「人生、上向きのときは特に注意しなくちゃいけないぜ」
任務地が近くだったためマッコイの店を訪ねると、彼は私にいきなり言い放った。
ブラックマーケットの淀んだ空気よりもさらに閉じこもった空気が、かたく冷たい頬を後頭部へ流れていく。ヴィクトリアンコートの裾のほつれがひらひら靡いた。
店内の壁には銃器がかけられており、机の上には大型のスナイパーライフルやらマシンガンのバッテリーやらが置かれているだろうか。以前と配置が変わっていると、雑な探知では分からないものだ。
おそらく薄暗い店内だ。この店は私たちの住む世界を端的に表している。
「いきなり手厳しい言葉とは」私は通路を抜け、カウンターに酒瓶をどんと置く。
「土産を持ってきたのが裏目に出たかな」
「そんなわけあるか。それはそれだ」
マッコイは低く唸って、酒瓶を自分の座る畳の上に寄せる。
彼は昔から独特の強面さがあった。若いころより渋くなったであろう猫面は、きっと恐ろしい色味を強めていることだろう。
マッコイはスコープやらグリップの替えやらが並べられたガラスケースに肘をついて、退屈そうに店番をしていた。面白いことなどあってはいけない。傭兵にとっての面白さなんてものは、足を洗えば必要なくなる。
店内を見回した私は一点で目を留め、「そこか」と彼のスナイパーライフルの位置を特定した。こういうのは付き合いで分かるものだ。周囲の地形や人の出入りする場所との位置関係、逃げ道などを考えて、多少の性格を考慮すればいい。
「まったく、変わらないものだ」
「かもな」と彼は唸るように腹の底で笑った。声は正面からでなく、横向きに発せられているような感じを受けた。横を向いているのだろう。肘をついて横を見て座る癖が彼にはあった。
「話し方も変わっていない」
「なんでそんな変わった変わってないを話頭にあげる? お前の基準で言えば、お前は変わったらしいな」
「かもな」と私はマッコイの調子をまねて言った。
彼は低く唸るように話す。声には隙を見せたらすぐにでも噛み付いてきそうな鋭さがある。こいつは昔からそういう戦い方を好んだ。
「ずいぶんと久しぶりじゃねえか。俺はお前の話を各所から聞かされてるってのによぉ」
「私は有名になった覚えはないがね」
「は。よく言うぜ。話の種にも飯の種にも困らなくなったってのに」
まったく耳聡いことだ。
「あんたはまだ傭兵気分が抜けていないらしいな」
「商売だって情報が命さ。傭兵となんら変わりない」
「物理的に命をかける刺激はないだろう」
「本気で言ってるのか? 商人には常に、転べば命を失うよりもよっぽど暗い道が開かれている。スリリングだぜ。いつでもまっ暗闇が大口を開けているってのはよ」
「付き合え」とぶっきらぼうに言ったマッコイはカウンターの奥に消えた。昔よりも、いくらか身長が低くなったろうか。記憶と探知にはいくらかのズレがあった。
胸にはロジャーが情報をセナに託したときに感じた、虚しさとでも言うべき空洞が生まれた気がした。
水音が聞こえて、マッコイが差し出したロックグラスが濡れていて。私は絶句した。洗わなければならないほど、だったのか。
「湿気た面してんじゃねぇよ。嫁さんが見たら泣くぜ? あぁ、私の夫はこれから負け戦に行くんだなってな」
「むしろ一緒に戦に臨んでくれるだろう」
がはは、とマッコイは豪快に笑った。そして酒を乱暴に注いだ。「そりゃ愉快だ。ずいぶん強かな嫁さんだことよ」それから彼は、きまり悪そうにつけ足した。
「悪いな。氷を
「いいや。
「……亡き友人に」
「今の友に」
からん、と。グラスの中で琥珀が踊った。久しぶりのウイスキーは溜めこんできた涙のように塩辛い。
