アネッテと希望の方程式   作:革新的甲殻類

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1-23「満身創痍」

 

 

 

夕闇が迫りつつある鉄路沿いの荒れ地。

 

アネッテは全身の筋肉を緊張させ、脈打つ心臓の音を感じながら立ち尽くしていた。

彼女の前には「ラジオ塔」の魔女が、おぞましいアンテナを空に向かって林立させ、異質な存在感を放っている。

 

彼女の視界の隅では、横転した電車の残骸から漏れる微かな呻き声が聞こえる。

乗客たちはまだ生きていた。

 

(あの人たちを守らなければ...)

 

アネッテは深く息を吸い込み、胸に手を当てた。エメラルドグリーンのソウルジェムが淡く輝き、彼女に残された魔力をその光の中に映し出している。多くはない。だがやるしかない。

 

「行くよ!」

 

アネッテの声が静寂を切り裂いた。

彼女の身体が弾丸のように前方へ飛び出し、大地を蹴った足跡に小さな砂塵が巻き上がる。

 

自作の「アトラトル」と名付けた投槍器を右手に握りしめ、左手で百キロもの鋼鉄製ロッドを支える。

通常の人間なら持ち上げることさえできない重量を、魔力を纏った少女の腕は軽々と操っていた。

 

魔女の「ラジオ塔」の無数のアンテナが、獲物を感知したかのように一斉にアネッテの方向へと向きを変えた。一瞬の静寂――

 

「来る!」

 

警告が唇から飛び出す前に、夜空が引き裂かれた。

 

魔女から放たれた電磁波ビームが、大気を焼き焦がしながらアネッテに向かって突進してくる。青白い光の筋が、彼女の頭上わずか十センチのところを通過し、後方の木々を一瞬で炭化させた。

 

「っ!」

 

アネッテは身体を捻って横に飛び込み、間一髪で致命的な一撃を回避した。彼女の頬を熱風が撫で、一瞬肺の中の空気が沸騰しそうになる。

 

(この魔女、攻撃パターンが規則的だ...放射状に電磁波を発射して、その間に充電時間がある!)

 

科学者の眼が戦場を分析する。アネッテの瞳孔が拡がり、脳内で計算が始まった。魔女の動き、アンテナの向き、放電のタイミング、全てが彼女の網膜に焼き付いていく。

 

三本目のビームが発射される瞬間、アネッテは逆方向へと跳躍した。髪を焦がすほどの熱が背中を掠めるが、彼女の動きは止まらない。ジグザグに走りながら、彼女は魔女への距離を着実に縮めていく。

 

「攻撃間隔は3.7秒...移動速度は時速約30キロ...最適進路は...」

 

彼女の囁きは風に消されたが、その動きは完璧な計算に基づいていた。魔女の発射するビームがすれすれで彼女の体を通り過ぎていく。時には肌が焼けるような熱さを感じ、時には耳を劈く音波に平衡感覚を揺さぶられる。

 

100メートル。 70メートル。 40メートル。

 

魔女との距離が縮まるにつれ、ビームの回避はより困難になっていく。アネッテの額から汗が噴き出し、呼吸が荒くなる。

 

「あと一息...!」

 

彼女は全力で駆け抜けた。魔女の直下、死角となる位置を目指して。最後の数メートルで、魔女が全身のアンテナを一斉に真下へと向けた。

 

「見えた!」

 

アネッテの目に、決定的な瞬間が映った。魔女のアンテナが同時に動き始める前の、わずか0.8秒の隙。彼女はその一瞬を逃さなかった。

 

「今だ!」

 

右足に全体重を預け、大地を思いきり蹴った。彼女の身体が、重力に逆らうかのように宙に浮き上がる。地上10メートル、20メートルと上昇していく。魔力をまとった跳躍は、彼女を魔女の胸部――巨大な受信機のある位置まで持ち上げた。

 

空中で体勢を整えたアネッテは、投槍器「アトラトル」を構えた。右腕の筋肉が弦のように張り詰め、左手は重たい金属ロッドを支える。彼女の全神経が、この一撃に集中した。

 

「これが私の答えだ!」

 

アネッテは全身の力を込めて、アトラトルを振りかぶった。そして放つ。

 

