アネッテと希望の方程式   作:革新的甲殻類

47 / 49
2-13「絶望の三重奏、再演」

 

 

月影高校、二年B組の教室。

しかし、それはアネッテの知る日常の教室ではなかった。

窓の外に広がるはずの校庭や街並みは、赤い砂漠と歪な図書館が混じり合った、悪夢のような風景に侵食されている。

チョークの匂いとインクの香りがするはずの教室は、今は鉄錆と硫黄、そして微かな甘ったるい腐臭に満ちていた。

 

教室の壁は、どこまでも続いているかのように見え、その奥行きは把握できない。机や椅子は通常通りの大きさに見えるのに、その配置は無限に繰り返されているかのようで、まるで鏡合わせの回廊に迷い込んだかのような錯覚を覚える。教壇の向こう、黒板があるはずの場所は、深い霧の奥へと続く通路のように歪んで見え、偽マリエはその境界線上に、まるで異次元の支配者のように音もなく立っていた。

 

偽マリエは、教壇の位置からその虚ろな瞳で眼下の魔法少女たちを見下ろしていた。

彼女の背後には、先ほどまで赤い砂漠で猛威を振るっていた二体の魔女――おぞましい第二形態へと変貌した「お菓子のような魔女」と、紅蓮の炎を纏う巨大な「炎の鳥の魔女」が、この異常に引き伸ばされた空間に、その巨体を持て余すことなく、まるで忠実な番犬のように控えている。

偽マリエが軽く右手を上げると、それに呼応するように、二体の魔女が威嚇するように低く唸り、戦場に新たな緊張が走った。

 

「アネッテは、いつもそうだった」

 

偽マリエの声が、静まり返った教室に冷たく響く。それはアネッテの記憶の奥底に刻まれた、優しかった親友の声と同じはずなのに、今はまるでガラスの破片のように鋭く、聞く者の心を切り刻む。

 

「大きなことを言って、立派な理想を語って、いつも誰かを助けようとする。でも、結局は何もできない。何も救えない。あの時、私が死んだ時もそう。そして今、あなたも同じ。何もできずに、ただ絶望しているだけ」

 

その言葉は、床に倒れ伏し、か細い呼吸を繰り返すアネッテの鼓膜を容赦なく打つ。

彼女の瞳は虚ろなまま、偽マリエの姿を捉えているのかいないのか、焦点が定まらない。

エメラルドグリーンのソウルジェムの輝きは、風前の灯火のように弱々しく明滅し、今にも消え入りそうだ。

 

「アネッテちゃんにそんなこと言わないで!」

 

まどかが、涙を浮かべながらも、弓を偽マリエに向けた。

その小さな手は震えていたが、瞳には友を侮辱された怒りと、アネッテを守りたいという強い意志が宿っていた。アネッテの「マ…リエ…?」という呟きと、その後の取り乱しようから、目の前の少女がアネッテにとってどれほど特別な存在(だった)かを察していた。

 

「あなたは…アネッテちゃんが言ってた、大切な人に似ているけど…!あなたは、その人じゃない…!アネッテちゃんを傷つけるなんて、絶対に許さない!」

 

偽マリエは、まどかの言葉を鼻で笑った。

その表情は、アネッテの記憶の中の優しいマリエが決して見せることのなかった、冷酷な侮蔑に満ちていた。

 

「優しい?そうね、あの子は優しかったわ。だから、アネッテの無力さに気づかないフリをしてあげていた。でも、もう我慢できない。この子がどれだけ周りを不幸にするのか、あなたたちにも教えてあげる」

 

偽マリエの右手が、ゆっくりと振り下ろされた。

それは、まるでオーケストラの指揮者がタクトを振るうかのような、優雅でありながらも絶対的な命令の合図だった。

 

「さあ、始めなさい。絶望のアンコールを」

 

その言葉と同時に、背後に控えていた二体の魔女が、一斉に魔法少女たちへと襲いかかった。

 

