運命はかく扉を叩く 作:スケート観戦に必要な知識多すぎ
あらかじめメダリストを3巻ほどまで読んでおくことを推奨します。
三家田涼佳のように自己表現に優れ
大和絵馬のように忍耐強く
申川りんなのように度胸があり
獅子堂星羅のように物怖じせず
黒澤美豹のように対抗心に溢れ
小熊梨月のように冷静さを保ち
鴗鳥理凰のように環境に恵まれて
鹿本すずのように努力を厭わず
ライリー・フォックスのような天運を持ち
鴗鳥慎一郎のように勝利へ執着し
夜鷹純のように才能に溢れ
『メダリスト』は、良い漫画だった。
身体の芯から熱くなるような展開に、爪先まで痺れるような美しい描写があった。
名前程度しか知らなかったフィギュアスケートすらも好きになってしまって。
そして、フィギュアスケートを、どうしようもないほどに神聖化してしまうものだった。
少女たちを、そしてかつては子どもだった大人たちを取り巻く年齢の壁。
どれだけの才能があっても、人生を賭けのチップにするような執念があっても、一つ取りこぼすだけで、少し遅れてしまっただけで、何もかも上手くいかないことがある世界。
だから、フィギュアスケートを好きになると同時に、滑る気も無くした。
“気になるけれど、見る専で十分”などと言えてしまうほどの気持ちしかないのだから、大人になってから滑るようなものじゃないのだと。
素敵なスポーツだ。
あんな風に氷上を彩れたらかっこいい。
指先まで己の肉体を操れたらうつくしい。
幼い頃から人生を注ぎ込めたらすごい。
──ほんの少しだけ、やってみたい。
そんな気持ちがなかったわけじゃない。
でも、僕はもう、20を越えたいい大人だったから。
スケートの運命は無かったみたいだと、そう言い訳していた。
だからだろうか。
存在しないはずのチャンスが目の前にやってきた時に、どうすればいいか分からなくなってしまったのは。
「サイズや履き心地に問題はありませんか」
「大丈夫、だと思います」
屈んで目線を合わせてくれている体格の良い男性──
“邦和みなとスポーツ&カルチャー”
『メダリスト』の冒頭、
両親に導かれるようにして辿り着いたここへ、僕はスケートの体験教室に来ていた。
「
「お父さん、さっきから何でもかんでも褒めすぎ。事実だけど、それで気を取られて転倒しちゃったらどうするのよ!」
「た、確かに……氷人、足元と先生と氷によく集中するんだぞ!」
「それは多すぎ! 大丈夫よ、焦らなければ平気だからね!」
「分かってるよ、母さん」
ガードの外、誰かを思い出す勢いで褒めちぎってくる父と、心配げにこちらを見つめている母にひらひらと手を振る。
普段から親バカとしか言いようがない2人なのだが、押しに押されてこのスケート体験へ来ることを決めてからは特に熱量が凄かった。
鴗鳥先生の微笑ましげな視線にちょっと恥ずかしくなるくらい。
「……良いお父さんとお母さんだね」
「僕も、そう思います」
本当に、良い両親だと思う。
──まるで不自由なくスケートをするためにいるようだという、悍ましいことが頭をよぎったほどには。
失礼で、最悪で、冒涜的な考えだということがわかっているのに、やめられない。
両親のどちらもがスケート経験と熱意があり、裕福で、環境の適した名古屋に住んでいて、コーチを始めたばかりでまだ手が空いている
まるで『メダリスト』の世界に僕が生まれてきてしまった理由を示すような環境だった。
(……
いくつかのグループになって子どもが、未来のフィギュアスケーターが走っているスケートリンク。
目を閉じればいくつもの
(感動よりも苦しくなるなんて、夢にも思わなかった)
なんとなく、自分に才能があることを分かっている。
バランス感覚だとか、目の良さだとか、そういったものが明らかに前と違うのだ。
だから、滑りたくない。
才能を持った子どもが周囲を潰しかねないことを知っている。
前世で愛した『メダリスト』を、万が一でも崩したくなかった。
だというのに。
いくらでもあるはずのやらない理由を蹴っ飛ばしてここに来てしまったのは、大量の言い訳と、微かな期待のためだった。
「体験だけでも」と望む今生の良き両親を、前世の拘り1つで突っぱねたくはなかった。
一度滑りさえすれば、あとはなんでも理由を付けてやめられると思った。
そして、もし────もし、才能がなければ。
才能など気のせいで、全てが僕の勘違いなら。
誰の邪魔もせずにフィギュアスケートを滑れるかもしれない。
憧れていた、奇跡を起こす一人になれるかもしれないのだ。
ハラハラとした様子で見守っている両親を尻目に、ボードに手をかけながら立ち上がる。
慣れない重心の揺れに少しフラつくが、数秒もすれば収まりのいい位置が見つかった。
「……──よく、立てましたね。では、次は壁に手を付きながら、氷の上で立てるように──」
「あの」
子どもに対する丁寧な説明には感謝の気持ちがあるが、そんなまだるっこしい事をやってはいられない。
「ほんのちょっとだけ、自由にやらせてくれませんか? 行けそうな気がするんです」
「いえ……。あそこの子どもたちなんかも楽しそうですから、滑ってみたい気持ちはわかります。ですが、これは怪我人が出やすいスポーツでして。そういうわけには……」
極めて真っ当な意見ではある。
