運命はかく扉を叩く 作:スケート観戦に必要な知識多すぎ
狼嵜光がかわいすぎて無限に漫画を見返している
「……なんでここに?」
「あー…………成り行きかな。学校ぶりだね、狼嵜さん」
夜のスケートリンク。
二人分の黒いシューズがエッジを煌めかせる舞台に立っている、心底不思議そうな狼嵜光に苦笑を返す。
父さんに連れられて来た夜のスケートリンクとやらは、案の定夜鷹純と狼嵜光の個人レッスンのようだった。
「父さんが
「いや、付き添いって……」
微妙な表情で言い淀んだ言葉の続きはわかる。
秘密のレッスンへこんな気軽に参加者が居るのはおかしい。僕も変だと思う。
「ま、気にしないでよ。審査員席にいるけど、主体は父さん。僕はなんか……夜鷹純のスケートを見せて貰えるのが主体らしいから」
「スケートを滑らないのに?」
「滑らないのに……」
やっぱり首を傾げている狼嵜光だったが、これ以上の答えは僕も持っていない。
説明を諦めて審査員席に座ると、父さんが狼嵜光と一言二言話して、こちらへやってきた。
「氷人、まず純が滑る。よく見とけよ」
「はぁ……分かったけどさ」
やや反抗的な口ぶりになってしまったのは、その程度で気持ちが変わらないという考えがあったから。
しかし、夜鷹純がリンクの真ん中に来てから、そんな舐めた考えは吹き飛んだ。
(……一人の人間が出せる熱量なのか、これが)
夜の生き物が、滑っている。
ただのレッスンだというのに、鬼気迫る表情で、それでいて鉄面皮を僅かに和らげて。
一度は失ったはずの居場所に舞い戻って、まだ燃えているのだ。
(すごく、きれいだ)
指先まで張り巡らされた生命の輝きが心の奥を揺さぶってくる。
これが僕以外へ向けられたものだと知っていても、美しさに感動せずにはいられない。
感動すら覚えるタノジャンプがそこにはあった。
(やっぱり、スケートっていいな)
滑れたら楽しかっただろうな。
演技は、一瞬だった。
体感時間もそうだが、狼嵜光のために手本をやっているらしいそれは、数回のジャンプしかなかったのだ。
それでもできるだけの感動を込めた拍手が、三つ分打ち鳴らされた。
スケートリンクにいる狼嵜光。そして審査員席の僕と、父さん。
「どうだ、氷人」
リンク貸し切りの事前と事後処理、そして監督の立場。
スポーツセンター、つまりスケートリンクの運営元としての立場や、夜鷹純との個人的な交流。今まで築き上げてきたものを総動員してまで、父はこのレッスンの観戦権をもぎ取ってきた。
たぶん、僕のために。
「スケート。滑ってみたくならないか?」
「……見ることは、好きだよ」
ずっと前に何度も繰り返した会話。
父さんと目を合わせられないまま、滑る狼嵜光を見ながら僕はそう答えた。
7歳のあの時。
運命を再認識してしまったあの日から1年と少し経った今。
スケートの道へ誘うことを諦めてしまったと思っていた父さんは、いつになく真剣な表情をしていた。
「綺麗だったろ、元……いや、今も最強かもしれない、世界最高峰のスケーターの演技は」
「うん」
「しかも、誰よりも氷上を楽しんでる。ほら、純の顔……いつもは冷めた顔を固めてるくせに、今は信じられないくらい幸せそうだ。氷人も、あんな感じだったんだぞ」
熱心という言葉では言い表せないほどスケートの良さを伝えてくる父さんは、あの日、僕が跳んだ時の表情が忘れられないという。
似てるという夜鷹純の表情は幸せそうにはとてもじゃないが見えてこなかった。ただ、真剣さだけがある。
そして僕は、そんなに真剣に氷上へ向き合えることを、きっと楽しいだろうと思えてしまう。
「氷人がスケートの何をダメだと思ったのか、俺には分からないけどさ。スケートの美しさを分かる人間が、滑る時にあんな表情ができるくらい楽しめるのに、滑らないなんてもったいないじゃないか」
正論だと、思う。
僕がスケートを滑らないのは、もっと違うところにある、彼らにはどうしようもない理由だ。
僕が年相応の子どもであれば。
彼らが愛してくれるのに打算なしで素直に応えられる、本物の子どもならば、なんの気兼ねもなくスケートをできていたのだろうか。
俯いて黙るしかなかった僕を悲しそうに見ていた父が、ゆっくりと立ち上がる。
よく見れば、いつの間にか相当な時間が経過していた。
狼嵜光も滑り終わったのか、クールダウンに入っている。
「氷人。今から整氷っていう、皆でスケートリンクの穴を埋めることをするんだ。その時に、純……さっき滑ってた人と話してみたらどうかな。アイツは口下手だし遠慮がないけど、悩みをバカにするようなやつじゃない……と、思うから。うん、たぶん…………」
