セナに連れられるまま私は歩いた。途中から救急車両11号の助手席に乗せられた。
赤信号で停まった車両が、景気よくディーゼルエンジンの音を響かせる。小さな体で大きな荷物を背負っていたり、大きな操縦桿を操作していたりすると、感心する。
そういう心の強度みたいなものが備わっていることを羨ましく思う。私にもそれが初期搭載されていれば、生まれつき後ろを振り返るくせがあることも、部品が変われば心が変わるのだろうかなんて思い悩みこともないような気がするから。
「思い悩む夜はあるか?」
「……あります」
私はアームレストに肘をついて、セナとは反対側の窓を見つめていた。走り出した車両は夜を切り裂いて、窓の外を光が流れているだろう。
雨の日に流れていった水滴がいくらかの跡を残すように、光は私の頭の中に跡を残した。
「ザクロは多そうですね」
「次の日が早いなどの理由がない限りは、たいていベランダに出ている。夜風の冷たさは不思議なもので、日によって私より温かかったり冷たかったりするんだ」
「知っていましたか? ザクロは自分よりも冷たい夜風に当たると、煙草の本数が増えて口数が減ります。とても寂しげに佇んでいます。火に当たっていた過去を思い返しているのだと私は考えていました」
「どうだろうな。アルコールでもあたたまらない体を憎んでいるのかもしれない」
間を置いて、セナは話を変えた。変えたと言うのは語弊があるかもしれない。
同じ泉を探しても、同じ宝石を掬うとは限らない。むしろ違う石をきれいだと感じることのほうがほとんどだろう。それと似たような気配がした。
「酒と煙草と私と一緒に、何度も外に出ていました」と静寂を壊さないような声で言った。
「そうだな」と私は同じくらいの声量で返した。
アイドリングストップの機能がない車両は、赤信号のたびに小刻みな揺れを与え続けた。人生のように、ほとんどすべての信号に引っかかっていたように思う。
眠たくなる一定のリズムのような気がしたが、これがアルファ波に近いのかは不明である。セナがいるからかもしれない、ととなりを見て、私はふいと窓に顔を戻した。
私たちを乗せた車は、外からの音の一切を遮断していた。私の杜撰な探知を信用するのであれば、世界には本当に私たちだけだった。だがおそらく違うだろう。
きっと助手席にほど近い歩道では、夢と現実の境が曖昧になった酔っぱらいが歩いている。ロマンスとは別の香りに頬を赤くし、胸を焦がすような熱い一晩を期待しているものもいるだろうか。
救急車両11号よりも小刻みに葉が揺れて、その音はきっと夜風に乗ってさらさらと流れていく。等間隔に並ぶ街灯を抜け、どこかのネオンと喧騒がいずれ繊細な響きを壊す。
煌々としたビル明かりが縦にも横にも広がって、コピペしたような街並みがきらきら閃く。
空にまたたく星だって同じくらい輝いているだろうかと考えて、それはないなと頭を振った。街並みはぎらぎらしていて、夜空は淑やかである。いつの時代もきっと変わらない。
「昔は……考え事に耽っていると、よく邪魔をされたものだ」
セナは私の言葉に返答せず「つきました」とだけ言った。
シフトレバーをパーキングにして、エンジンキーを回して、ブレーキペダルから足をのける。一連の音は滑らかだった。シートベルトを外した私たちはほとんど同時に外に出た。
穏やかな夜が私たちを包んだ。薄いカーテンを一つ隔てたみたいに音が遠く聞こえる。
荷台から工具箱を取って私のすぐそばまで歩いたセナは、「今度は私が邪魔していますね」と手を引いた。
どこに向かっているのかさっぱり分かっていなかった私だが、エレベーターに乗せられた時点でおやと思った。シャーレビルのような高層ビルが脳裏をよぎったのだ。
まさかこんな場所に監禁されるのだろうか。
心のうちは決して口にしない。口にしたら現実になりそうだった。
たとえば社員用の寮で――とも考えたが、それにしたってエレベーターが一○階ほど動くのはおかしいだろう。
