【書籍発売】汝、現代ダンジョンに希望を持つべからず 作:鋼我77
「ぶ、はああああ」
俺はアビリティを解除して、その場に崩れ落ちた。きつい。プラーナと体力を全部持ってかれた。
強化する分が増えたので、それだけ消費も大きくなった。ぶっちゃけ、三倍以上。現状、これだと多分五秒しかもたない。必殺技ブッパのタイミングでもない限り、使えたものじゃない。
「社長、大丈夫ですか!?」
「おう、かっつん……皆の状況を確認してくれ」
「はい、ただいま!」
彼に他を任せている間に、俺はウェストポーチから小瓶を取り出した。こんな時のための、ファングツリーの実から絞ったジュースである。プラーナやマナが欠乏したときはコイツが最高に効くのだ。
一気に飲み干す。ぬるいが、爽やかな味わいが五臓六腑に染み渡る。呼吸をするたびに、空っぽになった活力が湧き上がってくる。市場に出せば目が飛び出るお値段になるだけはある。この小瓶一杯でウン十万円だからな。場合によってはもっと行く。
なんとか、戦闘は終わりに近づいていた。覆面達は皆倒され、スペクターもその大多数が倒された。あと数分もしないうちに、この場の混乱も収まるだろう。
「報告でーす。怪我人は軽傷八名、骨折二名、頭部強打一名。現在全員対処中です。頭部に貰った人は担架で上に移動する準備に入ってます」
「……今回はきつかったな」
「スペクターの数が、ちょっと処理能力を超えましたね。ボスに何か行動されていたら、死人が出てたかも知れません。道明さんと社長、MVPですよ」
「そうか……」
わあい、と喜ぶ元気もない。とりあえず、眩暈は収まった。なんとか立ち上がれるし、僅かながらプラーナも沸いてくる。とりあえず、マリアンヌさんの魔剣を取り出す。そして、倒れている覆面達を容赦なくぶっ刺していく。
「ひ、ひい、助け……ぐぇ……あれ? マナが抜けた?」
「おれはプラーナが空っ穴になっただけだ。きついけど、痛みもねえぞ?」
覆面達が不思議がっているが、話してやる義理もない。拘束は社員達に任せる。なんでこんなことをやるかと言えば、もちろん無力化のため。これでとりあえず不思議パワーは使えない。もちろんまたプラーナを練り上げたり、マナを集めたりすれば別だ。
一時しのぎに過ぎないが、やらないよりはマシ。あと、これは自分の体験から言えるのだが、マナ等をこの剣で消されると結構身体にしんどいのだ。どちらかと言えばこちらの方が今は重要かもしれない。
さて、それでは目的だったアントニーの前に立つ。まずは魔剣でプラーナを奪う。これで拷問官は使えない。そして自分の右手をプラーナで保護し、左手で胸ぐらを掴む。
「何だよ、ザコ野郎。止めを刺しに来たか? やれよ根性無し……ぶっ」
顔を、引っ叩いた。
「テメエ、何しやが……」
「ごめんなさいと言え」
「は? ……っぶ」
左の頬も叩く。一拍置く。また文句が出たので右を。以後、ひたすら続ける。叩く力はかなり強めだ。骨は折らないが、それ以外は保証しない。すでに、口から漏れる唾液には赤いものが混じり始めている。十発くらいお見舞いしただろうか。
「ご……ごめんな……さいとでも、言うとも思ったかクソガッ!?」
ヘッドバッドをぶち込んでやった。さらにビンタを十発ほど叩き込む。両頬が、内出血で青黒くなり始めた頃。
「……ごめんなさい」
弱々しく、投げやりにそう口から漏らした。当然、それで許したりはしない。
「私はエリートではありません。繰り返せ」
「なんっ……」
ビンタ八発、ヘッドバッド一発。ボディブロー一発。
「私は……エリートでは……ありません」
「私は最底辺です。繰り返せ」
ビンタ一発。
「私は、最底辺、です」
プラーナを今できる最大限まで溜め込み、声と一緒に吐き出した。
「今度俺の前に現れたら、ダンジョンの奥底に捨ててやるから覚悟しやがれこのクソ野郎!」
