ヴァージニアとデルトラクエスト   作:アヤ・ノア

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~前回までのあらすじ~

ヴァージニアはリーフ達と共に宝石を二つ取り戻したが、何者かにさらわれてしまった。
リーフ達は一旦、トムの店に行き、そこで謎の男と出会う。
トムの店でマドレットを買ったリーフ達はラット・シティに向かう途中で事故に遭い、
異常なまでに清潔を尊ぶ街、チュルナイに辿り着く。
ジャスミンが毛の生えた小動物のフィリを連れていた事でリーフ達は処刑されそうになるが、
リーフの機転とティラの活躍により何とか危機を脱する。
チュルナイを脱出したリーフ達は、トムの店の商品を使ってはばひろ川を渡り、
ようやく三つ目の宝石のある魔境、ラット・シティに辿り着く。
一方、ヴァージニアはラット・シティの支配者、大蛇リアの生贄として差し出されていた。
リーフ達は大蛇リアを倒してヴァージニアを助け、オパールを取り戻すのだった。


うごめく砂
第22話 ひとときの休息


「まったく、もう少しで死ぬところでしたのよ? まぁ、以前にもありましたけど」

 リーフには、まるで永遠に川辺を歩いているように思えた。

 しかし、リーフ、バルダ、ジャスミン、ヴァージニアが燃えるネズミの街を出てから、

 まだ一晩と半日しか経っていない。

 静かな空気にはかすかな煙の匂いが漂っていたが、

 街は今や彼らの背後の地平線にぼんやりと浮かんでいるだけだった。

 彼らは、ネズミから彼らを守ってくれた重い赤い服と靴をとっくの昔に脱ぎ捨てていた。

 歩くのは楽だったが、空腹と疲労で旅を果てしなく長く感じ、しかも景色が全く変わらない。

 四人は、はばひろ川の水で両側を囲った焼け焦げた裸の土の上を、何時間もかけて歩き続けた。

 川幅は広く、向こう岸がほとんど見えないほどだった。

 皆、休息を切実に必要としていたがそれでも四人は進み続けなければならない事を知っていた。

 背後の青い空を染める煙の柱は、敵への合図のようだった。

 それは、デルトラのベルトの三つ目の宝石が隠れていた恐ろしい場所で、

 何か重大な出来事が起こったという兆しだった。

 もし影の大王が宝石を取り戻した事に気づけば、影の大王のしもべ達は犯人を捜すだろう。

 そして、この荒れ果てた平原なら、簡単に見つける事ができるだろう。

 バルダはリーフの傍らを、頭を下げてゆっくりと歩いた。

 ジャスミンは少し先を、ヴァージニアはさらに先を歩いていた。

 時折、肩に寄り添うフィリに囁きかけていたが、ジャスミンの目は地平線に釘付けだった。

 ジャスミンはワタリガラスのクリーを警戒していた。

 クリーは夜明けと共に飛び立ち、前方の地勢を見渡し、食料を探していたのだ。

 食料と避難所は遥か遠くにあるが、進む以外に道はなかった。

 四人が今、進んでいる方向以外に進むべき道はなかった。

 ネズミの平原は川の湾曲部に位置し、三方を深い水が囲んでいたからだ。

 何世紀もの間、ネズミ達は平原をぐるりと囲む川に閉じ込められてきた、

 とリーフは厳しい表情で思った。

(そして今、僕達も閉じ込められている)