「お菓子のような魔女」の第二形態が、その巨大な顎を大きく開き、地響きを立てて教室の床を疾走する。その巨体は、行く手に並ぶ机や椅子を、まるで紙細工のように軽々と弾き飛ばし、木片や金属の破片を撒き散らしながら、一直線にさやかと杏子へと突進してきた。教室の壁が、その衝撃でビリビリと震えるのが分かった。

 

「うわっ!またこいつかよ!しつけーんだよ!」

 

杏子は悪態をつきながらも、赤い槍を回転させ、迫りくる机の破片を弾き飛ばす。

しかし、魔女の突進の勢いは凄まじく、回避するだけで精一杯だった。彼女のソウルジェムは依然として濁りが濃く、体力の消耗も激しい。

 

「ちっ!厄介なパワーしやがって!こっちはもうボロボロだってのに!」

 

「杏子!大丈夫!?」

 

さやかが青い剣を構え、杏子の隣に並び立つ。

彼女の瞳には、先ほどの精神攻撃を乗り越えたことによる自信と、仲間と共闘できる喜びが微かに宿っていた。しかし、目の前の異様な光景と、床に伏せるアネッテの姿に、その表情はすぐに悲痛なものへと変わる。

 

「こいつの相手は、私たち二人に任せて!アネッテのことは…頼んだわよ、ほむら、マミさん!」

 

一方、教室の異常に高い天井近くを飛翔する「炎の鳥の魔女」が、その紅蓮の翼を大きく広げ、無限に続くかのような教室空間の奥から急降下してきた。

その口からは、先ほどよりもさらに凝縮された、白く輝くほどの高熱の炎のブレスが、マミとほむら、そして意識のないアネッテめがけて放たれる。

 

「させませんわ!」

 

マミは即座に反応し、両手に黄金色のマスケット銃を具現化させると同時に、リボンを無数に展開させ、炎のブレスの軌道を逸らすための防御壁を形成する。

しかし、「炎の鳥の魔女」のブレスはあまりにも強力で、マミのリボンは一瞬で焼き尽くされ、突破されてしまう。

 

「くっ…!この火力、先ほどよりも増している…!?」

 

ほむらは時間停止を発動させようと左腕の盾に手を伸ばした。彼女の魔力が盾に集中し、紫色の光が時計の針のような模様を描き始める。まさに、局所的な時空を隔離する「シールドバブル」が形成されようとした瞬間――。

 

偽マリエが、それを待っていたかのように嘲るように口を開いた。

 

「無駄よ、暁美ほむら」

 

その声と同時に、ほむらの周囲の空間が微かに、しかし確実に揺らめいた。

 

「あなたのアネッテは、本当に優秀な『道具』だったわ。彼女の頭脳は、あなたのその厄介な能力についても、実に興味深い『考察』を遺してくれていたのよ」

 

偽マリエの言葉は、まるでアネッテの知性を弄ぶかのように響く。アネッテが以前、ほむらの時間停止について「局所的な時空の位相を操作しているのかもしれない」と推測していたことを、この偽マリエは知っているのだ。

 

「局所的な時空の位相を操作し、自分と接触物だけを時間の流れから切り離す『シールドバブル』のようなもの、ですって?面白い発想よね」

 

ほむらの盾から放たれていた紫色の光が、不安定に明滅し始める。

時間停止のプロセスが、何らかの力によって阻害されているのが明らかだった。アネッテが分析していたほむらの能力の「核」となる部分が、的確に狙われている。

 

「その『泡』を安定させるための精密な魔力制御…アネッテはその制御の『方程式』まで推測していたわ。素晴らしいわね、本当に。彼女の科学的探究心が、今、あなたの首を絞めているのよ」

 

偽マリエはうっとりとした表情でアネッテを見下ろし、そして再びほむらに冷たい視線を向けた。

 

「だから、その『方程式』の根幹となる魔力の流れを少し『調整』してあげれば…あなたのその左手の盾は、タダの板切れに成り果てるのよ」

 

偽マリエの言葉が終わると同時に、ほむらの盾から迸っていた紫色の光が完全に消失した。

時間停止が、発動する前に強制的に解除されたのだ。

まるで濃密な水飴の中に沈められたかのように、体の動きが重く、魔力の流れも不自然に乱れる。

彼女の能力の根幹である「局所的な時空の精密制御」そのものが、外部からの悪意ある干渉によって、アネッテの解析結果を逆手に取られる形で妨害されているのだ。

 

(時間操作に干渉…!?アネッテの考察を…読み取って対策したというの…!?そんなことが…!私の能力の弱点を的確に…!)