百キロの鋼鉄ロッドが、空気を切り裂きながら魔女へと飛んでいく。通常の物理法則では、このサイズの金属塊がこれほどの速度で飛ぶことはあり得ない。しかし魔力を纏ったそれは、音速の半分近い速度で魔女の中心部を貫いた。

 

「キィイィン!」

 

金属が高周波で振動する音と共に、魔女の体を貫通する衝撃。魔女の全身が振動し、不協和音のような電子音が夜空に響き渡った。

 

「ハッ!」

 

アネッテの勝ち誇った息が漏れる。しかし次の瞬間、彼女の表情が凍りついた。

 

魔女は痛みを感じたようだが、致命傷には至らなかったのだ。巨大な鋼鉄ロッドはアンテナの森を貫いたものの、核心部分には届いていなかった。

 

「まだだ...」

 

アネッテは呟きながら、地面に降り立った。衝撃で膝が悲鳴を上げる。彼女は咄嗟に左足に体重を預け、バランスを取り直した。

 

魔女の反撃は容赦なく襲いかかる。すべてのアンテナがアネッテに向かって曲がり、空気中に不気味な電磁波が満ちていく。それは見えないながらも、彼女の肌がピリピリと痺れるほどの存在感だった。

 

(もう一度...もう一度攻撃しなきゃ)

 

アネッテは電車の残骸を見回した。彼女の目が、半分折れた車軸に留まる。あの大きさなら、十分な質量があるはずだ。

 

彼女は電車の下に身を滑り込ませ、車軸に手を伸ばした。触れた瞬間、彼女の指先が電気ショックを受けたように痺れる。

 

(魔女が既に電磁場を作り始めている...!)

 

アネッテは構わず車軸を引き抜こうとする。刺すような痛みが腕全体を貫くが、彼女の握力は緩まない。ソウルジェムが明るく輝き、彼女の筋力を増強する。

 

「うっ...!」

 

遂に重い車軸が地面から抜け、アネッテの手の中に収まった。彼女はそれを持って電車の下から這い出す。

 

その時だった。

 

魔女が全身のアンテナを揺らし始めた。空気中に奇妙な電子音が響き、周囲の金属片が浮き上がり始める。電車の小さな部品や線路の破片が、まるで無重力空間にあるかのように宙に浮かび上がる。

 

「これは...磁場操作!?」

 

アネッテは驚愕の表情を浮かべた。魔女が鉄片を操作して攻撃を仕掛けてきたのだ。電車の破片や金属片が渦を巻きながら、彼女に襲いかかる。

 

ボルト、ナット、レールの破片、窓枠の金属部品——あらゆる金属が彼女に向かって飛んでくる。まるで銃弾の雨のように。

 

「くっ...!」

 

アネッテは咄嗟に身をかわそうとした。しかし疲労と怪我で動きが鈍っている。さらに左足に思わぬ痛みが走った。電磁場の影響か、足首が思うように動かない。

 

彼女はよろめき、バランスを崩した。その一瞬の隙に、削られた金属片の一部が彼女の左肩を貫いた。

 

「ぁあっ...!」

 

鋭い痛みが全身を走る。温かい血が左腕を伝って流れ落ちるのを感じる。しかしアネッテの意識は研ぎ澄まされていた。この極限状態でも、科学者の眼は冷静に状況を分析し続ける。

 

(魔女は金属を操作できる...でも木や石には反応していない...純粋な電磁場操作能力だ...)

 

彼女は痛みをこらえながら、魔女の姿を観察した。何か弱点はないか、致命的な攻撃はどこに与えるべきか。

 

そして彼女は気づいた。魔女の頂点にある巨大な受信機——それが最も強い電磁波を放っている。魔女の心臓部分に違いない。

 

(魔女の弱点は...あの巨大な受信機...!)