「待って!」

「どうしましたの、ジャスミン?」

 突然、ジャスミンが甲高く、耳をつんざくような叫び声を上げた。

 かすかな、耳障りな声が返ってきた。

 リーフとヴァージニアは顔を上げ、遠くの青い海から黒い点がこちらに向かってくるのを見た。

 刻一刻と点は大きくなり、ついにクリーが甲高い声で鳴きながら舞い降りてきた。

 クリーはジャスミンの腕に着地し、また鳴き声を上げた。

 ジャスミンは無表情で聞いた後、リーフ、バルダ、ヴァージニアの方を向いた。

「クリーは、平原の端は川幅とほぼ同じくらいの広い帯状の水域で終わると言っていたわ」

「何だって?」

 リーフは愕然として地面に崩れ落ちた。

「平原が島ですって?」

「まさか!」

 バルダとヴァージニアはリーフの隣に座り、深い溜息をついた。

 クリーは羽を逆立て、イライラしたように鳴いた。

「……」

「クリーは自分の目で見たのよ。川の両端の流れを繋ぐ小川があるの。

 とても幅が広いけど、私達が渡れないほど深くはない、とクリーは言っていたわ。

 川よりも色が薄くて、水面からそう遠くないところに魚の群れが見えたのよ」

「魚!」

 リーフは温かい食べ物の事を考えてよだれを垂らした。

「どれくらい遠いんだ?」

「クリーは、夜通し進めば明日には着けると思ってるの」

「じゃあ、そうする」

 バルダは厳しい顔で言い、体をよじりながら立ち上がった。

「少なくとも暗闇では簡単には見つかりませんし、食べ物もありませんわ。

 そもそも、隠れる場所もなければ、寝る場所も地面しかありませんの。

 だから、立ち止まっても慰めになりませんわ。倒れるまで歩いた方がいいですわね」

 

 こうして、翌日の薄暗い夜明け、四人は平原の端に辿り着き、

 疲れた目で、行く手を阻む光り輝く水面を見つめていた。

「きっとこれは自然の水路じゃないな。両岸が真っ直ぐで平坦すぎる」

「人が掘ったようだな」

「きっとずっと昔、ネズミ除けの防壁として掘ったんでしょうね」

 クリーは興奮した声でリーフ達の上空を舞い上がった。

「向こう側には木があるわ。木や、他の植物も生えてるわ」

 ジャスミンは躊躇う事なく、水に足を踏み入れ、

 目の前に広がるギザギザの緑の線をじっと見つめた。

「ちょっとジャスミン、気をつけなさい!」

 ヴァージニアが後ろから声をかけたが、

 ジャスミンは立ち止まる事も振り返る事もなく、水の中を歩き続けた。

 水は腰まで、そして胸まで上がったが、それ以上は届かなかった。

 ジャスミンは対岸に向かって着実に進み始めた。

 ヴァージニア、バルダ、リーフはジャスミンの後を追って、冷たい小川に飛び込んだ。

「デルの街で君をトラブルから守るのが俺の仕事だった頃、

 リーフ、君はこの世で一番せっかちだと思っていたよ」

「ごめん。ジャスミンも同じくらい、いや、もっと酷い!」

 リーフはニヤリと笑い、何かが足首に優しく触れた瞬間、飛び上がって叫んだ。

 水面を見下ろすと、突然大きな魚が数匹、影の中へと逃げていくのが見えた。

「彼らはあなたを傷つけないわ」

 ジャスミンは振り返らずに言った。

「どうして分かるんだ?」

「私と同じくらいお腹を空かせているのかもしれない。彼らは……」

 クリーが叫び声を上げてヴァージニア達に向かって急降下し、

 水面を掠めてから再び舞い上がると、クリーは鳴くのをやめた。

 ジャスミンは警戒して立ち止まり、それから振り返り、

 リーフ、バルダ、ヴァージニアの方を向いた。

「空から何かが来るわ! クリー……」

 甲高い声を上げながら、黒い鳥は再び四人に向かって急降下してきた。

 明らかにクリーは怯えていた。

「何だ?」

 リーフは必死に空を見上げたが、何も見えなかった。

「何か巨大なもの! 何かとても恐ろしいもの!」

「な、何ですの!?」

 ジャスミンは肩からフィリをひったくり、空中に持ち上げた。

 灰色の毛皮の小さな塊は、恐怖でカチカチと音を立てていた。

「クリー! フィリを連れて行って! 隠れて!」

 その時、リーフの凝視した目は地平線に黒い点を見つけた。

 それは刻一刻と大きくなっていた。

 数秒のうちに、リーフは長い首と、羽ばたく巨大な翼を見分ける事ができていた。

 

