ある日の午後、呪術の自主練に行こうと外に出ると、お姉様方が妙に浮かれていた。
そういえばアエファニルが居た頃はいつもこんな感じだった気がする。
お姉様の一人が私に気付き、普段の優雅さを捨てて凄い勢いで近付いてきた。
「シャロン、今しがたアエファニルが帰って──シャロン!?」
逃げる。ダッシュで逃げる!
油断してた、すっかり忘れてたけど原作で「明日バベルへ向かう」みたいな話をしてたシーンが有ったような。
バベル崩壊前に一度帰ってるのか!
どうしよう、どうしよう、どうしよう。反射的に逃げてしまった。
自分がどこへ行こうとしてるのか、どうやったら止まれるのかも分からない。
しばらく無意味に駆け回る。
いやでも絶対アエファニルの方が速い、鍵の掛かる場所に籠もりたくなってきた。
アエファニルが囲まれているのであろうお姉様方の密集地帯を迂回し、呪術で姿を隠しつつフワフワ浮いて、換気のために開けたままの窓から自室へ入る。
窓を閉めて扉にも鍵を掛けた。よし。
……なんか嫌な予感がするからカーテンも閉めておこう。
あれ? 今カーテンに人影が映った? いやいやきっと気のせい。ここ二階だもん。
疲労感を覚えて一旦ベッドにダイブ、枕元に置いてあるオリジムシ人形を揉み揉みする。落ち着くんだよねこれ。
布を張り替えたり綿を詰め替えたりしてテセウスの船状態だけど、私の宝物だ。
しかし精神を落ち着かせた所で扉がノックされた。
「シャロン、我だ。アエファニルだ」
あ、ロゴス先生の声だ……
原作の声なんてもうとっくに忘れたと思ってたけど、聴いたら分かるものだな。
返事をするべきか、それとも居留守を決め込むか迷っていると、先にアエファニルが動いた。
「……入るぞ。『解錠せよ』」
鍵の存在意義を消し去らないで!?
鍵が回る音を背に、咄嗟にクローゼットへ飛び込む。
部屋の扉が開く音。ゆっくり近付いてくる足音。
もうダメだ。
そう思ったが、足音が目の前で止まっても、クローゼットの扉は閉ざされたままだ。
「シャロン、うぬの兄が帰ったぞ」
「あああ兄上! よよくぞ戻られた!」
「姿を見せてはくれぬのか?」
とにかく何かしら返事をしなければ扉を開けられてしまう。
何か……何か! そう、『さしすせそ』を逆の方向に活用するとか!
「わわわわらわは今ヴェールを着けておらぬのだ。わらわも既に幼子にあらず、安易に素顔を見せてはならっ、ならぬ!」
「気にするでない、我とうぬの仲ではないか。そもそもうぬの年齢はまだ──」
「せせせ背中の紐もほどけて! 服がずり落ちて人前に出られる姿ではないのだ!」
「我が結ぼう。見せよ」
「しし死んでも断る!」
「シャロン。バンシーたるもの、死を軽々に扱うでない」
「さすがであるな!」
ありがとう、誘惑のお稽古。
お陰でその場しのぎの会話ができている。
できてる?
「開けても良いか?」
「拒否する!」
「なにゆえ……」
「ふ、太ってしまった! 斯様に醜い姿は見せられぬ!」
「はて。姉妹らからは、シャロンが細くて心配だと聞いておるのだが」
「然り! 痩せた! 言い間違えた!」
「ふむ……さあらばそのままでよい。我の話を聞いてはくれぬか」
クローゼットの外、すぐ近くで椅子を動かすような音がした。
応じなくても居座るつもりのようだ。
「……承知した」
「感謝するぞ、シャロン」
感謝だなんて。私の方が謝らなきゃいけないのに。
顔を合わせづらいと言っても、ここまで来たなら最早ただの意地だろうに。
そう思うのに、クローゼットから出る勇気は湧いてこない。
「我は今、バベルという組織に所属しておる。そこにはなんと──」
テレジアの話だろうか。バベルの理想の話だろうか。それとも戦友達の話だろうか。
身構えていたが、意外にもアエファニルはその内のどれにも触れなかった。
「──動く椅子が有るのだ。足に付した車輪で滑走するのだが、手押し車と同じと思うでないぞ。車輪そのものに水平方向の回転を加える事で、機敏な旋回を可能にした優れものよ」
新鮮な事はいくらでも有っただろうに、真っ先に話すのがスツールの事なのか。そんなに滑走が好きか。
気が抜けて思わず少し笑ってしまう。
「……アエファニルが好みそうであるな」
「あれは良い。座面もほどよい柔らかさで、高さの調節まで可能。あれこそが発明というものなのであろうな。他にも自動販売機という──」
アエファニルが語るのは珍しい装置や道具の事ばかりだ。不自然なほどにバベルそのものや仲間の話はしない。
ああ、さっきのは滑走が好きだからじゃなくて、気を遣われていたのか。知らない人の話はつまらないとでも考えてくれたんだろう。
そんな優しいアエファニルを、私は裏切るんだ。
やがて黄昏時になり、外から響く挽歌に合わせて二人で歌う。小さな頃からの習慣。
それが終われば晩御飯の時間が来る。
……小さな頃と同じはずなのに、ロゴス先生の歌声だと落ち着かない。
アエファニルのあの声は、もう聴けないんだな。
すぐそこに居るのに、別れた時よりも遠ざかったような気持ちになる。
「シャロン、夕餉の時間だ」
「わらわは食欲が無いゆえ行かぬ。親子水入らずで過ごされよ」
「それを言うなら家族水入らずであろう。無理に食さずとも良い、シャロンも来るのだ」
「行かぬ」
「……ならば此度はうぬに譲ろう。来なくとも構わぬが、食事は摂るのだぞ。明日また来る」
部屋の扉が開く音。その直後騒がしい声が聴こえ、アエファニルと入れ替わるように世話役のお姉様たちが入ってきたようだ。
「すまぬシャロン、呪術で閉め出されてしまった。アエファニルはもうおらぬぞ」
「顔が真っ青ではないか! 温かい茶を淹れてこよう」
「おおよしよし。シャロンは大人の男にまみえるのは初めての事であるゆえ、驚いても仕方がない」
クローゼットから這い出た私を、お姉様が抱き締めてくれる。
あったかくて胸が苦しい。
私が意地を張って、皆を困らせている。私が素直になれば全部丸く収まる。
……素直ってなんだっけ。どうやるんだっけ?
