【書籍発売】汝、現代ダンジョンに希望を持つべからず 作:鋼我77
マリアンヌの屋敷。そのリビングにてくつろいでいた春夫と里奈は、部屋の外から響いていくるかすかな騒音に気づいた。珍しいことだった。屋敷の使用人達は、主の快適な住環境を作る事に全力を尽くしている。家事をするときでさえ、周囲に春夫達がいるかどうかでタイミングをずらすほどだ。
何事かと首をかしげていると、ドアがノックされた。応じて招き入れれば、スーツに眼鏡という秘書スタイルのマリアンヌが現れた。
「あれ? マリアンヌさん、さっき着替えてませんでした?」
「ええ。ですからこれは幻ですよ。このように」
彼女が自分の左腕の袖を、右手でなでる。するとそこから、部屋着のそれが現れる。もう一度それを刷れば元通り。それを見せている間に、使用人であるラットマンたちが荷物を持ち込んだ。真新しいホワイトボードだ。その左右に、使い魔である猫と烏がそれぞれメイドと執事姿で立った。
「さて。唐突ではございますが、ただいまより家族会議を始めたいと思います。よろしいですね?」
「あっはい、聞いてなかったけど予定無いので大丈夫です」
「今夜はイチャイチャしないんです?」
「あとでするから、ちょっとだけ時間頂戴ね里奈ちゃん。……おほん。さて私たちは昨日、家族として歩んでいくための大事な一歩を踏み出しました」
「「一歩?」」
敏腕秘書のふりをする魔女の言葉に、被害者二名はお互いを見合った。
「あれは一歩なんてレベルじゃなかった気がするんだけど」
「五歩? 十歩? 短距離走? ……全力フルマラソンかも」
凄まじい初体験の記憶が、二人の脳裏に回帰する。それの正しい比喩をしようと、表現はどんどんエスカレーションしていく。春夫たちの表情はやや虚ろだ。刺激的すぎて、未だに受け止めきれていないというのもある。
「んんっ、お二人ともよろしいかしら。こちらへ注目してください」
暴走した当人であるマリアンヌは、その様を見て流石にばつが悪くなった。咳払いをして誤魔化し、話を進める。
「人の仲というものは、互いへの敬意あってはじめて成立するもの。友情または愛情を深めた結果、油断し相手の扱いがぞんざいとなる。その結果、敬意が失われて関係が破綻する。そんな友人や夫婦を、私はこれまで山のように見て参りました。私たちは、これに学ばなければなりません」
「ううむ……自分はそんなことしない、と考えるのは慢心だと?」
「その通りです春夫さん。魔が差さない人間なんてこの世にいません。大事なのは自制できるかどうかです」
「私たちにあーんなことやこーんなことをした姉さんが言うと、説得力がありますね」
「里奈ちゃん。言葉の刃が痛いわ……反省します、はい」
再度咳払いをしたマリアンヌは、ホワイトボードを軽く叩く。使い魔二人が、そこに文字を連ねた。書かれたのはこのようなものだった。
『してもらって嬉しいこと。されて嫌なこと』
「というわけで、今夜のお題はこれです。何が嬉しい、何が嫌。これをしっかり認識しあいましょう。特に後者は重要です。うっかりミスをして相手のタブーに触れてしまった場合でも、それがどれだけ深刻な事なのかを知っていれば対応も変わりますから」
「まあ、そうですね。共同生活な訳ですから、そういうすり合わせは大事ですね」
だいぶ普通のそれとは違うけど、と春夫は胸中でそう付け加える。自分たちの状況は、一般的な同棲や夫婦生活とは大きくかけ離れている。夫一人妻二人というのも大概だが、マリアンヌの屋敷とその使用人達も存在も凄まじい。
特に後者は、生活にかかるコストが大きく軽減されている。ほとんどゼロとすら言える。普通であれば、仕事、料理、洗濯、掃除、買い物、近所付き合い、全て夫婦二人の仕事である。
しかしこの屋敷では仕事以外のほぼ全てを使用人であるラットマンが片付けてくれる。夫婦での仕事の分担というものを考えなくていい。それがどれだけ関係性をこじらせるものであるか、世間を見ていれば理解できる。
春夫達は自分の仕事と、夫婦の関係に多くの時間を費やせる。これはとても大きな事だ。改めて、大魔導士マリアンヌ・ヴァルニカが積み上げた財産の大きさを考えてしまう。昔の表現なら、逆玉というものになるのだろう。
「はーい。私は、これからも一杯愛して貰いたいでーす」
手を上げながら明るく里奈がそう言うが、その実情はとても重い。実を言えば、今まで彼女を愛せる者は居なかった。求めるものは多々存在した。この美貌と能力である。性欲の対象として、あるいは兵器として多くの手が伸ばされた。
後者に関しては、政府が囲っていたため外部からのものはシャットアウトされていた。内部での取り合いは多かったが、その扱いづらさから徐々に減っていき最後にはドゥームブレイカーズという形に落ち着いた。
