「差し入れはウイスキーでよかったかな?」
傷ひとつないリノリウムの廊下を抜けて、先生のいる執務室に入る。シャーレビルの内装は、しばらく使われていなかったことが嘘のように小綺麗だった。
「新鮮でいいね」
奥の椅子から立ち上がった先生は私にほほえみかけた。そして机仕事から早く開放されたいと伝えるように「どうぞ」とソファを示す。自身も歩いてきた。
私はガラステーブルにウイスキーを置いた。
先生は対面に腰を下ろした。
「ここのところ事務処理に追われていてね……」
眉間を揉んだ若き先生は人好きのする笑みを崩さない。
ノックの反応から穏やかそうな人物と当たりをつけていたが、実物は想像よりもはるかに柔和だ。
ここでやっと、私は探知の精度を落とした。鮮明だった世界は色を失った。
セナから食事を提供されるようになって以来、自分の身を案ずるときは精度上昇ができるようになった。セナといるときは常に落としているのだが、色を失った世界で彼女と過ごしていることを不意にもったいなく思った。
「私は失礼なことをしたのかもしれない。生徒の見本となるべき人物となると、やはり昼から吹っかける趣味はなかったかな」
「……すまない、グラスを忘れていたね」
先生の遠ざかる足音をセナに重ねる。何度も似たような音を聞いてきた。今度は彼女の佇まいを感じてもいいのかもしれないと思った。
奥へと消えた先生はしばらく戻ってこなかった。やっと戻ってきたと思ったら「ロックグラスがなくて……氷も普通のしかなかったんだ」と言う始末だった。
私は音のしたほうに手を伸ばす。コップに水滴はついていなかった。普通は、普通はそうなのだろう。
「六オンスと見たが」
「どうだろう……普段みんながジュースを飲んでるコップだよ」
「そうか」
私たちは出会いに乾杯をした。コップの中身を一気に飲み干してから、私は「ロックを嗜むなんて言った覚えはないんだがね」と言った。
先生は朗らかに笑って「なんとなくそんな気がしたんだよ」と返した。
空のグラスを回すと氷の踊る音がする。執務室に冷たく響いた音は思い出を熱く焼き焦がした。コップを顔に近づけるとウイスキーの濃い残り香がある。
先生がどれほど飲んだのかは興味がなかった。
追加で私がもう一杯注ぐまで、先生と私は静かな時を過ごした。言葉の隙間を埋める沈黙は重くも軽くもない、名称のつけられない独立した衝撃だった。限界まで圧縮された空気が衝撃となるのを今かいまかと待っているような、破裂寸前の風船の中に私たちはいた。
「連絡をくれた人物は……あなたで合っているのかな?」
「いかにも。なに、ちょっとした雑談さ」
「老人の雑談につき合ってほしいという内容もあながち間違いではなかったんだね……」
先生は呆れたように言った。それから声音を一変させて「何事かと思ってすぐに返信したんだ」と笑った。
「つかぬことを聞くが、この場所で
先生はしばらく考えてから「宴会なら、大歓迎だよ」と答えた。続けて「私も誰かを呼んでいいかい?」と言った。
「よくないな。子どもの前で酒を飲んでの乱痴気騒ぎだ。それを扇動したのが先生であるあんたともなれば……問題だろう? それに私の知り合いはむさ苦しいやつばかりでね、華の女子高生がかわいそうだ」
これは明確な脅しだった。私は二杯目を空にして氷を遊ばせた。家庭用の冷蔵庫で作ったらしい氷はすでに小さくなっており、しゃりしゃりした音を立てた。
コートの懐からタバコを取り出した私に、先生は「灰皿は置いてないんだ」と事もなげに言った。まるで先ほどの話など聞いていないような口ぶりだった。
「心配ない。携帯の灰皿は持ち歩いているのでね」
「はぁ……一本にしてね。においがついたらなんて言われるか分からないから。いや、消臭剤とかでもいいか……」
「受動喫煙の被害にも気をつけたほうがいい」
「なんで吸ってる本人がそんなことを言うのかな……?」
ほうと煙を吐き出して、何度も繰り返した所作で灰を落とす。
煙はどこにいっただろう。オフィスの上のほうで停滞し、この部屋を茶色く汚しているのだろうか。
私たちが黙ると執務室は一気に静まり返る。おおかた換気扇も回っていないのだろう。エアコンだって春には稼働させない。
