かたく冷たく、だんだん強く   作:ぞんぞりもす

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一二話

 特別の進展もなく、私たちの日々は過ぎ去った。

 冬は一足先に春を孕んだ風に吹き払われて、白く輝いていた景色は枯れ草色と若葉の世界になった。セナから見せてもらった写真は都会か自然かにかかわらず、いずれも美しかった。人生の荒野にはいつの間にか緑が芽吹いていた。

 

「バスを降りてから、もうずいぶん歩きましたね」

「そうだな。何をするともなく、こうして二人きりで歩く時間がほしいのだろう」

 

 ヒナと先生がお忍びで出かける旅館の下見を頼まれた私たちは、こうして山道を歩いている。山というほど獣道ではないかもしれない。舗装はされていないが手入れの行き届いた土の道だ。

 

 私はおしゃれをしても仕方がないので簡素な格好だが、セナはそれなりに気合いを入れているらしかった。

 

 サンダルを履いたセナの足音は軽く弾むようで、歩調はいつもと同じなのに違う響きで耳に届いた。

 バスを降りてからずっと続く雄大な緑は、多くの生き物の血を吸って育った。幹にも枝葉にも欠片となった魂が流れている。私はときおり足を止めて、金属とは質感の違う幹のかたさに触れた。

 前方にあった旅館が大きくなるにつれ、私たちの会話は増えた。旅館の奥には山々がそびえ、青とも緑ともつかない自然の空気を世界に吐き出している。峰の切っ先は白く霞み、澄んだ空の底とほとんど同化しているらしかった。

 

「ゆっくり安めとは言われているが、一応温泉についての話を聞かなければならないな」

「私は一足早い卒業祝いと思っていましたが。ここでも仕事ですか?」

「いや……そういうんではないんだ。ただ来年は温泉開発部を止めるのが難しくなるだろうから、温泉が掘れる条件をまとめておいて、風紀委員会が後手に回らないようにしておかないとまずいだろう」

「抑止力がいなくなりますからね」

「聞いた話では一応近場にはいるらしいがな。ヒナが近場を選んだのは温泉開発部が理由でなく、先生との距離の問題だろうが」

 

 私は逡巡ののち「私もいなくなるしな」と風に乗せた。罪悪感から声が小さくなり、そのあたりの茂みにすら届かないほどの声量になった。

 

 セナの足音は平生と変わりなかった。こんなとき、見えなくてよかった、と思う。

 どれだけ取り繕っても綻びは生じる。だが見えなければ綻びに対して体ごとそっぽを向くことができる。同じように、胸の痛みからも逃れていいという気分になる。

 

「一本失礼」

「旅館ではまず喫煙所を確認しましょうか」

 

 カバンを持つ手がかすかに震えていたとしても、私はふいと顔をそらして平気でいられる。

 

「室内は禁煙だろうか」

「おそらく。先生もヒナも吸いませんから、わざわざ喫煙可の部屋を取ることは考えづらいかと」

「そうか」

 

 とんとん、と手慣れた所作で灰を落としたら、宙を舞った燃えかすが手の甲に触れた。誰かの内心のように熱く、たちどころに痛みが加速する。私は知らん顔でフィルターをあてがう。

 煙は思考のように緩慢に散った。

 

 セナはそれた話の舵を元の方向に戻そうとはしなかった。いっそ痛々しさすら覚えるほどの自然体だった。

 

 それから靴音に紛れ込ませるように「やはり、そうですか」と呟いた。

 

 器に満杯になった水が限界を超えてあふれるときは、こんなふうに、なんでもない感じで一条が垂れ落ちるのだと思う。

 外側を上から下へと流れた感情はつま先から地面に染みる。液体は木々の養分となる。革靴の先を見ても、私には何も見えない。

 

 気がつかぬうちに旅館は迫っていた。

 春を乗せた風に穏やかに背を押され、私たちは静かに門扉をくぐった。

 

 

 

 チェックインを済ませ、セナが温泉に入っている間、私は女将さんに話の相手を頼んだ。浴衣姿のセナのことを彼女ら従業員はことさらに褒めた。セナはむず痒そうな反応をした。そしてセナは私にも浴衣を着せた。

 何事もなく夕食をとって、酒を勧められるうち夜になった。

 

 セナは日常を演じ続けた。彼女の本心は霧に紛れて、だから私はどれだけ調べようとも少しの手がかりも得られなかった。

 見失ったコンタクトを探るには、私の体は不向きすぎる。だが落としたままでも生活することができる。

 

