アネッテと希望の方程式   作:革新的甲殻類

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1-11「科学者と戦略家」

「あなたは...魔女化しないのね」

 

ほむらの冷たい声には、わずかに困惑の色が混じっていた。彼女の紫色の瞳は、目の前の少女を生物学者が珍しい標本でも観察するように、細部まで注意深く見つめていた。長いループの中で様々な異常を目撃してきたほむらだが、これほど法則を覆す現象は初めてだった。

 

「そうそう!」アネッテは両手を軽く握りしめ、満面の笑顔で答えた。まるで趣味の話や好きなアイドルの話でもするかのような明るさと熱意に満ちている。「私、ソウルジェムが完全に穢れても魔女にならないんだ。三日くらい昏睡状態になって、それから自然に回復するの。すごいでしょ?」

 

ほむらの表情が微かに歪んだ。長い時間の繰り返しの中で、彼女はありとあらゆる反応を見てきたはずだった。魔女化の真実を知った魔法少女たちの絶望、怒り、悲しみ、諦め...だがこれは完全に想定外だった。喜びにも似た興奮を見せるアネッテの反応に、ほむらは一瞬言葉を失った。

 

「...あなた、理解してるの?」ほむらは声のトーンを変えずに、しかし慎重に言葉を選びながら問いかけた。「魔法少女が魔女になるという事実の重大さを。私たちが戦っている相手は、かつての仲間だということを」

 

「うん、もちろん理解してるよ!」アネッテは熱心にうなずきながら、黄緑色のバックパックをごそごそと探り始めた。肩紐に取り付けられた小さな緑色の電子装置—ソウルトレーサーの簡易版だろう—が規則的に点滅している。「ちょっと待って...どこだっけ...あった!見て見て!」

 

彼女が取り出したのは、端から端までぎっしりと方程式と図表が書き込まれた分厚いスパイラルノートだった。ページの端には色分けされたタブが何十も貼られ、付箋が何枚も挟まれている。学術論文のような体裁の整った研究ノートだ。

 

「ほら、私の魔法少女・魔女変換理論!」アネッテは誇らしげにノートを開き、複雑な数式が並ぶページを指さした。「エントロピー増大則に基づいた魔女化プロセスの数学的モデルなんだ。この式によれば、魔女化時のエネルギー放出量は願いの強度と絶望の深さに比例して増大し、この係数がここに表すように、魂の変容過程では量子力学的な観点から見れば—」

 

「ちょっと待って」ほむらは片手を上げて彼女を遮った。その表情には明らかな混乱と警戒が浮かんでいた。数式を詰め込んだノートを目の前に広げるアネッテの熱意は、あまりにも異質だった。「あなた...恐怖を感じていないの?怒りも?」

 

「え?」アネッテは不思議そうに首を傾げた。栗色の短い髪が夕暮れの風に軽く揺れる。「なんで怖がるの?むしろ超興味深いよ!魔法のシステム構造としては驚くほど効率的だし、エネルギー循環の観点から見れば宇宙物理学的には理にかなってるよね。地球の生態系みたいに、完全な循環型システムだし」

 

アネッテはページをめくりながら熱心に続けた。「あ、この図を見て!ソウルジェムの汚染度と魔力出力の逆相関グラフなんだけど、穢れが70%を超えたあたりから非線形的に効率が下がっていくんだ。ここに臨界点があって—」

 

「効率的...?」ほむらの声が僅かに上ずった。長い黒髪が夕風に揺れ、紫の瞳に信じられないという感情が浮かんでいた。「私たちは騙されて、最終的には魔女になるのよ。自分たちが戦っている相手になる。それを効率的だと?」

 

「ああ、いや、倫理的には問題あるよね。それは完全に同意」アネッテは急に真剣な顔で言った。深緑色の瞳が知性の光を宿している。「ユーザーへの情報開示がないし、インフォームドコンセントの観点からは完全にアウト。魔法少女システムの設計者は倫理委員会に申請したら一発却下だよね」

 