「あいにくタバコの煙を吸いこんで分解する部品を組み込んでいないんだ。だからいつも私と一緒にいてくれる女子に悪いことをしている。そう思いながら吸っている」
「雑談の種にしては……ずいぶんと暗い色の花が咲きそうだね」
これまでと違う、抜き身の刀を彷彿とさせる声だった。きらきらと輝く銀色の刃に映る私は、きっと獰猛な笑みをのぞかせている。私の刀にもまた先生が映っていることだろう。
「その女子はさんざん文献を漁ったらしくな、部品に悪いところがあるとすればせいぜい煤くらいだ、と肩を落として私に言ったよ。どこか不服そうでもあったな。まったく物好きなものだ。私にタバコをやめさせたがったり……受動喫煙が嫌だというのなら、私から離れればいいものを」
私の表情が動くなら、私は笑みを歪ませて嘲るように笑うだろう。
「誰だと思う、先生」静かな問いには沈黙が返ってきた。「私が今日ここに雑談をしに来たのは、その人物について、いい大人であれば確実に行動を起こしてもらわねばならぬ事案があるからなのだ。私と関わることを止めてほしいのだ」
いまだ大きなタバコをもみ消し、乱暴に三杯目の琥珀を注いだ。そして懐から取り出した二本目に火をつけた。
口に含んだ酒は、春のうららかさにやられたせいか、中途半端に腐ったような生ぬるさがあった。
「長話は好きではないものでね、一杯のどちらかが空になるころには退散するさ。これはそういう話だよ」
私が吐き出した灰色の煙は上空に停滞し続ける。どちらかの命を刈り取る毒の霧のようだった。
先生が吐き出した息は、タバコを吸っている私のと比べて非常に重く、そして長いものだった。
先生はしばらく黙っていた。
私もまた口を開かなかった。
風船が割れたはずの室内は、また別種の沈黙に満たされていた。
穏やかな雰囲気に学者のような渋さと苦味を滲ませて、先生はやっと口を開く。きっと眉間には大きな縦じわが刻まれているだろう。
「あなたでは止められないと分かっているのかい? その生徒からすれば、見ず知らずの私が出しゃばるのは本意じゃないだろう」
「であれば見殺しにすればいい。いや、最悪の事態でもそこまでにはならないのかもしれないが。少なくとも五体満足とはいかないだろう」
先生が何かを言う前に私は続けた。
「いい大人が聞いて呆れるな」吐き捨てるように言い、声音を変えて今度は優しく。「悪い大人に誑かされている人間を救い出すことの、何をそんなに渋っている?」
首を傾げた拍子に金属が音を立てた。甲高い音は、まっくらな世界できぃと小さく鳴る扉のような物々しさがあった。いたぶることを楽しむ拷問官のように、私は自身の悪辣さを惜しげもなく見せた。
食虫植物が甘い蜜を出して獲物を待つような陰湿な呼吸が続く。私は先生が飛びこんでくるのを待ち望んでいた。
ここで説得しなければ、取り返しのつかない結末が待っているかもしれない。私は焦っていたが、その焦りを出さないように細心の注意を払った。脅して言うことをきかせることが、肝心だ。要を強固にするために私は畳み掛けた。
「あんたは俺たちを裁く権利なんてもってやいないんだから、こちら側に足を踏み入れようとする人物を少しでも減らしておくべきだろう? それがいい大人の役目というものさ。縁石を歩いている子どもが車道に出ないように手を引いてあげる。それだけのことだ」
先生はそこでようやく口を開いた。
「私は信じているんだ」
「生徒をか?」
「誰だと思う?」
先生の声は不敵に笑っていた。こと、と酒を飲んでいるとは思えない丁寧さでコップが置かれる。先生はすかさず自分のに二杯目を注いだ。
彼の口の隙間から牙が覗いているのを、私は見逃さなかった。
「信じたいと願っているものを信じるのは、信じているとは言わない。そしてその願望はたいてい叶わない。私たちはその反転に裏切りという名前をつけて輝かせている。絶対に見失わない目印のように、その星は過去に輝き続ける」
「生徒のためにここまでする人物が悪い大人とは思えないだけだよ」
「動き出した歯車を止めることはできないから頼んでいるんだ」
先生は返答をよこさない。私はコップを叩きつけたい衝動に駆られた。嫌に丁寧に置くと、腕が鈍く鳴いた。エラーを吐くぎりぎりまでタバコを吸って煙を吐き出した。
冷たい言葉には熱い血が通っているはずだった。私は自分に血が通っていないことを思い知らされた。ひどくみじめな感触だった。
