ヴァージニアとデルトラクエスト   作:アヤ・ノア

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デルトラ七部族のグノメ族、そして影の王国の刺客が登場します。
こんな怪物が影の王国にたくさんいると思うと身震いしますよね。


第32話 凶悪なるブラール

 四人は夜明けの1時間前に再び出発した。

 ダリア、エルザ、ブルーナ、メリンは滝の頂上から飛び降り、

 狭い谷を抜け、再び空へと舞い上がった。

 今、四人は猛スピードで飛んでいた。

 休憩所での時間は、四人に新たな活力を与えたようだった。

「小川の水よ」

「何年も夢を見ずに眠れた。少なくとも、春がもたらす特別な夢を見ずに眠れた。

 今朝はまた若返ったような気分よ」

「私も」

「でも、夜中に一瞬身動きしたわ。部族の気配を近くに感じたの。

 何かを伝えようとしているような気がしたの。

 でももちろん、何も見えず、何も聞こえず、その感覚はすぐに消えたわ」

 ダリアとエルザはそれ以上口を利かなかったが、

 リーフは地平線に恐怖の山が大きくなるのを見て、不安になった。

 部族はブルーナに自分達の存在を感じてもらうために、

 必死にコミュニケーションを取ろうとしたに違いない。

(何を伝えようとしたんだ?)

 リーフは目を閉じ、無理矢理落ち着こうとした。

 恐怖の山が何をもたらすのか、すぐに知る事になるだろう。

 

 正午には、山が目の前にそびえ立っていた。

 広大な暗い塊が視界を埋め尽くしていた。

 ギザギザの地表には、無慈悲な岩と、とげとげした濃い緑の木々が密集していた。

 山頂には雲が集まりつつあった。

 麓から一本の道が曲がりくねり、その向こうの峰々へと消えていっていた。

(もしかしてあそこが、影の王国への道なのか……?)

 リーフは胃がむかむかしながら思った。

 密集した木々の葉の隙間から何も見えなかった。

 グノメ族は今にも四人を見付けているかもしれない。

 矢に、四頭のキンが射程圏内に入るのを待っているかもしれない。

 リーフは金属の煌めきと、少しでも動きの兆候がないか目を凝らした。

 何も見えなかったが、それでもリーフは恐怖を感じていた。

「今が危険な時よ。グノメ族が狙いにくくしないと。ずっと昔に教わったけど、忘れないわ。

 しっかり掴まって!」

 エルザは急降下し、旋回し、急上昇し、再び落下し始めた。

 リーフは息を切らし、必死に身を挺しながら、

 ダリア、メリン、ブルーナがエルザに続いて同じように急な動きをしているのを見た。

 

きゃぁぁぁぁぁっ!

 数瞬後、最初の矢が彼らに向かって飛んできて、エルザとダリアをかすめた。

 かすかな甲高い叫び声が下から響いた。

 リーフとヴァージニアは下を見下ろし、身震いした。

 突然、岩は青白い肌と虚ろな目をした生き物で覆われ、皆、鋭い笑みを浮かべ弓を引いていた。

 何百もの矢が、まるで殺戮の雨のように、上空から降り注いでくる。

 エルザは左、右、上、下へと矢をかわし、方向転換しながらも、常に前進し続けた。

 矢は山へとどんどん近づき、木々の梢が四人を迎え撃とうとしているかのようだった。

 矢のどれかは必ず命中するに違いないと思えた。

「グノメ族はみんな高いところにいるわ、要塞の近くよ。

 もっと下へ降りて、キン、もっと下へ。ブーロンの木が一番茂っているところへ。

 あいつらはそんなところには行かないからね」

 グノメ族の甲高い、ゴロゴロという鳴き声と、

 キン達が巨体をあちこちに振り回す柔らかな唸り声が、辺りを満たした。

 リーフはエルザの心臓の鼓動と、かすかにヴァージニア、バルダ、ジャスミンが、

 ダリア、メリン、ブルーナを急かす叫び声を聞いた。

「顔を覆いなさい!」

 エルザが叫んだ。

 そして、大きな音と共に四人は木の梢に激突し、葉や枝を踏み砕き、

 行く手を阻むもの全てを粉砕して地面に落ちた。

 

