ヴァージニアとデルトラクエスト   作:アヤ・ノア

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第1部のストックは全て終わりました。
商人というのはこういう考えだって事が、分かりました。


第20話 はばひろ川を渡るため

 御者達が席から立ち上がり、地面に飛び降りると、荷車がきしんだ。

「遅刻だ!」

「仕方ないな」

 リーフはチリンチリンという音を聞き、

 マドレット達を馬具から解放しているのだろうと推測した。

 蹄の音が聞こえた。

 まるで馬を荷車に連れて行くのようだった。

 店の裏の畑から来た灰色のマドレットだ、とリーフは思った。

「おはようございます、殿方、そしてネズヌク様! いい天気だ!」

「遅刻するにはいい天気だ!」

「頼みますよ。マドレットの交代は私がやります。エールを飲み干してください。

 デルへの帰り道は長くて乾いた道です。クリーンチュルナイ」

 リーフの心臓が激しく動いた。

 バルダとジャスミンが恐怖に駆られて息を荒くする音が聞こえた。

 食べ物を捨てるわけにはいかない。

 荷馬車はデルへ向かっているようだ。

 リーフは身動きもせず、頭の中はぐるぐると回っていた。

 店へ戻る衛兵の足音はほとんど聞こえなかった。

 突然、全てが収まった。

 何世紀もの間、荷馬車は豪華な食べ物を満載して丘を登り、デルの城に運んできた。

 街にどんなに食料が不足していても、城の寵愛を受けた人々は決して飢える事はなかった。

 これまで誰も、その食料がどこから来るのか知らなかった。

 しかし今、リーフはそれを知った。

 その食料はチュルナイから来ていた。

 チュルナイの人々は肥沃な畑で食料を育て、収穫するために苦労していた。

 チュルナイの料理人達は、美味しい料理を作るために昼夜を問わず働いていた。

 しかし、彼らが作った料理のほんの一部しか、人々は食べられなかった。

 残りはデルトラの城まで運んだ。

 かつてはデルトラの王や女王に民の苦難を隠していたが、

 今は影の大王のしもべ達の糧となっている。

 ネズヌクは民の裏切り者だった。

 トムは影の大王に対抗するふりをして、実は影の憲兵団とつるんでいたのだ。

 

(やっぱりトムは僕達を騙したのか!)