ボロ雑巾になったアントニーを投げ捨てる。そして振り向いたら、社員の大部分が引いていた。……うむ、しまった。やりすぎたか。
しかし、そうかと思えばものすごく笑顔な連中もいる。勝則を始めとする、ハガクレ組である。
「お疲れ様でした、社長。早速侵入者を外へ運び出します。あ、負傷者はすでに搬送を始めていますので」
「ああ、うん。……手間を掛ける」
「いえいえ、この程度たいしたことではありませんから」
「バカは身体に教え込まないと理解できませんからね。社長はお優しい。私たちならもっと残虐にやってましたよ」
「笑いながら言わんでくれ、サッチー」
まあ、できるんだろうけどさ。……あと、気を遣わせてしまっているなこれは。しかし、コイツばかりはもう放置できない。警察に突き出した結果がこれである。少なくとも本人から、こっちに攻撃しないように刻み込んでおかないと。
……そういえば、まだいたよな。俺を恨んでいる奴。そう思って覆面へ視線を向けた。一斉に悲鳴が上がった。
「やらねえー! もう二度とあんた達には関わらねえよ!」
「私も! 私もあんた達へ攻撃しろって命令されても逆らう! 逆らうから許して!」
……等と口では言っているが、信用なんて欠片もできない。視線を感じて道明さんへ振り返る。彼は神妙な表情をしていた。
「……当然の話なんですが。たとえどんな状況であっても、私刑は許されません」
「でしょうね」
「だけど今回は見なかったことにします! どうせ上は訴えられませんし」
わお、すっげえ笑顔で言い切ってくれたよ。覆面共からさらに悲鳴が上がったよ。
「そりゃねえよ剣聖様よ! 守ってくれよ!」
「五月蠅いぞ犯罪者ども。俺が直接ぶった切って……いや、違うな。あとで里奈に『斬って』もらおう。それが一番手っ取り早い。社長、それでいいですかね?」
「ああ……そうか。断神様は実績があったっけ」
斬りたい相手をずんばらり。殺さず、傷を負わせずぶった斬る。ただただ加害を与えるという刃の業。心をへし折るには、これ以上のない方法だ。あとで俺が頭を下げておこう。
というわけで、ひとまとめとなって地上を目指す。道中に問題は無く、あっという間に地上へ出る階段の近くまでやってきたのだが。そこで、先行していた流が飛翔剣で戻ってきた。
「社長ーーー! やべーーー! 大事件ーーー!」
「……流石にもう限界なんだがなあ。……なにがあったの」
目の前に降りてきた流は、今までで一番の真剣な表情でこう言った。
「秘書さん、ブチ切れてる」
「……マジかよ。そりゃ確かに大事件だわ」
疲れも吹き飛ぶ一大事。階段を駆け上り地上に出ると、そこは灼熱地獄だった。夏の昼間だから、ではない。怒りに燃えるマリアンヌさんから、夏のそれを超える熱が立ち上がっているのだ。ゆらゆらと、陽炎すら見える。
それでいて彼女は静かだ。魔女の帽子で目元は見えないが、口は強く結ばれている。両拳は握りしめられ、かすかに震えているようにも見える。最大の特徴は影か。あからさまに、うごめいている。猫、カラス、蛇、梟、犬……様々な形になって、崩れ、また違う物に変わる。
今まで見たことのない、マリアンヌさんの怒れる姿だった。うん、これはいけない。
「お疲れ様でーす」
とりあえず声を掛けてみれば、俺に気づいた彼女が胸に飛び込んできた。一瞬サウナのような熱を感じたが、それもあっという間に消え去った。
「春夫さん、ごめんなさいっ!」
「おおっと。どうしたんですか。何で謝るんです?」
マリアンヌさんの表情がコロコロと変わる。申し訳なさ、憤り、悲しみ、もどかしさ。マイナスの表情ばかりだが、やはりマリアンヌさんは美人なので大変絵になる。……いっそ、この気持ちをそのまま伝えてしまえばいいような気がしてきた。可愛い! 美人! 最高!