「リーフ、大丈夫?」

「あ、あぁ」

 リーフはぎこちなく顔を覆う手を離し、エルザの暗く不安げな瞳を見つめた。

 ヴァージニアは、ふらふらとしていた。

「おかげさまで、とても元気です」

「とげのある木に突き当たったばかりの人間としては、これ以上ないほど元気ですわ」

「最高の着地とは言えなかったわ。でも、ここのブーロンには隙間がないの。

 だからグノメ族から身を守れるの。グノメ族は棘が苦手なのよ」

「私も好きじゃないわ」

 ジャスミンの隣で地面に座り手の甲にできたいくつかの酷い傷跡を調べていたバルダは呻いた。

 バルダはよろめきながら立ち上がり、近くのせせらぎの小川へ行き、傷を洗い始めた。

 ダリア、メリン、ブルーナは、小川のせせらぎに覆いかぶさる、

 節くれだった木々の茂みに飛び込んだ。

 三頭は、ねじれた幹に群生するトゲトゲした葉の束から、

 硬くて小さな黒い松ぼっくりを嬉しそうに引き抜き、

 まるでお菓子のようにカリカリと食べていた。

「これがブーロンの木か」

「こんな棘は、教会にありましたわね」

「あの木は私達を傷つけないわ」

 ベルベットのような毛皮から数枚の葉を摘み取り、口に放り込むと、

 端にある長く鋭い針のような棘をものともせず、美味しそうに噛んだ。

「私達がここに住んでいた頃は、ブーロンの木はこんなに多くなく、

 木々の間を縫うように小道がたくさん通っていたわ」

 エルザは口いっぱいに葉を詰めながら続けた。

「小川は広く、至るところに草木があったわ。

 私達が餌をやらなくても、ブーロンの木は驚くほど成長し、広がってるわ。

 もちろん、松ぼっくりには種がいっぱい詰まってる。だからあんなに美味しいのよ!」

 頭上で雷鳴が轟いた。

 エルザは噛むのをやめ、空気を嗅いだ。

 それから、ダリア、メリン、ブルーナが、

 まだ暴れ回りながらごちそうを食べているところへ急いだ。

「行かなくちゃ!」

 四人はエルザの呼ぶ声を聞いた。

「嵐が来るわ。袋に松ぼっくりをいっぱい詰めて。みんなのために持って帰るわ」

 ジャスミンは首を横に振った。

「グノメ族が宝石を持ってるに違いないけど、

 この棘の森を抜けてどうやって要塞まで登ればいいのか分からないわ」

「登ろうとしたら、バラバラにされますわよね。

 着陸時に空き地を破壊してしまったから、今はここに座っているしかありませんわ」

「火をつけて道を切り開けばいいんじゃないか?」

 リーフの提案にクリーが甲高い声を上げ、

 フィリが神経質そうに喋り、ジャスミンは首を横に振った。

「それは危険すぎるわ。こんなに深い森じゃ、火を消すなんて到底無理よ。

 炎は私達をみんな、あっという間に焼き尽くしてしまうわ」

 四頭のキンが、松ぼっくりや棘の葉の束で袋を膨らませながら、四人の方へ近づいてきた。

 まるで言い争っていたかのようだった。

「別れを告げに来たの。嵐が来る前に、今すぐここを離れなければならないの。

 ここの嵐は激しくて、何日も続く事があるのよ」

「こんなに早く友達を一人にしちゃダメよ!」

「知らない事が多すぎるのよ」

 ブルーナの髭が不機嫌そうにぴくぴく動いた。

「メリン、私達はクレンにできるだけ早く戻ると約束したのよ。もしここで孤立したら……」

「孤立なんてしないわ! ここが私達の場所。ずっとここにいるべき場所。

 ここに来て、そう思えたの」

 メリンの目は興奮で輝いていた。