 

アネッテは痛みをこらえながら、もう一度構えを取った。彼女の手には、電車の車軸から作り出した第二の投槍兵器。今度はさらに重く、先端がより鋭くなっている。

 

左肩の傷から流れる血が彼女の制服を濡らし、左足は痛みを訴えている。しかし彼女の目には決意の光が宿っていた。

 

「一度は当たった...もう一度、同じ場所を...!」

 

アネッテは深呼吸し、集中力を高めていく。周囲のノイズが消え、視界のすべてが魔女の受信機に収束していく。心臓の鼓動がスローモーションになったように感じられる。

 

彼女の全身の筋肉が、最大限の力を出すために準備を整える。

 

まさにその時、魔女が突然不規則な動きを始めた。全身のアンテナが狂ったように振動し、周囲の空気が歪むほどの電磁波を放出している。

 

「まずい...あれは...」

 

魔女の頂点にある巨大な受信機が赤く光り始めた。それは通常の電磁波攻撃とは明らかに異なる現象だった。受信機の周囲の空気が輪を描くように歪み、小さな雷光が走り始める。

 

特殊な形の電磁パルス攻撃の準備をしているのだ。あの攻撃を受ければ、アネッテの身体の電気信号も麻痺してしまう。心臓は止まり、脳の機能も停止する恐れがある。

 

(時間がない...今しかない!)

 

額から流れる汗が視界を曇らせる。傷ついた左肩は激しく痛み、左足は震えている。しかしアネッテは傷ついた身体に鞭打って、最後の力を振り絞った。

 

彼女は右足に全体重を乗せ、車軸を持つ両腕の筋肉を限界まで引き締めた。ソウルジェムが強く輝き、彼女の身体能力を通常の人間をはるかに超える領域まで高める。

 

「はああーーっ!」

 

彼女の叫びが夜空に響き渡る。その声と共に、二本目の金属ロッドが魔女に向かって放たれた。重い金属の塊が空気を切り裂き、魔女の受信機に向かって一直線に飛んでいく。

 

その軌道は完璧だった。科学者の計算と魔法少女の直感が生み出した、理想的な投射角度と速度。

 

しかし魔女も最終段階に入っていた。受信機から巨大な電磁波の塊が形成され、まさに放出されようとしている。

 

魔女が放とうとしていた電磁パルスと金属ロッドが、空中でぶつかり合う。

 

一瞬、世界が静止したかのような感覚。

 

時間が引き伸ばされる。 音が消える。 空気が凍る。

 

アネッテの瞳孔が開ききり、すべての感覚が極限まで高まる。彼女の全身の細胞が、この瞬間の結果を待ち構えているかのようだった。

 

そして—

 

「当たれっ...!」

 

アネッテの願いが届いたかのように、金属ロッドは魔女の放った電磁波をかき分け、巨大な受信機を貫いた。

 

轟音が夜空を引き裂く。魔女の体から無数の火花が飛び散り、受信機が粉々に砕け散る。アンテナが折れ、歪み、溶けていく。魔女の全身から異様な電子音が響き渡り、その巨体が揺らぎ始めた。

 

衝撃波がアネッテを押し流し、彼女は数メートル後方へと吹き飛ばされた。背中から地面に叩きつけられ、一瞬呼吸が止まる。

 

「はぁ...はぁ...やった...!」

 

アネッテは膝をつきながらも、か細い声で勝利を確認した。しかし、彼女の表情はすぐに固まった。

 

魔女は倒れつつあったが、その最後の力を振り絞るように、すべてのアンテナを一点に向けていた—横転した電車に横たわる二人の一般人へ。

 

「だめ...!」

 

アネッテは絶叫した。魔女の最後の意思は、人間への憎悪だけだったのか。全ての電磁波が、無防備な乗客たちに向かって収束していく。

 

時間が遅くなったように感じる。 アネッテの心臓が早鐘を打つ。 脳内に閃くのは、あの日、マリエが命を落とした光景。

 

(もう二度と...誰も失いたくない...!)

 

決断は一瞬だった。

 

アネッテは痛みも疲労も忘れ、全力で駆け出した。彼女の足は地面に深い足跡を残しながら、電車の残骸へと向かう。そこには二人の無防備な乗客が横たわっていた。魔女の電磁波攻撃が彼らを貫けば、即死は避けられない。

 

「間に合え...間に合え...!」

 

彼女の足は血で滑り、何度も転びそうになる。しかし彼女は決して立ち止まらない。電車の残骸へと飛び込み、二人の前に立ちはだかる。

 

(これ以上、犠牲者を...!)

