―マミのアパート・夕方―
アネッテはマミのアパートのドアを静かに閉め、階段を駆け下り始めた。彼女の胸中では、仲間たちへの申し訳なさと、見知らぬ魔法少女を救わねばという焦りが交錯していた。
(ほむらちゃんたちには悪いけど...このままじゃ、あの魔法少女が危ない。私が感知した異常な魔力反応、そして複数の魔女の気配。一刻を争う事態だわ。見滝原には、私たち以外にも魔法少女がいるなんて…!)
アパートの出口に到達し、彼女は東の空を見上げた。夕陽が地平線に近づいており、空は徐々に赤銅色から深い藍色へと変わろうとしていた。街のシルエットが、燃えるような空を背景に黒々と浮かび上がる。
魔力を足に集中させ、アネッテは一気に駆け出した。人気のない路地を選び、時折、強化された脚力で高いフェンスを軽々と飛び越えながら、彼女は工業地帯へと最短距離で向かった。風を切る音が耳元で鳴り、流れる景色が速度を物語る。
(通信は切ったけど...みんな、きっと心配してる。でも、今は説明している時間がない。彼女たちには後で必ず事情を話そう。今は、目の前の命を救うことが最優先。初めて会う魔法少女だけど、同じ魔法少女である以上、見捨てるわけにはいかない)
アネッテは眉間に皺を寄せながらも、足を止めなかった。魔法少女の基礎能力により強化された彼女の身体能力は、常人とは比較にならない。ビルの壁を蹴り、屋根から屋根へと跳躍するその姿は、都会の夜を駆けるパルクールアスリートのようだった。
「このままじゃ、あの魔法少女が魔女の餌食になるか、あるいは絶望して…」
彼女は歯を食いしばり、さらにペースを上げた。夕暮れの街を走りながら、時折、脳裏にマリエの最期の笑顔が浮かび、胸が締め付けられる。
(もう二度と...あんな思いはしたくない。誰かの死を、ただ見ているだけなんて)
アネッテの跳躍は徐々に大きくなり、やがて彼女は低い屋根から屋根へと、まるで鳥のように軽やかに飛び移るようになった。自身のソウルジェムが胸元でエメラルドグリーンに力強く輝き、彼女の決意を後押ししているかのようだった。
商業地区を抜け、住宅街の外縁を通り過ぎると、景色が一変した。夕闇に包まれ始めた工業地帯は、使われなくなった倉庫や工場が墓標のように立ち並び、不気味な静寂に支配されていた。太陽は完全に地平線の向こうに沈み、街灯の少ないこの地域は急速に暗さを増していた。
「ここからは気配を消して、慎重に進まないと…」
アネッテは一旦立ち止まり、深呼吸をして周囲の気配を探った。収納空間から小型のセンサー装置を取り出す。親指サイズのメタリックな装置を手のひらに乗せ、彼女は静かに息を吹きかけた。装置が緑色に明滅し、小さな反重力ユニットが起動、羽根のようなスタビライザーを展開してふわりと空中に浮かび上がった。
「ナビゲート。優先目標、最大魔力反応地点。同時に、周辺の生命反応もスキャンして」
彼女の簡潔な命令に応じ、ドローンは工業地帯の奥へと静かに、しかし迅速に飛んでいった。アネッテはその微かな光を追いかけ、より慎重に、音を立てないように動きながらも素早く進んでいく。夜の工業地帯は昼間とは全く異なる顔を見せていた。月明かりが錆びついた鉄の構造物にまだらに反射し、長く歪んだ影を地面に落としている。時折、工場の廃棄物が風に吹かれて金属的な音を立て、彼女を一瞬緊張させた。
(この魔力反応の強さと複雑さ…普通の魔女じゃない。キュゥべえが言っていた「調整」の一環だとしたら、相当厄介な相手のはず。そして、あの魔法少女の反応…見滝原には、マミさんたちの他にも魔法少女がいたなんて、今まで気づかなかった…)
センサー装置が突然明滅のパターンを変え、速度を落とした。アネッテはそれを追って曲がりくねったコンクリートの壁の間を進み、やがて広い空き地に出た。
その向こうに、月明かりを浴びて不気味にそびえ立つ巨大な倉庫が、彼女の目的地だった。ドローンは倉庫に向かって直線的に飛んでいき、入口の数メートル手前でホバリングし、赤い警告光を点滅させた。
「確かにここね...内部の魔力密度、異常に高い。そして、あの魔法少女の反応も、この倉庫の中からだわ」