「アクババ!」

「どうやら煙を見たようですわね」

 リーフとヴァージニアの血が凍りつくようだった。

 父親がアクババについて語っていた。

 千年も生きる、ハゲタカのような巨大な鳥だ。

 そのうちの七羽は影の大王のしもべだった。

 デルトラのベルトから宝石を危険な魔境へと運んだのはアクババだった。

 ジャスミンの命令に従い、クリーはフィリを爪で掴み、共に水路の向こう側へと急いだ。

 そこではフィリもクリーも長い草に隠れたり、木陰に隠れたりできた。

 しかし、リーフ、バルダ、ジャスミン、ヴァージニアには隠れる場所がなかった。

 四人の背後には平原のむき出しの大地が広がっていた。

 目の前には、夜明けに煌めく広大な水面が広がっていた。

 四人はよろめきながら数歩前進したが、無駄だと皆分かっていた。

 アクババは信じられないほどの速さで飛んでいた。

 四人が安全な場所に辿り着くずっと前に、アクババは彼らに襲い掛かるだろう。

 アクババには既に燃え盛る街の煙が見えていた。

 平原から逃げてくるぼろぼろの服を着た三人と、小奇麗な服を着た一人を見たら、

 ヴァージニア達が影の大王に敵対する者だとすぐに分かるだろう。

 アクババは彼らを攻撃するだろうか。

 それとも、ただ飛び降りて巨大な爪で四人を掴み、主人の元へ連れ去ってしまうのだろうか。

 どちらにせよ、彼らは破滅する運命だった。

 唯一の隠れ場所は水中だった。

 しかしリーフは、そこが隠れ場所などではない事を知っていた。

 空からなら、アクババはクリーが魚の群れを見たのと同じくらい、

 はっきりとヴァージニア達を見る事ができるだろう。

「まだ見ていない。街の煙に目が釘付けだ。リーフ、マントで隠れろ!」

「水遁の術ですわね!」

 濡れた不器用な指で、リーフは首に巻いたマントを締めている紐を引っ張る。

「沈め!」

 バルダは息を切らして言った。

 ヴァージニア達は深呼吸をし、川面下に潜り込んだ。

 マントをテントのように被ると、マントは四人の頭上を漂い、水にほとんど隠れた。

 ヴァージニア達は最善を尽くした。

 しかし、その最善はアクババの鋭い目から四人を隠せるほどのものだったのだろうか。

 夕暮れ時であれば、そうだったかもしれない。

 しかし、この明るい夜明けの光の中で、怪物は、

 ある水面が他の水面と少し違って見える事にきっと気づくだろう。

 怪物は疑念を抱き、その上空を旋回し、見張り、待ち構えるだろう。

 

 リーフ、バルダ、ジャスミン、ヴァージニアは、どれだけ長く息を止めていられるだろうか。

 遅かれ早かれ、四人は息を切らしながら水面に浮かび上がらなければならないだろう。

 その時、怪物は襲いかかるだろう。

 リーフはシャツの下に巻いているベルトの留め具を指で探った。

 デルトラのベルトは、決して自分のものにしてはならない。

 必要なら、外して川底の泥の中に落とそう。

 再び影の大王の手に落ちるよりは、そこに横たわっている方がましだろう。

 既に肺が締め付けられるのを感じていた。

 体は水面に浮かび上がって呼吸するように告げていた。

 何かが肩を軽く押し、リーフは目を開けた。

 魚達が彼の周りをうろついていた。

 銀色の大きな魚達が、ガラスのような目でリーフを見つめていた。

 鰭と尾が彼の頭と顔にぶつかり、迫りくるようだった。

 そして突然、辺りが暗くなった。

 巨大な影が太陽を遮っていた。

 アクババが頭上にいた。

 

 リーフは、自分を飲み込もうとするパニックを抑えようとした。

 アクババの影が水を黒く染めていた。

 魚は最早見えなかったが、その重さを感じた。

 何十匹もの魚がマントの上を泳ぎ回り、仲間を水面から切り離し、押し下げている……。

 リーフの頭がくらくらして、もがき始めた。

 息がしたくて胸が痛んだ。

 必死に頭上のマントを押したが、魚達はその上にぎっしりと密集しており、

 まるで動く天井のように、突き破る事は不可能だった。

 もがく力はますます弱くなっていった。

 意識を失い、意識が体から離れていくのを感じた。

 

(これで終わりなのか?)