「私達はここに残るべきよ。そうすれば、他のみんなも一緒に行けるわ。

 ここ、山の麓では、グノメ族は私達に手出しできないのよ」

「メリン、奇跡的に無事に着陸したんだけど、こんな危険な場所で何頭、生き残れると思う?」

「たとえ半分だけでも」

「ブーロンの木は数年で元の姿に戻るわ。

 そうすれば道は再び開いて、グノメ族が戻ってきて、また虐殺が始まるわ」

「残酷ね」

 メリンは俯いた。

 しかし、ヴァージニア、リーフ、バルダ、ジャスミンは、

 メリンが友人達の言う通りだと分かっていた。

 頭上で雷鳴が轟いた。

 エルザは不安そうに空を見上げた。

「ここからそう遠くないところに、大きな岩の露頭があるわ。

「着陸した時に見たの。そこから飛び立ったら一番早いわ。

 重労働にはなるけど、私達みんなでできると思うわ」

 ヴァージニア、リーフ、バルダ、ジャスミンが後を追って、

 四頭のキンはブーロンの木々の間を縫うように道を切り開いた。

 間もなく四人は岩場に辿り着き、空を見上げた。

 南から暗い雲が流れ込んできていた。

「雲の中に無事に入れば、きっと隠れる事ができるわ。

 もし私が正しければ、グノメ族はここを見ていないでしょう。

 もっと高いところから見張っていて、私達がもっとたくさん来るのを待っているでしょう」

「では、さようなら、親愛なる友よ。あなたが私達にしてくれた事には感謝してもしきれません」

「感謝する必要はないわ」

「故郷に再び会えた事で、私達は皆、より豊かな気持ちになった。たとえほんの少しの時間でも。

 お願いがあるのは、いつかまたあなたに会えるように、どうかお元気でいてね」

 四頭は屈み込み、ヴァージニア、リーフ、バルダ、ジャスミンの額に頭を触れた。

 それから向きを変え、翼を広げ、空へと飛び立った。

 しばらくの間、緊張した翼を激しく羽ばたかせ、

 四頭は地面に落ちてしまわないように必死に抵抗した。

 四人は息を呑むほど静かに見守っていた。

 今にもグノメ族が羽音を聞きつけ、見下ろし、矢を放つのではないかと。

 

 しかし、万事上手くいった。

 叫び声も、上から矢が放たれる事もなかった。

 ようやくキン達が体勢を立て直し、前進し始めた時、雲が彼らを取り囲むにつれて、

 キン達の輪郭は次第にぼやけ、そして姿を消した。

 

 バルダは安堵の溜息をつき、背を向けて岩場を駆け下り始めた。

 ヴァージニアとリーフも後を追おうとしたその時、視界の隅に何かが映った。

 二人は見上げ、驚いた事に、二人の頭上の雲からよろめきながら暗い影が浮かび上がってきた。

「キンが一頭、戻ってきた! でも、どうしてこんなに高いところにいるんだ? まさか!」

 皆は、グノメ族の射線上に、キンがふらりと姿を現すのを、愕然と見上げた。

 それはダリアでも、エルザでも、ブルーナでも、メリンでもなかった。

 

「プリン!」

 リーフは恐怖に震えながら囁いた。

 小さなキンは、他のキン達の着陸地点を示す折れた木立を目に留めた。

 プリンはそこへ飛び立ち、ずんぐりとした翼を弱々しく羽ばたかせた。

 次の瞬間、山の遥か彼方から、勝ち誇ったような甲高い叫び声と吹き荒れる笑い声が聞こえた。

 何かが空を駆け抜け、プリンは胸に矢を受け、落下していく。

 

あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!