彼女はドローンを回収し、ポケットにしまった。倉庫に近づくにつれ、アネッテは肌にピリピリとした微かな違和感を感じ始めた。それは通常の人間には感知できない、空間のわずかな歪みと、高濃度の魔力が引き起こす圧迫感だった。
「魔女の結界...しかも、これは複数の魔力が混じり合っている。まさか、本当に結界が融合しているの?」
彼女は収納空間の中身を脳内で素早く確認した。改良版ハンドコイラーMk.IVの予備エネルギーパック、指向性EMPグレネード、緊急展開型ファラデー・シールド、そしていくつかの実験的な対魔女用特殊装備。
(これだけあれば、どんな状況にでも対応できるはず...でも、油断は禁物。相手は未知の魔法少女、そして未知の数の魔女)
背筋を伸ばし、アネッテは最後の準備を整えた。深呼吸を一つ。彼女の心臓は高鳴っていたが、それは恐怖からだけではなかった。未知の状況への挑戦、そして見知らぬ仲間を救うという使命感が、彼女の闘志を燃え上がらせていた。
―工業地帯・結界入口―
薄暮の空が赤銅色から深い藍へと移り変わる中、蒼春アネッテは古い倉庫群の間に静かに佇んでいた。彼女の栗色の短髪が、結界から漏れ出す微かな魔力の風に揺れ、呼吸は戦闘に備えて深く、規則的になっていた。電信柱の影が長く伸び、錆びついた鉄の扉や割れた窓ガラスが立ち並ぶ工業地帯に、不気味なまでの静寂が漂っていた。
(ここよ...間違いない。ソウルトレーサーの反応も、ドローンの探知結果も、全てがここを示している。そして、あの弱々しい魔法少女のシグナルも…!)
アネッテは立ち止まり、最後の精神集中を行った。彼女の前には一見すると何の変哲もない廃倉庫の巨大なシャッターがあるだけだったが、彼女の魔法少女としての鋭敏な感覚は、その向こうに広がる空間の強烈な歪みを明確に捉えていた。
「変身!」
彼女のソウルジェムからエメラルドグリーンの閃光がほとばしり、蒼春アネッテの姿は瞬く間に魔法少女のそれへと変わった。緑のフリルドレスに白いアンダースカート、そして銀色の回路模様の刺繍が、周囲の闇の中で鮮やかに輝く。
両手には既に、最新改良型の「ハンドコイラー Mk.IV」が握られていた。その銃身からは、抑えきれない魔力が青白いスパークとなって時折散っていた。
「よし...行くわよ。待っていて、名も知らぬ魔法少女さん!私が必ず助け出す!」
彼女は軽く跳躍し、シャッターの僅かな隙間から、歪んだ結界の入口へとその身を投じた。
―魔女の結界内―
結界の入口をくぐった瞬間、アネッテは異質極まりない空間に足を踏み入れた。
暑い。それが最初の、そして最も強烈な感覚だった。彼女の周囲に広がっていたのは、果てしなく続く赤茶色の灼熱の砂漠。空気は極度に乾燥し、足元の熱砂が放つ強烈な熱が、魔法少女のブーツの厚い靴底を通してさえジンジンと伝わってくる。
「ここは...なんという酷い場所...」
アネッテは視界に飛び込んできた壮絶な風景に、一瞬言葉を失った。結界内部は炎と砂が支配する赤い砂漠だった。陽炎が立ち上り、遠くの景色を蜃気楼のように歪ませている。
空には、不気味な音を立てながら絶え間なく回転する無数の巨大な風車が、まるで悪夢の中のオブジェのように浮かんでいた。地面には古びた鉄の線路が幾筋も走り、まるで巨大な蛇が這った跡のように入り組みながら、灼熱の地平線の彼方まで続いていた。不自然なまでに巨大な、血のように赤い太陽が空に二つ浮かび、すべてのものに奇妙に二重写しの長い影を落としていた。
「なんて独特で、悪趣味な結界...火と鉄と風車...。それにこの魔力の密度、明らかに複数の強力な魔女の気配がする。そして、あの魔法少女の反応は…結界の奥深くからだわ」
アネッテはハンドコイラーを構え、周囲を厳重に警戒しながら、状況を冷静に分析しようとした。彼女のエメラルドグリーンのドレスが、この赤い絶望的な世界では一層鮮やかに、しかし場違いに浮いて見える。砂を踏みしめる一歩一歩の音が、まるで自分の心臓の鼓動のように大きく響き渡り、息苦しいほどの静寂がこの異空間を支配していた。
「まずは偵察と、囚われた魔法少女の位置特定を最優先に...」
