アネッテと希望の方程式   作:革新的甲殻類

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2-15「孤独な魂」

 

 

 

夜明けの気配が、まだ厚い雲の向こう側で微かに蠢動している。

見滝原の街は深い眠りに包まれ、時折遠くを走り去る車の音だけが、その静寂をわずかに乱す。

巴マミのアパートメントの一室。借り受けた客間の簡素なベッドの上で、蒼春アネッテは、まるで水底から浮上するように、ゆっくりと意識を取り戻した。

 

しかし、その目覚めは、いつものような爽快さとは程遠いものだった。

瞼は鉛のように重く、思考は濃い霧の中に閉ざされているかのようだ。

アルゴニアの精神攻撃――「科学は無力」「お前の力では誰も救えない」――その言葉の残響は、悪夢となって彼女の精神を苛み続け、今もなお、冷たい呪縛のようにアネッテの心を捉えて離さなかった。

 

彼女の表情からは、かつての快活な輝きは完全に失われ、代わりに深い疲労と、魂が摩耗しきったかのような虚脱感が色濃く浮かんでいた。

目の下には、眠れぬ夜を物語る隈がくっきりと刻まれ、頬は痛々しいほどにこけている。

そして、その深緑色の瞳。

かつて知的な探究心と、未来への希望に満ちていたはずのその瞳は、今は光を失い、まるで底なしの深淵を覗き込んでいるかのように、ただ虚ろに宙を見つめていた。

 

音もなく、アネッテはベッドから抜け出した。

その動きは、まるで意思のない人形か、あるいは夢の中を歩む夢遊病者のように覚束ない。

冷たいフローリングの感触が素足に伝わるが、彼女の意識はそれを捉えていないようだった。

彼女の心は、現実と悪夢の境界線を曖昧に彷徨い、脳裏には、あの雨の日の光景が、まるで壊れた映写機のように、繰り返し、繰り返し再生され続けていた。

 

雨に打たれる横断歩道。

アスファルトに広がる、赤黒い染み。

親友マリエの、徐々に冷たくなっていく手の感触。

そして、自分の無力さを嘲笑うかのような、救急車のサイレンの音。

 

「私の科学が…マリエを救えなかった…」

 

絶望的な思考が、アルゴニアの言葉と重なり合い、アネッテの心を支配する。

それは、もはや論理的な思考ではなく、ただひたすらに自己を否定し、存在意義を抹消しようとする、暗く冷たい衝動。

その衝動に導かれるように、アネッテの足は、無意識のうちに、リビングを抜け、ベランダへと向かっていた。

彼女のソウルジェムは、胸元でか細く明滅しているが、その光は弱々しく、主の心の闇を映し出しているかのようだった。

 

 

 

―――

 

 

 

夜明け前の冷たい風が、アネッテの栗色の髪を乱暴に撫でつけた。

ベランダの手すりに両手をつき、彼女は吸い込まれるように、眼下に広がるまだ眠りから覚めやらぬ見滝原の街を見下ろす。

街の灯りは、遠くでぼんやりと滲み、まるで現実感を失った風景画のようだった。

虚無。

それが、今の彼女の心を占める唯一の感情だったのかもしれない。

 

「私なんて…いなければ…」

 

アルゴニアの言葉と、マリエを救えなかったという自己否定の念が完全に共鳴し、アネッテの中で一つの結論を形作る。

それは、自らの存在をこの世界から消し去ること。

そうすれば、もう誰も傷つけることも、誰かを危険に晒すこともない。

科学の無力さを嘆くことも、守れなかった後悔に苛まれることもない。

 

まるで何かに操られるように、アネッテはゆっくりと、しかし躊躇うことなく、ベランダの手すりを乗り越えようとする。

その動きは、あまりにも自然で、まるでそれが長年待ち望んでいた解放であるかのように、静かで、そして穏やかですらあった。

片足が手すりの向こう側へと踏み出され、彼女の体重が、わずかに前へと傾く。

あと一歩。

あと一歩で、全ての苦しみから解放される――。

 

 

 

その、まさに刹那だった。

 

 

 

―――

 

 

 

 

同じ頃、リビングのソファで浅い、そして悪夢に満ちた眠りについていた佐倉杏子は、言いようのない胸騒ぎと、喉を締め付けるような息苦しさで、弾かれたように目を覚ました。

額には脂汗が滲み、心臓が警鐘のように激しく鼓動している。

ほむらの衝撃的な告白。仲間たちの動揺と決意。そして何よりも、アネッテの、あの虚ろで、まるで魂の抜け殻のようになった姿。

それらが、杏子の心の中で混沌とした渦を巻き、彼女の眠りを浅く、そして断続的なものにしていた。

 

(…チッ、こんなところでグズグズしてられるかよ…食い扶持は、自分で稼がねえと、誰も恵んでくれやしねえんだ…!)