飲みは昔よりも静かだった。人数が少ないのもあったし、飲み方を弁えているのもあった。
どんなに発砲音がやかましくても、今だけは静けさを壊さなかった。
トリガーを引いたら銃口が火を吹くとしても、今だけは冷たかった。
私たちの長年の相棒さえしっとりした雰囲気を壊さずにいてくれた。
「昔は飲むことが正義のように思っていた」と私は言った。
「あのときはもったいない飲み方ばっかしてたよな」と返ってきた。
私たちの間には、学問のために郷里を離れた友二人が故郷を偲ぶような、しんみりとした感じが漂った。ちょうどこれくらいの白の季節は人恋しさが募る。雪を言い訳にしたって天罰はくだらない。
それからぽつぽつと、枯れ木の枝の間を風が吹くような頻度と強度でやり取りが続いた。
子どもたちが雪玉を転がすみたいな感じではなかった。どれだけ転がしても雪玉は大きくなることなく、雪のそれぞれが独立した寂しさを持って大地に積もる。私たちの会話は、足跡は、私たちの人生のように歪だった。
雪を踏み固める足音は、二人で話しているのに一人分ずつみたいにそれぞれ虚しく胸にこだまして。大勢の足音と足跡があったのに、今は道を違えて孤立してしまっている。
それが生きることなのだろう。たまたま進路が重なったときにだけ人は集まるのだ。いま自分が所属し、今後もずっとその輪の中で過ごすだろうと夢に描いても、それが現実に起こることは稀だ。たいていは若さが原因の妄想に終わる。
「北極星を見つけたんだろ」とマッコイは言った。彼は空のグラスを掲げた。亡き友に向けて掲げ、ウイスキーを注ぎ直して再び掲げた。そして一口だけ飲んだ。
「だがな、ずっと上を向いて歩いてちゃいけねぇんだ。足もとがお留守になるからよ。そのうち潰されて再利用されるぜ」
口火を切ったマッコイは止まらなかった。
「お前だけがどこかをふらふらと歩いているようにしか感じられない。何を求めているんだ。死に場所を求めているのか、腰を落ち着ける場所を求めているのか。さっぱりだ」
いささか乱暴にグラスが置かれたせいでカウンターに琥珀が散る。マッコイは布巾を探そうともしない。
「俺たちが一緒に追いかけ続けた星は、多くが燃え尽きてしまったんだ。いい加減に諦めたらどうなんだ。お前たちは『いつまでも現役でいられる』と豪語していたが、そんなことを言っていたやつはみんな……お前きりになっちまった。潮流には逆らえなくなっている。俺と会うたびにロジャーか嘆くんだよ」
声のするほうを見るために、私は少しばかり俯く必要があった。それが残念で仕方なかった。
「責任が一人なうちはいいがな、入ってくる情報はそうじゃないだろ? 俺たちは一蓮托生だった。だが二人きりじゃ傭兵団とは呼べないんだ。であれば突き放すのが筋ってもんだ」
いつまで幻想を抱いているのか。目が悪くなったせいで現実と妄想の見分けすらもつかなくなったのか。
夢は成仏できない亡霊となったのだ。亡霊に引きずられて地獄に行きたいと考えているのなら好きにすればいいが、見ず知らずの他人を巻きこむのはいただけない。
このスナイパーライフルはずいぶんとおしゃべりになったものだ。彼の武器もまた、戦場では間断なく精密射撃を続けた。ちらと横に目をやると、黙して語らない冷たい塊の気配がする。
「……あんたはいつの間にか、至極まっとうなことを言うようになった」
「年月は俺たちを変えるさ。機械部品にだって関係なく年月は襲いかかる。太陽の光が俺たちに平等に降り注ぐようにな」
酒に弱くなったくせに、老いさらばえた肝臓が悲鳴を上げているくせに、酩酊によって思考が乱れているくせに。聞いているこっちが嫌になるほどまともだ。
