突然降り出した雨から逃れるためには、家まで案内するほかなかった。私はかなり渋ったが、最終的にセナの申し出を了承した。
私たちが再び顔を突き合わせたのは実に一ヶ月ぶりだった。
「気づけば赤くなった葉が落ちていました」とセナは言った。手のひらに落ちたひとひらをじっと見つめているかのような口調だった。
私は「年をとると季節の感覚がなくなっていけない」と返した。
家までの道中で、セナは「この雨で完全に落ちてしまうかもしれません」と口を開いたきり黙りこんだ。
うらぶれたヴィクトリアンコートを掴む手にほんの少しだけ力がこもる。
もう片方の彼女の手は、大きめのこうもり傘を握っている。傘すら持たなかった私は、セナといくらかの押し問答を繰り広げたのち、ようやく中に入った。身長の都合で私が傘を持ったほうがよかったのだが、彼女は頑として「自分が持つ」と言い張った。
私と同じくらいの木造アパートに通されたセナは、玄関から動かなかった。「絶句です」と言う始末である。
「……まず、これはなんですか」
「何かの容器を持っているということくらいしか私には分からないな」
「私には、これがペットボトルに入っている泥水であることしか分かりませんが」
私は少しばかりの間を置いて「飲料水だ」と答えた。感覚部品が教えてくれなくともセナが頭を抱えたのが分かった。
「予定のない日は、公園のゴミ箱と水たまりを探して歩くのが日課になっていてね」
セナは本当に言葉を失ってしまったらしく、玄関先で突っ立ったまま固まった。
「いやなに、すべて弾薬費や体や銃器の修繕費、維持費に工具にと回されるものだからね。余らないんだ」
「一度口を閉じてくれませんか?」
「む……すまない」
「墓穴よりもひどい穴を見た気がしました」
「私の家にはそんなに不満があるだろうか」
「家ではなく生活習慣に対してですが」
「私たちは君とは違う」
「あなたが免罪符を掲げても無宗教ですから、神は救ってくれないでしょう」
セナはため息をこぼして編み上げブーツの紐を解いた。そして靴下を脱いだあと「水は出ますか。出るのでしたらのちほどシャワーを貸してください」と言った。
私の答えを聞いたセナは、がら、と脱衣所の扉を開けて、それから深刻そうに「本当に問題なく使えるんですか」と尋ねた。
私は「普段は洗濯機を回すために脱衣所までしか使っていないから、浴室がどうなっているかは見当がつかない」と答えた。
歩を進めたセナの次の声は、普段落ち着き払っている彼女から発されたとは思えないものだった。
雨が上がるまでの短時間という約束だったが、気がつけば日付けを跨いでいた。
こんこんと説教を続けたセナもさすがに疲れたのか「続きはまた今度にします」と言って帰り支度を始める。
浄化装置を酷使させずにまともな飲料を口にしろと叱られた私は、手近な場所にあった酒瓶を傾けながらぼーっとしていた。ソファと体が一体化していた。
「おいしいですか」
「味なんて分からないさ」
「健康に悪い、と咎めるべきなのでしょうが」
「私と健康とは無関係だからね」
「そうへらへらと済ませてほしくはありません」
私は自分の体にどれだけ改造を施しても、アルコールの分解は遅い設定にとどめていた。酒は弔いだった。そして搭載されたコンピュータによる明晰な思考を鈍らせてくれる唯一の手段だった。
私が酒瓶を持った瞬間に血相を変えたセナは、説明を聞いて、何も言わずに作業に戻った。
ゴミ袋のがさがさ音や、弁当のプラスチックの蓋が歪む音、ブラスチックの容器がひしゃげる音。その音が自分以外から発されている空間はひどく懐かしい。悼む気持ちが寄せては返した。
片付けが終わったあと、シャワーとはこんな音がするのだな、などと思っているうちに脱衣所の扉が開いた。
「ありがとうございました」
「いや。礼を言うのは私のほうだろう。ありがとう」
「私の独断ですから」
荷物をまとめて玄関に向かった彼女を送るため、私は酒瓶に蓋をして床に転がした。ごろごろと長い距離を転がった。新居の床かと勘違いしたほどで、壁にぶつかった音で我に返る。
セナから咎められ、リビングに戻ってきた彼女と一緒にローテーブルに瓶を置いた。
「最後に一点だけ。一度捨てられた弁当の容器を、二度目に捨てる私の気持ちを想像してくれませんか」
「触りたくない、などだろうか」
「私は外科を専門としています。先ほどのようなものを見てもおぞましい気持ちになることはありませんし、拒絶反応を示すこともありません」
「では分からないな」
「次回会うときまでに考えていてください」
私は今日一日を通して、セナの様々な声を聞いた気がした。そして先ほどの言葉は、その中で最も切実な響きで私の耳を打った。
途中までセナを送ったが、特別な会話はしなかった。鈴虫の鳴き声が寂しさのシンボルのように響き続けていた。
セナと別れた道で夜空を見上げると、まっくらな中に孤独に浮かぶ月を見つけた気がした。実際のところは分からない。
一週間後、彼女は私のもとに押しかけてきた。彼女の左右からは衣擦れの音が聞こえていた。上がり框で鈍い音がしたので、その正体は大きく膨らんだエコバッグが何かだということが判明した。
「飲料水とは普通、このようなものを指します」
