私はその靴音を、一日だけ、一時間ほどとなりで聞いた。ぶつかってきた人が雑踏の中でも際立って見えるように、セナとの出会いは堆積した記憶の中でもくっきりしている。化石になって風化しようとも、丁寧に掘り出せる確信があった。
記憶を無理にかき消そうとするつもりはなく、覚えていようと躍起になるつもりもなかった。山から流れ出た水が海へ広がっていくのと同じ理屈で、私はセナを覚えていた。
「また会いましたね」
いやに耳に残る声と足音を、私は再び聞いた。
「ここは暗い。可憐な花が咲く場所ではない」
「ざくろ」
「む……?」
「あなたの本名はザクロです」
私は答えに窮した。偽名を名乗っていたことをすっかり忘れてしまっていたのだ。
なぜ偽名を名乗ったのか考えて、当時のセナは得体の知れない存在だったからだと思い至る。
当時のセナは――か。
私は脳内を横切った言葉に自嘲した。帽子を押さえ、ほど近いアスファルトに顔を向ける。
となりでどれだけ寝起きしても、通常であれば傭兵は互いを信頼しない。本当なら傭兵団などでなければ背中を預けたくもない。
私は彼女に背中を預けられるか考えた。厚意の治療を施された時点で、答えはとっくに決まっていた。
床を叩く音が自分の心そのものというように、セナは靴音を鳴らして私に近づく。
「なぜ嘘をついたのですか」
「怒っているのか」
「……とても」
「そうは見えないが」
「私の表情はころころ変わります。嘘だと思うなら顔を上げて見つめてください」
「あいにくと目が不自由なもので分からないが。君の表情がころころ変わるのは嘘だろう。抑揚は声の表情だ。あんたは乏しい」
セナがしゃがんだのか、上から下への空気の流れを感じた。
この路地は外からの空気がほとんど入り込まない。
両手を満足に伸ばすことのできない幅で、二階建てくらいの薄汚いコンクリートに陽光が阻まれている。影によって、コンクリートは元の色よりも暗く見えているだろう。
全体的に暗くて湿気のある場所だった。
「なぜ嘘をついたのですか」
「なぜだろうな」
存外に近い場所から声が聞こえた。好奇心旺盛な女子が気を許してくれた野良猫を観察するときのように、セナは床に座り込む私をじっと見つめているらしい。
セナは私の胸に銃を押しつけた。銃口でなく、銃を押しつけた。
「茶化しているのですか?」
「あんたは意外にも短気な性分らしい」
「暖簾は押しても引いても捕まえられません。握るしかありません」
「握られたいのは胃袋なものだが」
「いつまでのらくらしているのですか?」
とうとう私は観念して「当時の君は得体が知れなかったからだ」ともったいぶって言った。そして言い訳がましく別の弁解を口にする。
「一度きりしか会わないと思っていたことや、傭兵の情報には千金の価値があることを私はよく知っているつもりだからだ」
銃を押しつけたまま、セナはしばらく黙っていた。おおかた私の話を精査しているのだろう。やがて一つのため息とともに私の胸は開放された。
「外傷は……前回よりも少ないように見受けられます」
「運がよかっただけだろう」
「内部の損傷具合はどれほどですか?」
「自己修復できる範囲だ」
「何日間の自己修復が必要かを答えない時点で、あなたは救急医学部の管轄です。あなたの体は泥と同じです。磨くことも崩すこともたやすい」
セナは有無を言わせずに私を検診した。実際そんなことはありえないのだろうが、心が凪いでいるのではないかと思われるほど、彼女の手つきは丁寧だった。
周囲の淀みや陰気さというものをセナはまったく意に介さない。まっくらな場所で一つの星の輝きが尊く感じられるように、路地裏はセナのおかげで浄化されている。
前回よりも念入りな触診だったので、会話の時間も長くなった。彼女は真剣そのものというまじめくさった口調で話した。
「私は戦闘発生の知らせを受けて急行しました。そして治療の最中、何が起こったのかをした――負傷者から聞きました。やがて運び込まれる負傷者を診ているうちにある程度の情報が集まりました」
セナは患者の話と装いから、以前と同じ組織による抗争だと結論づけたらしい。そのためラファエル・シャンボリーというロボットのことを尋ねて回った。なんとも滑稽な話だ。
「なぜ私を気にかける?」
「気が合うように感じられました。加えてあなたが傭兵をしている理由が分からなかったためです。あなたと別れたあと不意に気づき、それから今までずっと疑問でした」
金銭が必要だから、暴力を振るうことが好きだから、それができるほどの力があるから。セナは様々な理由を挙げたが、どれにも納得がいっていないようだった。
スケバンや風紀委員とは異なる雰囲気を纏っている、とセナは私を形容した。私は乾いた笑いをこぼして受け合わなかった。