胸を叩かれた。ふはは。
「もうっ。……あのですね、今回の襲撃なのですがおそらく原因は私にあります」
「なんと」
「これらは政府が極秘に用意している対ハンター部隊です。罪を犯したハンターに恩赦を与える代わりに、そういった仕事をやらせる部署。私も少々関わりがあったのですが……よもやそれを、春夫さんへの攻撃に使われるとは」
あ、また怒りがぶり返してきたらしい。周囲の温度が急上昇。影がざわざわしている。
「まあ、お気になさらず。上に目を付けられることに関しては、サキモリとハガクレを懐に入れた時に覚悟を決めてますんで」
政府が絶対手放したくなかった切り札と、存在を隠しておきたい部隊。そんなのひとまとめにしたら、何事かと警戒されて当然なのだ。
「そうは仰いますが……私のせいで、春夫さんが危険に晒されたなんて。本当に申し訳ないし……とても許せたものではないので」
ううん、怒りはどんどん急上昇。ついでに気温もうなぎ登り蒲焼きコース。このままでは俺がこんがり焼けてしまいそう。とりあえず、だ。このままだと相手が謎の焼死体になりそうな感じだ。これはちょっとよろしくない。
「マリアンヌさん。報復、します?」
「します。ええ、絶対。加減せず、容赦もせず」
「じゃあちょっとお願いなんですが……これで一発強請ってみませんか?」
俺は彼女の目の前でお金のサインを指で作った。右手で○を。左手で札をすり合わせる真似。怒りに燃えていた彼女が、それを見て目を丸くした。
「……強請る、ですか?」
「はい。もちろん、即物的な利益が目的じゃないんですが。ほら、このまま下手人や首謀者を残虐アタックしても多分終わらないと思うんですよね。なんせ我が国は民主国家。政治家も役人も一杯います。誰かを締め上げても、別の奴が企む。何なら、こっちを脅威に感じて連合組むとかありそうだなって」
「なるほど。あり得る話です」
「せっかく上が大きなミスをやらかしたんです。これを交渉カードにして揺さぶれば、いろんな物がボロボロ落ちると思うんですよ。そいつを使えば、いろんな利益が出るんじゃないかと。あとまあできれば、今後こんなことが無いように防波堤が作れないかなって」
「なる……ほど」
お、暑さが引いてきたぞ。ふう、結構きつかった。さてこれ、マリアンヌさんの怒りを抑えるために適当に理由を並べた……というわけではない。
先ほども述べたとおり、サキモリとハガクレの二グループを迎え入れたときに覚悟はしていた。国家の暗部に触れてしまった以上、いつかはそれに関係する連中が接触してくると。黙って待っているのはあまりにも危険。だから対処する方法はないものかと考えるのは自然な話。
とはいえ、その手段は全く思い浮かばなかった。地元で選挙活動するような末端ならともかく、権力の中枢に至るコネなんてあるわけがない。こちとら田舎の社長だぞ。無理があるわ。
唯一可能性があるのが、他ならぬマリアンヌさんだったが流石に頼めなかった。何せ色々お願いしている身だ。こんな大事まで手を回して貰うのは限度を超えている。なので銭で解決できないかとマジックアイテム等も含めて溜め込んでいたのだが……今回こういうことになった。
マリアンヌさんの怒りを発散させ、かつ今後の我が社の安全を手に入れる。さらには彼女の利益にもなる。おまけで、首謀者含めた連中がスプラッタな事にならない。とっさに口にしたが、なんだか得ばかりじゃないか。
「ふ、ふふふ。仰る通りです。どれほど身の程を弁えさせても、世代が変われば記憶も薄れる。手を回せば己の場所にはたどり着けぬと、思い上がった若造が沸いてくるのはいつものこと。ええ、そうですね。ここは一つ、腰を据えて根を張り巡らせると致しましょう」
「おお、やってくださいますか」
「もちろんです。魔女の手管をどうぞご覧あれ、という感じです」