エレベーターを出たあとも疑念は膨らみ続け、電子ロックを操作する音が耳で膨らみ、意識に流れ込んだ甘い香りで弾けた。
「ここです」
「――つかぬことを聞くが」
私は被せるように口を開いた。右足はすでに一歩分後退している。
「ここはどこだろうか」
「私の家です。少し前まではゲヘナの寮に住んでいたのですが、この際いっそ、と思いまして」
「何がこの際いっそなのかは分からないが、まずいだろう」
「まずいことをするおつもりですか?」
「それはない」
「む」
私の手首を掴むセナの力が恐ろしく強くなった。これでは逃げ出そうにも逃げ出せない。そもそも逃亡を図ったらどうなるか分かったものではない。
「傭兵団の中に女はいなかった」
「耐性がないのですか? 私たちはほとんど同棲していたと思っていましたが」
「それは君の感覚の話だろう。……長年やってこなかったことなんだ。慣れ親しんた故郷を離れるのは、老人ほど難しいものだろう?」
言い募る私をよそに、セナは工具箱を持った手でぐいぐいと背を押した。無意味な抵抗だとしても私は懸命に体をのけぞらせる。オンボロな胸部に穴が空いてもおかしくない勢いで背中が押された。私は甘い香りのする世界に少しずつ足を踏み入れる。
傍から見ればさぞ滑稽だったに違いない。だが私はいたって真剣だった。
まるで化け物の巣にでも入るみたいだった。あるいは化け物が大口を開けている舌の上を歩くみたいだった。セナの生活の香りは、ねっとりした唾液のように私にまとわりついた。
ばたん、とやがて大口が閉じた。まっくらな視界がさらに黒く塗り潰されたような心地がした。
私の立つタイルは長方形で、いくつも区切られている。格子模様の細い溝の感触まで鮮明だった。
対して、シューズボックスやその上に置かれたセナの私物、玄関を上がった先に広がる彼女の生活を感じさせる一切は、朧気にしか認識できない。
「靴を脱いでください」とセナは私に命じた。
この世界に私の革靴を並べることには抵抗がある。しかしセナから何度か急かされ、しまいには彼女に屈まれたので、私は革靴から足を浮かせた。
セナは私の手をむりむりと引いて、「押して駄目なら引いてみろと習いました」と言った。
一気に脱力したせいで私はセナの胸に飛び込むこととなった。
居候を始めて一週間で仕事をもらった。ゲヘナ学園にて、銃の指導と点検を依頼されたのだ。修理や事務仕事も回された。「あなたは経験が豊富でしょう?」とはヒナの談である。
ときどき面倒事に振り回されるが、仕事はおおむね順調であった。風紀委員と救急医学部が協力体制を敷く橋渡し――連携の仕方や情報の取り扱い方法なんかも提案した――も私の職分らしかった。
ヒナからこそっと聞いた話によると、私が風紀委員の側に立つことをセナが極度に嫌がったらしいのだ。
「先日のことなんだけど。あなたも一緒に頭を悩ませてくれない?」とヒナが私に気安くほほえみかけ、私の晩ご飯が鉄くずとなった日も何度かあった。
私の知る限り、セナの精神はかなり安定している。加えて、負傷者を物に換算しなければ、物を大切に扱う。
そんな彼女の新たな一面を掘り出す生活には恐怖もあったが、楽しさもあった。
彼女の家では、どれだけ世界の解像度を上げても最初のうちは家具にぶつかったものだが、一ヶ月も経つとなくなった。
セナは私に家のあれこれを手ほどきできないことを悔やんだ。「これくらいどうということはない」などと得意な顔をするとベッドを同じにさせられるので、私はいつからか柳に風といった具合いでいなすようになった。
それでもときどき甘い香りに包まれて眠ることを余儀なくされた。
キヴォトスが段階的に熱くなるに連れ、セナの言動もまた熱を帯びた。
「今度の土曜日だが……」
私は放課後に時間を作り、救急医学部の部室へと赴いた。
セナが非番の日は私の業務が終わるまで校舎に残るのが通例となっている。彼女は今日も、一人で薬品の整理をしていた。少しだけ背伸びをしていたが、触れないことにした。
