ヒュースは自分の目的を果たすため、三雲修や村上鋼の協力を得ながらボーダー隊員としての功績を上げる
そんな中、混成部隊をサポートする優秀なオペレーター、今結花と任務行動を共にすることに、そこでヒュースの天然が炸裂する
今先輩の名言「イライラさせられるわ・・・」が飛び出すまで読んでください
遠征艇内の会議室。忍田本部長が隊員たちを見据え、重々しく口を開く。
「今回の潜入偵察任務だが、アフトクラトルの内部に潜入し、先の大規模遠征で拉致されたC級隊員の消息を掴むことが目的だ。選抜するのは村上、絵馬、そしてオペレーターとして今を指名する」
視線を三人に向け、忍田は続ける。
「アフトクラトルの内部は複雑で危険だ。お前たちの実力と判断力を信頼しての抜擢だ。異論はないな?」
村上が静かに頷き、絵馬が小さく「はい」と応じ、今が通信機を軽く叩きながら「了解しました」と返す。
その時、ヒュースが一歩前に出て口を開く。
「俺も同行する。奴らがトリオン能力者を収監しておく場所には心当たりがある。俺なら案内ができる」
会議室に一瞬の静寂が広がる。忍田の眉がわずかに上がり、鋭い視線がヒュースを捉える。
「……お前が名乗り出るのか、ヒュース。アフトクラトルの出身者であるお前がその役割を担うとなれば、裏切りのリスクがつきまとう。それをどう弁明する?」
ヒュースは表情を変えず、淡々と答える。
「弁明はしない。俺が案内すれば任務の成功率が上がる。それが事実だ。ボーダーの目的と俺の目的が一致する間は協力する。それだけだ」
彼の内心には別の思惑が潜んでいる。アフトクラトルの内部へ潜入することで、主君であるエリン家の現状を探る機会を得たい。それがヒュースの真の狙いだった。ただし、今はその意図を明かす必要はない。ボーダーを利用しつつ、彼らに利用される関係を維持できれば十分だ。
忍田の表情が硬くなる。
「気持ちや信頼の問題ではない。状況次第では、ヒュース、お前が敵に寝返る可能性を排除できない。俺はこの任務に隊員の命を預かっているんだ」
その言葉に、村上が静かに挙手し、口を開く。
「本部長。ヒュースの知識は確かに貴重です。アフトクラトルの内部構造や収監場所を熟知している彼がいれば、俺たちの動きに無駄が減る。リスクはありますが、彼を同行させるメリットの方が大きいと判断します。俺が責任を持って監視します」
忍田は村上の落ち着いた眼差しを見つめ、しばらく黙考する。
「……村上。お前がそこまで言うなら、いいだろう。だが、ヒュース、一度でも妙な動きを見せたら容赦はしない。それを肝に銘じておけ」
ヒュースは軽く首を振って返す。
「了解した。無駄な動きはしない。」
忍田が深く息をつき、全員を見渡す。
「では、これで決定だ。村上、絵馬、今、そしてヒュース。準備を整え、潜入に備えろ。」
遠征艇の出撃控室で、村上、絵馬、ヒュースが装備を整えている。
その時、二宮が絵馬に近づき、静かに声をかける。
「絵馬」
遠征選抜試験で腹を割って話した二人の間には、ぎこちないながらも小さな信頼関係が生まれていた。二宮の言葉は短いが、その眼差しに込められた意図を絵馬は理解している。
「わかってるよ」
絵馬が小さく頷くと、二宮はそれ以上何も言わず立ち去る。それだけで十分だった。二人の想いは一致していた――かつて二宮隊のスナイパーだった鳩原未来の情報を、この潜入で探り出すこと。お互いに確認するまでもない暗黙の了解だ。
絵馬は少し離れた場所で雨取に近づき、静かに話しかける。
「雨取さん」
彼の声は控えめだが、確かな意志が込められている。
「お兄さん、雨取麟児さんだっけ? 彼についても、頑張って調べてくるから、待ってて」