彼女は少し考え込むような表情を見せたが、すぐに明るい表情に戻った。「でも、物理学的には美しいシステムだと思わない?閉じたエネルギー循環でほぼ永久機関に近いし、感情エネルギーの変換効率は理論上、既知のどんなエネルギー変換よりも高い。魔法少女の希望が魔女の絶望に変わる時、放出されるエネルギーの量は核反応を遥かに超えるはずで—」

 

「美しい...?」

 

ほむらは言葉を失った。呆然と立ち尽くす彼女の表情には、これまで何度タイムラインを繰り返しても見たことのない混乱が浮かんでいた。多くの魔法少女の最期を見届けてきた彼女だが、こんな反応をする魔法少女には出会ったことがなかった。さやかの怒り、マミの恐怖、杏子の諦め...そのどれにも似ていない。

 

「あなた、私の名前を知ってたよね?」アネッテが突然話題を変えた。好奇心に満ちた表情で身を乗り出す。「私のことを調べてたの?どうやって?双眼鏡とか使ってた?それとも、何か特殊な魔法少女探知能力があるの?」

 

「...そうよ」ほむらは深呼吸をして冷静さを取り戻そうとした。この会話の方向性を把握し、コントロールする必要があった。「あなたが特殊なケースだと気づいたから。普通、ソウルジェムが完全に汚れた魔法少女は—」

 

「わあ、すごい!」アネッテの目が星のように輝いた。「じゃあ、もっと教えて?他の魔法少女のこととか、魔女のこととか知りたい!見滝原の魔法少女たちのこと!あなたの能力は何?どんな願いを叶えてもらったの?見滝原には何人魔法少女がいるの?みんなチームなの?データ共有してる?」

 

質問は矢継ぎ早に飛んできた。アネッテの純粋な好奇心と科学的探究心は、まるで堰を切ったように溢れ出していた。

 

ほむらは長く深く息を吸った。彼女は多くの魔法少女を見てきた。絶望する者、怒りに震える者、崩れ落ちる者...だがこんな反応は初めてだった。まるで新種の生き物を発見したかのような感覚だった。

 

「私は時間を止める能力を—」彼女はようやく口を開いた。

 

「時間操作!?」アネッテが両手を叩いて小さくジャンプした。その表情は純粋な興奮と科学的興味で輝いていた。「それって相対性理論的にはどういう仕組み?局所的時空の歪曲?量子フリーズ?それとも別次元への干渉?ああ、測定してみたい!」

 

彼女は再びバックパックをごそごそ探り、複雑な配線が絡まった奇妙な装置を取り出そうとした。「これはまだプロトタイプだけど、時空間の歪みを検出できるかもしれなくて—」

 

「止めて」ほむらは氷のように冷たい声で言った。その紫の瞳に一瞬だけ怒りの色が浮かんだ。「私はおもちゃではないわ」

 

「ごめんごめん、興奮しちゃって」アネッテは照れくさそうに頭をかき、装置をバッグに丁寧に戻した。「つい科学者気質が出ちゃって...でも、すごく興味あるんだ。魔法少女同士で情報交換できるなんて!キュゥべえからじゃ限界があるし、私一人じゃ解明できない謎がたくさんあるんだ」

 

「...あなたは何を願ったの?」ほむらは本題に戻そうとした。この状況をどう理解すべきか、まだ掴めていなかった。アネッテという少女が時間軸にもたらした変化を理解するためには、彼女の願いが鍵になるはずだった。

 

「ああ、私は『どんな状況でも最適な道具を作れる力』を願ったんだ」アネッテは誇らしげに胸を張った。「親友が事故で亡くなって...その時、適切な医療器具があれば助かったかもしれないって思ったんだ。だからマグ・アームズって能力があって、電磁武器とか色々な機械を作れるんだよ。ほら、これが基本フォーム」

 

彼女が手を翳すと、緑色の光が空中に集まり、複雑な形状の装置が現れた。金属パーツが磁力で結合し、精密な機械装置を形成していく。

 

「それが...あなたが魔女化しない理由なの?」ほむらの視線は緑色に光る装置から、アネッテの顔へと移った。彼女の顔には、ようやく何かを理解し始めたような表情が浮かんでいた。

 

