# 1-15「まどか」
冷たい夕風が頬を打ち、長い黒髪を静かに舞い上げる。
見滝原駅のホームに降り立ったほむらは、振り返ることなく無人の改札口を抜け、駅前の広場へと足を踏み出した。
ネオンサインの光が濡れた路面に映り込み、幻想的な風景を作り出している。
月影町のアネッテとの別れから数時間が経過していた。
電車の車窓に映る自分の姿—疲れた表情、しかし目には今までにない光を宿した姿—を見つめながら、彼女はずっと考え続けていた。
アネッテの言葉。まどかの潜在能力。因果の分散。すべてが頭の中で渦を巻いていた。
アネッテの説明によれば、彼女自身が魔女化しないという特異性が、魔法少女システム全体に影響を与えているらしい。
システムエラー。バグ。例外処理。
アネッテはコンピュータ用語を使って説明していたが、要するに、彼女の存在が宇宙のエネルギーバランスを変えているということだろう。
閉じたシステムの中ではエネルギーは保存される—アネッテが魔女にならず、エネルギーを放出しないならば、その分のエネルギーは他の場所に分散される。
つまり、まどかに集中していた「因果」も分散され、彼女の潜在能力が通常の魔法少女レベルまで下がっているということか。
「本当にそんな単純なことなの...?」
彼女は薄暗い空に向かって呟いた。
これまでの無数のループで、彼女はあらゆる方法を試してきた。
まどかをキュゥべえから遠ざけるために、時に嘘をつき、時に脅し、時に他の魔法少女と戦い、そして何度も、何度も失敗してきた。
それがもし、アネッテの言うように、彼女の魔女化回避という「システムバグ」によって解決するとしたら—それはあまりにも皮肉ではないだろうか。
駅前の時計台が夜の九時を告げる。
ほむらは静かに息を吐き、自分のアパートへと向かう道を歩き始めた。
明日、アネッテが見滝原に来る。
魔法少女の魔力を測ることの出来る装置を持って、二人で本格的な調査を始める。
そのためには十分な休息が必要だ。
長い時を過ごしてきたほむらでさえ、この疲労感は無視できなかった。
見滝原の夜景が彼女の目の前に広がっていく。
幾度となく見てきた景色。
何回目のループだろうか、もはや正確な数さえ覚えていない。
高層ビルの明かり、商店街のネオン、住宅街の淡い灯り—物理的には同じ風景なのに、しかしこのタイムラインでは、何かが根本的に違っていた。
それは小さいながらも決定的な違い—キュゥべえがまどかに近づかない。
アネッテによれば、これはアネッテが魔女化しなかった際に起こった、魔法少女システムの不具合かもしれないという。
それが本当なら、魔法少女が魔女化しないというのは、魔法少女システムの根幹を揺るがす現象だ。
キュウべえ、いやインキュベーター達はこのことをどう考えているのだろうか?
どうもあまり問題視をしていないようにも感じる。
単にアネッテという魔法少女1人から上手くエネルギーが回収できないだけで、全体に問題は無いと考えているのか。
それに加えてインキュベーターは、とてつもない潜在魔力だった頃のまどかを知らないから、システムエラーそのものに気づけてないのかもしれないが...
しかし、何かを見落としてるような...?
---
見滝原の夜は深く、街全体を静寂が包み込んでいく。
アパートの一室、ほむらの住まいでは、時計の秒針だけが容赦なく時を刻み続けていた。
カチカチという音が部屋の静けさを際立たせる。
薄暗い部屋の壁には数々の写真と地図、新聞の切り抜き、そして複雑に絡み合う赤い糸。
彼女が幾度となく積み上げてきた情報網の結晶だ。
そしてその複雑な情報の中央に、一枚の写真—鹿目まどかの笑顔の写真—が飾られていた。
「もうすぐ終わるかもしれない...」
ほむらは写真を見つめながら、静かに呟いた。
彼女の声には、疲労と希望が同時に響いていた。
これまでの時間軸では、まどかの契約を阻止することが最優先であり、唯一の目標だった。
彼女は魔法少女としてのまどかの存在を、最早許すことが出来なくなっていた。
だが今、状況は明らかに異なっていた。
アネッテの言葉を思い返す。
魔法少女システムのエネルギーバランスが変化し、まどかの潜在能力が通常レベルまで下がっているなら、彼女が契約しても最強の魔女になることはない。
キュゥべえがまどかを積極的に狙わないのも、その証拠だろうか。
理屈では何となく分かるが、まだ心のどこかで疑念が消え去らない。
灯りを点けずに窓際に立ち、夜空に浮かぶ半月を見上げる。
その光に照らされた彼女の表情には、複雑な感情が交錯していた。
油断はできない、とほむらは自分に言い聞かせた。
明日の調査で真実を確かめるまでは、あらゆる可能性に備えておく必要がある。
彼女はまだ、希望を完全に信じることができなかった。