 ヴァージニア、リーフ、バルダ、ジャスミンは恐怖の叫び声をあげ、

 岩から飛び降り、空き地へと駆け下りた。

 プリンは小川のほとりの地面で弱々しくもがいていた。

 翼は崩れ落ち、小さく哀れな声を上げていた。

 目は苦痛でぼんやりとしていた。

 胸を貫いていた矢は既に抜け落ちていた。

 傷は小さかった。

 しかし、矢に宿った恐ろしい毒は、ほぼ絶え間なく効いていた。

 プリンは苦痛に満ちた目を閉じた。

「ジャスミン!」

「蜜を……」

 ジャスミンは既に首から小さな瓶を引き剥がし、小さなキンの胸に傾けていた。

 命の百合の蜜の、最後の黄金色の雫が傷口に落ちた。

 三滴……もうない。

「わたくしが何とか奇跡を使いますわ! 主よ、どうかこの者より毒をお清めください……!」

 ヴァージニアはプリンの傷に手を当てて、解毒の奇跡を使った。

 その名の通り、毒や病気を治す、初歩的な奇跡だが、効果は強力だった。

「これで足りないなら、私達にできる事はもう何もないわ」

 ジャスミンは呟き、瓶を振って中身が空である事を確認した。

「ああ、プリンを撃って何になると思ってましたの? どうして撃ちましたの?」

「そうみたいだな。笑い声が聞こえなかったのか?」

 リーフはプリンの頭を抱きしめ、沈黙の森でバルダを呼んだように、プリンを生き返らせた。

 ジャスミンが嘆きの湖へ向かう途中でクリーを呼んだように。

 ネズミの街でリーフ自身が呼ばれ、ヴァージニアが助かったように。

 遠い昔、ジャスミンが命の百合の花から滴る蜜を掴んだその蜜は、リーフ達の命を救った。

 

 しばらくして、プリンが身動きした。リーフは息を呑んだ。

 胸の小さな傷が塞がり、消え始めた。

 プリンは目が開き、瞬きをし、驚いてリーフを見上げた。

「落ちたの?」

「プリン、ここで何をしているのか分かっているのか!」

 リーフは怒鳴り声を上げた。

 プリンが後ずさりするのを見て、リーフは自分を呪った。

 恐怖と安堵に怒りを抱くという罠に陥ってしまった事に気づいたのだ。

 バルダはつい最近、うごめく砂で同じ事をした。

 リーフは二度と同じ事をしないと心に決めた。

 決意なんて、こんなものか、とリーフは暗い気持ちで思った。

「ごめん、プリン。大声を出すつもりはなかった。でも、君の事が心配でたまらなかったんだ。

 一人でここまで飛んできたのか?」

 プリンは頷き、まだ警戒しながらリーフを見つめていた。

「あなたについてきたのよ。あの山を見る唯一の機会を逃すわけにはいかなかったの」

 プリンは空き地を見回し、景色をじっくりと眺めた。

 彼女の声は刻一刻と強くなっていった。

「あの休憩所であなたの傍で寝たのに、あなたは知らなかったわ。

 でも今日は他のみんなが凄く速く飛んで、私も遅れちゃったの。凄く、凄く疲れてた。

 それに雲が来て、迷子になってしまったの。それから……」

 突然の恐怖で、プリンは目を見開き、胸を押さえた。

 それから下を見て、傷がないのを見て息を呑んだ。

「怪我をしたと思ったの。でも……夢だったに違いないわ」

 四人は顔を見合わせた。

「夢じゃないよ。君は怪我をした。でも、僕達には……あなたを治す力があったんだ」

「プリン、来ちゃダメだ。キンが、たった一人の幼い君を失ったらどうするんだ?」

「迷子になるわけないって分かってた」

 プリンは自信たっぷりに言った。

 彼女は立ち上がり、辺りを見回した。

「ダリアは? エルザはどこ? メリンとブルーナは?