 

杏子は、苛立ちを隠せない様子で舌打ちをすると、ソファから音もなく立ち上がった。

ほむらの話を聞いて、この世界の異常さと、キュゥべえという存在の底知れない悪意を改めて認識した。

ワルプルギスの夜という、途方もない脅威も迫っている。

こんな「おままごとみたいなチームごっこ」に付き合っている暇など、彼女にはなかった。

単独で行動し、グリーフシードを確保し、そして生き残る。

それが、彼女がこれまで貫いてきた、唯一の信条だった。

 

音を立てずにリビングを横切り、玄関のドアノブに手をかけようとした、その瞬間。

ベランダの窓ガラスに映る、人影。

月明かりもおぼろな薄闇の中、そのシルエットは、まるで欄干から身を乗り出すかのように、危険なほど前傾していた。

 

(…あいつ…!?)

 

杏子の赤い瞳が、驚愕に見開かれた。

それは、紛れもなく蒼春アネッテの姿だった。

彼女の虚ろな瞳、生気のない表情、そして何よりも、その明らかに常軌を逸した行動。

それが意味するものを、杏子は瞬時に理解した。

 

「おい、馬鹿!何やってんだ、てめぇ!!死にてえのか!?」

 

杏子の口から、普段の彼女からは想像もできないほどの、切迫した叫び声が迸った。

その声には、驚きと怒り、そして、彼女自身も気づいていない、わずかながらの動揺と…焦りが混じっていた。

理屈ではない。本能が叫んでいた。

このままアネッテを死なせてはいけない、と。

それは、彼女が「魔女化しない」という利用価値のある存在だから、という打算だけでは説明できない、もっと根源的な感情の突き上げだった。

 

杏子は、考えるよりも早く、リビングを横切り、ベランダへと駆け込んでいた。

そして、まさにアネッテの体が手すりの向こう側へと完全に傾き、夜の闇へと吸い込まれようとしたその寸前、杏子の伸ばした手が、アネッテの細い腕を力強く掴み、渾身の力で内側へと引き戻した。

 

勢い余って、二人はもつれ合うようにしてベランダの床に倒れ込む。

アネッテの体は、驚くほど軽く、そして冷たかった。

まるで、本当に魂が抜け落ちてしまったかのように。

 

「…離して…」

 

アネッテの唇から、か細い声が漏れた。

その瞳は、依然として虚ろなまま、杏子の顔を映してはいない。

 

「ふざけんじゃねえぞ、このアマ…!」

杏子は、アネッテの胸ぐらを掴み、無理やりその顔を自分の方へと向けさせた。

「てめぇ、本気で死ぬつもりだったのか!?魔女にやられるならまだしも、自分で勝手に死のうなんざ、魔法少女の風上にも置けねえぞ!」

その赤い瞳には、激しい怒りと、そして理解し難いものへの戸惑いが燃え盛っていた。

アネッテという存在は、杏子がこれまで出会ってきたどの魔法少女とも異なっていた。

その強さも、その脆さも、そして今、目の前で見せているこの絶望の深さも。

それが、杏子の心をどうしようもなく揺さぶっていた。

 

 

 

―――

 

 

 

 

ベランダの冷たい床に荒々しく引き戻されたアネッテは、しかし、抵抗するでもなく、人形のようにされるがままだった。

力なく投げ出された手足、焦点の合わない虚ろな瞳。

その瞳は、目の前で自分を見下ろす佐倉杏子の、怒りに燃える赤い瞳を映してはいるものの、その存在を認識しているようには到底見えなかった。

 

「…離して…」

 

アネッテの唇から、か細く、そして感情の温度を全く感じさせない声が漏れた。

まるで、遠いどこか別の世界から響いてくるような、現実感のない声だった。

 

「ふざけんじゃねえぞ、このアマ…!」

 

杏子は、アネッテの胸ぐらを掴み、その華奢な体を無理やり自分の方へと向けさせた。

アネッテの栗色の髪が乱れ、白い頬にかかる。その下で、深緑色の瞳は依然として虚無を映しているだけだった。

 