 

ほむらの額に冷や汗が滲む。

最大の武器である時間停止を封じられ、状況はさらに絶望的になっていく。

彼女は咄嗟にアネッテを庇うように前に立ち、盾を物理的な防御壁として構えた。

 

炎のブレスが、マミの防御を突破し、三人に迫る。

マミは咄嗟にほむらとアネッテを突き飛ばし、自らが盾となって炎の直撃を受け止めた。

 

「マミさん!!」

 

まどかの悲痛な叫びが響く。

 

黄金色の魔法少女衣装が炎に包まれ、マミの美しい金色の髪がチリチリと焦げる音が聞こえる。

しかし、彼女は歯を食いしばり、決して倒れようとはしなかった。

その瞳には、後輩たちを守り抜くという、先輩魔法少女としての強い覚悟が宿っていた。

 

「この程度で…私が倒れるとでも思ったかしら…!」

 

マミは炎の中からマスケット銃を乱射し、「炎の鳥の魔女」の目を狙う。

数発の魔力弾が魔女の顔面に命中し、甲高い悲鳴を上げさせ、わずかに後退させることに成功した。

しかし、マミ自身も深手を負い、肩で大きく息をしている。

その制服の所々は焼け焦げ、肌には火傷の痕跡が見えた。

 

「マミさん!無理しないで!」

 

ほむらがマミを支えようと駆け寄る。

 

「平気よ…まだ戦えるわ…アネッテさんが目を覚ますまで、私たちが時間を稼がないと…」

マミは強がりを言うが、その声は明らかに弱々しかった。

 

歪み、引き伸ばされた教室の中は、魔女の咆哮、魔法の炸裂音、そして魔法少女たちの苦悶の声が入り混じり、まさに地獄絵図と化していた。

さやかと杏子は、「お菓子のような魔女」の変幻自在な攻撃と驚異的な再生能力に苦戦を強いられ、どこまでも続くかのような床の上を徐々に追い詰められていく。

マミとほむらは、「炎の鳥の魔女」の圧倒的な火力と、偽マリエによる不可解な妨害工作によって、有効な反撃を繰り出せないでいた。

そしてまどかは、アネッテの側に付き添い、彼女の名前を呼び続けながらも、時折、弓で仲間たちを援護しようとするが、その攻撃も偽マリエの作り出す不可視の障壁によって阻まれてしまう。

 

アネッテのソウルジェムは、仲間たちの苦戦と偽マリエの言葉に呼応するかのように、その濁りを急速に増していた。

 

偽マリエは、無限に続くかのような教室の最奥、教壇の上からその惨状を冷ややかに見下ろしていた。

その表情には、一切の感情の揺らぎが見られない。

まるで、壊れたおもちゃを眺める子供のような、無邪気で、そして残酷な好奇心だけが、その虚ろな瞳に宿っていた。

 

偽マリエは、アネッテに視線を移した。

アネッテは依然として床に倒れたまま、偽マリエの言葉に反応するように、小さく身を震わせている。

 

「見ていなさい、アネッテ。あなたのせいで、あなたの『大切なお友達』が、一人、また一人と絶望していく様を。あなたが何もできなかった、あの時と同じようにね」

 

偽マリエの言葉が、アネッテの心の傷をさらに深く抉る。

アネッテのソウルジェムの輝きが急速に失われ、黒い穢れが限界まで広がっていく。まるで、あの魔女化回避のプロセスが始まろうとしているかのような、しかしそれ以上に不吉な兆候だった。

 

(このままでは…アネッテの精神が完全に壊れてしまう…!たとえあの現象で物理的に魔女化を免れたとしても、心が戻らなければ…二度と立ち直れないかもしれない…!あるいは、制御不能な電磁パルスがこの狭い空間で…!)