アネッテは素早く背中のバックパックから、先ほど遠隔操作していたものとは別の、戦闘補助用の拳大の金属球を取り出すと、それに魔力を込めて息を吹きかけた。
球体がエメラルドグリーンに淡く輝くと、彼女はそれを空中に放った。
「ドローン・スウォーム、アクティベイト!索敵フォーメーション・シグマ!魔法少女の救出を最優先、発見次第、即時報告!」
魔力が球体に流れ込むと、装置が幾何学的なパターンで展開し始めた。折り紙が複雑に解けるように、球体は瞬時に数十の精密な部品に分解され、次の瞬間には自律飛行可能な蜂のような小型ドローンが十数機、金属的な羽音を低く響かせながら四方八方に散っていった。各ドローンはエメラルドグリーンの光を尾のように引きながら、結界内を高速で旋回し、情報収集を開始する。
「マッピング開始...データ収集中...。空間歪曲率、魔力密度、危険度レベルをリアルタイムで更新して」
アネッテは左手首に装着された腕時計型の多機能デバイスを確認した。ホログラムスクリーンには最初、空白の格子模様しかなかったが、ドローンからのデータがリアルタイムで流れ込むにつれ、結界内部の立体マップが驚くべき速度で構築されていった。色分けされた熱分布図、魔力密度グラフ、地形の凹凸を示す等高線、そして何よりも重要な、敵性存在の位置を示す警告マーカー。これらの情報レイヤーが重なり合い、複雑な三次元戦術モデルを形成していく。
データが集まるにつれ、アネッテの表情には焦りと緊張が走った。画面上では、異なる場所で複数の極めて強い魔力反応が点滅している。それらは通常の強力な魔女一体分を遥かに超えるエネルギー密度を示しており、まさに彼女が恐れていた通りの状況だった。
さらに驚くべきことに、それらの反応は単一の魔女から発せられているのではなく、最低でも四体の異なる魔女の存在を示唆していた。そして、それらの強力な反応が密集する中心部に、一つだけ異質な、しかし急速に弱まりつつある魔力波形が表示されていた。
「魔法少女の反応...!間違いない!このパターンは…マミさんたちとは違う。やはり、まだ見ぬ魔法少女だわ!でも、この波形の減衰速度は…危険な状態よ!」
アネッテは眉を鋭く寄せ、データをより詳細に分析した。ドローンからの断片的な映像と魔力分析によると、その魔法少女は既に複数の魔女と激しい戦闘を長時間繰り広げ、極度に消耗しているようだった。魔力波形には限界を示す危険な揺らぎが見られ、ソウルジェムの汚染も臨界点に近いことを示唆していた。
「これは急がないと、本当に手遅れになる!」
アネッテは最も反応の強い方向を定めると、熱砂を蹴って疾走し始めた。足元から砂埃が竜巻のように舞い上がり、彼女の緑のドレスの裾が風に激しくなびく。空中に浮かぶ無数の風車が、まるで巨大な監視者のように彼女の頭上を不規則に通り過ぎていき、その巨大な歯車の影が、逃げ惑う獲物を弄ぶかのように地面に奇妙なパターンを描き出していた。
突然、頭上から巨大な影が落ち、アネッテの魔法少女としての鋭敏な直感が最大の警告を発した。
彼女は瞬時に魔力を足に集中させ、コンマ数秒の判断で数メートル横に鋭角的に跳んだ。
次の瞬間、彼女が先ほどまで立っていた場所に、炎に包まれた巨大な赤い鉄の羽が音もなく突き刺さり、周囲の砂を一瞬で熔解させて赤熱したガラス状のクレーターに変えていた。
「なっ...!今の攻撃、ドローンのセンサーにも反応がなかった…ステルス能力持ち!?」
息を呑んで空を見上げると、驚愕の光景が目に飛び込んできた。全身から摂氏数千度にも達するであろう紅蓮の炎を噴き出す、家ほどもある巨大な怪鳥型の魔女。その鮮やかな朱色と橙色の羽毛は、実際の炎そのもののように揺らめき、周囲の空気を焦がしていた。頭部には十二枚の巨大な風車のような鋼鉄の冠があり、それらが恐ろしい速度で回転し、灼熱の旋風を生み出している。翼を広げると、その翼長は優に二十メートルを超えていた。
(大きい...これが魔女!?今まで遭遇したどの魔女とも比較にならない規模とパワー…!しかも、他の魔女の気配も複数あるのに、こんなのがまだいるなんて!)