「てめぇ、本気で死ぬつもりだったのか!?魔女にやられるならまだしも、自分で勝手に死のうなんざ、魔法少女の風上にも置けねえぞ!それでも、あのデカブツ魔女ども相手に啖呵切った、あの蒼春アネッテかよ!?」

 

杏子の言葉は荒々しく、その赤い瞳には激しい怒りが燃え盛っていた。

しかし、その怒りの奥底には、アネッテという存在への理解し難い戸惑いと、そして彼女自身も気づいていない、見捨てられたような焦燥感が渦巻いていた。

アネッテの「魔女化しない」という特異性は、杏子にとって、このクソみたいな世界で生き残るための、一つの打算的な「保険」になり得るかもしれないと、心のどこかで期待していたからだ。

その期待が、今、目の前で音を立てて崩れ去ろうとしていた。

 

「…死ねば…楽に…なれるかもしれない…」

 

アネッテの声は、風に消え入りそうなほど弱々しかった。

彼女の視線は、杏子の肩越しに、遠い夜空の闇を見つめている。

 

「…マリエのところへ…行けるかもしれない…そうしたら…もう、苦しまなくて…済む…」

 

その言葉を聞いた瞬間、杏子の表情から怒りが消え、代わりに冷たい侮蔑の色が浮かんだ。

彼女はアネッテの胸ぐらを掴んでいた手を乱暴に離し、まるで汚物でも払うかのように、自分の手をパンパンと叩いた。

 

「へっ、魔女にちょっと頭いじられたくらいで、もうおしまいかよ。天才科学者サマも、大したことねえな。期待したあたしが馬鹿だったぜ」

 

杏子の言葉は、氷のように冷たく、そして鋭い棘を持っていた。

それは、アネッテの心の最も深い部分を抉り、そのプライドをズタズタに引き裂こうとするかのような、残酷な響きを帯びていた。

 

「死にたいなら勝手にしろ。あたしは止めねえ。だがな、そんな腑抜けたツラで死なれるのは、見てるこっちの寝覚めが悪ぃんだよ!どうせ死ぬなら、もっとマシな死に方ってもんがあるだろうが!」

 

それは、杏子なりの不器用な叱咤激励の裏返しだったのかもしれない。

あるいは、アネッテという存在に抱いていた微かな期待が裏切られたことへの、やり場のない怒りだったのかもしれない。

いずれにせよ、その辛辣な言葉は、今の精神状態のアネッテにとっては、あまりにも過酷な追い打ちだった。

 

「…そうよ…」

 

アネッテの瞳から、一筋の涙が静かに流れ落ちた。

それは、もはや悲しみという感情すら失ったかのような、ただ透明な雫だった。

 

「…私は…無力…なの…」

 

彼女の口から、止めどなく、絶望的な自己否定の言葉が溢れ出し始めた。

それは、アルゴニアの精神攻撃によって植え付けられた「科学は無力」という呪いの言葉が、彼女の魂を完全に支配してしまったかのような、痛ましい光景だった。

 

「私の科学なんて…結局、何の役にも立たなかった…マリエの時も…そして、今も…!」

「みんなを…危険に晒すだけ…私がいるから…みんなが不幸になる…!」

「私なんて…いなければ…いなければ、よかったのよ…っ!」

 

アネッテの声は次第に嗚咽に変わり、その小さな体は絶望に打ち震えていた。

かつての輝きを失った深緑色の瞳からは、大粒の涙が止めどなく流れ落ち、ベランダの冷たい床に吸い込まれていく。

その姿は、あまりにも痛々しく、あまりにも儚かった。

 

 

 

―――

 

 

 

佐倉杏子は、アネッテのあまりの変わりように、そしてその剥き出しの絶望に、言葉を失っていた。

あれほどまでに理知的で、自信に満ち溢れていた少女が、こんなにも脆く崩れ去ってしまうとは。

それは、杏子の想像を遥かに超えた光景だった。

彼女は、アネッテにかけるべき言葉を見つけられず、ただ呆然と、その場に立ち尽くすしかなかった。

一瞬の、しかし永遠にも感じられる沈黙が、二人を包み込む。

 