 

彼女は咄嗟に自分の身体を二人の前に投げ出した。そして、残りの魔力を全て注ぎ込んで、「ファラデー・シールド」を最大限に展開した。

 

緑色の光が彼女の周りに広がり、網目状の電磁シールドを形成する。通常のシールドより遥かに精密な網目構造が電磁波を遮断するはずだ。

 

魔女のアンテナから放たれる電磁波が、巨大な稲妻のように彼女に向かって飛来する。

 

「うああああっ!」

 

アネッテの叫びが夜空に響き渡る。魔女の最後の一撃がシールドに当たった瞬間、強烈な衝撃波が辺りを包み込んだ。

 

シールドは耐えようとするが、魔女の最期の一撃はあまりにも強力だった。網目状の構造が次々と崩れていく。アネッテのソウルジェムが悲鳴を上げるように激しく振動する。

 

最後の最後で、シールドは完全に崩壊した。

 

「ぐあっ!」

 

電磁波の一部がアネッテの身体を直撃する。彼女の身体が宙に舛り上げられ、まるで人形のように空中で舞う。神経が焼かれるような激痛が全身を走る。

 

視界が真っ白になる。 耳の奥で轟音が鳴り響く。 皮膚が焼けるような熱さを感じる。

 

しかし彼女の耳には魔女の断末魔の電子音と、それが崩壊していく音も確かに聞こえていた。投げ出された身体が地面に叩きつけられ、アネッテは意識を失いかけた。

 

鮮血が地面に滴り落ちる。左脚からは白い骨が覗いている。右腕は不自然な角度に曲がり、全身が焼けたような痕跡を示していた。

 

それでも彼女の意識は完全には途切れなかった。かすかな意識の中で、彼女は魔女が消滅していく様子を見届けた。地面に転がる黒い球体—グリーフシード。そして電車の残骸の中で、なんとか息をしている二人の乗客。

 

(魔女は...倒した...二人は...無事...)

 

薄れゆく意識の中で、アネッテはそう確認した。

 

 

 

 

---

 

 

 

 

遠くでサイレンの音が聞こえる。

 

アネッテは痛みに歯を食いしばりながら、意識を取り戻した。辺りを見回すと、魔女は完全に消滅し、黒いグリーフシードが落ちていた。

脱線した電車の周りには、まだ誰も来ていない。救急隊と思われるサイレンの音は、まだ少し離れたところで鳴っている。

 

(急がないと...)

 

彼女はよろめきながら立ち上がった。左足に激痛が走り、肩からは血が流れ続けている。制服は血と汚れで見るも無残な状態だ。

 

(家族に心配をかけるわけにはいかない...)

 

アネッテは急いでグリーフシードを拾い上げ、自分のソウルジェムに当てた。わずかに濁りが取れ、魔力が少し回復する。

 

(これで少しは...)

 

彼女は目の前で眠るように横たわる二人の乗客を確認した。幸い、二人とも呼吸があり、大きな外傷はなさそうだった。このまま救急隊が来れば助かるだろう。

 

サイレンの音が近づいてきている。アネッテは決断した。今ここで見つかれば、説明のつかない傷と制服の状態で病院送りになる。家族に余計な心配をかけることになる。

 

「ごめんなさい...」

 

二人に小さく謝罪の言葉を残し、アネッテは電車の残骸の陰から林の方へと足を引きずりながら逃げ出した。

 

月影町の小さな公園のトイレ。アネッテは個室に閉じこもり、自分の傷と向き合っていた。

 

「うっ...痛い...」

 

彼女は歯を食いしばりながら、残りわずかな魔力を使って簡易的な治癒魔法を試みた。さやかのような本格的な回復魔法は使えないが、応急処置程度なら可能だった。

 

緑色の光が彼女の傷を包み込む。完全には治らないが、少なくとも出血は止まり、表面的な傷は塞がった。

 

「次は...痛覚遮断...」

 

アネッテは集中し、神経に直接働きかける魔法を発動した。電気信号の流れを遮断する、彼女らしい科学的な魔法だ。痛みは徐々に和らいでいく。

 

「さて、服をなんとかしないと...」

 

制服についた血と汚れに、彼女は眉をひそめた。魔力を使って服の汚れを浮き上がらせる。分子レベルで汚れを分解する魔法だ。これは彼女が実験中の汚れを落とすために開発した小技だった。

 

 

 

20分後、アネッテは公園のトイレから出てきた。蛍光灯の光が弱まる公園は、既に夜の闇に包まれつつあった。

 