 

ほむらの心に、アネッテの特異な体質を知る者だけが抱く、別の種類の焦りが募る。

しかし、「炎の鳥の魔女」の猛攻は止まらず、偽マリエの妨害も巧妙で、アネッテに近づくことすらできない。

 

「みんな…ごめんなさい…私のせいで…私が…弱かったから…マリエも…私の発明も…何もかも…無意味だったんだ…」

 

アネッテの唇から、消え入りそうな声で自己否定の言葉が漏れた。

彼女の瞳からは、もう涙も流れない。生きる意志そのものが失われたかのように、ただ深い深い絶望の色だけが、その美しいエメラルドグリーンの瞳を覆い尽くしていた。思考は完全に停止し、ただ偽マリエの言葉だけが頭の中で反響している。

 

偽マリエは、その光景を満足そうに眺めていた。アネッテの心が完全に折れ、絶望の底に沈んでいくのを、まるで美しい芸術作品を鑑賞するかのように。

 

「そうよ、アネッテ。それでいいの。あなたはただ、自分の無力さを噛みしめながら、永遠に後悔と罪悪感の中で生きていけばいい。魔女になるよりも、そちらの方があなたにはお似合いよ」

 

偽マリエはせせら笑い、そして、最後の仕上げとばかりに、静かに右手を振り上げた。

その合図と共に、「お菓子のような魔女」と「炎の鳥の魔女」が、最大の攻撃を、アネッテではなく、彼女を守ろうとする他の魔法少女たちに向けて放とうとしていた。アネッテに、仲間たちが自分のせいで傷ついていく様を、その絶望した瞳で見せつけるために。

教室の空間が、二体の魔女の強大な魔力によってさらに歪み、圧し掛かるようなプレッシャーが彼女たちを襲う。

 

万事休す。

誰もがそう思った瞬間だった。

 

「…る…な…」

 

か細い声。

しかし、それは確かに、戦場に響いた。

それは、床に伏せるアネッテに向けられた、魂からの叫びだった。

 

「…諦める…な…アネッテ…!」

 

声の主は、佐倉杏子だった。

彼女は、「お菓子のような魔女」の体液で片目を潰され、満身創痍になりながらも、赤い槍を杖代わりにして、懸命に立ち上がろうとしていた。

その血に濡れた赤い瞳は、偽マリエを、そして床に倒れるアネッテを、真っ直ぐに見据えていた。

偽マリエが誰なのか、アネッテにとってどういう存在なのか、杏子には知る由もない。アネッテが何か大事なものの幻影に苦しめられている、ということしか分からない。

だが、アネッテが精神的に限界であること、そしてこのままでは全員が危ないということだけは、痛いほど理解していた。

 

「あんたが…諦めてどうすんだよ…! あんたがいてくれなきゃ、あたしだってとっくにやられてた! だから、あんたも諦めねぇで最後まで足掻け!あんたのそのワケの分からん武器がなくたって、まだやれることはあるはずだろ!」

 

杏子の魂の叫びは、まるで強烈な一撃のように、アネッテの閉ざされた意識の扉を叩いた。

朦朧とする意識の深淵で、アネッテはその声を、遠い雷鳴のように、しかし確かに感知していた。

偽マリエの冷たい声が作り出す絶望の旋律の中に、杏子の荒々しくも力強い言葉が、不協和音のように割り込んでくる。

 

(…杏子…さん…?)

