私の記憶違いでないのなら、内戦の始まりは1092年。
だけど、「はい今日から戦いましょう!」ってキリよく始まるわけじゃない。
その前から犠牲は出ている。私が防げたかもしれない犠牲だ。
バベルの教師も、オッダの両親も、死なずに済む道が有ったかもしれない。それ以外の沢山の人達も。
知ってて言わなかった。そしてこれからテレジアも死ぬ。
私はのうのうと生きている。
・
婚活設定で旅立つとして、その体じゃ出産は無理だと引き止められたら困る。今までを取り戻すように沢山食べた。
私は個性の無いモブバンシーでありたいので、食べ過ぎてデブバンシーにならないように気をつけねばと思っていたのだけど、思いのほか肉が付かない。
まだ足りないのかと食べまくっていたら、何故か幅が大して増えないまま胸に栄養が行った。ストップストップ!
平均程度は欲しかったけど、想定していたより膨らんでしまった。
ラケラマリン様の体型、あれもしかして努力とかじゃなくて天然物なんだろうか。
服もついに子供服からセクシードレスにランクアップ。
ちょっと恥ずかしかったけどすぐ慣れた。意外と動きやすい。
お姉様方の服、胸元の面積が小さかったり、面積は広くても透けてる部分が有ったり窓が開いてたりするのが気になっていたが、着てみて理解した。涼しい。
巨乳キャラにありがちな胸元の謎の窓、これ排熱口だったんだな。
ピアスも開けた。怖かったけど、開けてる方がバンシー的には普通っぽいので。
あんまり大振りなものやトゲトゲしたやつは引っ掛けそうで不安だから、小さくて丸っこいデザインのものを着けている。
あとは体力作り。毎日何回か体操ダンス。
他にも呪術の練習を兼ねて姿を隠した状態で走り込み。
不審すぎるので、ちゃんとお姉様に伝えて時間とルートを限定した上でやっている。
「姉上、わらわも姉妹らやアエファニルのように一人で旅をしてみたい。そして相手を見付けて子を成すのだ」
そろそろ旅立ちフラグを立てようと、世話役の三人の中で一番ゆるいダウナーお姉様にまず話してみた。
しかし気怠げに頬杖を付いていた彼女は真っ直ぐ座り直し、脱力感を線に書いたような眉毛がキリッと吊り上がる。
「シャロン、一人で河谷を出てはならぬと言い聞かせてきたはずである。ただでさえそなたは荒事には向かぬというのに、河谷の外はバベルと軍事委員会の衝突によって荒れておるのだ」
「カズデル全土がそうというわけではなかろう? 比較的安全な地域を抜けて別の国へ行こうと思っておる」
「そなた一人ではカズデルを出る事は叶わぬ。早々に悪い男に捕まり、慰み者にされるだけだ。子は成せるやもしれぬが、産んだ所で殺されるか売り飛ばされるであろうな」
「そんな……」
「脅しにあらず。河谷の外を甘く見るでない」
このお姉様は勝手に私のベッドで昼寝をしたり、授業の最中に休憩だと言って挟んだおやつタイムが授業の時間より長かったり、結構いい加減な人なのだが、意外にもシビアな返答であった。
……実体験じゃないよね?
