何でもない。まぁそれは兎も角、早く縄を解いてくれないかな、真君。それとも真君は、縛られている女の子を眺めて興奮する変態なのかな?」
「へぇ。言うようになったじゃん。分かったよ、今解いてやる」
未だ少し潤んだ彼女の瞳を見据え、ミニテーブルに置いてあった鋏で彼方を縛る縄を切ってやる。
頑丈に結ばれたナイロンロープは、案外簡単に鋏で切れた。自由の身になった彼方は腕を回し、ゆっくりと立ち上がる。
「う~ん。痕になってないといいけど」
スクールブラウスを捲って確認する彼方。何故かそれは、俺に見せつけるように捲られ、白色の露出した肌がチラリと見えた。
赤くなった顔で反射的に目を逸らすと、今度は目の笑っていない文の笑顔が目に付く。面倒臭い事になってきたぞ。痛んできた頭を抱えたくなるもグッと堪え、その文からも目を逸らそうとするが――。
「ダメですよ、真さん。私から目を逸らしちゃあ」
「うん。何でキレてるのか知らないけど、落ち着こうな文」
いつの間に俺の傍へと移動した彼女が、両手で俺の頬を掴み上げる。冷や汗が背中を垂れゆくのを感じながら、文の赤い瞳を見つめ返す。いや、見つめ返す事しか出来なかった。
そんな折、途端にぐぅと間抜けに腹が鳴る。今日は色々な事が起きすぎて、未だ夜飯も食べていないのだ。腹が鳴ってしまうのも仕方ないだろう。
俺は鳴った自分の腹に目配せをやって、文に言い放った。
「イラつく暇あったら、飯作ってくれないか?」