セナはプラスチックの新しいコップの一つに水を入れ、私がそれを傾けたのを確認してから、口を開いた。いやにまじめくさった感じで私の挙動を観察しているふうだった。
何かを求められているのかもしれない、と思った。
「おいしい……かな。あぁ、そうだろう?」
実のところ、泥水もこの水も私としては同じである。こんなの設定でどうとでもいじれる。甘味については、昔口にしたきり設定を放置していただけだった。
セナは私の返答に満足したらしかった。
「食事はおいしいほうがいいと思いませんか?」
ローテーブルを前に、私たちはとなり合って座っていた。セナは少しも動いていないのに、なぜか私は一歩分追い詰められたような気がした。平坦な声には、間違えようもない圧がこもっている。
「私たちはおいしさというものを度外視しているのでね」
「しかし、おいしい食事とまずい食事のどちらかを選べという話であれば、前者を選ぶのではありませんか?」
「私たちは荒野を生きていたこともある。傭兵とは食事を選り好みしないんだ」
「私はロジャーから、おいしいほうがいいに決まっていると教えていただきました」
「あいつ……」
「それと、ザクロの好むアルコールは高価な品である場合が多い、とも聞きました」
「彼は私の情報をどうしたいのかな」
セナは受け合わなかった。
気持ちばかりの反論さえ封じられ、私はつかの間の沈黙を味わう。ヘビとカエルが相対したときの沈黙は、あるいはこんななのかもしれない。
場を濁すため、透明らしい飲料水を口にした私は結局何も言えずに、静かにコップを置く。
武器をことごとく取り上げられたのだから、両手を上げて降参するほかない。
過去に白旗を振ったときはとても屈辱的な思いをしたが、セナの威圧の前にその過去は踏み潰された。小さな獣が肉食獣に頭を垂れるのと同じ理屈で私は負けを示していた。屈辱や心地よさはない。これは敗北しておかなければ何をされるか分かったものじゃないという予感から取り出された行動であった。
「また公園を物色しましたね?」
「生きるすべなのだ。そういった生き方をしてきたのだ」
「その言い分であれば、別の道を示せば別の道を進んでくれるという解釈ができますね」
私の胸は嫌な予感でいっぱいになった。朝起きたときに快晴だったはずの空が、もう一度見たときには黒く閉ざされているような。過去に何度か経験したことのある事態は、すべて命の危険と結びついていた。
セナはおにぎりを取り出して「一緒に食べる」と言った。何事もなく食べ終わることができたので、私の予感が外れたかと首をひねっていたところに、雷が落ちた。
セナはいきなり冷蔵庫を置くと言い始めた。いわく、あったほうが何かと都合がいいから、と。
「電気代が払えなくなる」
「私の手当てがあります」
「置く場所はどうするんだ」
「定期的に掃除をしに来ます」
「買いに行くとしても連絡手段がないだろう」
「傭兵が連絡手段を持ち歩いていないとは思えません。契約者とはいつでも連絡がつくようにしているはずです」
一問一答のような明快さで弁解は潰されていった。
セナは最後に、「スマホに変わる部品か、スマホ本体をもっているはずです」と締めくくった。
私は迷った挙げ句、任務に持っていく一式が入った引き出しからスマホを取り出した。歩を進めるたび物悲しい金属音が一室に響いた。
「日程は私が調整します。非番が重なった日にしましょう。目が不自由でもスマホは見えるのですよね?」
「一日に一回は繋いで確認している」
「これで言質は取れましたね」
「……あんたは女傑だ。私が生きていた時代であれば、生き血をすすったなどと謳われることだろう」
セナは「私は」と尻切れトンボの言葉を放っただけだった。そのときの彼女がどのような表情をしていたのかは、私には知る由もない。オンボロの体が少しだけ恨めしかった。
だが、その気持ちはすぐに消えてなくなった。
セナは静かな声で「ザクロは今も生きています」と言った。
水の中に投げ込まれた石が大きな水しぶきを上げても、いずれ泉には静寂が満ちる。
ただ石が水底に溜まっていくだけである。私は腹部を撫でさすった。かたい感触の奥に、食べ終えたおにぎりの気配があった。
私は自分の部屋がどうなっているのかをなんとなくでしか認識できていないが、それでも寂しくないほうがいいなどと思った。
セナは冬が近いからなんとかなるだろうという理屈で数日分の食事を常温放置して、私の部屋が多少汚くなっているのを掃除して、かんたんな挨拶をしてアパートをあとにした。
私は嵐に巻き込まれたことを理解した。そして今は目の中でじっとしていられるが、その嵐は私の意思ではどうすることもできず、私の周囲を取り巻き、ときたま飲み込むつもりなのだということを悟った。
彼女からの連絡を受信した夜、私は不意に宿題のことを思い出した。セナは宿題を気にする素振りを一切見せなかったので失念していた。
私は結論を出せていなかった。自分とスマホとを繋ぐケーブルを外すと、視界には一瞬にして夜が満ちる。
私は手の中に収まった同族を静かに見つめる。スマホが何かを教えてくれることはない。震えることもなかったのが、なんだか妙に心をざわつかせた。
冷蔵庫を買ってからというもの、セナは私の家を半分ほど自分の領域だと考え始めたに違いない。彼女の世話は触診のように甲斐甲斐しかった。