アネッテは衝撃を隠せなかったが、科学者としての冷静な思考を寸でのところで取り戻そうとした。左手首のデバイスが激しい警告音を鳴らし、魔女の脅威分析データを表示する。
「炎属性、飛行能力、風車による熱波攻撃…コードネーム『フェニックス・ゲイル』とでも名付けておこうかしら…」
魔女は一度だけ、溶けた金のような黄金色の鋭い瞳でアネッテを見下ろすと、鳥の鳴き声と巨大な風車の軋む音が混ざったような、耳をつんざく不気味な咆哮を上げた。次の瞬間、魔女は翼を大きく羽ばたかせ、上空へと急上昇し、鮮烈な炎の尾を引きながら、結界のさらに奥深くへと高速で遠ざかっていった。
「攻撃してこない...?ただの威嚇?それとも、私が追っている魔法少女が本命で、私は取るに足らないと判断された?奇妙ね」
アネッテは困惑しながらも、デバイスで囚われた魔法少女の反応を再確認し、進むべき方向を定めた。しかし、彼女が数歩進んだ時、周囲の砂漠の風景が微かに、しかし確実に変化し始めたことに気づいた。
砂が生き物のように渦を巻き始め、その中からいくつもの小さな、しかし不気味な形が現れ始めた。風車の羽根と歪んだ鳥の頭部を持つ、粘土人形のようなおぞましい姿の使い魔が十数体、彼女を取り囲むように砂中から次々と出現した。それらは風車のように高速回転する金属の羽根を持ち、低空を浮遊しながら、無慈悲な殺意を込めた赤い目で彼女に迫ってきた。
「使い魔ね...数では不利だけど、一体一体は大したことないはず!あの魔法少女のところへ急がないと!」
アネッテは一瞬だけ緊張したが、すぐに両手のハンドコイラーMk.IVを構え直し、戦闘態勢に入った。彼女の瞳に決意の光が宿り、指が敏感に引き金に添えられた。
「ハンドコイラー、ワイドスキャッターモード...フルオート、ファイア!」
両手の銃から放たれた特殊弾が空中で無数に分裂し、周囲360度に高エネルギーを帯びた金属片の嵐を形成した。扇状に広がった金属片は、迫りくる使い魔たちを薙ぎ払い、断末魔の甲高い悲鳴と共に次々と爆散させていく。
「残りは一体...いや、奥にもまだいる!急いで合流しないと!」
アネッテはドローンからの情報を基に、魔法少女の反応が最も強い方向へと進路を変えた。灼熱の砂丘を一つ越えたところで、彼女は息を呑むほど衝撃的な光景を目にした。
鮮血のような赤い髪の魔法少女が、巨大な多節棍のような槍を巧みに振るい、異形の魔女と死闘を繰り広げていたのだ。その魔女の姿は、巨大な黒蠍のような下半身と、上半身は無数の鋭い鎖を自在に操る禍々しい女の姿をしていた。
「あの子が...ドローンが探知した魔法少女!見滝原の子じゃない…他の街から来たんだわ!」
アネッテは即座に状況を理解した。少女の動きは驚くほど素早く力強かったが、その一挙手一投足にはわずかな乱れと消耗が見え隠れする。長時間の絶え間ない戦闘で、体力も魔力も限界に近いのだろう。
「今から援護するわ!大丈夫、あなたは一人じゃない!」
アネッテは両手のハンドコイラーを固く握りしめ、魔女の背後を取るように、砂塵を巻き上げながら猛然と駆け出した。
―杏子視点―
結界に閉じ込められてから、既に四日という時間が経過していた。佐倉杏子は今や、肉体的にも精神的にも限界寸前の、絶体絶命の状況に追い込まれていた。
最初の日、見滝原に遠征してきた三人組の魔法少女たちが、この異常な結界内で次々と倒され、そのうちの一人が目の前で魔女へと変貌する様を、彼女は隠れながらも目撃してしまった。
あの筆舌に尽くしがたい衝撃的な光景を目の当たりにしてから、彼女はひたすら自己の生存本能に従い、生き延びることだけに専念してきた。結界の端にある比較的安全と思われる岩場の洞窟を仮の隠れ家にし、魔力の消費を極限まで抑え、持参していた非常食料を慎重に配分しながら、虎視眈々と状況を観察し続けていた。