 激しい怒りがリーフを襲った。

 しかし、バルダはもっと切実な問題に気を取られていた。

「この荷車から降りなければ! さあ、影の憲兵団が行ってしまった間に。リーフ、見えるか?」

「何も見えない!」

 馬具がチリンチリンと音を立てた。

 どこか近くでクリーの甲高い声が聞こえた。

「奇妙だ。あの黒い鳥はチュルナイからずっと我々を追いかけてきた」

「確かに」

 リーフ、バルダ、ジャスミンは藁にくるまったまま、身を固くした。

 トムは以前にもクリーを見た事がある。

「ところで、悪い知らせがある。チュルナイへは徒歩で戻らなければならない。

 帰路のためにここに保管していた新鮮な家畜をずる賢い旅人が盗んだのだ」

「分かっている!」

 ネズヌクの一人が怒って言った。

「もっと気をつけるべきだった。昨日遅く丘の裏の畑に戻ろうとしていた家畜を見つけた。

 家路に駆け込み、門の外によそ者を背中から投げ飛ばしたのだ」

「余所者は我々の館に災いをもたらした」

 別のネズヌクがくどくどと呟いた。

「奴らは一息で死を免れ、今も地下牢に横たわっている。クリーンチュルナイ」

「その通りです」

 トムは再び、ごく静かに言った。

 それから声は明るくなった。

「さあ! この可哀想な、疲れ果てたマドレット達は自由になりました。

 もし野原に連れて行ってくれるなら、馬具を取り付けてあげましょう。

 それから、行軍を始める前に、エールを一杯飲んでくれるかもしれませんね。

 クリーンチュルナイ」

 ネズヌクは同意し、

 リーフ、バルダ、ジャスミンはマドレット達を連れ去る音をすぐに聞きつけた。

 しばらくして、トムが再び口を開いた。

 どうやらマドレットに話しかけているようだった。

「もし誰かが荷車を誰にも見られずに店の脇の木に逃げ込みたいなら、今がその時だ。

 可哀想なトムは今ここに一人ぼっちだ」

 その言葉は明快だった。

 三人はぎこちなく藁の中から抜け出し、体が硬直し、傷ついたまま、木陰へと駆け出した。

 トムは顔を上げなかった。

 ただ馬具を取り付け続け、静かに口笛を吹いていた。

 リーフ、バルダ、ジャスミンは、店主が三人が隠れていた荷馬車の後ろにさりげなく歩み寄り、

 地面に落ちた藁を拾い上げるのを横たわって見ていた。

 店主は藁を元の場所に戻し、

 ポケットに両手を突っ込んだまま木々の方へゆっくりと歩いて行った。

 そしてかがみ込み、まるで馬に与える草を集めるかのように藁を抜き始めた。

 

「お前は、お前の所有物でもない泥を売ったのか!」

 バルダは激怒してトムに言った。

「ああ、仕方ありませんね」

 トムは顔を上げずに呟いた。

「可哀想なトムは金に抗えないんですよ。認めている。

 だが、起きたのはあなたのせいで、私のせいじゃありません。

 もし私が忠告したように左の道を選んでいたら、

 マドレット達は故郷の匂いを嗅ぎつけて逃げ出す事もなかっただろう。

 あなた達自身の責任ですよ」

「そうかもしれないな」

 リーフは苦々しく言った。

「だが、お前は嘘つきだ。

 影の大王に抵抗する者の味方だと偽り、いつもそのしもべ達に食事を与えている。

 影の憲兵団ともつるんでいる」

 トムは背筋を伸ばし、甘い草の束を手に持ち屋根の上に誇らしげに掲げられた看板を見上げた。

「気付かなかったのですか? トムの名前はどちら側からでも同じに見えます。

 西から来ても東から来ても同じ。店の中にいても外にいても鏡で見ても自分の目で見ても同じ。

 そしてトム自身も、名前と同じです。これは商売の問題です」

「商売か?」

 リーフは吐き捨てるように言った。

「もちろんです。私は誰に対しても同じトム。どちらの味方もしません。

 自分に関係のない事には一切関心を持ちません。

 こんな厳しい時代には、これが賢い事。それに、その方がずっと儲かりますから」

 トムの大きな口の端が上がり、痩せた顔に皺を刻んだ。

「さあ、急いでここを立ち去った方がいいですよ。

 あなた達が順調に旅ができるよう良き友人であるネズヌクをできる限りここに留めておきます。

 まずはその真っ赤な服を脱いでください。

 ですが、頼むからここに置いておかないでください。面倒な事はしたくありませんから」

 トムは背を向け、荷馬車に向かってゆっくりと歩き始めた。

「お前は嘘つきだ!」

「そうかもしれません」

 トムは振り返らずにゆっくりと言った。

「ですが、私は生きていて、金持ちです。

 そして、私がいるおかげで、あなた達はまた戦うために生き延びています。

 そう、今はいない彼女のように」

 トムは草を差し出し、馬に向かって舌打ちしながら歩き続けた。

 三人は赤い服と靴を脱ぎ捨て、鞄に詰め始めた。

 リーフは怒りに燃えていた。

 ジャスミンは不思議そうにリーフちらりと見た。

「トムは私達を助けてくれたのよ。どうしてトムにそれ以上の事を求めるの?

 多くの動物は自分の事しか信じない。トムもその一人よ」

「トムは動物じゃない、人間だ。何が正しいか分かっているはずだ!」

「本当に分かっているの?」

「どういう意味だ?」

「揉めるな。歩くための体力を温存しろ。はばひろ川までは遠い」

 バルダは鞄を締め、肩に担ぎ、木々の間を足音を立てて歩き出した。

「まずはチュルナイに戻らなきゃ。嘘つきだって事を教えなきゃ!」

 リーフはバルダの後を急ぎながら言った。

「本当か?