場所の違うガラス瓶をセナの手が届かない棚に戻してやると「ありがとうございます」と取り澄ました声が聞こえる。
何度かあったことだから、お互いにこのあとの展開は予測できていた。それでも口にすることが大事なのだと思う。
気持ちは恥ずかしがらずに伝えたほうがいいということを、私は彼女との日々に教えてもらった。
いま必死になって文章を組み立てています、といういかにもな間を開けて感情を話すセナは素敵だ。
いつからか熾き火となっていた恥ずかしさが燃えることを、このごろの私は学んでいだ。
「それで、だな」
「はい」
聞きたくないと伝えるように、セナは遠くの薬品棚に移る。私はそのあとをちまちまついて歩く。
「なに、マコトが何やら面倒事を起こしたらしく、ヒナから事務処理を頼まれてしまってね……」
「なるほど」
「いや、先に約束をしていたのはセナとなんだが、仕事があって、だね」
「はい」
「夜に少しだけ時間を作ってもらうというのも、変な話だろう?」
「そうですね……もともとは一日でしたので」
「そこで、なんだが。日にちをずらしてもらえると……私はとても助かるのだがね……?」
セナは少し考えて「ふむ」と頷いた。私が彼女の元を訪れてから、おそらく彼女は一度たりとも私の目を見ていない。
「回る場所をもう一箇所増やして、今日の夜にも別の埋め合わせをしてくれるのであれば、考えます」
いい傭兵とは契約を守るのに約束は破るのだな、という内容を口にしないところが彼女の素晴らしいところだと思う。
傭兵の流儀を口にしていいのは私だけだった。彼女は私の聖域を見ているだけで、基本はそこに立ち入らない。禁句を禁句のままにしていてくれるから、互いに配慮して言葉を大きくすることができる。
「加えて、コンビニで甘味を二つご馳走しよう」
「よろしくお願いします。では今日の帰りに」
ここまではいつもの儀式的なやり取りだった。少しの間のあと、彼女はやっと私を向いた気配がした。私を見つめて話すとき、セナは必ず上を向く。だがそれは心が浮ついているわけではない。
「仕方のないことだと分かってはいますが、やはり、悲しい気分になりましたので」
あぁ、これはそういうポーズなのだ。だというのに罪悪感がこみ上げる。
彼女の気分が上下することはひどく稀だが、予定を覆されたことで多少の悲しみを受けたことも事実だった。誇張しているが、まったくの嘘ではないのだ。
私たちはしばしば小さな波を少しだけ大きく表す。相手に受け取ってもらいやすいように大きな形に変換して、認識しやすいように波を大きくしてあげて、相手に伝える。
私が次の句を継げないでいるうちにセナは話を転じた。
「最近になって、あなたはようやくストレートを覚えました。前まではずっと変化球だったんですよ」
そうして私を許した。
一度は延期となってしまった買い物だが、当日は見事に晴れた。起きたときの爽やかな空気と、リビングにいたセナの態度から察することができた。
寝間着のままリビングに向かうとすでにセナは戦闘態勢を整えており、私の「見えない」という言葉を押しのけて「似合っている」と言わせた。
彼女は気合に反して薄いワンピース一枚で仕上げているらしかった。
お金の使い道を説明された際に連れ回されて買った一張羅を羽織り、私たちは午前の早い時間から街へと繰り出す。
事件はショッピングモールで起きた。
「秘策があります」
平坦な声でそう宣言したセナは、スマホで撮った写真を私の端子に繋ぐという荒業をしてのけた。いい発想だと感心したのもつかの間、私は彼女に諸々を灼かれる思いを味わった。
何十年という時間のほとんどを暗闇で過ごした私である。発想力と容姿のダブルパンチを食らわせる前に、セナには一度、私の身を案じてもらいたかった。
今さらこんな歳になって好きだなんだと浮かれることはみっともないと思う。見ていられない、というか。いつまでも色褪せない熱い心も持つ人もいるのかもしれないが、私はそれを素直に表現できるようなまっすぐで素敵な人生を送っていない。