「……分かった」
どこか不安そうな父さんが夜鷹純とアイコンタクトらしきものを取ったあと、シューズを手渡して離れていく。
原作を知っている身からすれば人選ミスとしか言いようがない気もするが、逆にこれがダメなら父さんも少しは諦めてくれるだろうか。
(……ひどい、考えだな)
愛情と願いが不意になることを望んでいることに刺すような痛みを覚えながら、人生2回目のスケートシューズに足を通す。
わざわざ今のサイズに合わせたものを用意してくれたらしく、履いた時の違和感はない。
憎いことに、身体の方も1年も前のことをはっきり覚えているらしい。
今回は、何の苦労もなく立ち上がった。成長したはずの身体に振り回されることもなく、重心の位置がわかってしまう。
やはり特に苦もなくリンクを滑り、トウによって開いた穴を埋め始めた僕の前に、影がかかる。
早速、来てしまったらしい。
「君が兜くん*1の息子だよね」
「……はい。龍崎氷人です」
「なんで滑らないの?」
不安そうにこちらをチラチラ見てくる父さんを気にも留めず、夜鷹純はこちらを見下ろしながら爆速で本題を切り出した。
知らなかったら絶対に面食らったであろう直球コミュニケーションに口元が引き攣る。
「大した理由はありません。ただ、やる気がないからですよ」
「そう」
平坦な声で短い返事をした夜鷹純が、同じようにしゃがんで整氷を始める。
一瞬で終わった会話と気まずい空気が酷い。
父さんは完全に手が止まってこっちを凝視しているし、比較的スルーしてくれていたらしい狼嵜光も時折こちらを伺っている。
話が終わりなら別の場所に移ってしまおうかと考えてすぐ、夜鷹純がまた口を開いた。
「アイスダンスは?」
「……え?」
「ペアは? スピードスケートは? ホッケーは?」
「何の、話ですか」
「全部やる気がないなら、氷上にいる意味はないけど」
氷上に来る前の鉄面皮になった夜鷹純の言葉に、頭が真っ白になった。
(なんで、拘っていたんだろう)
氷上を楽しむなら、才能を余すことなく使う手段なら、他にあったじゃないか。
シングルのフィギュアじゃなくても、母さんを頼ればペアの伝手があるし、父を頼ればスピードスケートもやってみれる。
……でも、何故だろうか。
大いなる気づきを与えられたはずなのに、心が全く動かない。
“とりあえず、母を頼ってペアに手を出してみよう”だなんて思えれば、きっと今の苦しみから解放されるはずなのに。
硬直してしまった僕をじっと見ていた夜鷹純が、一つため息を吐いて立ち上がった。
「……1度だけだよ」
瞬く間に助走を確保した夜鷹純が、目の前で滑り出す。
跳ぶつもりだ。
全てのマイナスな考えが吹き飛んだ。
さっきよりもずっと近くで彼を見る機会に、脳が全ての意識を向けろという。
あの美しいフォームを目に焼き付けろと。
(…あ、違う)
本来の、夜鷹純のフォーム。
夜の生き物が、その身を燃やしている。
腕を畳んでいるくせに鳥が翼を広げる様が想像できる、高い高いジャンプ。
3回転アクセル
──放っておけば、夜空の果てまで飛んでいってしまいそうだった。
「……限りある時間の中で証明できなければ、才能の意味はない」
急いだ方が、いいよ。
金色の瞳を煌めかせてそう言ったきり。
夜鷹純は、僕への興味を失ったようだった。
◇
──滑りたい。
整氷後のことは、あまり記憶にない。
色々と聞きたそうな狼嵜光の視線も、帰りの車で掛けられた父さんの言葉も、家に帰ってからの母さんの抱擁も、全てが朧げになっている。
──跳びたい。
あんな風になりたい。
間近で見た夜鷹純のスケートは、魂に刻まれてしまった。
観客が夢にまで見てしまうようなジャンプに、熱量に、どうしようもないほど憧れてしまう。
──僕も、あの翼が欲しい。
スピードスケートも、アイスダンスも、ペアも、アイスホッケーも、違う。
優劣があるわけじゃない。
けど、僕はシングルのフィギュアスケートがやりたいんだ。
一番最初に氷上へ誘ってくれた、全てのきっかけである競技をやりたいんだ。
この身に積まれた才能を全て振るうことができるスポーツを、やりたいんだ。
前世から続くスケートへの憧れは、夜鷹純への憧れに。
『メダリスト』への拘りは、あのジャンプへの拘りに。
だから、これも必然だったのだろう。
翌日、あっけなく。
周囲の焦りなど気にも留めず、悩むこともなく。
龍崎氷人は、スケートリンクに足を踏み入れた。