 もし俺達が生き延びて報告できたとしても、もし奴らが俺達の言葉を信じてくれたとしても。

 もし万が一、何世紀にも渡る伝統を破って、

 ネズヌクに反逆し、食料をこれ以上送る事を拒否したら……どうなると思う?」

「影の大王の食糧が枯渇するだろう」

「そうだ。

 そして影の大王はチュルナイに怒りをぶつけ、

 策略ではなく力ずくで民を従わせ、国中を我が物顔に捜索し始めるだろう」

 バルダはぶっきらぼうに言った。

「何も得られず、むしろ多くを失う事になる。大惨事になるだろう」

 バルダは歩幅を広げ、前に進んだ。

 リーフとジャスミンはバルダの後を追ったが、その後は長い間、口を利かなかった。

 リーフは怒り狂い、ジャスミンは誰にも話したくない考えで頭がいっぱいだった。

 

(ヴァージニアは無事だろうか……。いや、絶対に無事でいてくれ……)

 リーフは、さらわれたヴァージニアの事が気掛かりでたまらなかった。

 

 四日間の厳しい行軍が続いた。

 リーフ、バルダ、ジャスミンはほとんど口を利かず、ただ前進する事と、

 敵の姿が見えないようにする事だけを口にした、長い四日間だった。

 ヴァージニアは飢え死にしていないのか、リーフは心配でたまらなかった。

 しかし、四日目の午後、ついにはばひろ川の岸辺に立った時、

 彼らは次の行動をもっと慎重に計画しておくべきだったと悟った。

 川は深く、その名前がまさにそれを物語っていた。

 川幅が広すぎて、対岸の陸地はかすかに見えるだけだった。

 目の前には広大な水面が海のように広がっていて、渡る術はなかった。

 白く、石のように硬く、古代の木造いかだの残骸が砂に半分埋もれていた。

 恐らく、遠い昔、人々がここで川を渡り、そこにいかだを置き去りにしたのだろう。

 しかし、こちら側にはいかだの材木となる木はなく、葦の茂みがあるだけだった。

 ジャスミンは鈍い水面の向こうをじっと見つめながら、目を細めた。

「向こうの土地はとても平らで、そこから暗い影が浮かび上がってるわ。

 もしあれがネズミの街なら、私達の目の前にあるわ。あとはただ……」

「川を渡れ」

 リーフは重々しい声で言った。

 彼はきめ細やかな白い砂の上に身を投げ出し鞄の中をかき回して何か食べるものを探し始めた。

 トムから買った品々を取り出し、小さな山にして地面に放り投げた。

 ほとんど忘れていたのに、今は嫌悪感を込めて見つめていた。

 店ではあんなに魅力的に見えたのに、今は安っぽい珍品に見えてしまう。

 火おこしビーズ、マジック・ブレッド、水を飲み水にする粉、シャボン玉パイプ、

 そして色褪せたラベルを貼った小さな平たいブリキの箱……。

「泳ぐには遠すぎる。川沿いを進んで、船のある村に着くしかない。

 わざわざ遠回りするのは残念だが、他に選択肢はない」

「そうかもしれないね」

 リーフはゆっくりと言った。

 ジャスミンとバルダは驚いてリーフを見た。

 リーフは箱を持ち上げ、裏に書いてある言葉を声に出して読んだ。

「水食い虫……」

「この小さなブリキの箱の中に入っているものが、川を干上がらせる事ができるとでも言うの?」

「何も言ってないよ。ただ説明書を読んでるだけ」

「説明書より警告の方が多いな。でも、様子を見よう」

 二人は一緒に川岸まで歩き、リーフはブリキの箱の蓋をこじ開けた。

 中には砂粒ほどの大きさの小さな水晶がいくつか入っていた。

 何だか馬鹿馬鹿しいと思い、リーフは水晶をいくつか摘まんで水に投げ込んだ。

 水晶は見た目も全く変わらず、すぐに沈んでしまった。

 そして、それ以上何も起こらなかった。

 リーフは少し間を置いてから、がっかりするのを抑えながら、ニヤリと笑おうとした。

