カフェを出た二人は、月影町の静かな夜道を歩いていた。アネッテのポケットのソウルトレーサーが時折緑色に点滅し、周囲の魔力反応を探っている。夜風が栗色の短髪をなびかせる。
「複雑な事柄は、まず単純な要素に分解するのが基本なんだ」
アネッテはほむらに向かって熱心に説明していた。その声には科学者としての確信が満ちていた。
「私のパパがいつも言うんだ。『アニー、どんな難しい電子回路も、結局は単純な素子の組み合わせだよ』って」
ほむらは無言で歩きながら、横目でアネッテを観察していた。最初の印象とは違い、彼女の熱意には確かな論理性と洞察力が伴っていることに気づき始めていた。
「だから魔法少女システムも同じなんだよ」アネッテは手振りを交えながら続けた。「複雑に見えるけど、基本的な要素—願い、ソウルジェム、魔女化、エネルギー変換—に分解すれば理解できる」
「...なるほど」
ほむらの短い返事に、アネッテは構わず話を続けた。
「それで考えたんだけど」アネッテは声のトーンを少し落とし、より分析的な口調になった。「まどかさんの特異点について、いくつかの仮説を立ててみたんだ。キュゥべえが彼女に近づかなくなった理由、これは単なる偶然ではないはず」
アネッテは立ち止まり、ポケットからメモ帳を取り出した。そこには几帳面な文字で複数の仮説が箇条書きされていた。
「まず第一に、まどかさんの魔法少女としての資質が変化した可能性。あなたの言う『因果』とやらが別の方向に流れるようになったとか」
彼女はページをめくった。
「第二に、キュゥべえ自身の優先順位の変化。私のような特異な例を観察することで、彼らのエネルギー収集戦略が変わったとか」
さらにページをめくる。
「第三に、時間軸そのものの特性の変化。あなたの繰り返しによる亀裂や歪みが生じているとか」
アネッテは深呼吸して、最後のページを見せた。そこには太字で「最有力仮説」と書かれていた。
「でも、これらの中で最も可能性が高いのは、私の存在による波及効果だと思う。私が魔女化しないという現象は、魔法少女システムにおける『例外』、言わば『バグ』なんだ。そして一つのシステムにバグが生じると、他の部分にも波及することがある」
アネッテは熱を帯びた声で続けた。
「私の魔女化しない特性が、まどかさんの潜在能力にも影響を与えている。簡単に言えば、システムのエネルギーバランスよ。私が魔女化せずにエネルギーを放出しない分、まどかさんの因果の集中も緩和されている可能性が高い」
彼女は夜空を見上げた。
「宇宙のエントロピー増大則から考えると、エネルギー保存の法則が魔法少女システムにも適用されているはず。閉じたシステム内ではエネルギーの総量は一定だから、私が使わないエネルギーは他の場所—つまりまどかさんの方向にも—影響を与えているはずなんだ」
アネッテは再びほむらに向き直った。その目は科学的発見の興奮で輝いていた。
「このメーターで計測すれば、まどかさんの魔法少女としての潜在能力が実際に変化しているか確認できる。もし私の仮説通りなら、彼女は通常の魔法少女レベルの力しか持っていないはず。それが正しければ、キュゥべえが彼女に執着しなくなった理由も説明できる—あ、こっちだよ」
気づけばアネッテは自然にリードする側になっていて、ほむらは彼女に導かれるままに曲がり角を曲がっていた。かつての自分ならこんな状況を許さなかっただろう、とほむらは思った。だが不思議と、この栗色の髪の少女に流されることに違和感を覚えなかった。
「ほむらちゃんはどう思う?」
突然の問いかけに、ほむらは我に返った。
「...何について?」
「私の仮説。まどかさんとキュゥべえの件」
「正直なところ...わからないわ」ほむらは静かに言った。「私は何度も同じ時間を繰り返してきた。いつもと違う状況に...戸惑っている」
アネッテは立ち止まり、ほむらの目をまっすぐ見つめた。その表情は先ほどのカフェでの熱狂的な様子とは違い、落ち着いた思慮深さを湛えていた。