彼は冬の空気に溶かすように呟いた。
「お前の幻は……もう一生起こらん」
彼の口調は、耐えがたい感情に襲われるような震えを伴っていた。低い天井を見上げているが、心には銀河を思い浮かべているのだろう。
「私たちはぶつかってばかりだったな。昔は私のほうがまともだった」
「いつもゼレンが仲裁していたっけな。だから心労で老いさらばえて一番に
「装備やパーツはどんどん若返っていったと言うのにな。老人のほうが健康の維持に金がいるみたいに、彼も修理費やメンテナンス費に大金を注ぎ込んでいた」
私は不意に「あんたはどう思う」と口にして
「ときどき考えることがあるんだ。苦しみを抱えて何十年も生き続けるのと、命を絶えさせる一瞬とではどっちが苦しんだろう、と」
「さぁ。口にしたからには答えがあるんだろうな?」
「私は……最新のと古いのがまざりあって自我がいつかぐちゃぐちゃになるんじゃないかと怯え続ける日々のほうが苦しいと思うがね」
「は。どっちも違うのかよ。だからいつまでたってもそんなジャンク品なんだよ」
大型の肉食獣が喧嘩をするみたいに、いがみ合って、じゃれ合って。私たちは昔にかえった。どこからか話はもつれ込んで止まらなくなった。
雑談みたいになった最後はこんな話をした。
「私たち傭兵は信頼が命の職業だからね。任務の失敗や契約の不履行はいけない。報酬の提示具合いにも信用が関わってくる」
「そのくせ、傭兵は傭兵のことを一切信用していないのだから皮肉なものだな。俺たちは信頼される職業ではないし、信頼されるような人格でもない」
「そのとおりだ」
私の言葉が終わるか終わらないかのタイミングで背後のドアが開いた。往来から店内へと流れ込んだ風は甘い香りを乗せている。
不安げに鳴らされた小さな靴音は、紛れもなく彼女のブーツの音だった。
「申しわけありません……ザクロがこの店に入っていくのを見たと教えてくれた方がいて」
マッコイは手を振った。
「もううちには来るな。ケツを拭かせる相手を見誤るようなやつとは関わりたくねぇ」
私は探知を拒んだが、好意的な手の振り方ではなかったのだろう。
セナは小さく息を呑んだ。私は踵を返した。となりを歩きたがる彼女は、しばらくのあいだ一歩後ろを静かに歩いた。
凍てついた風に呼応して、金属の体は体温を失った。冷たいというのは感じるが、寒いという感覚はなかった。これはパーツが古いゆえの機能の少なさが原因だろう。
私たちはあてどなく歩いた。私は風に吹かれるまま足を進めていただけだが、年ごろのセナは孤独と思考の絶叫に揉まれていたに違いない。
だが私は何もしなかった。どんな慰め方をしても、今の彼女にとっては、彼女を斬りつける刃となるような気がした。
「その」セナは立ち止まっていきなり声を出した。「私はザクロとご友人の縁を切ってしまいましたか?」
勢いを乗せなければ言えないのだと彼女の口調は訴えていた。
「そんな泣きそうな声で言うんじゃない」
振り返ると、自分のブーツの先を見ているであろうセナの反応を正面に捉える。てきぱきとした言動の多い彼女がだらんと両腕を垂らしているのが不憫だった。丸まった肩は、きっと寒さのせいではない。
「彼にはちょっと乱暴なところがあるだけだ。気が向けば私は会いに行くし、彼もまた悪態をついて出迎えてくれるに違いない」
そうしてまたしばらく風の向くままに歩いた。
歩くうちいくらか調子を取り戻したらしいセナは、私のとなりを歩きだし、どこかで昼食をとる提案をした。
世界を押し潰す勢いの重たい雲に溶けかかるような儚さが、この日の彼女にはあった。純白な彼女の人生を穢す黒い一点とならなかったのなら、幸いだ。