何度も裏切られてきた経験が、彼女の心に深い疑念の溝を刻んでいた。
彼女はポケットからアネッテが渡した装置を取り出した。
「ミニ・ソウルトレーサー」と呼ばれる緑色の小さな機械。
エメラルドグリーンの小さなライトが静かに点滅しながら、周囲の魔力を感知している。
映画で見るレーダー画面のような部分、その中心で点滅する1つの光がある。
今は自分自身のソウルジェム反応以外、何も感知していないようだ。
魔法少女の存在はもちろん、魔女の気配をソウルジェムよりも早く感知し、レーダーのように画面に光点で表示できるという、アネッテ特製の魔法科学融合技術だ。
ほむらは装置を手のひらで転がし、その精巧な作りに感心した。
「本当、変わった子ね...」
彼女は再び呟いた。
アネッテの科学的好奇心とひたむきさは、彼女にとって新鮮だった。
これまで出会った魔法少女たちとはまったく違う存在だった。
マミの優雅さ、さやかの正義感、杏子の現実主義—そのどれとも異なる、純粋な探究心と分析力を持った魔法少女。
そして何より驚くべきは、魔女化の真実を知っても絶望せず、むしろ科学的に分析しようとする彼女の姿勢だった。
「魔女化しないという特異点...」
彼女はベッドに横たわりながら、アネッテが持つその不思議な特性について考えた。
もしそれが事実なら、魔法少女システムにおける革命的な発見だ。
エネルギー保存の法則。
閉じたシステム内での再分配。
もし魔女化によるエネルギー放出が起きない場合、その分の力はどこかに行くはずだ。
それが本当にまどかへの因果の集中を緩和したのか—明日、確かめなければならない。
ほむらはソウルトレーサーを枕元に置き、眠りにつくことにした。
彼女の意識が徐々に薄れていく中、紫の瞳はなおもアネッテの言葉を反芻していた。
明日は早い。
そして、重要な一日になるだろう。
---
朝焼けが見滝原の街を淡いピンク色に染め始めた頃、ほむらはすでに目を覚ましていた。
いつもと同じ朝を迎えた直後、彼女は昨夜感じていた違和感の正体に気が付いた。
「もしかして...」
彼女の紫の瞳に、閃きが走った。
充分な睡眠を取ることができなかったせいか、彼女の動きに若干の迷いのようなものが見えていた。
黒いタイツに紺色の制服、そして長い黒髪を整える—これまでと同じ日常的な動作の中にも、今日は特別な緊張感が漂っていた。
彼女は身支度を整え、アネッテとの待ち合わせより前に、まずまどかの家に向かうことにする。
急な予定変更ではあるが、直接自分の目で確かめなければならないことがあった。
「確認しておく必要がある」
彼女はそう決意し、アパートを後にした。
過去のループでは彼女は契約を阻止するためにキュゥべえの動向だけに集中していた。
しかし今回のループでは、アネッテというとんでもない特異点に気を取られていた。
更にはキュウべえが中々まどかに近づかないのを、“まどかに近づくことは無い”と、無意識に思い違いをして、キュウべえの監視を怠ってまでアネッテの調査にのめり込んでいた。
しかし、まどか自身から魔法少女の素質が消え去った訳では無い・・・!
それらの事実を組みあわせ、考えたくもない予想がいやでも頭をよぎる。
(どうか、気のせいであって...!)
アネッテの装置による科学的な測定の前に、この言い知れぬ気持ちの自分の目で確かめておく必要がある。
決意を新たに、ほむらは背筋を伸ばし、歩みを早めた。
澄んだ朝の空気が肺に染み渡る。
まだ早朝の見滝原は静かで、通勤・通学の人々がちらほらと現れ始めた程度だった。
鹿目家へと向かう道を歩きながら、ほむらは自分の心の動揺を抑えようとしていた。
いつものように、彼女は鹿目家の近くの木陰に身を隠し、静かに家を観察した。
いつもと変わらない明るい家。
いつもと変わらない平和な朝。
鹿目家の日常風景は、どの時間軸でも彼女に安心感を与えるものだった。
ほむらはため息をついた。
まどかがまだ普通の少女であることを確認できれば、アネッテの理論の正しさを証明できたはずだった。
玄関のドアが開き、制服姿のまどかが元気よく飛び出してきた。
いつもと同じピンクのツインテール。
いつもと同じ明るい笑顔。
彼女は普通に学校に向かう準備をしているようだった。
「よかった...普通の生活を送っているみたいね」
ほむらはわずかに安堵のため息をついた。
まどかが普通に生活し、笑顔でいる姿を見るだけで、彼女の心は少し軽くなった。
この時までは。
ほむらのポケットから小さな振動と警告音が聞こえた。
「え...?」
彼女が慌ててポケットから取り出したのは、アネッテから渡されたミニ・ソウルトレーサー。
緑色のライトが激しく点滅し、魔力反応を示していた。
「これは...」
ほむらは慌ててソウルトレーサーの示す方向を見た。
その警告音の原因は—視線の先にいるまどか自身だった。