これはもう仕方ない。やりたくなかったけど、黙ってこっそり出て行くか。
・
出るならやっぱり夜だろう。世話役のお姉様達だって、三人とも昼に活動してるんだから、三人とも夜は寝てるだろうし。
一人の時間を使って少しずつ荷物の用意をする。
とりあえずハンカチと呪文リボン。針と糸と、まだ何も刺繍してないリボンも。筆入れはアエファニルに貰ったやつじゃなくて、予備に使っていたシンプルなものだけ持って行く事にする。
食べ物は……普段私の手に入るものでは日持ちしない。携帯食が欲しいならお姉様に頼むしか無いけど、流石に不審に思われるかも。水筒も同じ理由で持って行けない。現地調達でなんとかなるかな。
他には自分で作った薬各種。自分で使ってもいいし、人里で売れるかも。
曇って真っ暗な晩。皆が寝静まった頃にそっとベッドから抜け出して、燭台の蝋燭に呪文で火を灯す。
静かにクローゼットを開けて、十五歳の誕生日に貰ったドレスを手に取った。
シンプルなシルエットだけどレースの使い方が凝っていて、大人っぽいのに可愛さも有ってお気に入りのやつだ。
着ていきたいけど、ボロボロになったらやだな。自分で作業着として作った、丈夫で装飾の少ないものにした。
着替えて髪を纏め、ヴェールとマスクとピアスを着けて、鞄に荷物を詰めて背負う。
オリジムシ人形を抱いて、五歳から過ごした部屋を見渡す。
棚に飾られたアエファニルからの贈り物たち。小さかったミニオリジムシカーは益々小さくなって、勇者の長剣は可愛いナイフに、全てを防いだ大盾は頼り無い小盾になっていた。ハガネガニの殻が蝋燭の光を受けてキラキラ輝いている。
少しの間抱き締めてから、オリジムシ人形をそこに加えた。
机の引き出しから小箱を出して、それも置く。七歳の誕生日に貰った、赤い石の首飾り。
これで全部過去になってしまった。帰らないあの日ばかりを集めた棚。
蝋燭の火を吹き消すと、私の思い出は棚ごと闇に沈んだ。
窓を開けて、浮くための……私にとっては月面歩行の呪文を掛ける。前方には木。
この部屋でも、この木でもない。
それでも天使が舞い降りた日の事を思い出した。
ごめんね、アエファニル。
君を想うバンシーの一人になりたかったのに、私、加護の贈り方も知らないんだ。
夜の河谷は静かだ。誰にも会わないまま、かつてアエファニルを見送った場所まで来た。河谷の外へ繋がる長い石橋の前。
振り返る、誰も居ない。前を見る、誰も居ない。
私もここから居なくなろう。
霧に溶けてしまいそうな白い石橋へ一歩足を乗せた時、緊張のせいか、思いのほか大きな足音が響いてしまった。
しまった、音までは消せないのに。
「シャロン? アエファニルのもとへ行くのか?」
誰も居なかったはずなのに、背後から声を掛けられる。
ちゃんと念入りに呪術で隠れたはずなのに……やっぱり才能無いのかも。
振り返った先には、河谷でアエファニルの次に若い、かつて中学生くらいだったお姉ちゃん。今はもう立派なお姉さんだ。
「そういうわけでは……」
「……シャロン……その……妾はムシやカニと名の付く生物が苦手なのだが……アエファニルはそういったものを好いておろう?」
……ん? 確かにそうだけど、なんで今?
「シャロンが現れる前は、妾がアエファニルの主な遊び相手であった。あの子はオリジムシが出たと聞けば絵を描きに行き、ハガネガニが出たと聞けば殻を貰いに行った。妾の手を引いてな」
彼女は視線を揺らしながら不安げな足取りで橋へ近付き──私の前を通り過ぎる。
……もしかして、私の姿、お姉さんに見えてない?
「あの子は愛いが、ムシは……そなたのお陰で妾はムシから解放され、あの子を失望させずに済んだのだ……」
……きっと彼女も、自分が何を話したいのか分かっていないのだろう。
私を引き留めたくて、でも押さえ付けるように「行くな」と言いたくなくて、咄嗟に思い浮かんだ事をそのまま喋っている。そんな気がした。
「シャロン、外は危険だ。そなたに何か有れば、妾は悲しく思う……」
お姉さんは震える声で言いながら、恐る恐る虚空に手を伸ばして私を探している。
そんな彼女を置いて去れるほど、私は薄情にはなれなかった。
「姉上……」
隠形を解いて声を掛ける。私の声もまた、彼女と同じく震えていた。
この震えは一体何だろう? 緊張? 恐怖? 悲哀?
「シャロン、そこにおったか! そうだ、そなたは何かと端を好んでおったな」
振り返った彼女の瞳は、この暗闇の中でも涙に濡れて輝いている。
彼女は駆け寄ってきて私を抱き締めた。それがあったかくて、自分の身体が冷えていた事に気付く。
「姉上……すまぬ、わらわは……」
「良い。夜の冒険など、子供なら皆するものだ」
「……姉上やアエファニルも?」
「妾は果樹園へつまみ食いしに行き叱られた。あの子は川辺まで行ったと聞いておる」
お姉さんに手を引かれて、宮殿までの道をゆっくり歩く。
金色の森は今は夜の黒に染め上げられていて、知らない場所を歩いてる心地がした。
風の無い静かな森に、私達が石のタイルを踏む音だけが響く。
「アエファニルと離れてから……否、あの子が河谷を出ると決めて以来、シャロンは意気消沈しておったな」
ああ、タイミング的に寂しがってるように見えたのかな。
それで私の食欲が落ちたりしても皆詮索してこなかったのか。
「あの子は無事に帰って来る。信じて待つのだ。想いは加護となり、アエファニルへ届くだろう」
……加護ってそういう感じなんだろうか? それとも私を励ますための作り話?