 私を見たらきっと驚くわ! あんなに遠くまで飛べるとは思ってなかったわ」

 返事を待たずに、プリンは小川を飛び越え、向こう岸の木々の中をもがきながら叫び始めた。

「あの子はみんなが行ってしまった事に気づいていないようだな」

 バルダはヴァージニア、リーフ、ジャスミンに呟いた。

「きっと一緒に帰れると思っていましたわ。一人では絶対に帰れませんの。

 どうしたらいいですの?」

「私達と一緒に来てね」

「でも、危険すぎる!」

 ジャスミンは肩を竦めた。

「プリンはここに来る事を選んだのよ。その結果、どうなるかは我慢しなくちゃいけないの。

 キンはプリンを甘やかして、赤ん坊のように扱うの。

 でも、プリンはもう、赤ん坊じゃない。まだ幼いけど、私達の役に立つはずよ」

 ジャスミンは、プリンが小川で踊りながら、

 ブーロンの木々から松ぼっくりや葉をもぎ取って、がつがつと食べている方へ頷いた。

 小さなキンは、既に棘の間に広い場所を切り開いていた。

「ほらね? プリンが道を作るのを手伝ってくれるわ。小川に沿って行けば……」

「そんなわけない」

 バルダがきっぱりと口を挟んだ。

「もう、エネルギーばかりで分別のない、我儘な子供に重荷を背負わせるのは嫌だ!」

 リーフは、かつてならその陰惨な冗談に腹を立てただろうが、微笑む事もなかった。

 プリンを山に連れて行くのは、バルダにとってもリーフにとっても、不快な事だった。

 一方、ヴァージニアはプリンを何としてでも守ろうと思った。

 

 頭上で雷鳴が轟いた。

 空き地では、雷鳴は酷く薄暗くなっていた。

 空気は重く、重苦しかった。

「まずはどこかに避難場所を見つけないと。嵐が……」

 突然、ジャスミンは顔を横に傾け、身を硬くした。

 ジャスミンは熱心に耳を澄ませていた。

「何だ……?」

 リーフは小さく口を開いた。

 その時、リーフは小川の音がだんだん大きくなっている事に気づいた。

 刻一刻と大きくなっていた。

 ヴァージニアは慌てて身構えた。

 数秒後、まるで水が空き地に向かって流れ込んできたかのようだった。

「洪水……ですの?」

 ヴァージニアは戸惑いながら呟いた。

 しかし、まだ雨は降っていないし、いずれにせよ音は下流から聞こえてくる。

 その時、プリンが小川の真ん中でじっと立ち尽くし、驚いて音の方向を見つめているのを見た。

「プリン!」

「出て行け! 出て行け!」

 プリンは甲高い声を上げ、半ば飛び上がり、半ば跳躍するように水から岸辺へと飛び上がった。

 同時に轟音が響き、巨大で光り輝く人型の怪物が視界に飛び込んできた。

 小さなキンが立っていたまさにその場所に着地し、間一髪でプリンを掠めた。

 獲物を逃がした事に怒りの唸り声を上げ、怪物はくるりと旋回し、恐ろしい頭をもたげた。

「ブラール!」

 プリンは叫び声を上げた。

 恐怖で声が震え、プリンはよろめきながら小川から後ずさりした。

「逃げられませんわね……!」

 ヴァージニアはその怪物から逃げられないと悟った。

 ブラールの蛇のような鱗は鈍い緑色に黄色の縞模様で森の弱々しい光の中で邪悪に輝いていた。

 背丈はバルダと同じくらいで、幅はその倍ほど。

 がっしりとした弓状の肩、振り回せる尾、

 そして湾曲したナイフのような爪を持つ力強い腕を持っていた。

 しかし、最も恐ろしいのは、顔がないように見えた事だ。

 ゴツゴツとした鱗状の肉塊で、目も鼻も口もない。

 そして、それは咆哮した。

 塊はまるで破裂する果実のように真っ二つに裂け、顎は赤く大きく開いた。

 同時に目が姿を現した。

 燃えるようなオレンジ色の細長いものが、保護用の隆起と襞の間から鋭く光っていた。

 それは小川から飛び出し、一気に岸に着地した。

 リーフは足の代わりに、柔らかく湿った土に深く食い込む、分かれた蹄を持っているのを見た。

 あんな巨体を支えるにはあまりにも繊細すぎるように見えたが、

 それが再び咆哮し、前に飛び出すと、リーフはその考えを頭から追い払った。

 その怪物は、ただ獲物を殺すだけの存在だった。

 木々の上で轟く雷鳴にも気づかなかった。

 その邪悪な目はプリンに釘付けだった。

 