「もっと分かっておくべきだった。あのトムが、まさか本当に……」

 それからリーフは叫び、飛び退いた。

 川から巨大な、無色の、ぐらぐらとした塊が湧き上がってきた。

 その横には、また別の……そしてまた別の塊が!

「水晶だ! 水を吸い上げている!」

 まさにその通りだった。

 リーフが見守る中、水晶は成長し、広がり、互いに合体してそびえ立ち、

 川をせき止める高く揺れる壁を作った。

 そして、水晶と水晶の間の水は乾き、狭く曲がりくねった砂泥の水たまりの道が残った。

 ジャスミン、リーフ、バルダがゼリー状の塊の間をすり抜けながら川底に慎重に足を踏み入れ、

 乾いた場所の端まで歩いていくと、クリーは驚いて甲高い声を上げた。

 リーフがさらにひとつまみの水晶を前方の水に投げ込むと、

 しばらくしてさらに多くの塊が川面を割り、彼らの前に新たな道が開け始めた。

 

 はばひろ川を渡るのは奇妙で恐ろしい旅だった。

 皆の心は、川をせき止めていた揺れる壁が崩れたらどうなるか、という思いでいっぱいだった。

 巨大な水圧が彼らを飲み込んでしまうだろう。

 逃げる事はできないだろう。

 膨れ上がった水食い虫達が視界を遮る中、彼らは身をよじり、

 柔らかい泥に足が沈みながら這い進んだ。

 リーフはブリキの箱の中の水晶が岸に着く前に尽きてしまうのではないかと心配し始めた矢先、

 突然岸が目の前に現れ、荒涼とした乾いた平原へとよじ登っていた。

 彼はバルダとジャスミンと共に立ち、じっと見つめていた。

 平原は川の湾曲部に広がっていた。

 三方を水に囲まれ、緑豊かで肥沃なはずだった。

 しかし、硬く焼けた粘土質の土を柔らかくする草は一本もなかった。

 見渡す限り、生き物の姿は見えなかった。

 中心には都市があり、その塔は夕日の最後の光を受けて暗赤色に輝いていた。

 遥か遠くにあるにありながら、邪悪と脅威の雰囲気が蒸気のように漂っているようだった。

 彼らは川を離れ、何もない平原を進み始めた。

 空は彼らの頭上に赤く弧を描き、低く沈んでいった。

 リーフは突然思った。

「上から見ると、僕達は蟻みたいに見えるに違いない。小さな、這う蟻が三匹いる。

 一撃でみんな死んでしまうだろう。こんなに危険を感じた事はなかった」

 クリーも同じ気持ちで、ジャスミンの肩にじっと座っていた。

 フィリはジャケットの中にうずくまり、小さな鼻だけが見えるだけだった。

 しかし、二人の同伴もジャスミンを助ける事はできなかった。

 ジャスミンの足は引きずり、歩く速度はどんどん遅くなり、

 ついに太陽が地平線に沈み始めた時、身震いして立ち止まった。

「ごめんなさい。この場所の荒涼とした空気は、私にとって死を意味する。耐えられないわ」

 ジャスミンの顔は青白く、硬直していた。

 手は震えていた。

 リーフとバルダは顔を見合わせた。

「今、そろそろ夜を明かそうかと思っていたところだった。休んで、食事を取らなければ。

 それに、この街は暗闇の中に入ってはいけない場所だと思う」

 二人は一緒に座り、食料を箱から出し始めたが、火を起こすための棒がなかった。

「トムの火起こしビーズを試すにはいいタイミングだ」

 リーフはバルダに倣って、明るく振る舞おうとした。

 薄暗い中で、リーフは瓶の説明書を読んだ。

 それからビーズの一つを地面に置き、掘る道具で強く叩いた。

 たちまち、火が噴いた。

 リーフがもう一つビーズを加えると、それも燃え上がった。

 すぐに明るい炎が上がり、どうやら他に燃料は必要ないようだ。

 リーフは満足そうに瓶をポケットに押し込んだ。

「すぐに気持ちが楽になった。凄い!