 セナは「行かないでくれ」と追いすがるような質ではない。

 一線を見誤らない女の優しさに、私は甘えているのかもしれない。武力をもって私を従わせることもできるのだろうが、その果てに続く関係はこれまでとは違う形となる。

 

 打ち寄せる感情の波は私を沖へと連れていった。思考はまとまらないまま、ただひたすらに波にさらわれて体が運ばれる。

 砂浜にいるセナは手を伸ばそうとしているのだろうか、とどれだけ考えても、結局答えは出ないままだった。どちらが正解なのだろう。

 

「私はあなたと離れても、まず初めに喫煙所を探してしまうような気がします」

 

 今なら月以外の誰も見ていないから、というように。彼女はそっと胸の内を告げる。この日、私たちは別々の布団で横になっていた。

 

 油のような質感の黒く重たい海がまとわりつく。この感触は闇に似ていた。陽光を反射した水面に光の粉が散るようなことはない。

 

 私が体を浸しているのはそういう海だった。

 セナが見ているのもそういう海のはずだ。もしも違っているのなら、それは海の反照ではなく、蜂蜜色の瞳の奥がきらめいているだけだ。

 

「私はセナの北極星になったつもりはない。決して口には出さなかったが、いずれ別れると決まっていた関係だろう。あんたは学生。私は流浪の身なのだからね」

「口に出していないのに決まっていたのですか」

 

 私は着々と別れの準備を進めていた。誰にも、何も言わずに。

 セナが自身の進路について私に話さなかったように、私もまた己の行く末を話さなかった。一種の禁忌だった。火山が静かなのを無理に活性化させる必要などなかった。

 

 

 私は、生きる道に別れはつきものと考える。別れは痛い。痛いが、耐えられない痛みではない。耐えられるからこそ、そんな名前がついている。体に染みて内側から腐食していく感覚を感じ続けるだけで済むのだ。

 だが彼女は、一度同席して意気投合したのならば、終着点まで一緒に乗り合わせたいと考えているようだった。

 

 

 私たちはそれきり言葉を失い、鉛のような夜に体を浸した。眠ったというよりも、掛け布団と敷布団の隙間に体を挟んでいただけだった。

 

 このまま何もなければ卒業を期に私たちは離れ離れになるのだろう。そして何年も連絡を取らないのだろう。近況を語らず、見極めた一線に従い続けて、自分の身の程を弁えたまま。

 

 不意に先生の言葉が蘇る。先生は私に、ときには越えなければならないこともあると言った。私はやはり悪い大人だった。

 

 

 

 事件は翌日に起きた。私の昔なじみが旅館に姿を現したのだ。

 旅館に備えつけの施設や周囲の散策から戻ると、フロントがにわかに騒がしくなった。荒々しい声を聞いた途端ホルスターに手が伸びた。

 

「なにか?」

 

 セナが足を止める。声には若干の緊張が走っていた。

 隠し通すことはできまい。そして相手と穏便に対話することもできまい。私は意識してゆっくりとホルスターから手を離す。

 

「古い知り合いの声がした。私の古い知り合いと言えば、分かるだろう?」

「襲撃ですか」

「……昔からたちの悪い仕事しかしていなかったから、おそらくは。依頼なのかは不明だが、略奪の類と見て間違いないだろう」

 

 フロントに向かって何事かを叫んでいたダグマは、私を見るなり「ほう」とこぼした。獣が唸るような低い声だった。彼は昔から大きな部品を好んでいた。クマのような体躯は私を睥睨したあと、「そっちのは」と視線をセナに移す。

 セナは何も言わず、私の腕に抱きついた。セナとは反対側に体を逃がそうとすると力が強まったので、私は大人しくした。

 

 ダグマは機械の体で器用に舌打ちをしたあと、愛銃のもとにどすどす歩いていった。

 従業員たちはこれ幸いとばかりに奥へ引っ込み、他の客もそそくさと退散する。

 

 ダグマの愛銃は重機関銃と記憶していたが、彼の好みは昔とまったく変わっていないらしい。そういうものもいるよな、と私は心の中でごちる。変わる変わらないといった些事を彼の視界はまったく視界に入れていない気がした。

 私はリボルバーの感触を確かめた。

 

