かたく冷たく、だんだん強く   作:ぞんぞりもす

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一○話

 ゲヘナ学園とトリニティ総合学園がいがみ合っている、という話は私も知っていた。犬猿の仲と評されることも知っていた。

 

 現実とは往々にして想像を上回るものだ。

 私が知っていたのはあくまで情報に過ぎないのだということを、ゲヘナ学園に勤めてから思い知った。

 

 ニュースではエデン条約にまつわるトピックが連日報道されている。今朝も見たのに夕方のニュースでもまた流れた。

 ローテーブルに無造作に置かれたリモコンは、テレビとはまったく関係のない方向に電波を飛ばしていた。

 

「最近はどこでもエデン条約が取り沙汰されているな」

「それだけのことですから。ザクロも携わっていて、これは大掛かりだなどと感じることがあるのではありませんか?」

「どうだろうな。ゲヘナ学園は何をやるにしても大掛かりだから」

 

 人数が多いとうことは、そういうことである。

 

 セナは少しだけ振り返って私に一瞥を向けただけだった。そして大人しく髪を拭かれ続けた。ときどき爪がスマホの液晶に当たるらしく、かつ、こつという音が髪とタオルの水気を遮って耳を打った。

 

 日課の一つというわけではないが、頼まれた日はこうしてセナの髪を拭いている。ドライヤーもかける。だがヘアオイルなどはまったく分からないので、セナが自分でやることになった。そもそも私はほとんど見えていないので、容器が似通っていると間違える恐れがあるのだ。

 

 きっとまた明日も報道されるのだろうなと考えていたら画面が切り替わって、西高東低の天気予報があらわれた。

 

「来週は寒いらしい」

「備えは万全です」

 

 備えとは防寒のことを言っているのだろう。先日いろいろなところを見て回った。

 私のコートもいい加減に新しくしてほしいと言われたので、セナに三○分かけて見繕ってもらった次第だ。

 

 ドライヤーの温風が当たっている間、セナは一切動かなかった。報告書をスマホで読んだり、救急医学部のメンバーと連絡を取ったり、ネットショッピングで弾薬やら服やらを眺めたりした。

 

 すっかり日常に溶け込んでいる。日常の動作には、一種のなめらかさというか、ためらいのなさがある。私が瀕死の機械に躊躇せず引き金を引けるのも慣れと言えた。そういう自然さが、戦場とはかけ離れたリビングに満ちている。

 幾度となく赤く染まった冷たい手は、いま、上質な絹のような髪を梳く。恐怖と痛みと心地よさに揉みくちゃにされた。どの感情も認めたいものではなかった。

 

「ん」

 

 ドライヤーの音が止まってすぐ、まだ私がコンセントも抜かないうちにセナが腰を上げて後退した。

 部屋のいたるところには、いつからかクッションやら座布団やらが大量に置かれるようになった。私の座り心地はかなりひどいらしく、しかしどうにかしてくっつこうとセナが苦心して考えついた策だった。

 

 私はそっとドライヤーを寄せ、後ろ手にクッションを探るかたわら、ラグの上にかいた胡座を調節する。彼女が収まりやすい感じはすでに体に染みついていた。ソファに背を預けた。やがて二人分の心地よい重みが合皮をへこませた。

 ここからはセナの作業なので、私は少しのあいだ眠りに落ちた。

 

 

 藍色の水底からあぶくが立ち、薄い色のほうへ、透明なほうへ浮上する。やがてあぶくは水面をほとんど波打たせることなく空中に飛び出した。澄んだ空から降り注ぐ陽光を透過し、きらめく。意識に光が差した。

 終わりましたなのか、ありがとうございましたなのかは不明だが、セナは春の日差しが眠っている人を起こすように私を目覚めさせた。

 

「……仕事をしなければならないな」

 

 寝起きなのに冴えている頭で呟くと、「風紀委員は任せすぎです」というつんと澄ました声がする。

 