 トムは悪党かもしれないが、少なくとも売っているものは値段相応だ」

 まだ早い時間だったが、バルダとリーフは食料を二人の周りに広げ、

 何を食べるかじっくりと考えた。

 彼らはマジック・ブレッドに水を加え、それがあっという間にパンに膨らむのを見守った。

 パンを切って焼きし、ララディンから持ってきたドライベリー、ナッツ、蜂蜜を添えて食べた。

 

「ごちそうさま」

 バルダは満足そうに言った。

 リーフはジャスミンの緊張した顔が和らいでいくのを見てほっとした。

 二人が期待した通り、暖かさ、光、そして食べ物がジャスミンに安らぎを与えていた。

 リーフはジャスミンの肩越しに遠くの街を見つめた。

 塔から赤い光は今や消えつつあった。

 平原にそびえ立つ街は、静まり返り、陰鬱で、人影もなく佇んでいた……。

 リーフは瞬きをした。

 最後の太陽の光がリーフの目を惑わせていた。

 一瞬、街の周りの地面が水のように動いているように見えたのだ。

 リーフは再び街を見て、困惑して眉をひそめた。

 平原は動いていた。

 しかし、風に揺れる草も、粘土質の地面を吹き抜ける葉もなかった。

 

「な、なんだ……?」

 バルダは声を出そうとしたが、息が詰まった。

 揺れ動く平原を見つめながら、恐怖の波がリーフを襲った。

「何なの?」

 ジャスミンが振り返って尋ねた。

 すると、ジャスミンとバルダは一緒に叫び声を上げ、飛び上がった。

 街から溢れ出し、地面を覆い尽くし、長く低い波のように彼らに向かって押し寄せてきたのは、

 走り回り、沸き立つネズミの群れだった。

 何千匹、いや何万匹ものネズミだ。

 リーフは突然、平原の大地が何故裸になっているのか理解した。

 影の王国に住むネズミが、あらゆる生き物を食べ尽くしていたのだ。

 平原に太陽が照りつける間、廃墟となった街に隠れていたのだ。

 しかし今、ネズミは飢えに狂い、食べ物の匂いを嗅ぎつけようと駆け寄ってきた。

「こんなに多いネズミを相手にするわけにはいかない! 逃げるぞ!」

「ああ!」

 三人は命からがら逃げ出した。

 リーフは一度だけ肩越しに振り返ったが、

 その光景はリーフを恐怖に喘ぎながら、さらに速く走らせるには十分だった。

 最初のネズミ達が焚き火に辿り着いた。

 彼らは巨大だった。

 地面に散らばった食料やその他の持ち物に群がり、

 針のように鋭い歯で貪り食い、引き裂いていた。

 しかし、ネズミ達はすぐ後ろから迫り、ネズミの上に飛び乗って窒息させ、

 戦利品を巡って互いに戦い、慌てて火の中に飛び込み、悲鳴を上げ、叫び声を上げていた。

 そして何千匹ものネズミがネズミの上をよじ登ったり、もがき苦しむ山の周りを旋回したり、

 鋭い鼻で匂いを嗅ぎ、黒い目を光らせながら走り去っていった。

 ネズミはリーフ、バルダ、ジャスミンの匂いを嗅ぎ取った。

 三人の温もりと、命と、恐怖の匂いを。

 リーフは走った。

 息が胸を苦しめ、川面に視線を定めていた。

 水面は最後の陽光に輝いていた。

 ジャスミンが彼の傍らに、バルダがすぐ後ろにいた。

 リーフは息を切らしながら冷たい水に飛び込み、できる限り遠くまで歩いた。

 陸の方を向くと、マントが体を揺らした。

 ネズミ達が甲高い声で叫ぶと、暗い灰色の潮が川岸に達した。

 そして、それはまるで波のように渦を巻き、砕け散り、水面へと押し寄せた。