「星が輝いている理由を考えたことはあるかな」
「恒星だからではありませんか?」
「かもしれない。だが、恒星だからという理由ではないとしたら? 考えても仕方がない。星はきれいだ。社会にはそれだけがあればいい」
「そうかもしれません」とセナは言った。穏やかな声だった。そして「もう一点つけ加えるとすれば」と一拍の間を作る。止まることのなかった触診の手がそこでだけ止まった。
「また約束もしましたから。クレープを食べると」
「そんな理由でか?」
「すでに食べ歩き仲間です」
「そうなのか……そうかもしれないな」
どこか胸を張っている調子のセナがおかしかった。私は口角を持ち上げるような細かな動作ができないが、代わりに体の一部を軽く鳴かせる。
「なかなか器用だろう?」
「相変わらず、私たちとは作りが異なっています」
彼女は声のトーンを落とした。
手当てを受けているものと、手当てをしているもの。初めはその細い糸でしか繋がっていなかった私たちは、気づけば他の縁を結んでいた。しかし気をつけなければならない。縁の多さは、
やがて名前という情報から私を探すことを諦めた彼女は、服装によって私を探し出したらしい。
「ヴィクトリアンコートとソフトフェルトハットと伝えると、何人かに反応がありました。しかしあなたの名前を知っていませんでした」
セナは私の冷たい頬に手のひらを当てた。
「あなたは、誰の記憶にも残らない名前を名乗ったのですか」
「君の怒りは少しばかり特殊だな」
セナの体内では火の粉が舞っていた。私は気づいておきながら油を注ぐようなまねをした。私の心は冷ややかだったが、彼女の衝動ごと抱きとめて己の温度を分け与えるつもりは毛頭なかった。
炎が天を焦がす前に、私には問いたださねばならぬことがあった。
「私の名を誰に聞いたのかな。君が契約書を盗み見ることはできないだろうし、幹部連中は暗い事務所で利益を計算するのに忙しい。私の名を知っているものは限られるのだが」
私の名を知る古い友人たちは、すでに工場でスクラップとなったか、そのあたりに打ち捨てられて同類の山に埋もれているか、隠居してブラックマーケットで店を開いているかだ。そして隠居しているのは、加齢によって体がついていけなくなった、人と足並みが同じ生き物たちだ。探し当てるのは難しいかもしれないが、締めるのは楽だろう。いろいろと老いさらばえた連中だからだ。
傭兵稼業から足を洗えば、途端に勘は鈍ってしまう。傭兵から足を洗った知り合いの多くはすぐに死んだ。
私はここまでを話し切ってから「さて」と言葉を落とした。
「その中の誰を最初に
女子に面倒を見てもらっているこんな格好ではしまらないが、友人たちの命がかかっているとなれば話は別だ。私がセナの顔を見上げたときに関節から金属音が響き、それきり沈黙の帳がおりた。
私はまるきり矛盾していた。義理や感情で動くのは二流だと口にする私は、自らを二流へと陥れた。何度も繰り返してきた過ちだった。
セナは銃口を私の胸に当て、耳もとで囁く。
「熱いプレゼントはお好きですか? と聞いただけですよ」
「あいつらはみな、プレゼントするほうが好きだと答えるだろう。何十年もぎらついていた下卑た連中だからね。そっちは元気だ」
「私が最初に訪れた老人はそんな元気もないと笑いました」
「私の名を売る知り合いはいない」
セナは自分が向かったブラックマーケットの区画を詳細に話し、その店でどんな物を取り扱っているかを口にした。
「ロジャーか……年月は人を変えるな」
「言伝も預かっています」
そう言ってセナは咳払いをした。
「お前は余計な気遣いだと思うだろうが、俺はお前に指図される筋合いがないから好きにさせてもらう。お前に合う部品を見繕うのは骨が折れる。こっちはもうスカスカで折れやすいんだ。ツケだって溜まっているんだぞ。もう何年やっていけるか……店だって傾いているんだ。嫁にも息子にもすでに会えないのが救いだがな。だそうです」
セナの言葉の後には重たい静けさが残った。
むっつりと黙りこむ私に、セナはそれ以上の言葉をかけなかった。彼女からは、私が何かを言うまで決して口を開くつもりはないという強固な意志が感じられた。
「ところで。もう触診は終わりかな? 治療の必要はないだろう?」
「これからです」
「しかし私の体はそんじょそこらの店で見繕えるほどの物じゃないんだ」
「私はロジャーさんと会ってきました」
何か重たいものを置く音が聞こえたから、もしかしたらそれは、今後私の体に組み込まれる部品なのかもしれなかった。
「……支払おう」私は渋々言った。頭の中では、今日の報酬から修理費や弾役費などを差し引いた計算を修正していた。