・
次の日、今日はクローゼット籠城は通用しないと踏んだ私は対策をした。
頭から布袋を被ったのである。これでいつ不意打ちで来られても顔だけは守れる。
ただし前が見えないので一人では行動不能になる。私は何がしたいんだ?
「妾が扉の外で見張りをする。アエファニルは通さぬゆえ、安心して食事を済ませよ」
「ここに妾が立っておれば、例え扉を突破されても妾の体でアエファニルの視線を遮る事ができよう」
「焦る必要は無い。よく噛み、味わって食すのだ。いざとなれば妾の胸に飛び込めばアエファニルも手出しできまい」
世話役のお姉様たちも大真面目に付き合ってくれている。ありがとう。
今日の朝食は自室で取る。一人旅のためには体力も必要、ちゃんと食べねば。
無事に食べ終わって布袋を被り直す。しばらくするとアエファニルが来たので、追い返そうとするお姉様たちを止めて通してもらった。
私はおそらく原作の世界には存在しないバンシーだ。
……私さえ居なければ、彼女達も純粋にアエファニルを可愛がれただろうに。
「シャロン、その頭は……」
「アエファニルのまばゆさから目を守っておる」
「……触れるぞ。身構えずとも良い、覆いは取らぬ」
抱き上げられて、アエファニルの膝に横向きに座らせられたようだ。
慎重な手付きで袋越しに頭を撫でられる。
「軽いな。……母上から聞いたぞ。うぬは憔悴した様子で食も細くなったが、理由を訊いても『アエファニルが心配だ』と誤魔化されてしまうと」
「ま、まことに心配しておる」
「ならば己が目で確かめるが良い。我はここにおるぞ?」
「声で分かる。アエファニルは健やかである……ぎゃっ!?」
アエファニルはいきなり私の背中をくすぐってきた。
服越しとはいえぞわぞわする!
「何をする!」
「紐など無いではないか」
「あの時は心の紐がほどけておったのだ!」
私の普段着は露出少なめの子供服。お姉様方のようなセクシードレスはもうちょっと成長してからである。
アエファニルがくすぐり続けてくるので、抗議として胸と思われるあたりをペシペシ叩く。
思ったより硬い。ていうかどこまで胸? え? 肩幅こんなにあるの?
ペタペタ触っているうちに背中をくすぐる手は止まっていた。
「今今の我が如何なる姿か気になるか?」
「既に触れて確かめたゆえ十分である」
「……シャロン、我は困難な戦いへ身を投じる事になろう。もう会えぬやも──」
「アエファニルは負けぬ!」
アエファニルは負けない。負けるのはバベルとテレジアだ。
ポケットに入れていたものを取り出す。
手が震える。指先の感覚が無い。それでもなんとか落とさないように差し出した。
「……これを、テレジア殿下に」
「あなにえや、なんと見事な。うぬの作か?」
「然り……」
何もせずにはいられなくて作った、黒地に白と桃色の花柄のリボン。
守護と祝福の呪文を丁寧に織り込んだ、アエファニルのマスクに並ぶ私の最高傑作だ。
本当に渡す機会が来るとは思わなかったけど。
こんなものでは彼女の死は覆せない。そうでなければ渡せない。
──私が罪の意識を軽くしたいだけの、最低な贈り物だ。
「否。やはり斯様なもの、殿下には──」
引っ込めようとした手を掴まれる。
見なくても分かる。彼の手はすっかり男らしくなってしまった。
美少女のアエファニルはもう居ない。
アエファニルは原作通りロゴスになって、原作に私の居場所は無い。
「殿下は必ずやこれを気に入る。我が保証するぞ。……シャロンをバベルへ連れて行ってやれぬのが残念だ、殿下と話が合うであろうに」
話をする機会は来ない。私はテレジアを見殺しにする。
転生したばかりの頃はロドスで検査を受けたいなんて思っていたけど、どうしてそんな事を考えられたんだろう。
あの艦でテレジアは死ぬ。そしてテレジアの意志を継いだ人達があの艦で生きる。
ドクターみたいに記憶喪失にでもならないと、近付く気にもなれない。
手の中からリボンを抜き取られる。
渡したい、渡したくない、渡したい。
死んで欲しい、生きて欲しい、死んで欲しい。
花占いのように真逆の感情が交互に浮かんでは散っていく。
だけど花占いはどちらかを決めるもの。両方を抱えたままでは許されない。
テレジアは死ぬ。見殺しにする。
──私が彼女を殺すんだ。
大先生の年齢も帰省時期も不明なわけですが、内戦前の90〜91年あたりに成人(18)を機に帰ってきたと仮定して、この頃のシャロンは12〜13歳です。1078年生まれ。