「ほむらちゃんは本当に強いね」彼女は静かに言った。「同じ時間を何度も繰り返して、それでも諦めないなんて...私には想像もできない」
ほむらは言葉を失った。自分の行動を「強い」と評価されることは滅多になかった。彼女の目的はただ一つ、まどかを救うことだけだった。
「あのね」アネッテは優しく続けた。「明日、見滝原に行ってみない?まどかさんのことを調べるの、手伝うよ」
ほむらが答える前に、アネッテはすでにスマートフォンを取り出し、カレンダーを確認していた。
「明日は土曜日だし、午前中に月影発の電車に乗れば...」
「...待って」
ほむらは言葉を挟もうとしたが、アネッテの勢いは止まらなかった。
「私のマジックパワーメーターを持っていって、まどかさんの近くで測定してみよう。それから、キュゥべえの反応も観察して...」
「アネッテ」
「あ、ごめん、また早まっちゃった?」アネッテは照れくさそうに笑った。「でも、明日大丈夫?」
ほむらはため息をつきながらも、小さくうなずいた。かつての自分なら、こんな状況は考えられなかった。他の魔法少女と協力する?それも、科学的好奇心に満ちた奇妙な少女と?しかし今、彼女はなぜかアネッテを信頼していた。
「じゃあ決まり!」アネッテは満面の笑みを浮かべた。「駅で9時に会おう。それまでに私は測定機器をもう少し調整しておくね。あと、魔法少女・因果律理論の図表も完成させておく!」
彼女は小さなスケッチブックを取り出し、すでに描き始めていた複雑な図表を見せた。中央にまどか、その周りにほむらとアネッテ、そして下部にキュゥべえが配置されている。矢印と数式が彼らを繋いでいた。
「こんな感じ。因果の流れを視覚化してみたんだ」
ほむらは図を見つめ、その論理的な美しさに少し驚いた。確かにアネッテは奇妙だが、彼女の頭脳は鋭く、洞察力に満ちていた。
「...なぜ」ほむらは静かに口を開いた。「なぜこんなに協力的なの?」
アネッテは少し考え込むように空を見上げた。
「だって、面白いからかな」彼女は率直に答えた。「あと...」
彼女は少し言葉を選ぶように間を置いた。
「私、魔法少女になったのは人を助けたかったから。親友が事故に遭って...適切な道具があれば救えたのに、って思ったんだ。だから、あなたがまどかさんを救いたいって気持ち、分かるよ」
その言葉に、ほむらの心の中で何かが柔らかくなった気がした。
カフェでの会話が熱を帯び、アネッテはさらに身を乗り出した。
彼女の緑色の瞳は好奇心で輝き、ほむらの時間操作の能力について聞きたい気持ちが抑えられないようだった。
「ほむらちゃん、もう少し時間魔法のことを聞いていい?」
アネッテは声のトーンを落として尋ねた。
「願いによって時間を遡る能力を得たんだよね?」
ほむらは紅茶のカップを静かに置き、少し警戒心を含んだ視線でアネッテを見つめた。
「どうしてそんなに知りたいの?」
「だって、時間というのは物理学的に最も不思議な次元なんだ」
アネッテは興奮を抑えきれず、手振りを交えながら説明し始めた。
「アインシュタインでさえ完全には解明できなかった。それなのに、あなたは時間を自由自在に操れる。これは科学的に見ても革命的な—」
「科学じゃないわ」
ほむらの静かな一言がアネッテの熱弁を遮った。「これは魔法よ」
一瞬の沈黙が訪れ、アネッテは自分の無神経さに気づいたようだった。彼女は小さく息を吐き、表情を和らげた。
「ごめん...またやっちゃったね。魔法少女であることを研究対象みたいに扱って」
ほむらは窓の外を見つめた。その瞳には何度も繰り返してきた時間の重みが映っていた。
「時間操作には...代償がある。遡れば遡るほど、記憶という重荷を背負うことになる」
アネッテは黙って聞いていた。今度は科学者ではなく、一人の魔法少女として、ほむらの言葉に耳を傾けていた。
「そのことを忘れないで」ほむらは静かに付け加えた。