でも、早く確かめたいのだ。
僕がこのスケートリンクに居て良い存在なのかどうかを。
「すみません。倒れたらやめるので」
一つ断って、返事も待たずに氷の上へ足を滑らせる。
伸ばされた手に掴まれるより早く、エッジが氷をなぞり始めた。
「確か、推進力を出すように……」
朧げな記憶を頼りに繰り出した最初の加速で、世界が変わった。
感じたことのない冷たさが肌を刺激するたびに、脳の奥までクリアになっていくような心地。
そして、
(世界がゆるやかで、僕自身がはっきり見える)
スローモーションの中、恐ろしい速度で身体が氷へ馴染んでいく。
より速く、よりスムーズに進むように、重心とエッジの小刻みな調整を繰り返して。
より無駄がなく、より美しくなるように、素人目にも下手だと感じた部分を修正していく。
少しすれば、何度か投げかけられていた静止の声も耳へ入らなくなった。
(……ああ、これ)
身体が、スケートに集中したがっている。
頬を撫でる冷たい風、思うように動く身体、増していくスピード、全てをもっと感じたくなってしまう。
気をつけていたのに、子どもらしくない苦笑が漏れた。
「……わかっていたつもりだけど」
楽しい。
良い姿勢を勝手に探す筋肉が未熟さに悲鳴をあげさえしなければ、いつまでも滑っていられそうなくらい。
───そして、残酷なほどに運命を実感できる。
指導も受けず、関わりといえば親や
身体は未発達もいいところで、何もかも足りていないはずの7歳。
例え前世などという知識と価値観の補正があったとしても、こんな何もない状況で最初から滑れることが特殊じゃなければ何なのか。
やっぱり僕は、滑るべきではないのか。
(……お願いだ)
かつて白黒で見た動きをなぞるように、足の組み替えと上半身の捻りを伴って進行方向に背を向ける。
跳ぶ。
いや、跳ぶな。跳べないでいたい。降りたくない。
ここで躓いて、少しスケーティングに才能があるだけの、周りと同じだと知りたい。
運命なんて嘘だと、そう教えて欲しい。
そんな思いとは裏腹に、身体は着実へ
ピンと伸ばしていた左足に右が追いつくタイミングで、爪先での踏み切りと同時に両腕を締めて跳びあがっていく。
そう幻視した数秒先の自分をめがけて、踏み切った。
(いっ、かい、てんっ……!?)
イメージよりも、回っている。
ほぼ無いはずの筋肉をフル稼働して、届き得る限界へ手を伸ばしている。
着氷姿勢は維持できず、転ばないのがやっとの着氷だったとしても、確かに降りることができた回転の名は。
2回転トウループ
(────ああ、やっぱり)
爪先が氷へ触れた瞬間に成功を確信するような、そんな軽い手応えを残したまま。
僕の身体は、いとも容易くトウループを跳んだ。
全て、始まる前からわかっていたはずだったのに。
そうやってどこか上の空で、それでいて失意に塗れた僕が戻ってきてようやく、唖然としていた鴗鳥慎一郎は目の前の
「鴗鳥先生、言うことを聞かずにすみませんでした」
「…………まずは、怪我が無くてよかったです」
深呼吸を一つ二つしてから口を開いた鴗鳥先生は、かける言葉を探しているようだった。
「……途中、ジャンプをしていましたね。あれは、誰かに教わったものですか?」
「いえ、テレビや親の競技映像を見て真似したものです」
「あれが2回転だったことは分かっていますか?」
「はい。1回転を跳ぶつもりだったので、予想外でしたが」
「そう、ですか…………」
口元を抑えて考え込んでいる鴗鳥先生に、顔いっぱいに期待を詰めた両親の視線が向いた。
「鴗鳥先生……うちの息子はどうでしょうか」
「……初めてでこれは…………おそらく、いえ確実に」
「彼────
元銀メダリストと、かつて氷の上にいた両親がこちらを凝視する。
興奮しているのがよくわかる熱視線だった。
無理もない。彼らにしてみれば、これ以上ない
初めての氷で立つどころか、何を教えられることもなく滑っていく、才能の証明がある。
それでも、僕だけは熱くなれない。
先ほどまで感じていた熱が急速に冷めていく。
「7歳で初めてなら立っただけで十分、滑れば天才と言えるでしょう。ですが彼は、エッジの使い方から重心まで、指導もなく自分で調整してみせた。挙げ句の果てには、身体作りから始めなければいけないはずの2回転を、見ただけで跳んだ。……はっきり言って、普通ではありません。今からここでみっちりと練習すれば、男子のノービス────いえ、世界が狙えるかもしれないほどです」
その通りなら、
それによって鴗鳥理凰がどう動くか、そして周囲の人間がどうなってしまうか、想像がつかない。
何を壊してしまうか、わからない。
「すごい、すごいぞ氷人!」
「前からスケートの才能があるんじゃないかって思ってたけど、これは予想以上ね……!」
だから、言わなくては。
「……僕は」
「スケート楽しかったでしょ? 滑る時の表情も良かったものね!」
「氷人がもっとやりたいって思えたら、父さんたちはいくらでも手伝うからな!」
この人たちに諦めてもらうための言葉を。
「……龍崎くん。初めてでこんなに滑れたのはすごいことです。楽しいと思えたら、私と一緒にスケートを続けてみませんか?」
「僕は──」
たとえそれが、運命に逆らうものだったとしても。
「僕は、スケートを滑りません」