 リモコンまで手を伸ばしたのだが、いつの間にかテレビもリモコンも消えていて。おや、と私は思った。

 あてどなくローテーブルを這う金属はセナの手に攫われた。そのまま押し倒されかけ、目覚めたそばからあやうく休憩になるところだった。

 

「セナは何をする」

「何をしましょうか。今日の業務はすべて終わっていますし」

 

 ノートパソコンを広げた私のとなりに流れるように横座りをした彼女は、しばし思案したあと体をラグに横たえさせる。私は手近な場所にあったクッションをセナに渡した。セナは金属の足とクッションを枕にした。

 

 最初は事務仕事を私の寝室でやっていたのだが不満を言われ、リビングでやるようになると「椅子とテーブルでは駄目です」と不満を言われ、ラグとローテーブルという組み合わせに落ち着いた。

 

 思い返すと、騒々しい過去に彩られ、私はここに至っているらしい。何をするにも私とセナの意見は食い違う。それがなんだかおかしかった。

 何もない荒野でぼんやりと輝きを放つ焚き火の日々が、ふっと蘇る。友人の声や足音、銃を整備する手つきや自然の景色、地図を指さして言い合うのを酒でも飲みながら眺めて――。

 あのころも食い違ってばかりだった。

 

 

 パソコンから流れてくる情報が一瞬だけ鈍って、電脳世界にノイズが走ったような感覚で我に返る。思い出される記憶はいつだって賑やかだが、戻って来る現実はたいてい静かだった。

 私はやはり、輝きを失った北極星にいまだ囚われているのだろうか。

 

 

 虫のさざめきも生命の営みも都会の雑多な音もほとんど聞こえない。ともすれば不気味さが掻き立てられる、沈黙。

 そこに命が一つだけ揺れる音と、機械が機械を叩く音が響いた。ゆっくりと下に手をやると、さらさらした髪の奥に頭皮の熱を感じる。美しく膨らんだ頭蓋骨は、私たちの頭部と輪郭が似ていた。

 甘いロマンスには程遠い、地に足のついた付き合いが根づいていた。

 

 

 

 うたた寝から目を覚ましたセナは、「あなたの夢を見ました」と眠そうな声で囀ってから、再び眠りへといざなわれた。

 彼女の表情を知らない私は、果たして本当に彼女を満足させられているのか、大切にできているのか分からなくなった。彼女もまた私の表情を知らないが、自信があるように見えて一人で思い悩むところのある彼女も、同じことを考えるときがあるだろうか。見えない繋がりは心そのものの触れ合いだった。

 

 

 紙をどんどん折っていったら、小さくかたくなっていく。そうやって心にも折り合いをつけていくうち、うっかり月にまで届きそうになった。全部見渡せるようでいて、何も見えない高さだ。そして月から地上へ落っこちる痛みを味わいたくはないから身動きが取れない。

 高い場所に届いてもとなりにいる人に届かないことが惨めな気がしてならなかった。だから丁寧に思うのだろう。顔色すら見えなくなった体で心を窺い続けるのだろう。

 

「んぅ……」

 

 預けられた頭の重みが、そっくりそのまま心臓へ吊るされた重りとなる。信頼がそこに加算されていき、鉄の心臓といえども、いずれ重さに耐えかねる気がする。

 だがマッコイはやっと見つけたのかと言った。私がこうして重りの存在を感じてしまうのは、幾度も別れを経験したがゆえなのだろうな、と胸の裏側で笑った。

 

 

 無垢な信頼は一種の凶器だ。私たち傭兵にとって、信頼とは包丁と同じものだ。決して使い方を間違えてはならない。

 

「コーヒーでもいかがですか?」

 

 出し抜けの言葉は優しい音階をしていた。ゲヘナの旧校舎で、似たようなピアノの音色を聞いたことがある。

 私はキーボードに乗せた手からゆっくりと力を抜いて、眉間から意識を離すような想像をした。

 

「何やら思い詰めているようでしたので」

「すまない。いただこうか」

 