見た目は何とか普通の女子高生に戻っていた。服の血痕は消え、髪も整え、表面的な傷跡も魔力で隠してある。魔法少女のわずかな治癒能力と科学的原理を組み合わせた彼女なりの応急処置だ。しかし内部の損傷は依然として深刻で、骨折した左足に体重をかけるたびに鋭い痛みが走る。痛覚遮断の魔法がなければ、歩くことすらできない状態だった。

 

「とりあえず...家に...帰らないと」

 

彼女はふらつく足取りで、月影町の自宅へと向かった。暗い街路を進みながら、アネッテは何度か立ち止まり、息を整える必要があった。ソウルジェムはわずかに濁り始めていた。痛覚遮断の魔法を維持するだけでも、魔力を消費し続けているのだ。

 

家の明かりが見えてきたとき、彼女は深呼吸をした。表情を整え、歩き方に気をつけ、声のトーンを普段通りに保つ。すべて計算された演技だった。

 

「ただいま...」

 

アネッテは精一杯明るく振る舞いながら、家の玄関ドアを開けた。温かい食事の香りが玄関に漂っている。

 

「お帰り、アネッテ」

 

リビングから父の健太郎の声が聞こえる。彼は新聞から顔を上げ、眼鏡の奥の目で娘を見つめた。

 

「今日は遅かったわね。心配してたのよ」

 

母のリーゼルがエプロン姿でキッチンから顔を出した。ドイツなまりのある日本語が、いつもの家の安心感をもたらす。

 

「ごめん、ちょっと友達と話してて...時間を忘れてた」

 

アネッテは痛みを隠すために笑顔を作り、できるだけ自然に振る舞おうとする。左肩には鈍い痛みが残り、左足をかばう歩き方を必死に誤魔化していた。

 

「もう七時よ。電話くらいしてほしかったわ」

 

リーゼルが少し厳しい口調で言った。彼女はアネッテの顔をじっと見つめ、何か違和感を感じているようだった。

 

「お母さん、私もう高校生だよ。大丈夫だって」

 

アネッテは言い訳がましく答えた。

 

「高校生になったからって、遅くまで出歩いていいわけじゃないのよ」

 

リーゼルは言いながらも、アネッテの髪を優しく撫でた。その仕草に、アネッテは思わず目を閉じる。痛みを感じる身体に、母の温もりが染みわたる。

 

「ご飯あるけど、食べる?」

 

「あ、ありがとう。でも...私、ちょっと宿題があるから部屋に行くね。お腹もそんなに空いてないし」

 

彼女は両親とあまり長い会話をせずに逃げ出そうとした。長居をすれば、彼女の不自然な様子に両親が気づいてしまうかもしれない。

 

「本当に?」

 

健太郎が新聞から顔を上げ、娘の様子を心配そうに見た。

 

「うん、大丈夫」

 

「勉強も大事だけど、食事もきちんと摂らないとね」

 

健太郎は優しく諭した。その声には、いつもの科学者らしい冷静さの中に、父親としての温かさが混ざっていた。

 

「分かってる。後で小腹が空いたら来るよ」

 

アネッテは精一杯の笑顔を作って答えた。しかし疲労と痛みで、その笑顔はいつもの輝きを欠いていた。

 

「あなた、顔色が悪いわね」

 

リーゼルが眉をひそめて言った。彼女は料理を置いて、アネッテのところに近づいてきた。

 

(まずい...お母さんは勘が鋭いんだった...)

 

「そ、そんなことないよ!きっと蛍光灯の色のせいだよ」

 

アネッテは一歩後ずさりした。母親に近づかれると、魔力で隠した傷や不自然な動きが見破られてしまうかもしれない。

 

「姉ちゃん」

 

突然、廊下から弟のルカが現れた。13歳の彼は、いつも姉のことを冷やかすのが好きだったが、今日はなぜか真剣な表情をしていた。小さな手にはゲーム機を持っているが、画面は消えている。

 

「どうしたの、ルカ?」

 

「...大丈夫?なんか顔色悪いよ」

 

アネッテは一瞬焦った。魔力で外見は整えていたつもりだったが、疲労や魔力不足による顔色の悪さまでは隠せなかったようだ。

 

「あ、ちょっと疲れてるだけ。勉強頑張りすぎたかな」

 

アネッテは軽く笑って誤魔化そうとした。

 

「それならなおさら、ちゃんと食事を取らないと」

 