 

偽マリエによって植え付けられた自己否定と無力感の厚い氷が、その熱量にわずかに軋む音を立てた。

「マリエに顔向けできない」「お前のせいだ」――偽マリエが囁き続ける絶望の呪詛に、杏子の「諦めるな」「まだやれることはあるはずだ」という言葉が、小さな楔のように打ち込まれる。

それは、暗闇の中でほんの一瞬だけ灯った、マッチの炎のような微かな光だった。

 

アネッテの胸元で、エメラルドグリーンのソウルジェムが、一瞬だけ、ほんのわずかに、しかし明らかに力強い輝きを取り戻した。

まるで、心の奥底で何かが目覚めようとするかのように。

その輝きは、杏子の言葉に呼応したかのようだった。

 

しかし、偽マリエがその変化を見逃すはずはなかった。

彼女の美しい、しかし人形のように冷たい顔に、計算外の出来事に対する不快な影がよぎる。

アネッテの精神が完全に崩壊する寸前で、予期せぬ抵抗に遭ったことへの苛立ち。

 

「…まだ足掻くつもり?見苦しいわね、アネッテ」

 

偽マリエの声は、さらに冷たく、そして重くアネッテの精神に圧し掛かる。

ソウルジェムの僅かな輝きを打ち消そうとするかのように、絶望の言葉が再びアネッテの思考を支配しようとする。

 

「ほら、やっぱりあなたは何もできない。あの時のように、ただ見ているだけ…あなたのその中途半端な抵抗が、周りの人間をさらに不幸にするのよ。諦めて、楽になりなさい」

 

再び強まった精神攻撃の波に、アネッテのソウルジェムの輝きは再び揺らぎ、弱々しいものへと戻っていく。

覚醒の兆しは、あまりにも儚く、深い闇へと再び引きずり込まれようとしていた。

アネッテの意識は、希望と絶望の狭間で、か細い糸のように揺れ動いていた。

 

再び強まった精神攻撃の波に、アネッテのソウルジェムの輝きは再び揺らぎ、弱々しいものへと戻っていく。

覚醒の兆しは、あまりにも儚く、深い闇へと再び引きずり込まれようとしていた。

アネッテの意識は、希望と絶望の狭間で、か細い糸のように揺れ動いていた。

 

「…ダメだ…もう…」

 

アネッテの唇から、諦めの言葉が漏れそうになる。

偽マリエの言葉が、まるで現実そのものであるかのように、彼女の思考を侵食していく。

 

しかし、その時だった。

 

「アネッテ!」

 

暁美ほむらの、普段の冷静さからは想像もつかないほど切羽詰まった声が、アネッテの耳に届いた。

ほむらは、マミに支えられながらも炎の鳥の魔女の攻撃をかいくぐり、アネッテの側に数メートルまで近づいていた。

その紫色の瞳は、アネッテのソウルジェムの僅かな変化――杏子の言葉に一瞬だけ応えたかのような、微弱だが確かな光の揺らぎ――を見逃さなかった。

 

(まだ…完全に心が折れたわけじゃない…!)

 

ほむらは直感した。アネッテの精神は限界に近いが、まだ戦う意志の火種は消えていない。

そして、この異常な教室空間そのものが、アネッテの精神状態と強くリンクしているのではないか、という仮説が彼女の脳裏をよぎる。

アネッテの絶望が深まるほど、偽マリエと魔女たちの力は増し、自分たちの能力はさらに阻害される。この悪循環を断ち切らなければ、全員が破滅する。

 

時間停止は、偽マリエの悪質な妨害によって、もはやまともに機能しない。

ならば、残された手段は一つ。

 

「この空間は…アネッテの心が作り出している…あるいは、少なくとも強く影響し合っている…!ならば、その源であるアネッテ自身が立ち直るか、あるいは外部から強大な衝撃を与えて、この悪夢を強制的にシャットダウンさせるしか…!」

 

ほむらは盾を構え、その内部にわずかに残された魔力と、最後の切り札として秘匿していた小型の高性能爆薬――アネッテの知識を借りて、通常の爆薬よりも指向性と破壊力を高めた試作品――を組み合わせるという、極めて危険な策に出ようとしていた。

狙うは魔女たちではない。この歪んだ教室空間の「壁」や「床」、空間の境界と思われる脆弱な一点。そこを破壊し、結界そのものを不安定化させるのだ。

 

「ほ…むら…ちゃん…?」

 

アネッテの虚ろな瞳が、わずかにほむらの姿を捉えた。

杏子の言葉、そして今、目の前で捨て身の行動に出ようとしているほむらの姿。

仲間たちの必死の抵抗が、彼女の心の奥底に凍り付いていた何かを、少しずつ溶かし始めていた。

 

(ダメ…ほむらちゃんまで…私のせいで…!)