 自宅にいる両親の姿が頭をよぎった。

 今頃は鍛冶場の厨房で朝食をとっているだろう。

 もしかしたら、リーフ、バルダ、ヴァージニアの事を話しているのかもしれない。

(僕達がどうなったか、きっと分からないだろう。

 僕達の骨は永遠にこの泥の中に埋もれ、デルトラのベルトも一緒に埋もれる)

 ぼんやりと、脚と胸を突かれるような感覚に気づいた。

 魚が体にぶつかってきた。

 まるでリーフを上に押し上げようとしているようだった。

 そして――頭上の魚は脇へ寄っていった。

 最後の力を振り絞り、震える脚を無理矢理伸ばした。

 頭が水面から顔を出した瞬間、ありがたく大きく息を吸い込んだ。

 最初は何も見えなかった。

 マントはまだ頭にかかっており、顔に張り付いていた。

 やがてマントが落ち、リーフはバルダ、ジャスミン、ヴァージニアに目を瞬かせた。

 三人も自分と同じように息を切らし、みすぼらしい姿になっていた。

「うぅ……」

 恐怖に駆られ、リーフは見上げた。

 しかし、アクババは水路をはるかに越え、

 平原の上空を地平線に上がる煙の柱へと向かって悠々と飛んでいた。

 

「僕達を見てない!」

 リーフは咳き込みながら、掠れた声で言った。

「通り過ぎたんですの?」

「もちろんよ」

 ジャスミンはにやりと笑い、漂うマントを束ねた。

「水面を見下ろすと、魚の群れしか見えなかったの。何百回も見た事のある魚達よ」

 ジャスミンは波打つ水面を手で軽く叩いた。

「ああ、賢いわね、魚達。よく隠れてくれたわね」

 魚達は彼女の周りを泳ぎ回り、ゆったりと満足そうに泡を吹いていた。

「溺れさせようとしているのかと思ったぞ」

「ずっとアクババから身を隠してましたのよ。

 魚が誰かを助けに来たなんて、聞いた事、ありまして?」

「普通の魚じゃないのよ。年老いて賢いのよ。

 川の片側の平原を荒れ地に変えたネズミ達を憎んではいないわ。

 それに、影の大王とそのしもべ達を憎んでもいないのよ」

「そう言ったの?」

「だから、普通の魚じゃないわ。あなたにも話しかけてくるわ、あなたが耳を傾けさえすればね」

 リーフは水面下の影を見つめ、集中した。

 しかし、聞こえてくるのは波紋と泡の音だけだった。

「川で死ぬなんて事はないって分かっていたはずだ。

 平原でオパールが見せてくれたのは、うごめく砂に立つ自分の姿だった。

 もし死ぬ場所があるとしたら、それはあそこだ」

 リーフはバルダ、ジャスミン、ヴァージニアの視線を感じた。

「オパールは未来を告げるのか? それとも、起こりうる事を告げるだけか?」

「それは分からない」

 しばらくすると、クリーが水路の向こう側から声をかけた。

「進まなきゃ。アクババがまたこの道を戻ってくるかもしれないわ」

 魚達が楽に先を泳いでいく中、四人は水路を歩いて渡った。

 ついに対岸に着くと、彼らは振り返り、感謝の意を表した。

「魚達よ、ありがとう」

 ジャスミンは優しく呼びかけた。

 クリーはジャスミンの腕に飛び降りて止まった。

「ご親切に感謝しますわ」

 魚達は頭を下げ、別れを告げるかのように尾を振りながら、ゆっくりと泳ぎ去っていった。

 クリーはガーガーと鳴き、再び飛び立った。

 ヴァージニア、リーフ、バルダ、ジャスミンは、

 水辺に生えている木に向かって羽ばたくクリーの後を追った。

 その木は長く羽毛のような緑の枝を曲げて地面をなびかせていた。

 四人は緑の茂みをかき分け、四方を垂れ下がった枝に囲まれた小さな空間に辿り着いた。

 そこはまるで木の節くれだった幹を中心とする、小さな緑の部屋のようだった。

 フィリはそこに座って四人を待っていた。

 しばらくすると、フィリはジャスミンのところへ駆け寄り、

 肩に飛び乗って楽しそうに喋り続けた。

 安堵の呻き声を上げながら、四人は地面に崩れ落ちた。

 厚い茶色の柔らかい葉が、痛む骨を優しく包み込んだ。

 頭上には緑の屋根が広がり、周囲にはそよ風に揺れる木があった。

「安全よ」

 ジャスミンは呟いた。

 しかし、今回は木が何を言ったのか、ジャスミンが説明する必要はなかった。

 皆、その安らぎを感じていた。

 たちまち、四人は眠りに落ちた。

 

 リーフが目を覚ますと、そこには一人ぼっちだった。

 頭上では鳥達が鳴いていた。

 涼しく、薄暗い光が差し込んでいた。

 太陽が沈む、とリーフは震えながら思った。

 一日中寝ていたのに。

(バルダ、ジャスミン、ヴァージニア、クリー、フィリはどこだ?)