届くかな。届いてたらいいのにな。
ゆっくり歩いても、進み続ければいずれは目的地に辿り着く。
宮殿の片隅、木の近く、開いたままの二階の窓。……戻ってきてしまった。
「姉上らには黙っておこう。もしも誰かに問われても、妾がそなたを連れ出した事にすれば良い。夜の見回りを一人で行うのは初めてで不安だったのだ」
「姉上……感謝する」
「うむ。姉は妹を助くものであるゆえな」
胸を張るお姉さんの手を離し、フワフワ浮いて、窓から部屋に入る。
「おやすみ、シャロン」
「おやすみ、姉上」
お姉さんに手を振って、窓を閉める。
部屋の中は暗い。だけど少しだけ月が顔を出したのか、微かに浮かび上がったオリジムシ人形が、不満気に私を見ている気がした。
……姿が見えていなかったのに、お姉さんは私だと断定していた。
おそらくお姉様たちも私が抜け出そうとしていると気付いていて、情報が共有されていたのだろう。
彼女を無視して進んでいたら、待ち構えていた他の大人に止められて、叱られていたのかもしれない。
今夜のはただの冒険。夜中なら見付からないなんて思い上がっていた子供が、それすら大人の想定内だと知って、少し大人になるだけの冒険。
オリジムシ人形を抱き上げる。いつか垂らした香油の香りは、もうしなかった。
・
結局、河谷を出る事ができないまま1094年の夏になってしまった。
原作では、その場に居ないサルカズ達もテレジアの死を感じ取っていた。
私にも分かるだろうか?
「シャロン、共に河畔を歩かぬか?」
「お供しよう」
ラケラマリン様に誘われて葦の生える河畔を散歩する。
ここまで来たら、この人の隣でその時を迎えよう。
どこからか響く骨笛の音が、ざわめく心をいくらか鎮めてくれた。
霧が立ち込めている中を、ラケラマリン様は迷わず進む。
「シャロンは河谷の外に興味があるか?」
……最近大人しくしてるから、逆に怪しまれているのかな。
もう逃げるつもりは無い。それでも興味の有る無しで言えば有る。
「うむ。わらわは一度も河谷を出た事が無いゆえ」
正直に答えると、ラケラマリン様は少し悲しげに微笑んだ。
「ならば河谷の外の、とある親子の話をしよう。──カズデルとやり取りをしておった妾の使者が、ある時大慌てで帰還した。産まれたばかりのバンシーの赤子をその腕に抱いて」
それってもしかして、私の事だろうか。
「使者は帰りの道中、負傷した身重のバンシーを見付けたそうだ。……傷は深く、手当てを施したとしても河谷まで無事に連れ帰る事は困難であった。子だけでも生かしたいという本人の願いにより、使者は彼女の腹を裂いて赤子を取り上げ、不安定な状態の赤子を呪術でどうにか持たせて河谷へ戻った。それがそなたよ」
私には親も親戚も居ない。それを気にしたことは無かった。
バンシーは長命だから、似ているバンシーを見かけても、母娘なのか姉妹なのか判別は難しい。
明確に母親が居るのはアエファニルくらい。
それにお姉様たちが居てくれるから、親が居ないのは自分だけという意識は薄かった。
薄いままでいられるように、河谷の皆がしてくれていたのだろう。
「……わらわは随分と守られておったのだな。よもや己が河谷の外の生まれだとは、全く思わなんだ」
「皆で決めたのだ。そなたが受け止められる歳になるまで、出生については伏せておくと。──『シャロン』。その名はそなたの母が遺した、唯一の贈り物である」
「母上が……」
産まれた直後に別れた母。当然顔も覚えていない。
既に居ないのだろうとは思っていたから、悲しくはない。前世でも親無しだったし。
ただ、残念に思う。河谷での暮らしは幸せだった。
私ばかりが幸せを享受して、命を懸けてくれた母には何も返せない。
それが虚しかった。
「わらわを連れ帰った使者というのは……?」