「俺は最新に変えたぜ。どうだ。早撃ちでも」

「私が負けるだろう」

「ガラクタがよ。魂まで錆びついちまったか」

「そうかもしれないな。もうずいぶん長いこと古ぼけたカメラのレンズの中をさまよい歩いている気分さ」

 

 革靴をサンダルが思い切り踏んだ。

 

 もしも私に表情があれば、私は疲れ果てた老いぼれのように笑ったろう。

 最新を求め続けた今のダグマは、きっと肉食獣のような獰猛さをたたえて笑っている。目をぎらつかせて、歯をむき出しにして牙を立てる部位をじっくり観察するように、熱く冷たく笑っている。

 

「私はおりたんだ」

「見りゃ分かる。今さら若いのを引っかけて」

 

 昔のダグマからは考えられないが、彼はどうやら一拍置くことを覚えたらしかった。即座に発砲される覚悟くらいはしていたというのに。

 

「みんな死んで、お前も足を洗うのか」

 

 ダグマの低い声には、仇敵への恨みの他に、怒りやら悲しみやらの複雑な音色があった。最新パーツの進歩は目覚ましい。そんなふうにいきいきと表現できるのが、私には多少羨ましく映った。

 私は彼に対して無言を貫くと決めた。何も言う権利がないからだ。

 

「許されると思うのか。今さら普通に生きられると思っているのか」

「……あなたにザクロの何が分かるのですか」

 

 ダグマはおそらく「すっこんでろ」と言いたかったのだと思う。だがその怒号は途中で遮られ、代わりにグレネードの爆発音があたり一帯に響いた。

 華奢なサンダルが軽く鳴る。遠ざかる靴音には威圧感があった。

 

 セナはそのあと何発か追加のグレネードをお見舞いし、壁を殴りつけたようだった。

 

「何度も誤った選択をしたからこそ選び取れる正解があることを、あなたは失念しています。過去から抜け出そうともがくザクロをそちら側に引き入れないでいただけませんか? 今のザクロに必要なのは足を引っ張る亡霊でなく、手を引いてくれる存在です」

 

 セナは珍しく、滔々とした声に静かな怒りをにじませた。

 

「後悔は人生を幸福にする調味料ではないというのに、多くの人がスパイスとして入れすぎて台無しにします。ザクロはようやく正しく調理できるようになってきたのですから、どちらがすっこんでいるべきかは明白です」

 

 心臓が靴の先に蹴り上げられるような、めり込むような痛みを覚える。

 人生は何もかも漠然としているのに、痛みだけはいつだって鮮やかだ。

 

 ぼろぼろと瓦礫を落としながら戻ってきたダグマはセナに声をかける。荒々しさは鳴りを潜め、どこか楽しそうな雰囲気すらあった。

 

「悪いことは言わない。こんなにの引っかかるくらいなら別のやつに――」

「お熱いのはお好きですか?」

「もうたくさんだな。俺は注ぐほうを好むからな」

「体を新しくすると精神も未熟になるのでしょうか。若作りと未成熟はまったく異なりますが」

「言い過ぎだぞ」

 

 セナは私に歩み寄った。そして私の胸に手を添えた。

 

「胸にでもカイロを埋めればあたたかくなります。その程度の誤差でしかありません」

 

 ダグマは何も言わなかった。私も何も言わなかった。この舞台はセナのために用意されたようなもので、それ以外の一切は呼吸すら許されないほど張り詰めている。

 

「問題ありません」

 

 とても長く感じられた沈黙のあと、セナは断じた。

 その一言で舞台の幕はおりたので、私たちは一斉に肩の力を抜いた。

 

 途端に世界には音と香りが戻ってきた。

 私は胸につっかえていた重いものがなくなったかのような開放感を覚えた。だがすぐに、口から出ていったものがまた口の中へ飛びこんできたような衝撃と閉塞とを味わった。

 

 セナの言葉を自覚したのだ。私は雰囲気に飲まれて言葉の意味を理解していなかったが、深呼吸によって彼女の言葉に血が通った。血流は加速し、熱を帯びて私の全身を痛めつけた。

 こんなことを言わせておきながら、私は。

 

「ずいぶん手厳しい嬢ちゃんを引っかけたな」

 

 つかつかと歩いてきたダグマは私の肩に手を置いた。いつの間にかセナは私のとなりに移動しており、「今なお引かれているの間違いです」とつんと言った。そしてダグマの手を払いのけた。

 