 リーフは自分の隠れ家を遮る垂れ下がった枝まで這い上がりそっと枝を分けて外を覗き込んだ。

 驚いた事に、太陽は沈むどころか昇り始めていた。

 リーフは一日中だけでなく、次の夜も寝ていたのだ。

 ヴァージニア、ジャスミン、バルダが木に向かって来ていた。

 リーフは三人が食べ物を探していたのだろうと推測し、何か見つけたのではないかと願った。

 胃が空っぽになった。

 とても長い間、何も食べていないように感じた。

 ヴァージニアは四日間、飲まず食わずだったのだから、彼女の気持ちを理解できた。

 葉をかき分けると、それはリンゴだった。

「リンゴですわ!」

「少ししわしわになっているけど、十分に甘くて、不思議と満腹感がある」

 バルダはリーフにリンゴを投げた。

 リーフは貪るようにそれをかぶりつき、芯諸共平らげた。

 ヴァージニアは訝しげにリンゴを見ていた。

「盗んだ果物が一番甘いらしいな」

 バルダは笑いながら、もう一つリンゴを投げた。

「盗んだ?」

 リーフは口いっぱいにリンゴを詰めながら尋ねた。

「あそこの木は果樹園だ」

「ジャスミンは勝手に取っていったらしいですわ」

「違う。木々が実で唸り声を上げているわ。収穫を待ちわびているのよ。

 リンゴがこんなに枯れているのが分かるでしょ。

 だから、私達が勝手に取っても構わないでしょ?」

「流石、ジャスミンですわね」

「文句は言わない。最後にリンゴを食べたのは……」

 リーフは言葉を切り、口の中の甘い果実が急に乾いてしまった。

 最後にリンゴを食べたのは、16歳の誕生日の時だった。

 それは、子供の頃、これまでの人生、故郷、そして愛する両親に別れを告げた日だった。

 今ではどれほど遠い昔の事のように思える。

 ジャスミンは不思議そうにリーフを見つめていた。

 リーフは自分の表情が悲しげになっている事に気づき、慌てて顔を背けた。

 ジャスミンは沈黙の森で、フィリとクリーだけを伴って一人で暮らしていた。

 両親が影の憲兵団に連れ去られてからは、

 幼い頃から数え切れないほどの恐怖に立ち向かってきた。

 自分のホームシックも、

 ジャスミンには弱々しく子供じみたものに思えるだろうとリーフは確信していた。

 リーフはリンゴをもう一口かじった。

 その時、甲高い声が響き、飛び上がった。

 

「泥棒!」

 リーフは揺らめく夜明けの光に目を細めた。

 何かが長い草むらをかき分け、叫び声を上げながらこちらに向かってくる。

 近づいてくると、小さな老婆だと分かった。

 老婆はとてもふっくらとしていて、肩布にくるまって丸々としていた。

 薄い茶色の髪を小さな髷に結ってある。

 顔はしわしわのリンゴのように、皺だらけで、怒りで真っ赤になっていた。

 老婆は怒りに震え、眉をひそめ、拳を振り回していた。

「泥棒! 浮浪者め! 返せ! 返せ!」

 四人は口を開けて老婆を見つめた。

「あたしのリンゴを盗んだようだね!

 護衛が寝てる間に、あたしの美しいリンゴを盗んだんだ。どこにあるんだい? 返せ!」

 ジャスミンは静かに、手に残っていた三つのリンゴを渡した。

 老婆はそれらを胸に抱きしめ、睨みつけた。

「他のはどこだい? 残りの六つはどこだい? リンゴには番号が振ってあるんだ。

 一つ一つ、きちんと管理しなきゃ。そうしないと、どうやって目的を達成するんだい?