それでもいいような気がした。
知り合いに二人、孫を持つ獣人がいる。孫と過ごすというのはこういうことなのだと嫌でも気付かされた。
不思議と寂しさに襲われる満足感だった。いつか損なわれる――天によって取り上げられる日々だからこそ、充実させたいと願うような。こういう満足は、これ以上の何も必要ないと感じさせてくれる満足は、別れを強く実感させる。
そうこうしているうちに夜になった。私たちの服と弾薬を見繕って、昼食とも夕食ともつかない外食を楽しんだら夜になっていたのだ。
玄関のフローリングに紙袋を置いて早々、セナは動くのを止める。彼女は思い詰めたように言った。
「今日の朝の出来事を思い返せば……ザクロは目が見えないときのほうが多いのですから、私が自宅でどのような格好をしていても問題がないのではありませんか?」
私が必死になって止めたにもかかわらず、彼女の部屋着はベビードールに変更された。この日を境に肉感的な接触が増えたのは、また別の話である。
冷たい秋風が心に侘しく吹きつけるような夜のこと。私たちは特別な会話を交わした。
晩夏の熱さが引き、冬とともに倒れ込むようにやってきた秋は急な冷え込みをみせていた。突然の寒さに研磨された夜空の輝きを、セナは新しく購入したスマホで私に見せてくれた。
「今日も考え事ですか」
熱心に上を向く私に彼女は語りかける。時計は一○分が経過していた。私はそこでやっととなりに一瞥を向けた。
「どうだろう。あまりにも星空がきれいだからかもしれない」
「あなたがじっとしていられない性分であることを私は知っているつもりです」
乾いた笑いでセナの言葉を流す。
セナは私のとなりでベランダの手すりに両肘を乗せていた。そして遠くの夜景を見ていた。
彼女を包むのは薄い布が一枚きり。にもかかわらず彼女は平然としていた。キャミソールのような薄い紐しかないノースリーブも、若さの前ではおしゃれの一部らしい。
「寒くなってきたな、と考えていたんだ」
「ちょうどいいかもしれません。私も寒さを覚えていたところです」
「あんたはまず上着を羽織ったほうがいい」
「一番近い場所にある上着は……」
「まて。そう言いながら肩を掴むんじゃない」
セナはくすくす笑って「私は問題ありません」と言った。
「私は体も心も冷たい」
秋の冷たい空に溶かした言葉をセナは否定しなかった。返答を求めていないと悟って、あえて黙っていてくれたのだろう。彼女が内心でどれだけ叫んでいるかは問題ではなかった。
「死んだやつはこんなふうになるのだと過去を思っていた」それから風が吹くのを待って「嫌だろう?」とセナに問うた。
風は都会のきらめきに紛れたが、すぐとなりまでは届いたようだった。
「あなたの冷たさなら、私は」
「愛している人物のすべてを許容すると思っているうちは、また実際に許容できると思っているうちは、青いんだ」
セナは手すりから離れ、私の肩を掴んでぐっと自分に向き直らせた。そして私の後頭部に手を添え、抱き寄せるように頭を下へ誘導した。
水音はかたく冷たく、きっと鉄の味がしただろうに。血よりも冷たい鉄の味にセナは満足したように吐息した。
彼女の思い切った行動に私は忌避感を覚えた。私たちと同年代の連中は、すでに寿命でくたばっているか孫がいるかだからだ。そういう対象にはならないのだ。
「これが私の表現です。ザクロがなんと言おうとも。青く見えようと赤く熟れています。あなたの名前よりも赤く、甘く、熱く熟していますよ」
私は無言のまま首を左右に振った。
「伝わるまで続けます」
「そんな激突するような行動をしてこなくても伝わっている」
「振り向いてもらえないのなら倍の勢いで猛進するのみです」
「伝わったところで破壊する勢いではいけない。私は止まってくれと言っているんだ」
「止まればあなたは離れていきます。追いすがることを悪いこととは私は思いません」
星の輝く冷たい空に向かって、セナは切実にそう言った。