頂点まで達した怒りは、年月によって踏み潰された。私はもう、若くない。
何かを成し遂げられる雄々しさなど持ち合わせていないのだ。
私はそこで三人目の靴音を捉えた。先生が護衛を呼んだのかと警戒してしまい、なかば反射的に世界の彩度を上げる。
その人物は先生と気安い仲にあるのか、ノックなく侵入した。
私は話頭を転じて話を切り上げにかかる。
「近々大きな抗争があるだろう。カードはすべて揃っている。そこから少し……トランプからウノのカードを抜くように、一枚だけ除いてほしいという話だ。イカサマではないのだから誰からも咎められないだろう」
捲し立てたなり私は立ち上がって、「なかなか気難しい花ですまないね」と体を反転させた。
入ってきた少女は私と先生とを見比べて「邪魔、かしら……?」と呟いた。
「えっと、聞かれたくない話をしていたのなら出ていくわよ? あなた、いま急に話を終わらせたわよね?」
少女は私を見上げて言った。淡々としている抑揚に気遣いが感じられるところが、セナとそっくりだった。こんなところにも幻を見る自分に腹が立つ。
私はそれには答えず、努めて冷静に「あんたはゲヘナのところのか」と尋ねた。角があるんじゃないかと思ったからだった。
瞬間、空気が変わった。私と先生が二人で空気を作り上げる人物だとすれば、目の前の小柄な女子は、一人で場を掌握できるほどの力を漂わせている。
思わずホルスターからリボルバーを浮かせたが、勝てるはずもないので、そっと手を離した。
「風紀委員会委員長、空崎ヒナよ。ゲヘナに何か用事?」
「……そちらの救急医学部のお嬢さんに話を通してほしいだけさ。それが用事だ」
脳内でけたたましく鳴るアラームが幻聴なのか実際のものなのか、私は判断に困った。「救急医学部……?」と彼女が私の言葉を吟味し始めると、雰囲気もアラームもどこかへと霧散した。やがて彼女は得心がいったように頷いた。
「セナに?」
「あぁ」
「じゃああなたが……」
「何かな?」
「いえ。これは私たちの話よ。ゲヘナ学園の政治に携わってくれるのなら話すけど」
「御免こうむるね」
「でしょ?」
彼女の雰囲気から棘が完全に消えたのを確認し、私は元の世界に戻った。普段の彼女にはあどけなさがあった。
「それで何を言えばいいの?」
「待ってほしい」と先生は私の背中に声をぶつけた。「私が
ヒナは「ちょっと先生」と言ったきり黙ってしまった。どこか恥ずかしそうな声だったのは気のせいではないだろう。
私は
「失敬、不躾なことをした。ヒナはあなたにとってよほど大事と見える」
「ちょっと、あなたもよ……!」
おそらく頬を薄赤くしている乙女は、私たちの睨み合いに気づいていない。ヒナが圧倒的な強者だからこそ、私たちは物理的にでなく心で睨み合うのだ。どれだけ聡明でも前略された睨み合いには気づけまい。彼女は自分が動けば物理問題はほとんど片付くとでも思っているのだろうが、それは傲慢にすぎない。常に狡猾に生き残びた果ての今だ。
「先生。これは一種の忠告、あるいは独り言と捉えてほしいのだが」
「ヒナが聞いてもいい内容なら」
「不良生徒がいつでも不良行為に手を染めるわけではないさ。常に猫に餌をやっているわけでもないがね」
そして私は、寂しい歌を風に乗せた。
「悪い大人はなぜ存在するのだろうね。それは手を差し伸べられなかった
どうにか生き延びるためにはそうならざるを得なかったということを、背後に控える立派な大人は失念しているように思われた。
目に見える全員を助けてほしいなんてことは口が裂けても言わないが、先ほどの言葉を覚えておいて損はない。
「あんたのあり方は美しいようでいて、たくさんの犠牲を見過ごしているのではないだろうか」
それなのに好感触を抱かれている事実が不思議だった。危険とすら感じる。
「ヒーローはそれだけでヒーローなのかもしれないが、決して崇高な存在ではないと私は考える」
「胸にとどめておくよ」
先生はすぐさま返事をした。そして朗らかに笑って「私は先生だけどね」と言った。
私は得体の知れない化け物と遭遇した気分を拭いきれないまま、うららかな春に包まれて、シャーレビルをあとにした。胸にあるもやもやの正体には名前をつけたくなかった。