その、息苦しいほどの静寂を破ったのは、意外にも、アネッテ自身だった。

彼女は、涙で濡れた顔をゆっくりと上げ、虚ろだった瞳に、ほんの僅かだが、鋭い、そしてどこか冷たい光を宿らせていた。

それは、アルゴニアの精神攻撃の残滓か、あるいは彼女の奥底に眠る科学者としての分析的な視点が、極限状態の中で奇跡的に顔を覗かせたのか。

 

「…あなただって…同じでしょう…?」

 

アネッテの声は、先ほどまでの弱々しさとは打って変わり、静かだが、芯のある響きを持っていた。

その視線は、杏子の赤い瞳の奥深くを、まるでレントゲン写真でも撮るかのように、見透かそうとしていた。

 

「…怖いんでしょ…?誰かを信じることが…そして、誰かに信じてもらうことが…」

 

杏子の体が、微かに、しかし確実に硬直した。

アネッテの言葉は、まるで彼女の心の最もデリケートな部分に、冷たいメスを入れるかのように、的確に、そして容赦なく突き刺さってきた。

 

「失うことの痛みを…あなたは、誰よりも知っているはずだから…」

 

アネッテの言葉は、杏子の具体的な過去を知っているわけではなかった。

父親の狂気も、家族の悲惨な死も、彼女が知る由もない。

しかし、杏子の言動の端々から感じ取れる、他人を寄せ付けない深い孤独、人間そのものへの根源的な不信感、そして「生きること」への異常なまでの執着の裏に隠された、「失うことへの極度の恐怖」。

アネッテの精神は混濁しながらも、なお残存する科学者としての鋭敏な観察眼と洞察力は、それらを的確に感じ取っていたのだ。

 

アネッテの言葉は、杏子の心の最も奥深くに封印していた、古く、そして決して癒えることのない傷口を、無慈悲に抉り開けた。

父親の、あの狂気に満ちた怒声。

 

『この忌まわしい魔女め!お前のせいで!』

 

母親と幼い妹の、恐怖に歪んだ最後の顔。

燃え盛る教会の炎の熱さと、充満する血の匂い。

そして、自分だけが生き残ってしまったという、消えることのない罪悪感と、世界への絶望。

 

それら全てが、鮮明な悪夢となって、杏子の脳裏に蘇る。

 

杏子の表情から、急速に血の気が引いていった。

その体は、まるで極寒の地に放り出されたかのように、激しく震え始める。

赤い瞳には、過去のトラウマが呼び起こした、純粋な恐怖と、言葉にならないほどの深い悲しみが渦巻いていた。

呼吸が浅くなり、心臓が氷の刃で突き刺されたかのように激しく痛む。

 

(こいつ…なんで…!?なんで、あたしのことを…!?)

 

アネッテは、そんな杏子の激しい動揺を見つめながら、どこか遠い目で言葉を続けた。

その声は、もはやアネッテ自身の意識から発せられているのか、あるいはアルゴニアの精神攻撃の残滓が、彼女の口を借りて語らせているのか、判然としなかった。

しかし、その言葉は、紛れもなく、アネッテ自身の魂の奥底にある「喪失の痛み」と共鳴していた。

 

「…私も…同じだから…わかるの…」

「大切な人を…自分の力のせいで…あるいは、自分の無力さのせいで…失ってしまうかもしれない恐怖…」

「そして…もう誰も信じられなくなる気持ち…世界中が敵に見えて…自分だけが、たった一人で戦っているような…そんな絶望感…」

 

アネッテの瞳からも、再び大粒の涙が溢れ出した。

それは、マリエを失ったあの雨の日の後悔。

自分の科学への絶対的な信頼が揺らぎ、「科学は無力なのかもしれない」という、科学者としての彼女にとって最も受け入れ難い恐怖。

そして、大切な仲間たちを、自分のせいで危険に晒してしまったかもしれないという、自己嫌悪。

それらが、アルゴニアの精神攻撃によって増幅され、彼女の心の奥底から噴き出してきたかのようだった。

 

これまで、利己主義と虚勢という分厚い鎧で心を固めていた佐倉杏子の壁が、アネッテの、あまりにも純粋で、あまりにも痛切な魂の共鳴によって、ついに音を立てて崩壊を始めた。

 

「…うるせえ…」

 

杏子の唇から、か細い声が漏れた。

 

「…うるせえんだよ…っ!」

 

それは、もはや怒りの声ではなかった。

抑えきれないほどの悲しみと、誰にも理解されない孤独、そして救いを求める魂の叫びだった。

 