いやあ良かった良かった。……我が社は世間様に顔向けできないようなことは『基本的に』しない。しかしそれは道徳的な理由ではなく、この国で生活していくためである。今回、それが脅かされたのだ。それも国に関わる者の手で。
じゃあこっちも、容赦してやる理由はないよな。もちろん、世間様にはばれないように。繰り返しになるが、全ては生活のためである。
「社長、救急車がもう少しで到着するそうです」
「おっと、ありがとう。あ、マリアンヌさん。一人頭を打った人が居るんでちょっと見てもらっていいですか? 万が一があったらまずいので」
「あらまあ、お任せ下さい」
お医者様を信用していないわけではないが、この手の事は早い方が良い。魔女殿の手を引いて、怪我人の寝ているテントへ急ぐ。
太陽も風も暑い夏。とりあえず、大騒動は一段落を迎えようとしていた。
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「はあっ、はあっ、はあっ……ゆ、夢? アレは、夢だったのか」
大きく息を吐く。風邪を引きそうなほど、汗をかいていた。あまりにも酷い悪夢だった。自由がきかず、声も出せず。しかし身体は勝手に動き、家族を傷つけるのだ。妻、息子、その嫁、孫たち。かけがえのない、大事な家族を自分の手で。
悲鳴がまだ耳の奥に残っている。手の痛みまで思い出せる。おかしな話だ、夢だったのだからそんなはずないのに。
そして彼は、ふと周囲の異変に気付いた。慣れ親しんだ自分の事務所に、いくつも違和感がある。例えば暗さだ。いつの間にか夕暮れ時になっていたらしい。日は大分落ち、空は不気味なほど赤く染まっている。
次に、妙な寒さを感じた。エアコンは動いていない。夕暮れ時なら、まだ事務所の建物は昼間の熱気をおびたままのはず。空調なしでは、たちまち蒸し風呂になるのがこの部屋だ。だというのに、この寒さはおかしい。
極めつけは、乾燥だ。湿気をほとんど感じない。目も喉も乾いている。それがこの寒さの一因なのだろう。全くもっておかしい。空調機をどれだけ回しても、ここまで乾くものではないだろうに。
同前は改めて周囲を見渡す。部屋の中には誰も居ない。外にも気配がない。秘書や事務員達は帰ってしまったのだろうか。いや、ありえない。自分がまだここに居るのに、そんなことをするはずがない。
心臓が、痛いほど脈打つ。何かが起きている。部屋から出なければ。立ち上がろうとして、それが出来なかった。何かが身体を縛り付けている。そこには何もない……いや、違う。ある。茨だ。それが服を突き破り、手や足、腹や胸に突き刺さり椅子へ縛り付けている。
「……!!!」
苦痛のうめきすら、上げることが出来なかった。喉にまで茨がねじ込まれている。今までの人生で感じたことのない痛み。気絶もできない、理解も無理。一体自分の身に何が起きているのか。
「こちらを見ろ、小僧」
そしてついに、彼は目の前に居る存在を認識することを許された。とっくに居て、見えていたのに、気付くことを許されなかった。認識を、相手に操作されている。そこまで細かくは分からなかったが、己の自由のほとんどが奪われているのだと痛みの中で理解する。
魔女がいた。アンタッチャブルファイルの通り、いやそれ以上の美女。凄絶な笑みを浮かべて、彼を睨み付けていた。
「よくもやってくれたな。覚悟は出来ていよう?」
「ち、違う。私は……」
「言い訳は無用だ。全て調べた。私は魔法使いだぞ? お前達がどれほど痕跡を消そうとも、それぞれが生きている限りいくらでも調べられる。喋らせられる。今お前が実感しているとおり、喉の操作さえ自由自在だ」
魔女の言うとおりだった。一瞬だけ自由となった喉は、言い訳を口にした途端また苦痛に支配された。これはまずい。こんなでたらめが出来るなら、自分の関与がばれているのは本当かもしれない。