「奴らはこっちに向かって泳いでいる!」

 バルダは叫び、剣を抜いて水面に引き上げようともがいた。

「神にかけて、奴らを止めるものは何もないのか?」

 既にジャスミンは激しい叫び声を上げながら短剣を振り回し、

 何十匹ものネズミの死骸を潮に流していた。

 ジャスミンの傍らで、リーフとバルダは剣を水面を前後に振り回し、

 その重労働に息を切らしていた。

 周囲の水は血と泡で渦巻いていた。

 それでもネズミ達は近づき、歯をむき出しにして沈んでいく仲間の死骸によじ登ってきた。

 

(これじゃあきりがない……!)

 剣の柄に痺れを切らしながら、リーフは考えを巡らせながら戦っていた。

 川の向こう岸にいれば安全だろう。

 水はネズミが泳ぐには広すぎる。

 しかし、リーフとジャスミン、そしてバルダにとっても広すぎる。

 この冷たく深い水に身を投じれば、決して生き残れないだろう。

 そして、長い夜が待ち受けていた。

 太陽が再び昇り、平原に光をもたらすまで、ネズミ達は襲いかかるだろう。

 何千匹ものネズミが死ぬだろうが、何千匹ものネズミがその場所を奪うだろう。

 リーフ、バルダ、そしてジャスミンは徐々に弱っていくだろう。

 そしてついに、ネズミ達が群がり、噛みつき、引っ掻き、ついには水面下に沈み溺れてしまう。

 太陽は沈み、平原は暗くなった。

 リーフは最早街の姿を見る事はできなかった。

 見えるのは、灯台のように揺らめく焚き火だけだった。

 

(そうか!)

 その時、リーフは火の玉の入った瓶をポケットに入れた事を思い出した。

 リーフは剣から左手を離し、水の中に沈め、服の奥深くまで潜り込んだ。

 指で瓶を握りしめ、水面まで引き上げた。

 瓶からは水が滴り落ちていたが、中の玉はまだガラガラと音を立てていた。

 バルダとジャスミンに援護するように叫びながら、リーフは水の中を進み瓶の固い蓋を緩めた。

 硬くなった指で玉を一掴み取り、渾身の力でネズミ達に投げつけた。

 玉が当たると、激しい炎が噴き出した。

 その光は眩いばかりだった。

 何百匹ものネズミが突然の熱に倒れ、死んだ。

 ネズミ達の背後にいた群れは悲鳴を上げ、燃え盛る死骸から逃げ惑った。

 既に水中にいたネズミ達は恐怖に怯え、もがき苦しみ、

 リーフ、バルダ、ジャスミンに向かって飛びかかり、長い尻尾を振り回し、くるくると巻いた。

 バルダとジャスミンはリーフと自分達を守るため、ネズミ達を斬りつけた。

 リーフはビーズを次々と投げつけ、ゆっくりと下流へと移動しながら炎の壁を広げていった。

 そしてすぐに、川岸に長い炎の膜が燃え上がった。

 その背後の平原は沸き立った。

 しかし、リーフ、バルダ、ジャスミンが安堵に息を切らし、

 身震いしながら立っていた場所には、赤い光を放ち、波打つ水面があるだけだった。

 死んだネズミ達は波にさらわれたが、二度と元の場所に戻る事はなかった。

 しばらくすると、ネズミ達が炎の線の上下で川に飛び込み始め、

 上流と下流で水しぶきが上がった。

 しかし、ネズミ達が安全に泳ぐには距離が遠すぎた。

 獲物に辿り着く前に、ほとんどのネズミが急流に引き込まれ、

 生き残ったネズミ達も簡単に追い払われた。

 こうして三人は腰まで水に浸かり、疲労に震えながらも、

 燃え盛るバリケードの後ろで安全に、長く寒い時間を過ごしていた。

 