リーゼルが心配そうに言った。彼女はアネッテの額に手を当てようとしたが、アネッテは巧みにその手をかわした。

 

「熱はないよ、お母さん。本当に大丈夫」

 

彼女は母親の懸念を払拭しようと努めた。しかしルカの鋭い目は、姉の不自然な足取りを見逃していなかった。彼は年は下だが観察力が鋭く、特に姉の様子には敏感だった。

 

「足、引きずってるよね?」

 

ルカの直球の質問に、アネッテは一瞬言葉に詰まった。リビングの空気が凍りついたように感じる。

 

「気のせいだよ。ちょっと足がしびれただけ」

 

彼女は平静を装いつつ答えた。しかし焦りからか、その声には微かな震えがあった。

 

「椅子に長く座ってたからかな。図書室で勉強してたの」

 

「...」

 

ルカは何も言わなかったが、その目には明らかな疑念が浮かんでいた。彼は幼い頃から姉の発明や実験を間近で見てきた。電子工作の最中に軽いヤケドをしたり、時には小さな爆発を起こしたり。そんな姉の姿を知っているからこそ、何か危険なことに関わっているのではないかという不安が、彼の胸をよぎった。

 

「ほんとに大丈夫だよ。心配しないで」

 

アネッテは弟の頭を軽く撫でた。その仕草は自然だったが、腕を上げる際の僅かな痛みに、彼女の瞳が一瞬だけ揺らいだ。その微妙な変化を、ルカの鋭い目は見逃さなかった。

 

「アネッテ、もし何か困ったことがあったら言いなさいよ」

 

父の健太郎が立ち上がり、娘の肩に手を置いた。その手が左肩に触れたとき、アネッテは思わず息を飲んだ。鋭い痛みが走ったが、なんとか表情を平静に保つ。

 

「大丈夫、お父さん。本当に何でもないから」

 

アネッテは父の手を優しく取り、微笑んだ。健太郎はしばらく娘の目を見つめていたが、やがて小さくため息をついた。

 

「そう、ならいいんだけど」

 

彼は娘の言葉を信じようとしているようだった。科学者として論理的な彼は、証拠なしに疑念を持ち続けることはしない。

 

「...また変な実験でもしてたんじゃないの?」

 

ルカは半分冗談、半分本気で尋ねた。彼の言葉に、両親の視線が再びアネッテに集中する。

 

「ま、まさか!そんなわけないじゃん」

 

アネッテは少し大げさに否定した。手を振りながら笑うが、その動作で痛みが走り、笑顔が一瞬崩れる。

 

「最近、地下の工作室でずっと何か作ってたよね」

 

ルカが更に追及してきた。アネッテは内心でうめいた。こんな状況で弟に追い詰められるとは。

 

「あ、あれは学校の科学プロジェクトだよ。危険なものじゃないし、ちょっとした電子回路の実験」

 

アネッテは咄嗟の嘘をついた。弟の疑いの目をかわそうと、彼女は話題を変えた。

 

「そういえば、ルカ。新しいゲーム、進んでる?」

 

「...あ、うん。もう中ボスまで行ったよ」

 

ルカは姉の話題転換に乗ったものの、その目には依然として疑念が残っていた。

 

「凄いじゃん!後でやってるところ見せてよ」

 

アネッテは明るく言った。ルカの視線をそらすため、彼女は廊下の方へと一歩踏み出した。そのとき、左足に体重がかかりすぎて、わずかによろめいた。

 

「だから、足引きずってるじゃん」

 

ルカが即座に指摘した。

 

「違うって。ほら、見て」

 

アネッテは無理に左足を通常通り使って歩いてみせた。魔力による痛覚遮断が効いているうちに、早く部屋に逃げ込まなければ。

 

「アネッテ...」

 

リーゼルが心配そうに娘の名を呼んだ。母親の直感は鋭く、何かがおかしいと感じているようだった。

 

「もう、みんな心配しすぎだよ」

 

アネッテは精一杯明るく言った。そして思いきって言葉を続けた。

 

「じゃあ、お風呂一緒に入る?ルカ」

 

姉からの予想外の提案に、ルカは目を丸くした。幼い頃は一緒に入っていたが、今はさすがに年齢的にも無理がある。しかしアネッテの真意は、攻撃は最大の防御という戦術だった。

 