「プリン! 逃げろ!」

 バルダの声が轟くと、プリンは恐怖で地面に倒れ込んだ。

 ブラールは、影の王国に住む、獲物を殺す事だけを目的とした凶悪な怪物だ。

 唇のない口は醜悪な笑みを浮かべ、シューという音を立てながら爪を伸ばした。

 リーフ、バルダ、ジャスミンはブラールに素早く駆け寄って攻撃するが、

 ブラールは三人の攻撃をかわす。

「隙ありぃっ!」

 ヴァージニアが勢いよくメイスを振り下ろすが、ブラールにはギリギリで当たらなかった。

 即座にブラールはリーフとジャスミンを爪で攻撃する。

 リーフはギリギリでブラールの攻撃をかわしたが、

 ブラールの爪はジャスミンの身体に傷を負わせた。

「あぁぁっ、ジャスミン!」

「よくもやったわね! プリン、下がって!」

 ジャスミンは後ろに下がった後、火ぶくれ弾を投げつける。

 バルダも続けて、プリンに当たらないように火ぶくれ弾を投げ、ブラールをふらつかせる。

 その隙にリーフとヴァージニアはそれぞれの武器で攻撃した。

 しかし、ブラールはヴァージニアとジャスミンを爪で切り裂き、

 続けてリーフとバルダにも傷を負わせた。

「そうだわ……わたくしがやらなければ……! 光あれ!」

 このままでは全員、ブラールに殺されてしまう。

 そう思ったヴァージニアが呪文を唱えると、ジャスミンの傷がみるみるうちに癒された。

 これがヴァージニアが使う「奇跡」だと、リーフ達は確信した。

「今の、何……?」

「ああもう、ブラールが来ますわよ!」

「ここは、私がやるわ!」

「ダメだ、プリン! 逃げろ!」

 プリンは後ろに飛び退き、力強い後ろ足で着地すると、よろめきながら小川へと戻った。

 ブラールは何も見ておらず、怒りと苦痛に叫びながら、頭を後ろに倒した。

「苔よ!」

 プリンは泣きじゃくり、必死に足を洗った。

「その目に、その耳に! 紫色の苔! 緑の苔は癒し、紫色の苔は傷つける。

 あの子達は私に言ったわ! 何度も何度も言った、そしてそれは本当よ!」

 稲妻が閃き、再び大きな雷鳴が轟いた。

 そして、まるで空が割れたかのように、激しい雨が降り始めた。

 雹の混じった、氷のように冷たい激しい雨だった。

 最後の咆哮と共にブラールは方向転換し、プリンが脇に飛び退くと、

 何も考えずに小川へと転落し、水しぶきを上げて去っていった。

 