では前者はどのようになっていたのか。簡単に言えば、断神に敗北したのである。なんと言っても、レッサードラゴンに正面から挑む胆力の持ち主である。アビリティ、プラーナ、そして身体能力と実戦経験。心技体、全てが現状人類の最高峰にある彼女だ。生半可な男では、あらゆる点で太刀打ちできない。
つまり下心で近づいても、いざというとき恐怖でナニが縮こまるというわけである。そしてもっと純粋な好意で距離を詰めようとしてきた人物も、やはり同じ理由で足を止めてしまう。家族同然に育った、サキモリの面々でも友人以上にはなれなかった。
高嶺の花である彼女に手を伸ばせるのは同格以上か、あるいはその資格を示した者のみなのである。そしてここに居る二人は、それを満たしていた。
「まあそこは、当然というか」
照れながら春夫が頷く。この男、一線を越えてもなお
「うふふ。前にも言いましたけど、もう逃がしませんわよー」
そして逆に同性なら百戦錬磨のマリアンヌは邪気のない笑顔でそう言い切った。
「それで……されて嫌なこと、は……」
晴れ晴れとした笑顔だった里奈の表情が、たちまち曇っていく。
「やっぱり、捨てられること、かな」
「「しないしない」」
二人は即座に否定する。隣に座っていた春夫は、彼女の手を握って見せた。この程度なら、なんとか照れずにできるようにはなった。春男の中のイマジナリー小百合は『ここは肩に手を回して抱き寄せるところでしょ!』と叱っていたが。
「春夫さんは、どうですか?」
「うーん……ちょっと考え中です」
マリアンヌに尋ねられてそう答える。本人としてはどこまで言って良いものかという悩みもあった。魔女はそれを理解していたが、あえて触れなかった。急かすものでもなかったから。
「では先に私が。して貰いたいことですけど……うん、わがままを言ってほしいですね」
「わがまま」
「そうです。そして私はそれを全力で叶える。……私、色々できることが多いのです。ですけど、全てのことを思い通りにするには色々足りない。だから多くのことを自重しているわけです」
「わかります」
合いの手のように春夫が応答する。隣で里奈も頷いていた。
「ですから! 弟子とか、恋人とか、身内にはそういうのナシでドバっと! 害にならないようにブレーキは踏みますけど、思いっきり愛したい! 甘やかしたい! なのでわがままをいってほしいのです!」
「なお、ただいまの発言にあったブレーキですがだいぶ怪しいです。駄目人間になって一生館から出られなくなっても平然と世話するのがうちの主です」
「マリアンヌさん、猫さんがとんでもないこと仰ってるんですが」
「概ね間違ってませんね!」
「駄目じゃないですか」
いつぞや抱いた懸念は間違いじゃなかった。やっぱり理性をもって接しないと溺れることになる。春夫は全身に冷や汗を感じた。
「そして……されたくないこと、ですが。まあ一般的な物理および精神的な加害行為は避けていただくとして……あ、そういうプレイなら応相談で!」
「マリアンヌさん、ブレーキ踏んでください」
「おおっと、失礼。あとは……屋敷の外の、魔方陣の基部。あれを破損させるような行為は本当に止めてください。向こう側との壁がなくなって地球文明が滅びます」
「夫婦関係のための意見のすり合わせでまず出てこない単語ですね……もちろん、絶対にやりませんのでご安心ください」
「気をつけまーす」
「里奈さんの断神、わりと脅威だと思うのでマジで気をつけてくださいね」
マリアンヌとしては、この件をことさら強く言う必要は無かった。二人の人となりはこれまでの付き合いでしっかりと見てきた。長い時間を生き、多くの経験をし、超常の技をいくつも身につけてきた。他者を見る目は常人よりも厳しく注意深い。
この二人は愛されることを強く望んでいる人間である。そしてその裏返しとして、そうして貰いたい相手に嫌われることを酷く恐れている。故に(その尺度は個人によって違うが)理性もあれば自重もする。
関係を壊すような横暴な振る舞いはしない。そう確信できるからこそ、である。それに春男の場合は魔剣のおかげで心を簡単に読める。里奈については、使い魔や使用人がいなければまともな日常生活を送れない娘である。
どちらも監視の目は山のようにあるのだ。不審な振る舞いが少しでもあれば、魔女に伝わるようになっている。当人達もその環境を当然として受け入れていた。それがこの三人の間では信頼の一つとして扱われている。
「さてそれでは、いよいよ春夫さんの番です」
「ううん……して貰って嬉しいこと。とりあえず、現状がすでに十分贅沢な状況なんですよね。なので現状維持というか……」
「具体的になにが嬉しいかを聞きたいのだけど?」
「それは、まあ……一人でも身に余る幸福なのに、二人も美人で可愛くて最高の恋人と生活できていることとか。その生活が毎日高級ホテル並みであることとか。私生活だけでなく仕事まで支えて貰っていることとか……」