「え...?」

 

ルカの戸惑いに、アネッテは少し安堵した。これで話題を切り替えられる。

 

「冗談だよ。もう、そんな年じゃないでしょ。ね?」

 

「...うん」

 

ルカは少し照れたように頬を赤らめた。彼の真意は、姉の身体の状態を確かめたかったのだが、その機会は失われた。

 

「ルカ、アネッテのことはもう少し信頼してあげなさい」

 

健太郎が息子の肩をポンと叩いた。

 

「でも...」

 

「あなたのお姉ちゃんはしっかり者よ。自分で出来ることと出来ないことの区別はついているわ」

 

リーゼルも息子を諭した。彼女は娘を一人の自立した人間として尊重している。それがいつもの家族のルールだった。

 

その信頼に、アネッテは胸が痛んだ。魔法少女としての活動は家族には絶対に話せない。彼らを危険に巻き込むわけにはいかない。それは彼女が自分で選んだ道だった。

 

「そういうこと。だから大丈夫だよ」

 

アネッテは安心させるように笑った。内心では、家族の信頼に応えられない自分を責めていた。

 

「でも、もし何か困ったことがあったら、いつでも相談してね」

 

リーゼルが優しく言った。

 

「うん、ありがとう」

 

アネッテは微笑んだ。その笑顔の裏に隠された痛みと葛藤を、家族は知る由もなかった。

 

「じゃあ、おやすみ。ルカ、お父さん、お母さん」

 

アネッテは家族に頭を下げ、自分の部屋へと向かった。階段を上るのが辛かったが、必死に普通の足取りを装った。

 

「おやすみ、アネッテ」

 

家族からの声が背中に届く。彼女は振り返ることなく、ただ前へと進んだ。

 

***

 

部屋のドアを閉め、鍵をかけると同時に、アネッテはようやく緊張の糸が切れたように壁に寄りかかった。

 

「はぁ...」

 

深いため息とともに、彼女は床に滑り落ちる。痛覚遮断の魔法が限界に近づき、徐々に痛みが戻ってきていた。左肩、右腕、肋骨、そして左足。全身が悲鳴を上げている。

 

「ごめんね...みんな...」

 

家族に嘘をついたことへの申し訳なさと、身体の痛みが同時に押し寄せる。

 

(なんとか家には帰れたけど...あの魔女は明らかに仕組まれたものだった)

 

アネッテは歯を食いしばりながら立ち上がり、傷だらけの身体を引きずりながら、自分の作業机まで移動した。ソウルジェムを見ると、緑色の光の中に黒い濁りが広がり始めていた。

 

「もう少し持ってくれないと...」

 

彼女は引き出しからアナログノートを取り出し、今日の出来事を記録し始める。科学者としての姿勢は、この状況でも変わらない。観察し、記録し、分析する。それが彼女の生き方だった。

 

(キュゥべえの狙いは...私を排除することだったのね)

 

アネッテは思考を整理しながら、筆を走らせた。筆圧が弱く、文字が震えている。それでも彼女は書き続けた。

 

「電磁波を操る魔女...通常の魔女より強力...電車を標的に...」

 

アネッテは気づいた。あれは偶然ではない。キュゥべえは彼女が毎日その電車に乗ることを知っていた。そして意図的に強化された魔女を配置したのだ。

 

(次は...仲間に連絡を...)

 

彼女はマジックコミュニケーターを手に取ろうとしたが、腕が思うように動かない。魔力も体力も限界だった。小さな通信装置を握る力すら残っていない。

 

「明日...明日には...」

 

アネッテは何とかノートを閉じ、机の上に置いた。残された選択肢は一つだけ。休息と回復。魔法少女の身体は通常の人間より回復力が高い。せめて夜の間に少しでも傷が癒えることを祈るしかなかった。

 

彼女の意識が再び遠のいていく。視界がぼやけ、部屋が回り始める。彼女は壁に支えられながら、よろよろとベッドに向かった。

 

「みんな...気をつけて...キュゥべえが...動き始めた...」

 

最後の力を振り絞って、彼女はベッドまでたどり着き、倒れ込むように横たわった。柔らかなベッドの感触が体を包み込む。アネッテはもう抵抗する力もなく、意識が闇に溶けていくのを感じた。

 

(みんな...危険だよ...)