「うーん、そうかも?」アネッテは考え込むように言った。装置を消しながら、再びノートを開いた。「私の理論では、魔女化というのは一種の『状況』なんだ。そして私の願いは『どんな状況でも最適な道具を作る』というもの。だから魔女化という状況に対応するために、私のソウルジェムが自動的に最適化するシステムを構築したんじゃないかな」

 

彼女は熱心に図を指さしながら続けた。「だからマグ・アームズが魔力を再循環させる回路を作って、穢れを別の形で処理してるんじゃないかって。ほら、この式の変数をこう置き換えると、ソウルジェムの自己修復機能が理論的に成立するんだ。私のケースでは穢れが体内に一時的に吸収され、三日間の昏睡中に分解されたと考えれば—」

 

ほむらはアネッテの熱心な説明を半ば聞きながら、内心の困惑を深めていた。彼女が探していたのは、まどかを救う手がかりだった。そして、この奇妙な少女こそが鍵になるかもしれないと考えていた。だがアネッテは、彼女が想像していたような反応とは正反対だった。恐ろしい真実を前に、科学的好奇心の対象として楽しんでいる。これは武器になるのか、それとも新たな脅威なのか...

 

「あのね、ちょっと質問いい?」アネッテが突然身を乗り出した。彼女の瞳は純粋な科学的好奇心で輝いていた。「あなたのソウルジェムの魔力波長って測らせてくれない?比較データが欲しくて...あと、時間操作の仕組みも知りたくて!魔法少女の能力の多様性って興味深いよね。物理法則を局所的に改変する基本原理は共通でも、具体的な発現形態は願いの性質によって大きく変わる」

 

「...」ほむらは黙ったまま、わずかに距離を取った。

 

「見滝原にはどのくらい魔法少女がいるの?」アネッテは興奮して質問を続けた。「みんな魔女化のこと知ってるの?私、会いたいな!あなたに引き合わせてくれない?研究グループみたいなの作れないかな?魔法少女研究会!どう思う?定期的にミーティングして、データ共有して、魔女化を防ぐ方法とか一緒に研究できれば—」

 

ほむらはゆっくりと後ずさりした。彼女はこの少女にどう対応すべきか、まったく見当がつかなかった。これまでのループで培ってきた人間関係の処理方法が、アネッテには通用しない。彼女の反応は予測不可能だった。

 

「私は...行かなきゃ」ほむらは冷静さを取り戻すために、その場を離れる必要性を感じた。

 

「え?もう?」アネッテは明らかに落胆した表情を見せた。夕暮れの光に照らされた彼女の顔には、純粋な失望が浮かんでいた。「もっと話したいことあるのに...あ、メールアドレス交換しない?ラインとかでも!魔法少女同士のネットワークがあれば情報共有できるし、研究の進捗も報告できるのに!」

 

ほむらは黙ったまま首を振り、踵を返した。会話を続けるだけ無駄だと判断したのだろう。彼女の頭の中では、この奇妙な出会いの意味を整理しようとしていた。

 

「待って!」アネッテは彼女を追いかけようとした。「私、見滝原にもまた行くから!母の研究発表があるんだ。その時また会おう?魔法少女同盟みたいなの組まない?一緒に魔女退治すれば効率いいよ!私の計算だと、協力すれば成功率が約32.7%上昇するはず!」

 

ほむらは足早に立ち去りながら、内心で考えを巡らせていた。

「私は何度も時間を遡り、絶望と戦ってきた...だが、この少女は何なの...?まどかが魔法少女にならないのはアネッテが原因?彼女は救いになるの?それとも新たな脅威?彼女の特異性がまどかを救う鍵になるかもしれない...でも危険かもしれない...」

 

後ろから聞こえるアネッテの声は、まだ尽きることを知らなかった。

「ねえ、魔女を解剖してみたいと思わない?内部構造とか超気になるんだけど!結界の物理特性とか、次元干渉の仕組みとか!」

 

ほむらは思わず足を速めてしまう。

夕闇に包まれつつある公園に、アネッテの明るい声だけが取り残されようとしている。

 

そんなほむらの様子を見て、アネッタは自身の失態をようやく自覚するのだった。

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