テレジアが死んだ。
この後バベルでは反乱が起こり、アエファニルは同僚を手に掛ける。
私の選択がそうさせた。
本当にこれで良かったのだろうか?
考えたって仕方ない。テレジアはもう死んでしまったのだから。
あれから河谷は静かだ。皆喪に服している。
今なら河谷の外へ抜け出せるんじゃないかと、ちらりと考えた。
考えただけ。
何をする意欲も湧かないまま日々をやり過ごしていると、やがてアエファニルが河谷に帰ったようで、賑やかさが少し戻って来る。
私はこっそり人目に付かない場所まで逃げた。
呼ぶ声が聴こえても、滝の近くなら水の音で気付かなかったと言い訳できる。
なんだか前世の事を思い出した。
状況は全然違うのに、家に居る時間を減らしたくてバイトを始めた、あの夏休みの気持ちに少し似ている。
叔父さんは両親を亡くした私を引き取って、良い事をした気になっていた。悪人ではないものの、いつだって自分が正しいという人だった。
叔母さんに好かれてないのは分かっていた。叔父さんの事だから、相談も無しに私を引き取る事を決めて、彼女が難色を示したら人でなし扱いでもしたのだろう。
叔母さんは私に家事を押し付けたけど、私は家事が嫌いじゃなかった。喜んで請け負っていたら、叔父さんは私を母親似の良い子だと褒めて、自分の子の事は遊んでばかりのダメな子みたいに言って。
私がやめてって言っても、それすら私を良い子扱いしてあの子を貶める材料にされてしまう。あの子は父親が嫌いになって、叔父さんは反抗的になるあの子と私をまた比べて……
両親と一緒に死んでいたら、私があの家庭を壊してしまう事は無かっただろうか?
私が居なくなって、あの人達はちゃんと家族に戻れただろうか?
落ち続けて水面に叩き付けられる水を眺める。
私も飛び込んでしまおうか?
なんてね。考えただけ。
「もし、其処なバンシー。見ない顔であるな」
不意に声を掛けられる。滝の音に足音が掻き消されたのか、彼が近付いている事に気付かなかった。
だけど彼の方も私だと気付いていないみたいだ。
成長して体格も変わったし、服も髪型も前と違っていて、ピアスも開けて、ヴェールも着けるようになった。
彼に貰った首飾りは着けていない。今の私はきっと立派なモブバンシーだ。
「妹を探しておるのだが、見ておらぬか? シャロンと言う名の娘だ」
「……その子なら、何処かへ行ってしまった」
「ふむ」
君が可愛がっていた妹はもう居ないよ。ここに居るのは魔王殺しの罪人だ。
アエファニルはすぐにロドスに帰る予定で来てるはず。しばらくすれば、諦めて河谷を去るだろう。
「以前河谷へ戻った時も、あの子は我から隠れてしまった。嫌われておるのだろうか」
彼は落ち込んだ様子で私の隣に立つ。
その視線は滝が落ちる先へ向けられていて、私を見てはいない。
「……探しに行かなくて良いのか?」
「休憩を兼ねてうぬと親睦を深めるのも良かろう。河谷の生活はどうだ? 馴染めておるか?」
「問題無い。皆良くしてくれる」
「その割には随分と外れた所に一人でおるではないか」
「この場所を気に入っておるだけだ。心配はいらぬ」
「ならば良いが。足を踏み外すでないぞ」
「うむ、気を付けよう」
会話が途切れる。
滝の音、風に揺られる草木の音、羽獣の羽ばたきと鳴き声。
色んな音がしてるのに、却って沈黙が際立つ気がした。
しばらく二人で黙り込んで、やがてアエファニルが口を開く。
「……かつてこの付近にハガネガニが現れ、姉上らが退治した。我は駄々を捏ねてその甲殻の一部を貰い受け、磨いて自らの宝としておった。シャロンが生まれる前の事だ」
二歳の誕生日プレゼントにくれた、あの殻の事だろうか。
大事な宝物だったろうに、良い物は分け与えるべきだって言って譲ってくれた。懐かしい。
「後に我はそれをシャロンへ譲ったのだが……河谷の外で学び、我はようやく理解した。ハガネガニの殻は、贈り物には相応しくないのだと……。我は他にも石やら枝、虫の抜け殻やらをあの子に……あの子はどれも笑顔で受け取ってくれたが、内心では嫌気が差しておったのやもしれぬな……」
そんなことない。
確かに私が欲しいものではなかったけれど、ハガネガニの殻は鏡のようにピカピカだったし、石も枝も色や形が珍しいもので、虫の抜け殻は大きくて状態も良かった。当時の彼なりに選り抜いたプレゼントだった。
「幼少期ならではの贈り物ではないか。時が経てば経つほど、良き思い出となろう」
「世辞はいらぬ、気の利かぬ兄と呆れておろう?」
「本心であるぞ。わらわなら大事に飾るやもしれぬな」
あのハガネガニの殻は、今でも部屋に飾ってある。他の贈り物も全て。
あの頃に戻りたい。前世を含めても、一番幸せだった頃。
……戻れたとして、私はまたテレジアを死なせるのだろうか?