しかし三日目の朝、ついに魔女たちは彼女の隠れ家を発見。それ以来、杏子は眠る間も休む間もなく、絶え間ない死闘を繰り広げていた。
最初は慎重に一体ずつ誘い出し、得意のヒットアンドアウェイ戦法で距離を取りながら戦おうとした。しかし、この異常なまでに広大で複雑な結界内では、魔女たちがまるで意思を持っているかのように巧みに連携して動き、彼女の老練な戦術はことごとく通用しなかった。予備のグリーフシードも既に使い果たし、彼女の赤いソウルジェムは、もはや危険水域を示すどす黒い濁りが全体の八割以上を覆っていた。
佐倉杏子は肩で荒い息を繰り返しながら、再び魔女に向かって最後の力を振り絞るように跳躍した。鮮やかな赤のポニーテールが汗と砂埃にまみれて乱れ、彼女の強い意志を宿した瞳には、諦めを知らぬ闘志の炎が揺らめいていた。長時間の戦闘で、鍛え上げられた腕や足にはおびただしい数の生々しい切り傷や打撲痕が無数に刻まれ、愛用の魔法少女の衣装もズタズタに裂け、所々に砂と乾いた血がこびりついていた。
体力も魔力も、もはや風前の灯火だったが、佐倉杏子の辞書に「諦める」という文字はなかった。
「くそっ...!いくらぶっ壊しても、こいつらキリがねえじゃねえか!」
彼女の声はひどく枯れ、喉の奥が焼けるように乾ききっていた。歯を食いしばりながら、杏子は渾身の力を込めて魔女へと槍を突き出した。
彼女が握る紅蓮の槍は、連結する複数の赤い節が特徴的な変幻自在の武器で、その先端は獲物の喉笛を切り裂く鋭い三日月状の刃となっている。槍がしなるように伸び、魔女の本体から伸びるおぞましい鎖状の腕の一本を正確に貫いた瞬間、硬い金属が砕ける音とともに鎖の一部が爆発的に破壊された。
「やったぜ...どうだ!」
しかし、その束の間の勝利感は、残酷な現実によって打ち砕かれた。砕け散った鎖の破片から濃密な黒い霧が立ち昇り、まるで生きているかのように蠢きながら、瞬く間に鎖が元の形へと再生してしまったのだ。それどころか、再生した鎖は以前よりも太く、より凶悪な棘が無数に生え、さらに多くの鎖が蛇のように杏子に向かって伸びてきた。
「こんなもん、何度やったって同じだっての!」
杏子は咄嗟にソウルジェムに残る僅かな魔力を槍に集中させ、槍の形状を防御形態へと変化させた。一本の長大な槍が瞬時に分裂し、複数の連結した短い槍の盾となって、彼女の身体の周囲を鎖帷子のように円形に包み込んだ。この防御形態が、嵐のように襲い来る鎖の攻撃を辛うじて食い止める。彼女はそのコンマ数秒の隙を逃さず、後方へ大きく跳躍し、魔女から距離を取った。
肩で激しく息をしながらも、杏子の闘志に燃える目は、決して諦めることなく次の攻撃の機会を冷静に探っていた。彼女の長年の戦闘経験と天性の戦闘センスが、この絶望的な状況下においてさえ、なおも冷静な判断と活路の模索を可能にしていた。
「次は...あいつのコアを直接狙うしかねえか…」
杏子が次の捨て身の攻撃を計画する間もなく、魔女が甲高い、耳を劈くような絶叫を上げた。その声は結界の灼熱の空気を震わせ、砂漠の地面さえも微かに振動させるほどだった。次の瞬間、魔女の背中から無数の黒光りする鋼鉄の鉤爪が、まるで噴水のように勢いよく飛び出し始めた。それらは弾丸のような恐ろしい速さで四方八方に無差別に広がり、杏子の逃げ場を完全に奪い去る、まさに必殺の攻撃だった。
「ヤバい...!避けきれねえ!」
杏子が防御の体勢を取ろうと槍を構え直した瞬間、魔女の背中からさらに夥しい数の鉤爪が、第二波、第三波となって間断なく放出された。月明かりを鈍く反射する鋭利な爪が、まるで鉄の弾幕のように彼女の全方位を囲んでいく。
彼女は槍を高速で回転させて魔力のバリアを張ろうとしたが、連日の過酷な戦闘による極度の体力消耗と魔力不足で、身体の反応が致命的に遅れていた。
(間に合わねえ...!ここまで、か...)