「てめえに…!てめえなんかに、あたしの何がわかるってんだ…!!」

 

杏子は、アネッテに掴みかかろうとした。

しかし、その伸ばした手は力なく震え、アネッテの肩に触れることもできずに、だらりと垂れ下がる。

そして、彼女は、まるで糸が切れた操り人形のように、その場に崩れるように膝をついた。

赤いポニーテールが乱れ、その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。

それは、風見野の「食うこと」に執着する孤高の魔法少女、佐倉杏子の、誰にも見せたことのない、あまりにも脆く、あまりにも人間的な姿だった。

 

 

 

―――

 

 

 

ベランダの冷たい床に蹲り、佐倉杏子は声を殺して泣きじゃくっていた。

その背中は小さく震え、赤いポニーテールは力なく垂れ下がり、床に散らばる涙の雫が、夜明け前の微かな光を反射してきらめいていた。

これまでの人生で、彼女がこれほどまでに感情を剥き出しにし、涙を流したことがあっただろうか。

父親の狂気、家族の死、そして生き残ってしまった自分への呪い。

それら全てを、彼女はたった一人で、心の奥底に封印し続けてきたのだ。

しかし今、アネッテという、自分と同じ「喪失の痛み」を知る存在の前で、その固く閉ざされていた心の扉が、ついに決壊したかのように開かれてしまった。

 

蒼春アネッテは、依然として虚ろな瞳のまま、しかし、その杏子の嗚咽を聞き、彼女の震える背中を見つめているうちに、ほんのわずかだが、人間的な感情がその心に甦り始めていた。

それは、アルゴニアの精神攻撃によって麻痺させられていた共感能力が、杏子の剥き出しの絶望に触れることで、辛うじて覚醒し始めた証だったのかもしれない。

アネッテは、まるで壊れ物を扱うかのように、ゆっくりと、そしておぼつかない足取りで杏子のそばに近づき、その隣にそっと膝をついた。

彼女自身の瞳からも、再び大粒の涙が溢れ出し、白い頬を伝っていく。

 

「…アネッテ…」

 

杏子の声は、嗚咽に途切れ途切れになりながらも、かろうじて言葉の形を成していた。

 

「…あんたも…そうなのか…?大事なモンを…守れなかったのか…?」

 

彼女は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、アネッテの虚ろな瞳を、まるで救いを求めるかのように見つめた。

 

「あの時…あたしは…何もできなかった…ただ、見てるだけだったんだ…!親父が…お袋と…モモが…目の前で…!」

 

杏子の口から、これまで誰にも語ることのなかった、地獄のような過去の断片が、堰を切ったように溢れ出す。

その言葉の一つ一つが、彼女の魂を引き裂くような痛みを伴っていた。

 

「…うん……」

 

アネッテの声もまた、涙で震えていた。

彼女の脳裏には、雨に打たれるマリエの、徐々に冷たくなっていく体温が、今もなお鮮明に焼き付いている。

 

「…マリエを…私のせいで…救えなかった…」

 

「私の力が…私の科学が…あと少し…ほんの少しでも、足りていれば…マリエは…死なずに済んだかもしれないのに…!」

 

アネッテの瞳からも、後悔と自責の念に満ちた涙が、止めどなく溢れ出した。

それは、科学者としてのプライドも、魔法少女としての強がりも全て剥ぎ取られた、ただの傷ついた一人の少女の、痛切な魂の叫びだった。

 

夜明け前の冷たい空気の中で、二人の魔法少女は、互いの絶望と後悔を、言葉にならない涙と共に分かち合っていた。

同じ「喪失の痛み」を知る者同士。

同じ「守れなかった後悔」を抱える者同士。

その魂の奥底で、二つの孤独な魂は、初めて静かに、そして深く触れ合った。

 

杏子は、アネッテの涙を見て、そしてその言葉を聞いて、自分の中の何かがわずかに変化していくのを感じていた。

この少女もまた、自分と同じように、どうしようもない絶望と戦っているのだ。

しかし、彼女は諦めていない。

科学という、自分には到底理解できない力で、それでも何かを変えようと足掻いている。

その姿は、どこか滑稽で、どこか痛々しく、そして…どこか眩しかった。

自分とは違う種類の強さ。

絶望の淵に立たされながらも、なお解決策を探ろうとする、科学者としての執念。

そして、その奥に隠された、自分と同じ、失った者への深い愛情と、二度と過ちを繰り返したくないという、切実なまでの願い。

 