「そなたの側に、怠惰な者がおるであろう? かつては優秀な使者だったのだが、すっかりやさぐれてしまった」
ダウナーお姉様、元トランスポーターだったのか。それなら外の厳しさを知ってるのも納得だ。
……偶然助けただけの私の側に、ずっと居てくれたんだ。
普段だらけてるのも、世話役や指導者じゃなくて、気を抜いて接する事のできる相手になろうとしてくれてたのかな。
そのお姉様がああまで言うのなら、私の一人旅は本当に危険なんだろう。
「……理解した。わらわは河谷を出るべきではないのだな」
「うむ。子を望むのならば、河谷の近辺へ迷い込みし者を狙うが良い」
「狙う」
「姉妹らも狙っておるゆえ激しい競争となるやもしれぬが、旅をするよりも安全で確実である」
「競争」
「勿論、アエファニルでも良いぞ?」
ラケラマリン様は冗談めかしてウィンクした。かわいい。
他のお姉様方は度々私とアエファニルをくっつけようとしてたけど、この人がこういう事を言ってくるのは初めてだな。
「アエファニルとそういった仲に至るのは上手く想像できぬ」
本心だ。前に彼が帰ってきた時、散々ベタベタしたけどときめきは全く無かったし。
アエファニルの方も私の事は子供扱いだった。
「アエファニルと結ばれれば、妾と親子になれるぞ〜」
「……それは魅力的であるな」
これも本心。だけど私にそんな資格は無い。
その日は今日だろうか。それとも明日だろうか。
──そう考えた時、不意に遠くで呪文が弾け飛んだ感覚がした。
私がリボンに込めた呪文。ああ、彼女は身に着けていてくれたのか。
私の守護の強度なんて、布一枚分有れば良い方だ。おそらく一撃で破られた。
始まってしまった。
「殿下……」
「シャロン?」
優しくも哀しい旋律が響き始める。
さっきまで聴こえていた骨笛の音じゃない。
「この挽歌は、妾のまじないの……」
ラケラマリン様が愛した命のひとつが、失われようとしている。
ラケラマリン様は私を守るように抱き締めた。
それは私のためじゃない。彼女が心を支える杖を求めて、そこに私が立ってただけ。
ラケラマリン様とテレジアは200年前に共に戦って、もしかしたらその前から友人で……
私が動いていれば、これからも続いていたかもしれなかった。
私が終わらせた。
テレジアはアエファニルの師で、バンシーからすれば恩人と言うべき人で。
私は恩を仇で返した。
私が居なくてもテレジアは死ぬ。
私が何もしなかったからテレジアが死ぬ。
霧は濃く、空は厚い雲に覆われて、世界を曖昧な色にする。
夏だというのに風は冷たい。それとも私が勝手に寒気を感じているのかな。
「テレジア──」
ぽつりとラケラマリン様の涙が落ちてきて、テレジアが去った事を知る。
私にはちっとも感じ取れなかった。……私が紛い物のバンシーだから?
テレジアが死んだ。
私はその先を知ってるけど、今迎えた死だって本物だ。
遺された者の悲しみも、怒りも、私の罪も本物だ。
私に泣く資格なんて無い。後悔なんて許されない。
私が決めて、私がした事。
それなのに勝手に涙が溢れてくる。袖で乱暴に拭っても間に合わなくて、流れるままにするしか無かった。
「……姉上、戻ろう。身体が冷えてしまう」
「うむ……。あぁ、テレジア……彼女のために、挽歌を歌わねば……」
ラケラマリン様の背を支えて、霧の中を歩く。
歌い出した彼女の声は震えていて、それでも美しかった。
霧の向こうのバンシー達が歌に加わっていく。
河谷を挽歌が満たす。まるで河谷を満たす霧が歌っているかのように。
テレジアのために挽歌を歌う資格は私に無い。
だけどラケラマリン様が促すように私の背をとんとん叩く。
涙に紛れて絞り出した私の歌は、きっと今までで一番下手くそだった。