 私の声と重なって近くにマグが置かれた。何度も使ったせいで少しだけ縁が欠けたマグだ。それを口もとに持っていって、少しだけ湯気と香りを味わった。

 いくらか飲み進めたころにセナが半身を預けた。

 

「エデン条約によってさまざまなものが変わるとは聞きますが、そんなに大きく変わるものでしょうか」

「結んでみなければ分からない、という話は……あるがね」

 

 私はコーヒーを口に運んで一息ついた。セナの部屋着は薄く、生地の向こう側には生々しい弾力を感じた。

 

「歴史の変遷には、かならず争いの火災が街を飲む。変わる変わらないの前に、私たちはそれへの対処を講じねばならない。見えざる敵がどこかに潜んでいる場合が往々にしてあるからね。変わったのかどうかは数年経ってみなければ分からないさ」

「ザクロは何度も経験しているのですね」

「かもしれないな。傭兵稼業なんてむしろ見えざる敵の側だったが」

 

 過去を詳らかにすることを信頼と捉える私たちではなかった。

 

 セナは過去よりも未来を見て、未来よりも今を見ている。彼女は今を最も充実させるための行動を好む。

 私は重ねた年月による経験から、誤った選択を明らかにされることは不快だと判断し、彼女の過去を問いたださなかった。

 様々な大きさや形の部品によって作られた構造物があったとして、その部品の細かな一つひとつは過去であるが、わざわざ取り外して点検する必要はない。駅を分解しようと試みて崩れたら元も子もないだろう。

 

「ザクロ?」

 

 揺れる文字盤の上に立っているような震えた声がする。眠いのか、それとも不安にさせてしまったのか。彼女自身もエデン条約に思うところがあるのだ、私も思い悩んでいるというふうに考えてもおかしくはないだろう。だからこそ話を振ったのだ。

 

「私が今しがた考えていたのは別のことだよ」

「……知っています」

「そうか、知っていたのか」

「エデン条約については私が気になっていただけにすぎません」

「和平のための第一歩という名目だが、言ってしまえば政治的な話だからな。各々思うところがあってもいい」

 

 気になってとセナは濁したが、変化を目前にして不安の種が芽を出したようだ。「私は最善を尽くすほかない」という私の言葉に、セナは静かに頷いた。

 

 それきり私たちの間には満足と沈黙の霧が立ち込めた。マグカップの動く音だけがときおり霧を払った。ややもすれば、私にもたれかかったまま眠っているのではないかと思うほどの時間が過ぎた。

 

「私の部屋からは星が見えません」

 

 沈黙の幕を、そっと。まるで舞台によじ登って端の幕をめくり、舞台袖に体を滑らせる少女のように、裏に潜む演者への親しみと純情と心配を込めて。

 もしくは、瞼の裏に星を描いて、届かぬ輝きに手を伸ばすように。

 このときばかりはセナの表情が分からないことが救いだったように思う。

 

 セナはぎゅうぎゅう詰めの本棚からそっと本を抜いた。彼女の紡ぐ言葉には慎重さと勢いが調和していた。

 

「ザクロは……星を見つめて考え事をするのが好きなように思いますので」

「見えない体なのにか」

「雰囲気ですよ。分かってください」

 

 むっとした調子のセナの言葉で話は途切れた。

 彼女の肩に腕を回すのは気安いかとためらい、後ろに回した手がラグを這う。結局諦めたら、ため息が聞こえた。

 

 緩やかなキャッチボールを続けるうち、話題はエデン条約の岸を離れた。ワーカホリック気味な私たちは必然の話題に船を落ち着けた。

 

「最近だと報告書の内容が少しは落ち着いているから、これでも助かっているんだがね。それにしたって家に持ちこむしかない量だ」

「いま、家と言いました。……何か問題でも? その目はなんでしょうか」

 

 今度は私がため息をついた。セナは咳払いをした。

 

「先頭発生件数が減っていることは明らかです」

「だが火遊びが減ったからと言ったからといって、仕事が減るわけでもあるまい。備品がどうとか予備の銃火器の整備がどうとか貸し出し期限がどうとか、普段は疎かになっている部分を今のうちに片付けておかなければならない」

