目を覚ましたらお兄ちゃんが居なかった。
頭がひんやりする。いつの間にか氷枕に寝かされていたようだ。
のろのろと起き上がって、時計を見たらお昼過ぎ。だいぶ寝たな。
昨夜はよく見てなかったけど、ワンピースの刺繍が容赦無くぶちぶちに千切れててちょっと悲しい。
ベッドから出ると、丸テーブルに書き置きと体温計と解熱剤が置いてあった。
『一口でも構わぬゆえ食事を摂る事。水分補給も忘れるでないぞ。部屋に有る物は好きに使うがよい。それらは全て、うぬの物でもある』
一応確認してみたが、やっぱり外への扉は開かないようになっていた。置いて行かれちゃった。
もっとちゃんとお話したかったのに、なんか有耶無耶になっちゃったな。帰ってから聞いてくれるかな?
まずは体温を計ってみる。高熱ってほどじゃないけど結構ある。
だるいけど、歯磨きと洗顔と、あと髪も梳かしておこう。洗面所へ移動。
あ、ここお風呂も有るんだった。汗かいたし後で入った方がいいかな。でもめんどくさいな。
終わったら部屋に戻って、机の上に並べられた食料を物色。お兄ちゃんがパンやお菓子を買ってきたらしく、色々増えていた。
冷蔵庫も冷凍庫付きのやつにグレードアップしていた。いつの間に……
替えの氷枕とアイスと氷が入っているようだ。
食欲が無いし、一旦飲み物だけでいいか。あったかいやつの気分。ケトルが有ったから、とりあえずペットボトルの水を沸かす。
水はケルシーの物資のやつだけど、ケトルは仕舞ってたのを出したのかな? それともわざわざ買ってきてくれたのかな?
ティーセットと茶葉と砂糖も置いてある。でも今は白湯でいいや。
茶葉はエンジニア部にチュロスを持って行った時と同じやつのようだ。
あの時はケルグとセブンティーンとビーンも手伝ってくれて、揚げる作業はお兄ちゃんに取られて。
──だめだ。考えちゃだめだ。
泣いちゃだめだ。だって三人も、Aceも、まだ死んでない。
でも……だめだ。なんか、だめだ。
沸かした白湯に手を付けないまま、丸テーブルに突っ伏す。
彼らが目を覚ましたとしても、それは助けたと言えるのだろうか?
Ace隊の中で、私と交流の深い四人が生き残った。私の思い入れが、彼らをあんな状態で生かしてしまったのだろうか?
あの時は諦めたくなくて必死だった。でも、Scoutが言う通り、介錯してあげるべきだったんじゃないか?
私こそが、彼らを地獄に突き落としたんじゃ──
「しっかりしろ」
「う……」
優しく背中を叩かれて顔を上げる。アスカロン、まだ居てくれたのか。それとも今来たのだろうか。
「まずは水分を摂れ」
なんかスッと姿勢を整えられて、スッとティーカップが近付いてきて、スッと自然に白湯が喉を通っていった。今何が起きた?
あと沸かしたばかりにしてはぬるいと思ったら氷入ってる? いつ入れたの?
「チェルノボーグへ向かってから、ろくに食べていないだろう。なんでもいいから食べろ。これはどうだ」
軽く顎を押さえられて、コインサイズのちょっと塩気のあるクッキーを口に放り込まれる。あの、こっちの受け入れる用意ができてないのに一切ぶつかったりせずベストポジションにクッキーが来るのは何故?
暗殺技術の平和利用を感じる……
「お、己でできる」
「そうか。焦るなよ」
流石にこのまま介護されるのはアレなので自分でクッキーを食べる。アスカロンが白湯のおかわりを用意してくれたのでそれも頂く。氷は取り除いてくれた。
なんか色々びっくりして涙引っ込んだな。
「まだ泣くのか」
「す、すまぬ」
「いい、好きにしろ」
引っ込んだと思ったけどまた出て来た。いっぱい泣いたせいか、クッキーの塩気が身体に染み渡る気がする。
クッキーを詰め込んで、解熱剤を飲む。いっぱい泣いたから水もいっぱい飲む。
私が泣いたって何も変わらない。でも、泣いても泣かなくても変わらないのなら、泣いて悪いという事も無いはずだ。
ああ、そうだ。マリヤは泣いていないだろうか?