衣食住だけでも、こけ玉菜園で飢えを凌いでいたかつてを思えば考えられない環境。加えて仕事が順風満帆で、恋人が二人居る。これ以上を望めば罰が当たる、と春夫は考えていた。否、すでに十分ラインを超えているとも。
「そんなわけなんで、もう十分です。これ以上は許容範囲を超える、それどころかちょっと色々減らした方が……」
「えー? 減らしちゃうんですかぁ?」
他者は見たことのない、蠱惑的な笑みを浮かべながら里奈がすり寄る。男の理性を吹き飛ばすに十分な色気だ。これ以上を経験済みの春夫だからこそ、なんとか耐えられている。
「私、色々覚えてきたからこれからもーっと頑張れますよ? 姉さんもそう思いますよね?」
「ええ。里奈ちゃんは覚えがいいですし才能もあります。国の一つや二つ、軽く傾けられるようにしてあげましょう」
「やめてマリアンヌさん。断神だけでも国に影響力あるのに、これ以上は日本が滅ぶ」
「ご心配なく。傾くのは春夫さんの理性だけですから」
「それはそれで困るの! 会社行けなくなっちゃう!」
ほほほ、と笑いながらそれはないだろうと魔女は考える。春夫の矜持は、社員達への責任によって成り立っている。
本格的な研究はしていないが、今までのサンプルからある程度の推察はできる。アビリティを発現させたものにとって、それから逃れることは容易ではない。
あのアントニー・アダムソンもそうだ。弱い者にしか強く出られない。だからあらゆる相手を自分より下と定義する。おかげで成長も難しい。その結果がプラーナの暴走、大陸で言うところの
身体からマナが抜けきり、プラーナの保有量が減少するまで復帰はできないだろう。一体何年かかることか。たとえそうなったとしても、精神が健全であるかは疑わしい。その前に死ぬ可能性の方が高い。
マナ、プラーナ、そしてアビリティ。全て危険が付きまとう。しかし力とはそういうものだ。使い手次第で己を含めた誰でも傷つける。
ともあれ、春夫が会社を放り捨てて自分たちに溺れきることはないだろう。そんな日があるとすれば、きっとそれは円満に退職した後くらいだとマリアンヌは考える。
「では、されて嫌なことは?」
この時、マリアンヌは気楽に構えていた。なので魔剣を通して、春夫の精神が軋むのを感じて思わず表情が固まった。
「そう……ですね。やっぱり里奈さんと同じで捨てられることと、あとは……浮気、かな」
僅かに想像しただけで、春夫の心に凄まじいストレスが発生していた。これまでの人生で求めても得られなかった愛。それを経験してしまっただけに、失ったり裏切られた時の衝撃はとてつもないものだ。
「まあ……俺よりもいい男なんて星の数ほどいるわけで。そういう気持ちになるのも致し方が無いとおもうのですけど。せめてその時は、先にしっかり別れた後で、ええ。それもきついけど、欺されたり裏切られたりも、うん。死ぬ」
「春夫さん、しっかり!」
里奈が血相を変えて彼を揺さぶる。手加減無くそうするので、子供用のおもちゃのように春男が左右に激しく揺れた。それでも当人の正気は戻っていない。絶望の想像に、精神が真っ逆さまに落ち続けている。
マリアンヌは決断的に歩みを進め、愛する男の唇を奪った。舌も入れた。容赦なく蹂躙した。数秒で春夫は正気に戻り、相手の背中をタップする。さらに十秒近く続けてから、唇を離してやった。春夫は乙女のように口元を押さえた。
「い、いきなり何を……」
「里奈ちゃん。ゴー」
「わあい!」
「ま、待って! 話せばわか……ッ!」
一分後、背を丸めてうずくまる春夫の姿があった。
「お、オムコにいけない……」
「私たちが貰うから問題ないですよね、里奈ちゃん」
「はい!」
天下を取ったと言わんばかりに胸を張る女二人。もはや語るまでも無いのだが、この関係性において主導権は基本的に女達が握っている。しかしその中心人物は間違いなく春男。天秤の支点は、状況によってよく動く。
「さて、今夜の話し合いはこれにて終了。また機会を見て、どんどん意見交換をしていきましょう」
「これを、意見交換と言っていいのか……?」
「わかり合うためには必要ですよね!」
マリアンヌは秘書姿の幻を解いた。すなわち、真面目であることを投げ捨てたという意味である。女主人は手を叩いた。
「それじゃあ、早速話し合いを有効活用いたしましょう。まずは春夫さん達の不安を払拭しませんと。さあ、お風呂へお連れして」
「「かしこまりました」」
合図と共に、使用人のラットマンたちが部屋に雪崩れ込んでくる。あれよあれよという間に、春夫達は担ぎ上げられた。
「またこの流れか-」
「楽でいいじゃないですか」
子牛が売られる歌を口ずさむ春夫。成されるがままの里奈。マリアンヌは楽しげに、最後尾を歩いて行くのだった。