 

そして深い眠りに落ちていった。部屋の窓からは、月明かりが静かに彼女を照らしていた。

 

***

 

夜が更けていく。

 

アネッテの部屋に月明かりが差し込み、彼女の眠る姿を銀色に染める。彼女のソウルジェムが胸元で淡く光を放っている。緑色の光は、波打つように明滅を繰り返していた。

 

魔法少女の身体に備わる限定的な自己治癒能力が、少しずつ働き始めていた。通常の人間であれば数週間かかる傷の修復が、魔法の力によって加速される。しかし今夜の怪我は重すぎた。完全な回復にはまだ時間がかかるだろう。

 

アネッテは時折うめき声を上げながら、眠りの中でも痛みと戦っていた。彼女の体は小刻みに震え、額には冷や汗が浮かんでいる。

 

ノックの音がした。

 

「姉ちゃん?」

 

ドアの外からルカの小さな声が聞こえた。しかし、アネッテは深い眠りの中で、その声を聞くことはできなかった。

 

「...」

 

ノブが回されたが、内側から鍵がかけられているため、開かない。

 

「おやすみ...」

 

ルカは小さくつぶやき、姉の部屋を離れていった。

彼の足音が廊下を遠ざかる。

 

アネッテのソウルジェムが再び強く輝き、彼女の胸骨の骨折部分に緑色の光が集まる。体内の最も危険な損傷から修復が始まっていた。魂を外部に持つ魔法少女の特性上、内臓の損傷は最優先で治癒される。肋骨、肺、心臓の周辺...命に関わる部分から治癒の魔法が働き始める。

 

「うっ...」

 

アネッテは眠りの中で小さく呻いた。治癒の過程も、決して痛みを伴わないわけではない。骨が繋がり、組織が再生し、血管が修復される。その過程は、通常より速いとはいえ、身体にとっては大きな負担だった。

 

夜が更け、時計の針が午前2時を指した頃、アネッテの顔色が少しずつ良くなり始めた。頬に血の気が戻り、呼吸も安定してきた。内部の大きな損傷が修復され、次第に腕や足の傷へと治癒の魔力が移っていく。

 

しかし、ソウルジェムの光は少しずつ弱まっていた。自己治癒の魔法も魔力を消費する。グリーフシードで浄化しなければ、ソウルジェムの濁りは進行していく。

 

アネッテは眠りの中で、微かに手を動かした。指が小刻みに震え、何かを掴もうとするような動きをしている。しかし彼女の意識は深い眠りの中に沈んだままだった。

 

「マリエ...」

 

彼女の唇から、かすかに名前が漏れる。以前失った親友の名だ。おそらく、今夜の電車事故と救出劇が、過去のトラウマを呼び起こしたのだろう。

 

月の光が雲に隠れ、部屋が暗くなる。しかし、アネッテのソウルジェムだけが緑色の淡い光を放ち続けていた。その光は、彼女の傷を癒す治癒の魔法を維持し続ける。

 

魔女との激しい戦い、電車事故の被害者の救出、家族への嘘、そして今も続く身体の修復...全てが、一人の少女の肩にかかっていた。それでも彼女は戦い続ける。なぜなら、それが彼女の願いだったから。

 

「どんな状況でも最適な道具を作れる力が欲しい」

 

過去の彼女の願いは、今でも彼女の心の中で輝いている。キュゥべえの思惑など知らず、ただ純粋に人を救いたいという思いから生まれた願い。

 

アネッテの眠る顔に、かすかな微笑みが浮かんだ。おそらく彼女は、無意識の中で何か良い夢を見ているのだろう。傷ついた身体を癒す夜の静けさの中で、彼女の魂はなお輝き続けていた。

 

夜が明け、新たな日が始まる前に、彼女は仲間たちに警告を伝えなければならない。キュゥべえが動き始めた。そして魔法少女たちは新たな危機に直面している。

 

しかし今は、ただ眠る時間。明日への力を蓄える、貴重な休息の時間だった。

 

 

 

 

だからこそ、ルカのうなじにあの特徴的な文様が浮かび上がっていることには気づけなかった。

 

 




インキュベーター達の外道っぷりは止まることを知らない模様。

QB:「電車事故とアネッテ絶対殺す魔女の2本立てやのに、何で生き残ってんねん。しゃーないからプランB発動な」
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