「マリヤは息災であろうか?」
「お前が連れて来たあの子供なら、お前より余程元気だ。ただ、お前がチェルノボーグに居た事を言い触らされると困るからな。対策を終えるまでは隔離しておく事になっている」
「対策……よもや、記憶を消したり……」
「いや、Raidianが丁寧に言い聞かせている。彼女なら上手くやるだろう」
あんな小さな子を、知らない所に一人で連れて来てしまった。今は元気だとしても、きっと心細くなる時が来る。
せめてお姉さんの持ち物を何か持ってくればよかった。至らない事ばかりだ。
他にもAce達がまだ目覚めてない事とか、Scoutが医療部のベッドから抜け出そうとしてるとか、ミミは大人しく治療を受けてるとか、色々教えてもらった。
それと、落ち着いたら合同で葬儀を行う事も。私も行きたいから、早く体調を戻さないと。
「あとは……ロゴスが今朝、お前の退職届を出そうとしていた」
たいしょくとどけ。……退職届!?
ロドスを辞めるための書類ってこと!?
「わらわは書いておらぬぞ!?」
「分かっている。クロージャや人事部には昨夜の内に、お前が直接持ち込んだ物以外は受理しないように伝えてあったが……あいつ、本当にやるとはな」
お、お兄ちゃん、本当に私を河谷に帰す気なんだ……
何も相談無しに勝手に辞めさせられそうになるなんて悲しい。
でも、私もお兄ちゃんが知らない間に勝手な事をしたから、お相子なのかもしれない。
アスカロンはもう戻るそうなので、私も顔を洗ったらまた横になっておく事にする。
一人で大きなベッドはちょっと寂しい。アエファニルはいつもここで寝る時、寂しくなかったかな。
・
目を覚ましたらお兄ちゃんが居た。寝転ぶだけのつもりだったのに寝ちゃってた。
お兄ちゃんはベッド脇でスツールに座ってじっとこっちを見てた。たまたまそういうタイミングだったのか、ずっと見てたのかは謎である。うん、謎のままにしとこう。
「シャロン、加減は如何か?」
「多少好転した……」
体温計ピピピ。熱は下がったようだ。次はトイレに行っておく。
手を洗っていると、お風呂場の扉が気になってきた。
洗面所に行く度に目に入るわけだけど、繰り返し見る内に段々違和感が……
外勤が多いアエファニルの部屋にお風呂って、わりとデッドスペースでは? お兄ちゃん、普段は共用のお風呂を使ってるはずだし。
まさか私のために作らせたやつ……? 流石に考えすぎ? ちょっと様子を見ておこう。
うーん……このお風呂場、ピカピカだ。綺麗を通り越して生活感が無いような。一度も使ってない?
でもお風呂道具は揃ってる。呪文で掃除してるせいで異様に綺麗なのか?
私やMantraが使っているのと同じ、例のお高いシャンプーやトリートメントが置いてあって──いや未使用じゃんこれ!! 石鹸なんてまだ包みに入ってる!!
よく考えたらアエファニルからこのシャンプーの香りしたこと無いし、絶対私のために置いてるやつじゃん!!
前から用意してあったのか、帰ってきてから用意したのか……なんか、使っておかないといけない気がしてきた。
戻ろうかと思った所で、アエファニルがお風呂場の入口から覗き込んでくる。時間かけすぎて心配させちゃったかな。
「シャロン? 湯浴みをしたいか? 平癒するまでは避けるべきであるが……どうしてもと言うならば、我が共に」
「いらぬ」
流石にお風呂は恥ずかしい。小さい頃でも一緒に入った事無いし。
ていうかアエファニルってこんな感じだっけ? 昨日もしれっとトイレ手伝おうとしてきたし……
よく考えると昨夜のあれはどこまで手伝う気なのかは明言してなかったけど、すぐ抱っこしてくるお兄ちゃんがわざわざ「手を貸す」って言ったのなら、やっぱりそういう事だよね。おむつの話もしてたし。
トイレを手伝う気だったなら、お風呂も手伝う気でいてもおかしくない。
入浴を諦めさせるために敢えて言った説も無くは無いが、どうも本気の気配がする。羽の角度で。
なんとなく前と距離感違うような……単純に私の体調不良のせい? それともシスコンが悪化してる?
お風呂の代わりに呪文で綺麗にしてもらって、また抱っこで運ばれて、膝に乗せられて丸テーブルでごはん。
お湯を入れて作るインスタントのシチューを食べさせられる。あーん。
……食欲無いけど、口に入れたら食べれるんだよね。悪化させて医療部の世話になるわけには行かないし、ちゃんと栄養摂らなきゃ。
「あのパンも食す」
「任せよ」
「己で……」
「我がやる」
お兄ちゃんが呪文でパンを引き寄せつつ開封して、手で千切って食べさせてくる。流石に全自動すぎないか?