「まさか...」
ほむらの心臓が早鐘を打ち始めた。
*ドクン*
*ドクン*
*ドクン*
彼女の鼓動が耳の中で鳴り響く。
その時、まどかの家から小走りで出てきたのは、青い短い髪の少女—美樹さやか。
「まどかー!おはよー!待った?」
まどかが振り返り、さやかに手を振る。
「さやかちゃん、おはよう!ううん、今出てきたところ」
そしてその瞬間、ほむらの目が見開かれた。
まどかの肩に、白い影が乗っていた。
それはキュゥべえ。
間違いなくキュゥべえだった。
そこから導き出される結論はただ1つ。
「嘘...嘘でしょ...?」
ほむらの全身から力が抜け、木の幹に寄りかからなければ倒れてしまいそうになった。
*―――――*
世界が一瞬で崩れ去る感覚。
何度も繰り返した結末。
阻止するために何度も時間を遡った禁断の未来。
まどかの契約。そしてそれに続く破滅。
それがこの時間軸でもすでに始まっているという現実。
*―――――*
「どうして...あなたはキュゥべえに近づいていなかったはずよ...」
彼女の声は震え、視界が歪む。
呼吸が浅くなり、焦りと恐怖が彼女を支配していく。
まどかとさやかが楽しそうに会話しながら歩き始める。
キュゥべえはまどかの肩に乗ったまま、二人の会話に参加しているようだった。
「契約してる...まどかが契約してる...」
ほむらの頭の中は真っ白になった。
「いつ...いつ契約したの?」
彼女の声は震え、ほとんど自分自身にしか聞こえないほどの小さな呟きになっていた。
ほむらは呼吸を整えようとしたが、胸が締め付けられるような感覚に襲われる。
「私の油断...」
アネッテとの出会いで状況が変わったと思い込み、彼女はキュゥべえの監視を怠っていた。
「でも...キュゥべえはまどかに近づいていなかった。少なくとも私が見ていた時には...」
アネッテと過ごした数日間、ほむらはまどかから目を離していた。それが致命的な隙になったのか?
彼女の指先が小刻みに震え始める。
「なぜ...どうして...!」
これまでのループでは、まどかがキュゥべえと接触する瞬間を徹底的に監視し、阻止してきた。
契約の瞬間を見逃すなど、あり得なかったはずだ。
「何を願ったの?誰のために?あなたはいつも誰かのために自分を犠牲にする...」
ほむらの思考が混乱し、記憶の断片が次々と浮かんでは消えていく。
まどかが契約する理由——それはたいてい、誰かを救うため。
さやかのため?マミのため?それとも別の誰か?
ほむらは歯を食いしばり、木の幹に拳を打ち付けそうになるのを必死に堪えた。
彼女の視界がぼやける。
「私が見ていない間に、何が起きたの...?まどかを一人にしておくべきじゃなかった」
アネッテとの調査に夢中になり、最も重要なことを忘れていた。まどかがキュゥべえと契約しないよう監視し続けること。それがほむらの第一の使命だったはずなのに。
「私の油断が...ああ、なんて愚かなの」
ほむらは歯を噛みしめ、ソウルトレーサーを強く握りしめた。
手のひらに爪が食い込むほどの力で。
「私はずっと...キュゥべえがまどかに近づかなくなったと思い込んでいた...」
自分の愚かさに気づき、胸が痛んだ。この最も単純な可能性を、なぜ考慮しなかったのか。
これまでの全ての努力が水の泡。
全ての時間遡行が無駄だったのか。
絶望が彼女の心を濁らせ始める。
*―――――*
しかし...まだ何かが違っていた。
「でも...世界は?」
まどかが魔法少女になったというのに、世界は崩壊していない。
空は青く、太陽は昇り、人々は普通に生活している。
クリームヒルトは現れず、世界の終わりは始まっていない。
まどかは他の魔法少女と同じように、普通に日常を過ごしている。
「どういうこと...?」
ほむらの混乱は頂点に達し、しかし次第に冷静さを取り戻し始めた。
まどかが契約しても世界は終わっていない。
それは一体何を意味するのか。
「アネッテの言っていたこと...本当だったの?」
彼女の脳裏にアネッテの説明が鮮明によみがえる。
『魔女化しない私の存在が因果を分散させ、まどかの潜在能力を通常の魔法少女レベルに下げた』
もしそれが真実なら...もしまどかが普通の魔法少女になっただけなら...
「急いでアネッテに会わなければ」
心臓が早鐘を打つ中、ほむらは木陰から抜け出し、駅へと急ぎ始めた。
彼女の足取りには焦りと期待が入り混じっていた。
今この瞬間、彼女は絶望の淵に立ちながらも、微かな希望の光を見ていた。
まどかが魔法少女になっても、世界の破滅に直結しない可能性。
それがもし本当なら--
「アネッテ、彼女なら......!」
見滝原の朝の光の中、ほむらは駅へと急いだ。
その心には長いループの間に忘れかけていた、希望という名の感情が静かに芽生え始めていた。