雨取は一瞬目を丸くし、すぐに強く頷く。言葉はないが、その瞳に感謝と期待が宿っていた。
「鋼くん、絵馬くん、位置情報は私が逐一確認するよ。ヒュースくんも、私がしっかり監視してるから、何かあったらすぐ教えてね」
村上が落ち着いた声で応じる。
「了解した。今、頼む」
絵馬もスコープを覗き込みながら短く返す。
「了解」
ヒュースが無表情で割り込む。
「ムラカミ、絵馬、ユカ。準備が済んだらすぐに出る。時間は無駄にしない」
「ユカ」と呼ばれた瞬間、今の心臓が小さく跳ねる。ドキっとした彼女は通信機を握る手に少し力を入れ、慌てて平静を装う。
「う、うん、ヒュースくん、了解だよ! すぐ準備整えるから!」
アフトクラトルの内部に足を踏み入れた村上、絵馬、ヒュース、そして今結花は、それぞれバッグワームを起動する。トリオンが薄いマントのように広がり、彼らの姿を隠すそのデザインは、どこか旅人を思わせるものだった。異国の石造りの建築や、遠くで響く喧騒と相まって、アフトクラトルの風景に不思議と溶け込んでいる。
四人は物陰を縫うように静かに進む。今が手に持つ情報端末を操作しながら、小声で状況を伝える。
「鋼くん、絵馬くん、ヒュースくん、トリオン反応は今のところ異常なし。街の中心部に近づいてるよ」
彼女の端末には地図データや通信ログが映し出され、現場での情報支援を担っている。
絵馬が周囲を見回し、率直な感想を漏らす。
「ファンタジー…というか、RPGの街の中みたいだ。思ったより賑わってるんだな」
ヒュースが無表情で周囲を警戒しながら、低い声で解説する。
「ここの領主は比較的力が強い。辺境に行けば行くほど治安は悪くなる。ムラカミ、絵馬、ユカ、ここではまだ秩序が保たれてるが油断するな」
ヒュースはさらに続ける。
「もっとも、現在はアフトクラトル全体が非常事態のようなものだ。何が起きるかわからん。気をつけろ」
村上が鋭い目つきで頷く。
「了解」
絵馬もわずかに姿勢を正し、短く応じる。
「了解」
今も端末を見ながら小さく呟く。
「了解…(太一と違ってみんな大人しくて楽だなぁ)」
四人は互いに軽く視線を交わし、賑わう街の奥へと進んでいった。
夜が深まり、アフトクラトルの市街地郊外に位置する打ち捨てられた空き家に、四人は身を寄せていた。崩れかけた壁と埃っぽい空気が漂う中、村上、絵馬、ヒュース、そして今は一日の探索を終え、手に入れた情報を整理する。
村上が低い声で切り出した。
「思ったよりちゃんとした収穫があったな…」
彼の手には簡単なメモが握られている。今日、市街地を慎重に探索して得た情報は以下の通りだ。
市街地から南に1キロほど進んだ場所にトリオン変換所がある。玄界でいう発電所のような施設だ。
そこでは街の若者が数年間、交代で強制労働を課されている。
ただ、ここ最近、街から徴収される人数が減ったらしい。
噂では、他所から労働力が連れてこられたためだという。
ヒュースが壁に背を預け、無表情で分析を加える。
「前回の侵攻でさらった人間がいると見て間違いないだろう。ムラカミ、絵馬、ユカ、このトリオン変換所にボーダーの隊員が収監されてる可能性は高い。もっとも、こういう施設は他にもある。全員がそこにいるわけではないだろうが…」
彼の言葉には確信と冷静さが混じる。
絵馬が床に座り込み、軽い調子で応じる。
「数人でも連れ戻せれば大収穫でしょ」
口ではそう言いつつ、彼の内心は少し異なる。(鳩原先輩の情報はなし、か…そんなに上手い具合にはいかないよな)。
今が情報端末を操作しながら、横から口を挟む。
「鋼くんが言う通り、南に1キロなら明日には行けるね。ヒュースくんの話だと他にも施設があるみたいだけど、とりあえずここから始めようか」