 ついに夜が明け、空は鈍い赤色に染まっていた。

 炎の向こうから、森の葉がざわめくような音が聞こえてきた。

 そしてそれは消え、平原は深い静寂に包まれた。

 リーフ、バルダ、ジャスミンは岸辺まで歩いて行った。

 服や髪から水が流れ落ち、バリケードの炎に落ちてシューという音を立てた。

 三人は揺らめく燃えさしを踏み越えた。

 ネズミ達はいなくなっていた。

 川と焚き火の煙の残骸の間には、小さな骨が絡み合っただけのものがあった。

 

「仲間の死骸を食べたんだ」

「もちろんよ」

 バルダは吐き気を催したように呟いた。

 寒さで震え、足に石が重くのしかかるような感覚の中、

 リーフは何時間も前に食事をした場所へと、とぼとぼと歩き始めた。

 ジャスミンとバルダは静かに、用心深くリーフの後を追った。

 クリーが頭上を飛び、静まり返った空気に羽ばたく音が大きく響いた。

 火の灰の周りには鮮やかな赤い斑点が三つ残っているだけで、ほとんど何も残っていなかった。

 リーフは短く笑った。

「ネズヌクの服と靴が残っていったんだ。気に入らなかったみたいだね。どうしてだろう?」

「もしかしたら、あの服はまだ穴の菌の匂いが残っているのかもしれないわ。

 私達には何も匂いが分からないけれど、ネズミより感覚が鈍いからね」

 三人は残骸を見回した。

 靴のバックル、水袋の蓋、シャボン玉パイプ、ボタンが一つ二つ、金貨が数枚、

 そして最後の水食い虫が入った平らなブリキの箱が、

 骨と燃え殻にまみれた硬い粘土の上に散らばっていた。

 チュルナイから持ってきた服以外、ネズミの飢えに耐えたものは何もなかった。

 食べ物の欠片も、毛布の切れ端も、ロープの糸一本もなかった。

 

「少なくとも命は助かった」

 バルダは、かすかな夜明けの風に震えながら言った。

「それに、乾いた服もある。

 欲しい服ではないかもしれないが、こんなところで誰が俺達を見るというんだ?」

「少なくとも、ヴァージニアくらいだよ」

 三人は疲れ果てて濡れた服を脱ぎ捨て、ネズヌクの赤い服と靴を身につけた。

 そして、ようやく暖かく乾いた状態で、彼らは腰を下ろして話をした。

「火の玉が入った壺はほとんど空だ。この平原でもう一晩も生き延びられないだろう」

 バルダは重々しく言った。

「街に入るには、今すぐ入らなければならない。

 この奇妙な服は、ネズミが嫌がるから、いくらかは身を守ってくれるだろう。

 それに、シャボン玉パイプもまだある。

 もしそれが言われた通りに機能するなら、役に立つかもしれない」

 三人は濡れた服を包み、地面に落ちていた僅かな持ち物を拾い集め、街に向かって歩き始めた。

 リーフの目は疲労でチクチクと痛み、赤い靴を引きずる足取りだった。

 崩れかけた塔の中で、ネズミの大群が這いずり回り、戦っている姿を想像すると、

 恐怖がリーフを襲った。

 一体どうすれば、身を粉々に引き裂かれる事なく、街に侵入できるのだろうか。

 それでも、入らなければならない。

 既にデルトラのベルトはリーフの腰の辺りで温かくなり始めていた。

 失われた宝石の一つが、確かに街に隠されている。

 ベルトはそれを感じていた。




これとは全く関係ありませんが、呪ワレタ少年のミリアもトムと同じような立場かもしれません。
その連載は、またあとで、という事で。
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