アネッテもまた、杏子の剥き出しの感情に触れることで、自分の中の何かが変わり始めているのを感じていた。

杏子の荒々しい言動の裏に隠された、深い悲しみと、それでもなお「生きたい」と渇望する、剥き出しの魂の強さ。

それは、論理や計算では測れない、人間の生命力そのものだった。

科学だけでは説明できない、もっと根源的な何か。

その力強さに、アネッテは畏敬の念すら抱いていた。

 

「…なあ、アネッテ…」

 

どれほどの時間が経ったのだろうか。

杏子は、ようやく嗚咽を抑え、涙で濡れた顔を上げた。

その赤い瞳は、腫れ上がり、充血していたが、その奥には、先ほどまでの絶望とは異なる、何か新しい光が微かに宿り始めていた。

彼女は、アネッテの深緑色の瞳を、じっと、そして真剣に見つめた。

 

「…もし…もし、このクソみてえな地獄を、あたしたちが生き延びることができたら…そん時は…」

 

杏子の声は、まだ震えていたが、そこには確かな意志の力が込められていた。

 

「…そん時は、あたしにも教えてくれよ…あんたのその…諦めねえ科学ってやつをさ…」

 

「どうやったら…どうやったら、あんたみたいに…そんな風に、何かを信じ続けられるんだ…?」

 

「あたしにはもう…信じられるもんなんて、何一つ残ってねえんだよ…」

 

その言葉は、杏子の魂の奥底からの、切実な問いかけだった。

利己主義と虚勢の鎧を脱ぎ捨てた、剥き出しの本音。

彼女は、アネッテの中に、自分が失ってしまった「何か」を見ているのかもしれない。

あるいは、これから自分が掴み取りたいと願う、「何か」を。

 

杏子の真摯な問いかけに、アネッテの虚ろだった瞳に、ほんの一瞬、しかし確かな理性の光が戻った。

それは、まるで深い霧の切れ間から差し込む、一筋の陽光のようだった。

彼女の脳裏で、アルゴニアの精神攻撃によって破壊されかけていた論理回路が、かろうじて再接続されようとしていた。

 

「…うん……」

 

アネッテの声は、まだ弱々しく、途切れ途切れだったが、そこにはほんの僅かな、しかし確かな意志の力が感じられた。

 

「…約束…する……」

 

彼女は、杏子の赤い瞳をじっと見つめ返した。

その深緑色の瞳の奥で、消えかけていた科学者としての魂の炎が、再び小さく、しかし力強く燃え上がろうとしていた。

 

「でも…それは…科学だけじゃない…きっと……」

 

「信じるっていうのは…理屈じゃなくて…もっと…心の問題…だから……」

 

アネッテの言葉は、まだ断片的で、論理的ではなかったかもしれない。

しかし、その言葉には、彼女自身が今まさに掴みかけている、新たな真実の欠片が込められていた。

科学だけでは説明できない、人間の心の力。希望の力。そして、仲間との絆の力。

 

二人の魔法少女の間に交わされた、か細い、しかし確かな約束。

それは、杏子の凍てついた心に、「誰かを信じる」という、忘れかけていた感情の小さな芽生えをもたらした。

そして、アネッテの絶望に沈んだ心には、「自分の科学は無力ではないのかもしれない」「自分は一人ではない」という、ほんの僅かな、しかし確かな希望の光を灯した。

 

窓の外が、ゆっくりと白み始めていた。

夜の闇が後退し、東の空が淡い紫色から、徐々にオレンジ色へとその表情を変えていく。

夜明けの気配が、静かに、しかし確実に、見滝原の街を包み込もうとしていた。

 

アネッテの胸元で輝くエメラルドグリーンのソウルジェム。

その輝きが、ほんの少しだけ、力を取り戻したように見えた。

それは、絶望の淵から立ち上がろうとする、彼女の魂の再生への、小さな、しかし確かな一歩だったのかもしれない。

 

孤独だった二つの魂が、夜明け前の最も深い闇の中で、ほんのわずかに触れ合い、そして、互いの存在を照らし合う、小さな灯火となった。

その灯火は、まだあまりにも小さく、そして脆い。

しかし、それは確かに、新たな物語の始まりを告げる、希望の光だった。

 

 

 

 




ちょっと家庭の事情で忙しくなるので、しばらく更新出来ないかもしれません。
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