「尻に敷かれているんじゃないのか?」

「それは何度もありますね」

「……こいつの年を考えてみろ。孫が膝の上に乗るのと対して変わらんだろうが」

「分かっていません。孫に色仕掛けをされるおじい様の魅力たるや」

 

 豪快に笑ったダグマは「口も回るのか、お前は」と愉快そうに話す。先ほどまでの凶暴さがダグマからは消え失せていた。険悪だった二人の空気も、どこか色を変えている。

 

「がんばりな、嬢ちゃん。あいつは昔からそうだったから厄介だぞ。戦い方も俺とは正反対だった」

 

 そして話の向きを私へと転じた。

 

「おつかれさん。文句はあるが言う筋合いがないんでな。まったく長生きしてみるもんだ。もう誰とも会えないかもしれないが」

「全員と再開できるときを思って酒を飲むといい。これは先達からのアドバイスだ」

「やなこった。むさ苦しいだけだろ? あいつらだって俺がめそめそ一人で酒なんて飲んでたら引いちまう。また会えるのは楽しみだが、それはそれとして、馬鹿をやるのがいいんだよ」

 

 ダグマは「そうだ」と思い出したように叫んだ。

 

「嬢ちゃん、どうだ。酒でも」

「お断りします」

 

 ダグマは野太い笑い声を天井にぶつけた。おそらく分かっていて聞いたのだろう。それが予想を超える勢いで切り返されたのがおかしかったのだ。

 

 なおも絡むダグマに、セナは毅然とした態度を取り続けた。

 どっちつかずにゆらゆら揺れている彼女の心はおそらく私に対してだけで、押してもいいのか引いてもいいのかを悩み攻めあぐねているがゆえのものだった。

 

 満足したのかダグマは話を切り上げた。

 

「俺は奥で少し話をつけてくる。今度は何も問題ない。破壊活動は趣味みたいなもんだからな」

「私にも似たような趣味があります」

「そうなのか? 惜しい嬢ちゃんだな本当に……今からでも――」

「私には相手がいますので」

「……じゃあまた出会うことはないと思うが、ま、会えたときにな」

 

 そしてどすどすと足音を響かせて奥へと消えた。

 安堵の息を吐いたセナの雰囲気には、どこか気落ちしている感じもあったが、それはすぐに日常の喧騒に飲まれて見えなくなってしまった。

 

 

 私はセナと別れたとて、ダグマのようにぎらぎらした光を放つことはもうないだろう。一○円玉を磨いたら光るし、錆びても酢などに漬ければ輝きを取り戻すが、子ども時代のきらきらのように失ったらもう二度と取り戻せない変化もある。

 取り戻せない変化は、往々にして自分から大事なものを連れ去ってしまう。

 

 ダグマはきっと考え続けていた。自分のあり方を。生き方を。傭兵である意味を。私よりも一貫している高潔な姿だった。戦い続けるものにしか放てない輝きを、人生を絞り続けたものにしかできない輝き方をダグマはしていたと思う。

 

 私はといえば、縁を切ろうとした亡霊に勝手について歩かれている。どこをどうやったって振り払えないのだ。そもそも触れないのだから。

 

「あなたは幻を見つめることが、タバコと酒とリボルバーの手入れの次に好きなのですね」

「……かもしれないな」

 

 私は本来であれば、ダグマの側なのだ。そんなあたり前のことを今さらになって突きつけられた。

 私だけが積み重ねた長い道のりと二人での時間を比べたら、どっちが長いかなんて分かりきっている。私は後者に肩入れをしすぎている。今さら許されないような気がした。

 

 体と同じように心の構造が違っていれば、なんの後腐れもなく去ることができたろうか。水を浴びせられて腐っていくような、悲しみとも痛みとも不快感とも言える生ぬるい熱が私を苦しめた。

 

「今日は一つの布団でも問題ないと仲居さんにお伝えしてきます」

「私は広縁ででも寝ようか」

「鳥籠に長く閉じ込められた鳥は、どれだけ大空を夢に見ても、現実を見ていないために扉が開いたことに気がつかないのかもしれません。私は……そう願っています」

「願いとは、現実とはかけ離れているゆえに抱くものだ。私は幻を見続けながら歩いてきた」

「分かっています。分かっていますとも。ですが私は、美しい表紙で閉じるために完結するような恋は求めていません。ひとえにザクロとの未来を求めていたいのです」

 

 子どもが意地を張ったような稚気のある声は、私の心に根深い寂しさを植えつけた。

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