彼女の手元の画面には、今日の移動経路とトリオン反応の記録が映し出されている。
村上が顎に手を当て、静かに考える。
「トリオン変換所か…。明日には確認できる。最初の足がかりにしよう」
四人は互いに視線を交わし、短い休息を取る準備を始めた。
その時、今が端末の通信機能を起動し、小声で報告を入れる。
「忍田本部長、今結花です。潜入1日目の報告です。市街地から南1キロにトリオン変換所を確認、収監者の可能性ありと判断しました。明日、現地に向かいます。異常は今のところなし。以上です」
通信の向こうから、忍田の落ち着いた声が短く返ってくる。
「了解した。引き続き慎重に進め」
今が小さく頷き、端末を仕舞う。夜の静寂の中、潜入任務はまだ始まったばかりだった。
翌朝、村上、絵馬、ヒュース、今結花の4人は、南に位置するトリオン変換所を目指して歩いていた。昨夜の分析を基に、忍田本部長が判断を下していた――件の施設の規模はそれほど大きくなく、この4人であれば奪還任務は可能だろう、と。ただし、事を荒立てず、玄界人の集団脱走と見せかけるため、少数精鋭での作戦行動が求められている。
朝の薄光の中、4人はバッグワームを起動したまま静かに進む。今が情報端末を手に持つ一方で、軽くスキップしながら口を開く。
「試験の時も思ったけど、トリオン体って便利ね。全然疲れないもの」
その明るい声と動きは、任務の緊張感とは裏腹にどこか軽快だ。
村上がその様子を見て、苦笑しながら言う。
「珍しいな 今、お前がそんなにはしゃぐなんて」
普段は冷静にオペレーターを務める彼女が、こんな風に弾む姿は確かに新鮮だった。
今はスキップを止めず、笑顔で返す。
「だってこれで外歩き回るなんて初めてだもん。皆だってそうでしょ? ランク戦や試験とは話が違うんだから」
確かに、トリオン体での戦闘や訓練は慣れていても、異国の地をこうして探索するのは誰もが初体験だ。
そんな今を、ヒュースが歩きながらじっと見つめている。その視線に気づいた今が、首をかしげて問う。
「どうしたの、ヒュースくん?」
ヒュースは立ち止まり、今をさらにまじまじと見つめると、淡々と言った。
「ユカ…お前の身体、胴回りが細くなっていないか?」
その一言に、村上と絵馬が同時に固まる。空気が一瞬にして凍りついた。
「なっ…」
今がわなわなと震えながら声を漏らす。彼女の反応が全てを物語っていた――図星である。
実は、生身の身体では「やや寸胴」な今は、トリオン体を少し調整し、絶妙なくびれを手に入れていたのだ。その秘密を、ヒュースの鋭い観察眼があっさり暴いてしまった。
村上が咳払いをして目を逸らし、絵馬が微妙に口元を引きつらせながら前を向く。今は顔を赤らめ、慌てて弁解しようとするが、言葉がうまく出てこない。
「ち、違うよ! これは…その…!」
今は叫びながら、(な、なんでわかったの!? ほんとに絶妙なラインを狙っていじったのに!?)と、キッとヒュースを睨みつける。トリオン体でこっそり調整した自慢のくびれが、こんな形でバレるとは思ってもみなかった。
だが、その視線の意図がわからないヒュースは、淡々と続ける。
「アフトクラトルでは生身のユカくらいの体型が1番好ましいとされている。だからあえて細くしているのに違和感があった。何か理由があるのか?」
彼の声はいつものように無機質で、まるで戦術分析でもするかのような調子だ。
正気に戻った絵馬は内心で突っ込む。(淡々と何を聞いてるんだこいつは…)。ヒュースの天然っぷりに呆れつつも、状況の妙な空気に言葉を失う。
村上が少し困った顔で口を挟もうとする。