 あんたが取った九つなら、九つは返さなきゃいけないんだよ」

 バルダは咳払いをした。

「大変申し訳ございませんが、お返しできません。もう食べてしまいました」

「食べた??」

 老婆は腫れ上がったように見え、顔が真っ赤になったので、リーフは爆発しそうになった。

「すみません……失礼しました。凄くお腹が空いていて……」

 老婆は頭を後ろに反り、両腕を上げ、肩布を振り回し、甲高い恐ろしい叫び声を上げた。

 たちまち、彼女は暗く渦を巻き、ブンブンという音を立てる雲が取り囲む。

 それは、何千匹もの蜂だった。

 老婆の背中に乗り、肩布の下に群がっていた蜂達が、

 今や老婆の周囲に群がり、攻撃の命令を待っている。

「またこんなにも……!」

 ヴァージニア、リーフ、バルダ、ジャスミンはよろめきながら後ずさりした。

 蜂の群れがあちこちにうねり、老婆の頭の後ろで模様を描いていた。

 羽音はまるで巨大な獣が威嚇するように唸っているようだった。

「あたしが無防備だと思ったようだね? 恐れずにあたしから盗めると思ったんだね。

 あたしの護衛は弱いけど数が多く、心を一つにして行動している。

 あんたの行いの代償として、千の刺し傷で死ぬよ!」

 ジャスミンは必死にポケットの中を探っていた。

 探していたものを見つけ、手を差し出した。

 金貨と銀貨が陽光に輝いていた。

「リンゴと引き換えにこれを受け取ってくれるの? お金があるのに、どうして盗むの?」

 老女は驚いて目を細めた。

 しばらくすると、しわくちゃの手が伸びてきて、硬貨を受け取った。

「ダメだ!」

 リーフは思わず飛び出し、叫んだ。

「その金が全てよ。枯れたリンゴ数個で全部持って行かれるわけないじゃない!」

 蜂達は危険なほどブンブンと羽音を立てながら、彼に襲いかかった。

「静かに、坊や、静かに。静かに、静かに!

 あたしの護衛達は急な動きが苦手で、すぐに怒ってしまうんだ。

 巣から蜜を取る時だって、煙を出して落ち着かせなきゃいけないんだもの。あたしだって」

 老婆が小さな声を出すと、背後の蜂の群れは縮み上がり、姿を消した。

 蜂達は肩布に戻り、老婆は金貨を丁寧にしまい、四人を睨みつけた。

「これを教訓にしな!

 そして、仲間の放浪者達に、次にここに来る泥棒には容赦はしないと言い聞かせな」

 ヴァージニア、リーフ、バルダ、ジャスミンは躊躇った。

 老婆は四人に拳を振り上げた。

「さあ、行きな! 来た道に戻るんだね」

「おばあさん、私達は道から来たんじゃないわ! それに泥棒でもないのよ!

 もし道から来なかったら、一体どこから来たの?」

 少し間を置いて、老婆は呟いた。

「あたしの果樹園へは他に道がないんだ。ただ……」

 突然、老婆は手を伸ばし、リーフのマントの端を掴んだ。

 湿り気を感じ、息を呑み、ゆっくりと頭を上げて水面の向こう、

 ネズミの平原の上空にまだかすかな煙が立ち上る地平線を見つめた。

 しわくちゃの老婆の顔に恐怖の表情が浮かんだ。

「あんた、誰だい? いや、さっさと出て行け!

 もし、お前をここで見たら、あたしの蜂でさえあたしを守れないよ」

「どうやって道を見つけるんですか?」

 リーフが慌てて尋ねると、老婆は背後の果樹園を指差した。

「果樹園を抜けて。向こう側に門があるよ。急げ!

 そして、あたしが言った事は忘れて、ここにいた事は誰にも言うんじゃない」

「それは間違いない。俺達を忘れてくれるとはな」

 

 四人は踵を返し、草むらを大股で横切った。

 木々に着いた時、叫び声が聞こえたので振り返ると、

 見知らぬ老婆が蜂の群れの中に丸々と立っていて、四人の後ろをじっと見つめていた。

「では、幸運を!」

 老婆は腕を上げて叫んだ。

 四人はそれに応えて腕を上げ、歩き続けた。




冒頭のヴァージニアの台詞は、それだけデルトラの世界が危険だという事です。
ヴァージニアの目的は、この世界から脱出する事ですから。
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