「けっこうです」セナは無弾力に突っぱねた。
体を動かしたところでセナには敵わないだろう。私は端から動く気がなかった。セナは黙々と作業をした。
彼女は意外にも古い機械に精通していた。あるいはロジャーのおせっかいかもしれなかった。私の前では昔のままだったというのに、年月は知らぬ間に人を変える。当たり前だが忘れていた。岩に落ちた一滴のしずくが長い時間をかけて内部に浸透するように、現実は私の心に染みた。
ほとんどの電源を落としてもいいかと思えるほどの静寂が満ちた。私は一握りの理性で、セナの行動に注意を払った。
「腕は……替え終わりました。元の部品は私が引き取ります。ロジャーさんの口ぶりでは使い道があるようでしたので」
「おおかたジャンク品が見つからなければ自分で打ち直すつもりなんだろう。彼の指はここ二年で三本潰れた」
「いい加減にしろと呆れていながら、しかし彼はどこか嬉しそうにしていましたよ」
「今度行くときは酒を持っていこう」
「まずはツケをなんとかしたほうがいいのではありませんか?」
「水を差すんじゃない」
「アルコールの話をしていたと思いますが」
私は嘆息した。セナは右足の膝関節に手を当てた。
腕を替えて、胴体を替えて、足を替えて。
そうして替わっていって全部新しくなった私は私だろうか。心とはどこを指す言葉なのだろうか。私の思考すら上書きされてしまったら、自分が変質したことすら自分で判断できなくなってしまう。
私は昔から幻に恐怖を抱いていた。
「ロジャーはあんたにどれだけのお節介をした?」
「本人曰く、自分はもう長くないからと」
「残すものを残したからと去るつもりなのか、あいつは」
「知っている人が多ければ多いほどいいとも言っていましたよ」
「あんたはだいぶ好かれているね。あいつの店に三○分以上いられるやつを、私はほとんど見たことがない」
「最初は追い返されました」
「ここは別嬪さんが来るところじゃない。自分を弁えな、とでも言われたか」
「長い付き合いだったのですね」
かちゃ、かちゃ、と冷たい音が、淀んだ空気に優しく添えられる。
セナは工具類もどうにか工面したらしい。看護師ではなく救急医学部なあたり、もしかしたら人体以外にも多少の心得があるのかもしれない。彼女の口ぶりから考察するに実践は初めてなようだが。
セナは手術をするときのように神経を張り詰めさせていた。彼女の表情はきっと真剣そのものなのだろう。
ぷつりと途切れた言葉の隙間を縫って、セナは口を開いた。
「あなたがあなたであることを私が判断することは」
「君にはできんよ。接点がほとんどないんだから」
私の言葉はセナの神経を昂らせたようだった。このときばかりは、震えた工具が私の太腿を打って耳障りな音を立てた。
「ロジャーはそこまで話したのか?」
「ご想像におまかせします」
セナの声が一段と低くなる。傷つけるような物言いをしたのだから当然だ。狙い通りに事が運んだことを喜ぼうとした私は、かえって一抹の痛みを胸に覚えた。
「接点などこれから作ればいいのではありませんか?」
振り絞るような声だった。
なおも食い下がる徒手空拳のセナに対して、私は振り上げたレンチを振り下ろすことを止めなかった。私はアスファルトが血の色で変色したかどうか見分ける能力を持たなかった。
「あんたにこの戸惑いは分かるまい。私のどこに心があるのかなんて誰にも分からない事柄だ。設計者さえ分からんだろう。だからあんたにも分からない」
戸惑い。
恐怖と口にすることのできなかった私は、そんなことを口走った。そうして口にするか散々迷った挙げ句、私はついに「分かる日が来ないことを祈っている」とこぼした。
セナは私の言葉に一瞬だけ動きを止めた。それから何かを言いたげな雰囲気をまとって、結局、私の心ではなく体と向き合った。
どうとでも取ればよかった。言葉なんてそんなものだからだ。祈りや満足は、そして願いは、所詮は当事者の自己満足でしかない。私だってその結論から逃れることはできない。
一人で感傷にふける私の邪魔をしないようにか、それとも気力を削られたのか、セナは治療が終わった旨を静かに告げ、予後について説明を加えた。
「以上です。私はこれから向かう場所があるので、これで」
体の各部を点検する私にそれだけ伝え、セナは腰を上げる。「それと」と言ってから、言うべきかどうかを逡巡するような間があった。
「ツケの一部は私が返済しておきました」
唐突に殴りつけられた私をよそに、セナは身を翻す。遠ざかる靴音にぶつけるべき言葉は見つからない。
ただ、これからも会うことだけが決まっているような気がした。
彼女は落ち込んでいた。ブーツの音は虚しい空洞にこだまして、しばらくやまなかった。