 

偽マリエの精神攻撃は依然として続いている。

マリエの声が、アネッテの罪悪感を執拗に責め立てる。

しかし、アネッテの科学者としての本能が、その絶望の淵で、最後の閃きを捉えた。

 

(この空間…歪んでる…でも、歪みには…必ず『特異点』があるはず…!物理法則が…最も不安定になる場所…!)

 

思考はまとまらない。計算もできない。

だが、直感が、経験が、そして仲間を失いたくないという強い想いが、彼女の口を動かした。

 

「…ほむら…ちゃん…やめて…そこじゃ…ない…」

アネッテの声は、虫の音のようにか細く、途切れ途切れだった。

しかし、その言葉には、確かな意志が込められていた。

 

「…あの…黒板の…奥…一番…歪みが…大き…い…そこを…狙って…」

 

彼女は最後の力を振り絞り、震える指で、教室の奥――偽マリエが立つ教壇の背後、無限に続くかのように見える歪んだ空間の、さらに奥深くにある一点を指さした。

そこは、他の場所よりも空間の揺らぎが激しく、まるで現実と非現実の境界が曖昧になっているかのような、不安定な場所だった。

 

ほむらは、アネッテの言葉に一瞬目を見開いた。

この極限状況で、的確な弱点を指摘するアネッテの分析力。

彼女はまだ死んでいない。

 

ほむらの紫色の瞳に、新たな決意の光が灯る。

アネッテの言葉を信じる。彼女の科学者としての最後の直感を。

 

「わかったわ…!みんな、援護をお願い!」

 

ほむらの叫びに、マミ、まどか、さやか、そして杏子が即座に反応した。

彼女たちは、ほむらの意図を完全に理解したわけではなかったかもしれない。

しかし、その声に込められた尋常ならざる覚悟と、アネッテの最後の言葉の重みを感じ取り、それぞれの持ち場で全力を尽くすことを決意した。

 

「マミさん!あの炎の鳥を!これ以上、ほむらちゃんに近づけさせないで!」

 

まどかが叫び、ピンク色の魔力を凝縮させた光の矢を、教室の歪んだ天井近くを旋回する「炎の鳥の魔女」へと正確に放つ。矢は魔女の翼を掠め、その巨体をわずかに怯ませた。

 

「ええ、任せてちょうだい!」

 

マミは、ほむらが狙いを定める時間を稼ぐため、そして何よりも仲間たちを守るため、リボンを縦横無尽に操り始めた。黄金色のリボンが、まるで生きている蛇のように空間を舞い、「炎の鳥の魔女」と「お菓子のような魔女」の動きを巧みに封じ込め、その鋭い攻撃を逸らしていく。リボンは時に盾となり、時に鞭となって魔女たちを打ち据える。その姿は、まさに戦場を舞う黄金の戦乙女だった。

 

「さやか!杏子!あのデカブツの足止めを!」

 

ほむらの指示が飛ぶ。

 

「言われなくても!こいつはあたしが引き受ける!」

 

さやかが青い剣を閃かせ、「お菓子のような魔女」の巨体に果敢に斬りかかる。彼女の動きは荒々しいが、その一撃一撃にはアネッテを救いたいという強い想いが込められていた。

 

「へっ!面白え!アネッテの奴が目を覚ました時に、いいところ見せてやんねえとな!」

 

杏子もまた、赤い槍を振るい、さやかと背中合わせになるようにして「お菓子のような魔女」のもう一方の側面へと回り込む。二人の魔法少女は、互いの動きを補い合うように、絶妙な連携で魔女の猛攻を凌ぎ、反撃の機会を窺っていた。