でもお兄ちゃん譲らないしな……いや、そう言ってされるがままなのが良くないのか?
「兄上……否、アエファニルよ」
「シャロン」
一回兄という免罪符を取り上げるべきかと思って名前で呼んでみたら、アエファニルが目を輝かせた。そういえば前に、二人の時は名前で呼んで欲しいみたいなこと言ってたような。
逆効果だったかな……しかし発した言葉は戻らないので、このまま突き進むしかない。
「兄と言えど、距離が近すぎる。気味が悪い」
「き……気味が……悪い……?」
甘ったるかったアエファニルの顔が一気に絶望に染まる。羽もかつてなく動揺している。
実際そこまで嫌なわけじゃないけど、このままだとお兄ちゃん自身にも良くない気がする。なんとなく。
何かが手遅れになる前に加減を覚えてもらわなければ。
囲い込んでくる腕をどかして膝から降りて、向かいのもう一脚のスツールに着席。
アエファニルは軽く滑走して隣に来た。
「シャロン、我のシャロンよ」
「わらわは既に成人したのだ。いつまでも幼子扱いするでない」
「こ……これはもしや、反抗期というものか……?」
スツールをくるりと半回転させて背を向けて、頭を抱えるアエファニル。想定以上にダメージ受けてるっぽい。
ちょっと可哀想だけど今の内に一人で食事を進める。
しばらくしてアエファニルがまたくるりとこっちを向いた。
「シャロンよ、確かにうぬは成人した。されど我はうぬの兄であり、バンシーの主。我は両の立場からうぬの軽挙を窘める義務が有る」
「兄上、〝抱き抱える〟と〝窘める〟の間には深淵なる溝が存在するぞ」
「これは……これは、罰である。我に断り無く戦場へ赴いた罰だ」
アエファニルが、自分の方が罰を受けているかのような顔で両腕を広げる。
罰なら仕方あるまい。パンを持ったままお兄ちゃんの膝に横向きに乗る。
途端にアエファニルの顔と羽がご機嫌である。
撫でてくる手をそのままにして自分でパンを食べる。淑女なら一口ずつ千切って食べるべきだが、膝の上の時点で淑女失格なので庶民スタイルでガブリ。
ストロー付きのコップをお兄ちゃんに渡す。口元に持ってきてくれるので飲む。ずずずずず。
食べ終わったらお兄ちゃんがデザートにアイスを出してきたのでそれも任せる。あーん。
こうして私の反抗期は一瞬で終わったのであった。
・
寝る用意を済ませて二人でベッドに入る。
アエファニルがあんまりご機嫌だから言い出しづらくて、結局まだちゃんとお話できてない。でも引き延ばしても仕方無いから言わなきゃ。
「兄上……」
「シャロン?」
毛布の中でアエファニルの腕を軽く引っ張ってみると、ぐっと抱き寄せられる。ぬくぬく。
「わらわの退職届を提出しようとしたと……」
「アスカロンから聞いたか」
「然り」
「本人による提出でなくば、受理できぬそうだ。体調が戻り次第、うぬの手で提出せよ」
なんでもない事のようにさらりと言われて、最初上手く受け止められなかった。
遅れて理解して、時間差で感情がぐんぐん噴き出してくる。
それは始めは悲しみだった。でもすぐに溢れて、水が地面に落ちて泥になるみたいに、何か知らない感情に変わった。
「わらわは辞めぬ!」
「うぬは河谷へ帰す」
「帰らぬ!」
「……許せ、シャロン。うぬに何か有れば、我は耐えられぬ」
撫でてくる手も、声色も優しい。だけど胸の内側のどこかがギリギリと絞り上げられたように苦しくなって、泣きたくないのにまた涙が零れる。
感情が悲しみの器から溢れ続けて、私の心の奥底に重たい泥が広がっていく。
「もう勝手な真似はせぬ……! 兄上……!」
「ロドスの行先は常に、この大地を覆う暗雲の只中だ。この旅はうぬの優しき心を傷付ける。河谷で平穏無事に暮らすがよい」
アエファニルが子守唄を歌い始める。呪術が乗せられたそれは、私の意識を強制的に連れ去ろうとする。
「……あにうえとも……はなれたく……ない……」
ぎゅっと抱き締められる。それなのにすごく遠くて、寂しくて、あったかいのに寒くて寒くて、その心ごと睡魔が全部塗り潰していった。