杏子は咄嗟に自分の身体を出来るだけ小さく丸め、両腕で顔面を覆った。この数日間、彼女が何度も何度も魂に刻み付けるように経験してきた激痛と衝撃が、再び自分の全身を襲うであろうことを、彼女は痛いほど覚悟した瞬間だった。
「シールド展開!指向性エネルギー障壁、最大出力!」
突如、凛とした、しかしどこか切羽詰まった未知の少女の声が戦場に響き渡り、強烈なエメラルドグリーンの魔力の波が、まるで嵐のように杏子の全身を包み込んだ。
「っ! なんだぁ!?」
予想していた身を引き裂くような激痛が訪れないことに気づき、杏子は恐る恐る両腕の隙間から目を開けた。
するとそこには、信じられない光景が広がっていた。見知らぬエメラルドグリーンのフリルドレスを纏った魔法少女が、まるで守護天使のように彼女の前に立ちはだかっていたのだ。その少女の周囲には、半透明で幾何学的な模様が浮かぶ青白い光のバリアが力強く展開され、魔女の放ったおびただしい数の鉤爪が、まるで硬い壁に当たったかのように全て弾き返されていた。
この防御壁は、アネッテが以前「ラジオ塔」の魔女との戦いで即興で開発した「ファラデー・シールド」を元に、より指向性と防御力を高めた改良型「プロジェクテッド・ファラデーケージ」とでも呼ぶべきものだった。純粋な魔力で構成されたそれは、物理攻撃とエネルギー攻撃の双方にある程度の耐性を持つ。
「大丈夫?ギリギリ間に合ったみたいね」
未知の魔法少女が、砂埃の中で軽く咳き込みながら振り返って言葉をかけてきた。その顔には戦闘による明らかな疲労の色が見て取れたが、それ以上に確かな自信と冷静沈着な光が、その深緑色の瞳に宿っていた。
栗色の短い髪が汗で額に張り付き、知性的な輝きを放つ深緑色の瞳が杏子を捉える。杏子が見たこともない、全く新しいタイプの魔法少女だった。
「...誰だ、あんたは?どこから湧いて出やがった?」
杏子は全身で警戒しながらも、明らかな救援者に対して、今は無意味な敵意を露わにしなかった。彼女の赤いソウルジェムは、もはや限界を示すようにどす黒く濁っており、今は目の前の予期せぬ助けを拒否できるような状況では到底なかった。
「蒼春アネッテ。月影町から来た魔法少女よ」
アネッテは簡潔に自己紹介を終えると、素早く左手首の多機能デバイスを確認し、再び油断なく魔女に向き直った。
「あなた、かなり消耗してるみたいね。ソウルジェムの濁りも危険水域よ。話は後。まずはこのデカブツをどうにかしないと。あなたは私の援護に集中して、魔力の温存を最優先に!」
アネッテの言葉には、戦場の指揮官のような冷静さと、科学者らしい分析に基づいた自信が満ち溢れていた。そう言う彼女が両手に構える武器は、杏子がこれまで見たこともないような、洗練されたデザインの拳銃型装置だった。その表面には複雑な回路が走り、銃口からは抑えきれない魔力が緑色のエネルギーとなって常にスパークしていた。
その的確な状況判断と指示に、杏子は一瞬言葉を失い、呆気に取られた。しかし、すぐに戦闘本能が蘇り、現状を冷静に再認識した。長時間の消耗戦、底をついたグリーフシード、そして限界寸前のソウルジェム。
彼女は、この状況で生き残るためには、目の前の見知らぬ魔法少女を信じるしかないと瞬時に判断した。杏子は、魔法少女としてのちっぽけな誇りを一旦胸の奥にしまい込み、力強く頷いた。
「ああ...アタシは佐倉杏子だ。風見野市から来た。アンタの指示に従う。けどな、アネッテっつったか?アタシはただ守られるだけなんてゴメンだぜ?援護くらいはきっちりやってやる」
彼女の声には、極度の疲労と、それでも失われない闘志、そして予期せぬ援軍の出現に対するわずかな安堵が複雑に混ざり合っていた。たった一人で戦い続けてきた孤独な時間の果てに、ようやく現れた仲間らしき存在。その出会いが、彼女の心に小さな、しかし確かな希望の火を灯した。