 

 セナだって、部長として、引き継ぎ書類の作成や後輩の育成など実働以外にもやるべきことが多い。

 こうして同じ寝床にいられるのは、私たち個人の自由時間がどんどん少なくなっていることを加味すると、セナにとって幸福なのかもしれなかった。私は分かりきっている判断を保留し続けている。

 

 私がこのマンションに転がり込んでからというもの、二人の私物は増えたのかもしれないが、私個人の私物は一向に増えていない。セナはそれを気に病む素振りを見せることがある。だがどこまでを強制してもいいのかを彼女は弁えていた。

 医者が執刀する位置を絶対に間違えないように、彼女は私の体内から癌を取り除くためにメスを入れ続けている。

 

 いずれ体がすかすかになれば新しい塊を詰めこまれるだろうか。あるいは癌と新しい部品とを取り替えられているのかもしれない。それが本当に私の心なのかどうかは不明だが。

 

「ヒナも相変わらず大変そうにしているよ。先生との時間が取れているといいんだがね。まだ若いというのに、一人で抱え込めないだけの荷を背負って歩いているようにしか見えない。人生は長い孤独の道だ」

「人はいずれ結婚します。風紀委員長と先生だって」

「孤独が寄り添った形が結婚という形態にすぎんさ」

「であれば私たちだって――」

「実例がない」

「作ればいいのではありませんか?」

「間に子どものできない夫婦関係を、果たして人は幸福な形として捉えるだろうか。むしろ憐れみの目を向けてきやしないだろうか」

 

 セナは、とうとう会話を諦めた。

 

 私のような老いぼれは手の抜き用を心得ている。だがヒナはというと、そうもいかない。すべての障害物を薙ぎ倒すだけの力があるから、それ以外の対処法を知る機会を得なかったのだろう。

 

 ヒナの話題を出すと、セナは露骨にへそを曲げた。自分以外が話にあがったという少女的な不快の他に、ヒナが自分の言うことを聞かないのだという不快も見て取れた。

 セナは私の腕を強く抱く。薄いワンピースの奥に人肌のぬくもりがあった。

 

「私は適切な休養を勧めていますが、ヒナはメディカルチェックの値が正常なだけで、明らかに休んではいません。ザクロから提案されたために風紀委員会に所属する全員のメディカルチェックを引き受けていますが、本来であれば、私たちの言うことを聞かない時点で武力行使に出るところです」

「ヒナに武力行使とは……ゲヘナ自治区が更地になってもヒナは立っているんじゃないかな」

 

 セナは矛を収めて話を流した。

 

 ヒナが私たちを気にかけてくれるように、私もまたヒナたちを気にかけるようにしていた。それがどのくらい有効なのかは分からないが、○が一になるだけでも多少の心強さはあろう。

 私とヒナはある種の共犯関係を築いていた。距離が近い分だけ、日に日に憔悴していく彼女が目についた。

 

 私は話の流れをぶった切って「疲れているか」と唐突に尋ねた。このときセナの側頭部は私の肩に預けられていたのだが、その重みがなくなった。

 まじまじと私を見つめ、抑揚の少ない声が「誰がでしょう」と言う。

 

「あんたさ、セナ」

「自分の業務量は調整していますし、特別な心労も抱えてはいませんが」

「そうか」

 

 私はパソコンから端子を抜いた。鮮やかすぎるパソコンの画面がいまだに脳裏で青白く輝いている。それがなくなったころ、慎重に立ち上がった。

 

「そろそろ休もう。ヒナからの言伝の最終確認をしたい」

 

 風紀委員会と救急医学部の連携は、もちろんエデン条約でも発揮されなければならない。それとは別に、ヒナは私たちに裏方の依頼を出していたのだった。

 

 セナは手近なクッションを胸に抱いて「分かりました」と言った。強い力に中身のワタが歪にへこみ、クッションカバーがいくつものシワを作った。

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