「……ふむ。我を嫌いになったわけではないのか」
彼はそう呟くと、小さい頃のように自然に手を繋いできた。
ああ、バレてるのか。
「……いつ気付いた?」
「我がうぬを見紛うとでも? ……夏だというのに、随分と冷えておるではないか」
「何故初対面の演技など……」
彼は冷え切った私の手をさする。
暖かくて、安心してしまいたくなる自分が嫌になる。
胸の内がグラグラして落ち着かない。
「名を呼べば、うぬが身を投げてしまう予感がしたのでな。シャロン、うぬこそ何故我から逃げる?」
何故?
私がテレジアを殺したからだ。
だけど本当にそうする必要は有った?
原作って、そんなに大事だった? 他に方法は無かった?
テレジアが死んだ。私が生かせたはずの人が死んだ。
私が──
「──わらわが殿下を殺めたのだ!」
「シャロン?」
言うべきじゃない。言うならテレジアが死ぬ前にするべきだった。
だけどもう自分の中に押し込めておくのは限界だ。
これ以上喚き散らしてしまう前に、繋がれた手を振り払って駆け出した。
「シャロン、待つのだ」
目に見えない柔らかな障壁が進路を防ぐ。
逃げられない。知っていたはずなのに、どうして彼が来るまで突っ立っていたんだろう。
さっさと飛び込んでしまえば良かった。あの沢山の水で、この口を塞いでしまうべきだった。
「わらわには未来が視えておった。わらわが早くに伝えておれば、殿下の死は回避できたやもしれぬのだ……!」
「シャロン、うぬはバンシーであり、サイクロプスにあらず。それは遠見ではなく、ただの悪夢が偶然現実と一致したのだろう」
彼は信じていない。
ならばそういう事にしてしまえばいい。そうすれば、まだ家族でいられる。
……そんなのは駄目だ。そんなのは家族じゃない。
家族になりたかった。だけど壊したのは私自身だ。
また壊してしまった。また家族になれなかった。
「カズデルの門を破ったのはそなたであろう?」
「確かに先陣を切ったのは我だ。なれど予想と予知は別物であるぞ」
当てずっぽうだと思ってる?
彼は私を刺激しないようにか、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「そなたはケルシーらとバベルの旗を掲げに行き、ドクターと殿下がロドスに残った。されどロドスの防御機能は落ち、角を切り落とし顔を潰した刺客が殿下を襲った……」
「……バベルの者が河谷へ立ち寄ったのか?」
大きな動きは情報も漏れやすい。未来視を信じさせるには足りないか。
もっと、もっと彼自身しか知らないような事を。
……言いたくないな。傷を抉るような真似はしたくない。
それでも言わなきゃ。君の優しさは、これ以上私に向けられるべきじゃないから。
「……バベルで反乱が起き、そなたは同僚だった者の心臓を潰したのではないか? 彼の植えた黄金草は、今もロドスに有るのだろう?」
慎重に距離を詰めていた彼の足がついに止まる。
それを願っていたはずなのに、悲しくて寒くて、凍えてしまいそうだ。
……嫌だな。彼の方が悲しいはずなのに、私、自分の事ばっかりだ。
「……まことなのだな」
彼は昔と比べると随分表情が薄くなった。
今のその顔は、困惑だろうか? それとも軽蔑?
「わらわは、この夏に殿下が死ぬと知っておった……」
何がモブバンシーだ。私は姉妹達の中に紛れ込んだ偽物だ。
テレジアを殺し、アエファニルを傷付けた裏切り者だ。
彼やバンシーの皆の側に居る資格なんて無い。
無意識に後退りすると、いつの間にか障壁は消えているようだった。
今度こそ河谷の外まで行ってしまおうか……そう思った時、横手から草を踏む音がした。
「母上?」
アエファニルの視線を追うと、木々の合間からラケラマリン様がふらりと歩み出てきた所だった。
「シャロン……不思議だったのだ。テレジアに見えた事のないそなたが、何故彼女の死にあれほど動揺し、誰よりも塞ぎ込んでおったのか……」
彼女は真っ直ぐ私の方へ向かってくる。
その表情は木陰とヴェールに隠されてよく見えない。
優しく穏やかな声は、一周回って突き放しているようにも聞こえる。
「そなたのあの日の涙は、妾の悲しみに寄り添ってくれておるのかと思うておったが──」
私はずっと彼女を騙していた。ずっと近くで、今日までずっと欺いていた。
その彼女が、私へ両手を伸ばす。
どんな罰でも受けよう。
──そう思って目を閉じたのに、暖かさと花の香りに包まれる。
「──そなたも、テレジアの死が悲しかったのだな」
抱き締められて、頭を撫でられる。それだけで勝手に涙が溢れ出てしまう。
「おお、よしよし、辛かったな。シャロン、そなたの視た未来とは、アエファニルにとってそう悪いものではないのだろう?」
ラケラマリン様はドレスが汚れるのも構わずに、私の頭を宝物のように抱き込んだ。
どうして優しくしてくれるの? 私は裏切り者なのに、どうして?