「わかった...」アネッテはうなずき、ほむらの言葉の重みを感じていた。
「明日9時ね」ほむらは静かに言った。「遅れないで」
「任せて!」アネッテは元気よく答えた。「あ、そうだ。これ持っていって」
彼女はポケットから小さな緑色の装置を取り出し、ほむらに渡した。
「ミニ・ソウルトレーサー。魔法少女だけじゃなくて、魔女の気配を早めに感知できるから便利だよ!」
ほむらは黙って装置を受け取った。
「それじゃあ、明日ね!」
アネッテは手を振りながら、自分の家の方向へと走り出した。ほむらは彼女の後ろ姿を見送りながら、静かに考えた。
自分はいつの間にか、彼女のペースに巻き込まれていた。計画も行動も、気づけばアネッテが主導権を握っていた。だが不思議と、それに抵抗を感じなかった。彼女の純粋な熱意と科学的思考は、何度も絶望を見てきた自分には新鮮だった。
「変わった子ね...」
ほむらは小さく呟き、月明かりの中、駅への道を歩み始めた。手の中のソウルトレーサーが、かすかに温かみを帯びていた。
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冷たい夕風が頬を打つ。見滝原駅のホームに降り立ったほむらは、無人の改札口を抜け、駅前の広場に出た。アネッテとの別れから数時間。電車の窓に映る自分の姿を見つめながら、彼女は考え続けていた。
アネッテの言葉。まどかの潜在能力。因果の分散。すべてが頭の中で渦を巻いていた。
「本当にそんな単純なことなの...?」
そう呟きながら、彼女は自分のアパートへと向かう道を歩き始めた。明日、アネッテが来る。二人で調査を始める。そのために休息が必要だ。
見滝原の夜景が目の前に広がる。何度見ても変わらない風景。しかしこのタイムラインでは、何かが根本的に違っていた。キュゥべえがまどかに近づかない。その一点だけが、すべてを変えていた。
「もしかして...」
ほむらは足を止めた。そうだ、契約を阻止するためにキュゥべえの動向だけに集中していたけれど、もしまどか自身に会って確かめたらどうだろう?明日アネッテを駅で待つ前に、朝一番でまどかの家に行くべきかもしれない。
決意を新たに、ほむらは歩みを早めた。
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見滝原の夜が更けていく。ほむらのアパートの部屋では、時計の秒針だけが静かに時を刻んでいた。壁には数々の写真と地図。そしてその中央に、鹿目まどかの笑顔の写真。
「もうすぐ終わるかもしれない...」
ほむらは写真を見つめながら、静かに呟いた。これまでの時間軸では、まどかの契約を阻止することが最優先だった。だが今、状況は異なる。キュゥべえがまどかを狙わないのなら、彼女は安全なのかもしれない。
しかし油断はできない。明日の調査で真実を確かめるまでは。
彼女はポケットからアネッテが渡した装置を取り出した。「ミニ・ソウルトレーサー」。緑色の小さなライトが静かに点滅している。魔女の気配を早めに感知できるという。
「変わった子ね...」
彼女は再び呟いた。アネッテの科学的好奇心とひたむきさは、彼女にとって新鮮だった。これまで出会った魔法少女たちとはまったく違う。魔女化の真実を知っても絶望せず、むしろ科学的に分析しようとする姿勢。
ほむらは眠りにつくことにした。明日は早い。
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朝日が見滝原の街を照らし始めた頃、ほむらはすでに目を覚ましていた。彼女は身支度を整え、アネッテとの待ち合わせより前に、まどかの家に向かうことにした。
「確認しておく必要がある」
彼女はそう決意し、アパートを後にした。澄んだ朝の空気の中、鹿目家へと向かう道を歩き始めた。アネッテが持つ発明装置で確かめる前に、自分の目でまどかの状況を確認しておきたかった。