いくつもの伝手を経由して、犯罪者ハンターを今回の作戦に投入した。記録に残さず、誰にも知らせず。入川春夫の戦闘能力を回復不能レベルで奪って逃走する。そういう計画だった。ミナカタというダンジョンカンパニーは、その男が中心であり要だ。彼がいなくなれば、会社は瓦解する。マリアンヌも日本から離れる。そう予測しての行動だったのに。
「なるほど、そういう企みであったか」
同前は、自分の思考が操られていたのを自覚した。無理矢理、今回のことを思い出させられたのだ。コレが魔法か。これがアンタッチャブルか。冷や汗が止まらない。恐ろしい。こんな怪物が、居て良いはずがない。
「残念だったな、小僧。お前が物を知らないだけだ。世界には、怪物がいっぱいいるのだ。そして、世界の外にもな」
魔女が指を成らす。すると、同前の秘書がドアから入ってきた。その目は焦点が合っておらず、まるで夢を見ているかのようだった。
秘書は魔女が見えていないらしい。ついでに、部屋の状況への認識も怪しい。そのまま部屋の中にふらふらと入ってきた。
「ご報告します。襲撃計画は失敗しました。入川春夫は健在。ハンター達は国友《くにとも》によって捕縛されました。そのままドゥームブレイカーズによって警視庁に送りつけられるとの事です。関係各署から、問い合わせが来ています。いかがいたしましょう」
「放置しろ。お前は引き続き情報収集に勤めよ」
「かしこまりました」
魔女が、当たり前のように命じた。秘書はそれを疑わず、首を縦に振る。そしてまたふらふらと部屋から出て行った。手に持っていた資料を魔女に奪われたのに、何も気にせず。
「……ふむ。あの外国人、
独り言だろう。明らかに、こちらへ話す時とは声色が違う。魔女は春夫の名を口にした。そこまで気を欠けている相手だったのか。見誤った。まさか千年生きる魔女が、そこまで二十代の若造に懸想するなんて誰が想像できるのか!
「うるさいわね。人の恋路を邪魔するやつは、馬に蹴られて地獄行き。ここではそう言うのでしょう? ……しかし小僧。貴様は楽には殺さぬ。たっぷりと報復を受けてもらう……つもりだった」
恐ろしい。先ほどより柔らかなあの笑みが恐ろしい。今からあの魔女は、とてつもないことを口にしようとしている。同前にはそれがはっきりと分かった。
「お前には特別に、二つの道を用意してやった。一つ目、先ほどの悪夢を現実のものにする。私には出来る。手段も豊富だ。必ず、お前の手で、お前の家族を、苦痛の末に殺してやる」
「止めてくれ! それは、それだけは!」
「そうか嫌か! であれば、もう一つを選ぶしかないな……国を売れ」
頭をハンマーで殴りつけられたような衝撃を受けた。今、魔女はなんと口にした?
「国を売れ、と言った。これからお前は支援者を裏切り、投票者を裏切り、国を裏切るのだ。何を置いても私の指示を最優先。我らの不利益になるなら、国益を踏みにじれ。売国奴に、お前は成るのだ。できるな? できなければ……わかるな?」
「あ、あああ、あああ……」
無理だ、止めてくれ、と口に出すことが出来ない。許されていない。しかしそれをすることは、自分の人生の否定だ。志を持ち、仲間に支えられ、国民を代表する者の一人に選ばれた。多くの時間と努力、苦悩と苦労の末に今がある。
それを否定されたら、自分には何も残らない。生きている意味が無い。
「そうか。では己を守って家族を殺すのだな? 誇りだけを胸に、檻の中で余生を過ごすと良い」
「あああ……あああッ!」
ダメだ。詰んでいる。断れば、家族殺しの殺人者に落とされる。自分の何もかもは終わりとなり、家族の命まで失ってしまう。同じ地獄。しかし、家族が助かる分だけ……。
「……分かり、ました。従います。従いますから、どうか家族だけは」
「よろしい。ではこれにサインを」
古風な羊皮紙と時代がかった羽根ペンが机の上に置かれた。そこに書かれているのは、隷属の契約書。自分の自由を売り渡す契約書。代わりに得られるのは、家族の無事。
触れるべきではなかった。深い後悔と共に同前は己の名を書き込んだ。