「わ……わからぬ。わらわに視える未来はひとつのみ……他により良き未来が……」
「有ると思えぬがゆえに、流れを変える事を恐れたのであろう。……アエファニルの母として礼を言う。妾も……テレジアかアエファニル、どちらかしか選べぬならば、アエファニルに生きて欲しい──」
とても悲しい事を言わせてしまった。
私にもっと力が有ったなら、全部解決してハッピーエンドにできたのに。
実際は河谷から出る事すらできなくて、誰の力にもなれていない。悔しくてまた涙が溢れてくる。
アエファニルも駆け寄ってきて、ラケラマリン様ごと私を抱き締めた。
「シャロン、うぬは殿下を殺めたのではない。救えなかったのだ……我と同様にな」
そんな言い方、ずるいよ。私が自分を責めたら、アエファニルの事も責めてる事になるじゃないか。
三人で密着して、忘れていた夏の暑さを徐々に思い出す。暑い。暑くてあったかい。
「アエファニル……すまぬ……わらわは未来を知りながら、何も成せなんだ……」
「漸く名を呼んでくれたな。……もしも未来が暗澹としたものならば、うぬはカズデルへ旅立つ我を引き留めたはず。さあらば、ロドスが向かう先には希望が有るのだろう?」
確信を持った口振りだ。アーミヤを信じているのが伝わってきて、こんな時なのに嬉しくなってしまう。
……そうだ、原作通りにしたかったのはテレジアを殺すためじゃない。
テレジアの死は悲しい。だけどここで終わりじゃない。
テレジアの愛したアーミヤが、彼女の理想を継いでいく。
「うむ……うむ!」
力強く頷く。
彼も満足そうに頷いて、汗と涙と鼻水でベタベタになったのを呪文で綺麗にしてくれた。
「……『解けよ』」
「ぎゃっ! な、何をする!」
ついでのように私のドレスの背中の紐をほどいてきた。なんで!?
胸元が緩んでいく! 慌てて手で押さえる。
「かつての再演である。此度こそ我が結んでみせよう」
「自作自演! 火種と水桶!」
「シャロンが燃え上がっておる。後程果実水で鎮火せねば」
空気の変え方が乱暴すぎる!
慣れない手付きで紐を弄られてくすぐったい。
ラケラマリン様はいつの間にか微妙に離れた所でニコニコしてて、助けてくれなさそうだ。
普段意識しないけど、こういう咄嗟の軽い身のこなしに英雄を感じる。
「こうか? 苦しくはないか?」
「緩くてずり落ちそうだ。このままでは何かの拍子に胸がバーンと飛び出るやもしれぬ」
「バーンか」
「バーンである」
「結び直そう」
バーンだよバーン! 結ばれたけどまたほどかれる紐。
ラケラマリン様は私達のやりとりがツボに入ったのかくすくすと笑っている。
「『バーン』で思い出したぞ。シャロンはかつて、我に羽獣の人形を持たせ『ブーンせよ』と言ったな。『ブーン』とは何を示しているのかと当時気掛かりであったが、もしやドローンが飛行する際に発する音の事か?」
「妾も覚えておる。シャロンが歩き出してそう経たぬ頃の事であったな。一度で厠を覚え、数え方を教えただけで一人でに計算を始める……随分と聡い子だとは思っておったが、未来を視る中で学んでおったのか」
トイレはともかく、計算は無意識にやってたかもしれない……
もう前世についても言ってしまって良いような気がするけど、流石に今これ以上情報を出すのは話が不必要にややこしくなる。伝えるにしても別の機会にしよう。
「……うむ。当時既に視えておった。わらわが早くに伝えておれば──ぎゃっ!」
剥き出しの背中に、アエファニルが咎めるように息を吹きかけてきた。
だから空気の変え方雑!
「殿下の前には安全な道など一つたりと無かった。事前に死の未来を告げられたとして、回避には必ずや別の危険が伴う。その先では殿下の理想は潰えておったやもしれぬ……」
「うむ。シャロンはアエファニルのみならず、テレジアの理想をも守ったのだ。テレジアはシャロンを責めぬだろう……寧ろそなたを気遣うはずだ」
確かにテレジアは、裏切ったドクターの事すら憎まなかった。
そんな人だからこそ、叶うのなら死なせたくなかった。
……話してみたかったな。服飾の事とか、バベルでのアエファニルの様子とか。
……ところでアエファニルはいつまで紐を弄ってるの?
「……アエファニル、わざと時間をかけておらぬか?」
「我を疑うというのか? 悲哀で手元が狂い、更に解けるやもしれぬな。それ」
「ああー! やめよ! わらわが悪かった!」
「分かれば良いのだ」
キュッと結ばれた紐はやっぱりちょっと緩くて、最終的にラケラマリン様が直してくれた。