 

仲間たちが命がけで時間を稼いでくれている。

その間にも、ほむらは左腕の盾に全神経を集中させていた。

アネッテが指し示した、教室の最奥――偽マリエが立つ教壇の背後に広がる、最も空間の歪みが激しい場所。

そこは、まるで現実が薄紙のように引き伸ばされ、向こう側の「何か」が透けて見えそうなくらいに不安定に揺らめいていた。

ほむらは、盾の内部に圧縮していた最後の爆薬と、自身のソウルジェムから絞り出したありったけの魔力を、その一点に向けて解き放つ準備を整えていた。

 

「この空間はアネッテの心と深く繋がっている…ならば、この一撃で…!」

 

偽マリエは、ほむらの尋常ならざる気配と、仲間たちの捨て身の援護に、初めて明確な焦りの表情を浮かべた。

「無駄なあがきを…!お前たちのような矮小な存在が、この絶望の円環を断ち切れるとでも思っているの!?喰らい尽くしてしまいなさい!」

偽マリエは金切り声を上げ、背後の二体の魔女にさらに激しい攻撃を命じる。

 

しかし、もはや遅かった。

 

「今よっ!!!!」

 

ほむらの声と同時に、彼女の盾から、凝縮された紫色の破壊エネルギーが、一条の光となって教室の最奥へと放たれた。

それは、時間停止の際に形成される「シールドバブル」のエネルギーを暴走させ、指向性を持たせた、まさに最後の手段。

魔力の奔流は、空間の歪みの中心点――アネッテが示した弱点――へと正確に吸い込まれていく。

 

接触の瞬間、世界が音を失った。

次の瞬間、教室全体が、内側から爆発するような眩い白い光に包まれた。

轟音と共に、空間そのものがガラスのように砕け散り始める。

教室の壁に無数の亀裂が走り、天井からは正体不明の黒い破片が雪のように降り注ぐ。

床は激しく隆起し、机や椅子は木っ端微塵に吹き飛んだ。

 

「きゃああああっ!」

まどかとさやかの悲鳴が響く。

 

偽マリエは、信じられないといった表情で、崩壊していく自らの結界を見上げていた。

 

「馬鹿な…この私が…こんな子供たちの…!」

 

彼女の姿が、白い光の中で徐々に薄れ、輪郭が曖昧になっていく。

 

「炎の鳥の魔女」は、バランスを失い、その巨体が不規則に回転しながら、歪んだ天井の亀裂の奥へと吸い込まれるように消えていった。断末魔の甲高い金属音が、空間の崩壊音に掻き消される。

「お菓子のような魔女」もまた、その体を維持できなくなり、まるで溶けた飴のようにどろどろと崩れ落ち、やがて白い光の中に飲み込まれていった。その巨体からは、無数の悲鳴のような音が聞こえていた。

 

そして、偽マリエ自身も、その美しい顔を苦悶に歪ませながら、徐々にその存在が希薄になっていく。

 

「アネッテ…!あなただけは…絶対に…許さない…!」

 

憎悪に満ちた最後の言葉を残し、偽マリエの姿は完全に白い光の中に溶け、消滅した。

 

教室を模した結界は、完全にその形を失い、ただ純粋な白い光の奔流だけが、魔法少女たちを包み込んでいた。

それは、世界の終わりか、あるいは新たな始まりか。

彼女たちは、ただ、その圧倒的な光の中で、互いの存在を確かめ合うように、強く手を握りしめることしかできなかった。

 

 

 

---

 

 

 

「…うっ…!」

 

最初に意識を取り戻したのはマミだった。

頭を強打したのか、視界がチカチカと明滅し、耳鳴りが止まない。

彼女はゆっくりと身を起こし、周囲を見回した。

 

そこは、先ほどまで戦っていた月影高校の教室ではなく、見滝原市郊外の、埃っぽく薄暗い廃工場の内部だった。

割れた窓から差し込む夕暮れ時の弱々しい光が、散乱する瓦礫や錆びついた機械の残骸をぼんやりと照らし出している。

先ほどまでの悪夢のような光景は消え去り、冷たい現実だけがそこにあった。

 