 その後、四人は小川に張り出した岩にできた小さな洞窟に身を寄せ合い、うずくまった。

 外では、刺すような雹がまだ地面を叩きつけていた。

 何とか火をつけたが、今のところ暖まる事はほとんどなかった。

 しかし、文句を言う者は一人もいなかった。

「もう限界だと思ったぞ」

 バルダはそう言いながら、松明を火に浸して火をつけた。

「結構苦戦しましたわ……あいつ、影の大王のしもべだけはありますわね。

 リーフ、調子はどうですの?」

「もうだいぶ良くなったよ」

 リーフは鞄に背中を預けて横たわっていた。

 傷ついた腕に緑色の包帯のようなものを巻いていたが、

 実際には小川から採ってきたばかりの緑色の苔の塊を蔓で縛り付けたものだった。

 ブラールに苔が与える効果、そしてプリンの足にできた酷い水ぶくれを見て、

 リーフは当初、苔を自分の傍に置くのを嫌がっていた。

 しかしプリンは、緑の苔には驚くべき治癒力があるとリーフに保証し、その証拠として、

 自身の火傷した皮膚に苔を当て、ジャスミンにしっかりと巻き付けるように頼んだ。

「緑紫色の苔の話を、他の皆が何度も聞いていたわ」

 バルダが松明を掲げ、洞窟の周囲に光と影を跳ねさせながら、プリンは言った。

「グノメ族は傷にこの苔を使うわ。昔、ブラールがキンを襲ったけど、この緑の苔で助かったわ。

 苔が古くなって水に浸かり、小川沿いの岩の縁に落ちて紫色に変色すると、

 体にまとわりついて燃えるように痛むのよ。

 もちろん、グノメ族が矢に使うような本物の毒じゃないわ。

 ブラールの目と耳に痛みを与えるだけよ。しかも、ブラールでさえすぐに回復する。

 ブラールは数日後にはまた戦えるようになると思うわ」

「えっ……」

 プリンはリーフに微笑みかけ、温かさと安らぎを求めて肉球を袋に押し込んだ。

「君は本当に勇敢だったね、プリン。君は僕達みんなを助けてくれた。

 キンは君をとても誇りに思うだろう」

「ええ」

 ジャスミンは温かく言い、フィリも同意した。

 プリンは少し背筋を伸ばした。

「昔、キンは紫の苔を使って、大勢でやって来るブラールと影の憲兵団から身を守ってきたのよ。

 お母さんとクレンが何度も話してくれたわ」

「えぇっ!? あんな奴がこんなに押し寄せてきたのに!?」

 プリンは、自分の知識を誇らしげに言った。

 ヴァージニアは、こんな怪物が群れで来る事を想像すると、恐怖で失神しそうになった。

「それなら、ダリア、エルザ、ブルーナ、メリンが私達に見せてくれなかったのも不思議ね」

 ジャスミンは眉を潜めて言った。

 プリンは首を横に振った。

「夢の中で、うろつくブラールや影の憲兵団を見た事がないのよ。

 朝になると、ブーロンの木の事ばかり話すの。

 今は山で危険なのはグノメ族だけだと思っているのよ」

「夢を見るって、そういう事なのかもしれないな」

「多分、夢に映ったものしか見ないと思いますわ。それもほんの少しの間だけ。

 例えば、キンが、山でわたくし達のような旅人を見たって話してくれた事はありまして?」

「今は誰もここに来ないらしいわ。グノメ族の毒矢のせいで、誰も近寄らないみたい」

「どうやら、全員ではないようだな」

 バルダは頭を洞窟の奥へと向け、松明を高く掲げた。

 皆が振り返り、リーフは息を呑んだ。

 青白く柔らかい石に、かすれた文字が書いてあった。

 リーフは、それが血で書かれているに違いないと確信した。

 

 おれはだれだ

 すべては闇だ

 だがあきらめないぞ

 わかっていることは3つ

 おれは人間だ

 おれはあの国にいた

 おれにはやるべきことがある

 あきらめるものか

 

「さっぱり分かりませんわ」

 ヴァージニア、リーフ、バルダ、ジャスミンは、洞窟の壁に走り書きした文字を見つめていた。

 異世界から来たヴァージニア以外は、孤独で苦しむ男の姿を想像していた。

 どうやら、彼は自らの血を使ってメッセージを書いたらしい。

(一体どうしてそれを書いたんだ? 恐怖と混乱から逃れるためなのか?)

「あいつは誰だったの? 今、どこにいるの?」

「死んだのかもしれないな。もし、負傷していたなら……」

「少なくともここで死んだわけじゃない。洞窟には骨がないからな」

「もしかしたら回復して、山から逃げ出したのかもしれませんわね」

 リーフとヴァージニアは、そうであってほしいと、望み薄ながらも願っていた。

「『自分がどこにいたかは分かっている』って言ってるの。

 という事は、メッセージを書いた少し前に、どこか別の場所からここに来たかもしれないわ」

「ブラールみたいに影の王国から来たのかもしれないわ」

「それはあり得ない。影の王国からは誰も逃げられないからな」

「……」

 ヴァージニアは、自分とワソを召喚した影の大王を思い出す。

 あの時、自分達は影の王国にいたのかもしれない……と。

 しかし空気を読むため、あえて黙っていた。

 リーフは背もたれに寄りかかり、突然頭がくらくらした。

 ジャスミンの手が腕に触れているのを感じ、ジャスミンを見ようと必死に抵抗した。

「リーフ、相当の傷を負ったみたいね。だから体が弱っているのよ。無理はしないで。

 バルダ、私、ヴァージニアが見張りをするから」

「今夜は……もうここから出られませんわね」




ブラールはウネウネしていない分、ヴァージニアは少なくともパニック状態にはなりませんが、
それでも凶悪な怪物である事には変わりませんので、何とか身を隠そうと思っているようです。
次回はグノメ族がすんでいる場所に向かいます。
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