「みんな…!大丈夫!?」

 

マミは咳き込みながら、仲間の名前を呼んだ。

 

「…なんとか…」

 

ほむらが、壁に寄りかかりながら苦しそうに答えた。彼女の額からは血が流れ、左腕の盾はひび割れている。しかし、その紫色の瞳には、まだ戦う意志の光が宿っていた。彼女はアネッテの側に視線を走らせ、その異変にいち早く気づいた。

 

「あたしは平気…だけど…」

 

さやかも、瓦礫の中から這い出すようにして姿を現した。彼女の青い戦闘服は所々破れ、顔には煤が付いている。

 

「杏子!あんたも無事か!?」

 

杏子は、槍を杖代わりにしてゆっくりと立ち上がった。片目は依然として開かないようだったが、その口元には、いつもの不敵な笑みが微かに浮かんでいた。

 

「…へっ、この程度でくたばるあたしじゃねえよ…それより…」

 

全員の視線が、一点に集まった。

廃工場の中心部、コンクリートの床に、エメラルドグリーンの魔法少女衣装を纏ったアネッテが、まるで打ち捨てられた人形のように力なく横たわっていた。

彼女の栗色の髪は汗と埃で汚れ、その表情は苦悶に歪んでいる。

胸元で弱々しく明滅するソウルジェムは、もはや限界に近いほど黒く濁りきっていた。

しかし、魔女化の兆候は見られない。

 

「アネッテ…!」

 

ほむらがアネッテの元へ駆け寄ろうとした瞬間、彼女の体がピリピリとした奇妙な感覚に包まれた。

アネッテの体から、微弱ながらも断続的に何かが放たれている。周囲の金属片がカタカタと微かに震え、空気中にはオゾンのような匂いが立ち込めていた。

この現象は、ほむらにとって見覚えのあるものだった。初めてアネッテが魔女化を回避した、あの廃工場での出来事。

 

「これは…まずいわ…!」

 

ほむらの表情が険しくなる。

 

「アネッテちゃん!!しっかりして!」

まどかが、泣きそうな顔でアネッテに駆け寄った。

彼女の小さな手が、アネッテの冷たくなった頬に触れる。

「アネッテちゃん!お願い、目を開けて…!」

 

しかし、アネッテの瞳は固く閉じられたまま、何の反応も示さない。

ただ、浅く不規則な呼吸だけが、彼女がまだ生きていることをかろうじて示していた。

 

「ソウルジェムの濁りが限界よ!それに、この奇妙な空気の震えは何…!?」

マミがアネッテのソウルジェムの状態と、周囲に広がり始めた異常な気配に気づき、鋭い声で叫んだ。

 

「...っ!いけない!」

 

ほむらが叫んだ。その声には、かつてないほどの切迫感が込められていた。

 

「アネッテの体が、強力なエネルギーを放出しようとしている…!以前、彼女が魔女化を回避した時と同じ現象よ!このままでは、この一帯全て破壊されるか、もっと悪いことが起きるかもしれない!」

 

ほむらは、以前アネッテから聞いた「電磁パルス」という言葉を思い出し、その危険性を直感的に理解していた。アネッテの科学知識がなければ正確な現象は理解できないが、それが極めて危険なものであることだけは確かだった。

 

「早く安全な場所へ運んで、ソウルジェムを浄化しないと…!このエネルギー放出が本格的に始まる前に!」

 

マミが即座に状況を判断し、指示を出す。

 

マミの指示に、魔法少女たちは一斉に動き出す。

この絶望的な状況下でも、彼女たちの間には、仲間を救うという一点において、揺るぎない結束が生まれていた。

アネッテの運命は、そして魔法少女たちの未来は、果たしてどうなるのだろうか。

廃工場に差し込む夕陽の最後の光が、彼女たちの悲壮な決意を照らし出していた。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。