「ヒュース…それは…」
だが、今が即座に遮る。
「鋼くん、余計なこと言わないで」
その迫力に、村上は「……」と口を閉ざし、静かに目を逸らす。
今は顔を赤くしながら、意を決してヒュースに問いかける。
「つ、つまりヒュースくんも、生身の私の体型がいいと思ってるの?」
声が少し震えているが、視線はしっかりとヒュースを捉えている。
ヒュースはあくまで淡々と、今を真っ直ぐ見据えて返す。
「俺の見たところボーダーで1番見た目が整っているのはユカ、お前だと思っている」
その瞬間、村上と絵馬、そして今までもが再度固まる。空気が一気に重くなり、誰もが次の言葉を待つように沈黙した。
だが、今が突然声を張り上げてその場を切り裂く。
「~~~っ! さ、さぁC級の子達を救いに行くわよ!」
顔を真っ赤にした彼女は、さっさと歩き出し、トリオン変換所へと向かう足を早めた。
村上が小さく息をつき、絵馬が苦笑しながら首を振る中、ヒュースは特に気にした様子もなく、後ろから淡々とついていく。
遠征艇の会議室に、村上、絵馬、ヒュース、今結花の4人が集まっていた。忍田本部長が彼らの前に立ち、落ち着いた声で労いの言葉をかける。
「よくやってくれた。潜入任務は大成功だ。5人のC級隊員を騒ぎを起こさず秘密裏に奪還し、さらには別の同様の施設の情報まで持ち帰るとはな。精鋭4人の流石の戦功だ」
その言葉に、4人はそれぞれ小さく頷く。任務の緊張感から解放された安堵感が、部屋に静かに広がっていた。
村上が一歩進み出て、忍田に報告を始める。
「本部長、今回の任務でヒュースを連れて行った判断は正解でした。アフトクラトルの内部構造や状況に対する彼の知識がなければ、ここまでの成果は得られなかった。リスクを承知での同行でしたが、彼の協力が鍵でした」
忍田は目を細め、ヒュースを一瞥する。
「そうか。ヒュース、お前を信じた村上の見立てが正しかったようだな。今回の働き、認めよう」
ヒュースは無表情で軽く首を振る。
「ムラカミの判断が合理的だっただけだ。俺は自分の目的に沿って動いただけだ」
その淡々とした態度に、忍田は小さく笑みを浮かべ、次の話題に移った。
一方、遠征艇の自室に戻った今結花は、ベッドに腰掛け、モヤモヤとした気持ちを抱えていた。道中でヒュースが放ったあの爆弾発言――「俺の見たところボーダーで1番見た目が整っているのはユカ、お前だと思っている」――が、頭から離れない。
自分を真っ直ぐ見据え、淡々と(結果的に)褒めたヒュースの顔が、なぜか何度も脳裏に浮かんでくる。
(何!? あのヒュースくんがそんなこと言うなんて…! しかもあんな真剣な目で…!)
今は両手で顔を覆い、小さく唸る。トリオン体を調整したことがバレた恥ずかしさもあったが、それ以上に、ヒュースの言葉が妙に心に引っかかっていた。アフトクラトルの基準だとか関係なく、彼の口から出た「1番見た目が整っている」という評価が、彼女の中で予想外の波紋を広げている。
「~~~っ、もう! 考えない考えない! 任務成功したんだからそれでいいよね!」
そう自分に言い聞かせて立ち上がるが、どこか納得しきれていない表情のままだった。
遠征艇に戻った後、絵馬は静かに雨取千佳のもとへ向かった。任務の報告が一段落し、少し落ち着いたタイミングだ。彼女を見つけた絵馬は、申し訳なさそうに口を開く。
「雨取さん、やっぱり情報は得られなかったよ、ごめんね」
雨取麟児の消息を探る手がかりを掴めなかったことが、彼には心残りだった。
だが、雨取は穏やかな笑みを浮かべて首を振る。
「ううん、元々任務とは別の話なのに気を使ってくれて嬉しい。ありがとう」
その言葉は控えめだが、感謝の気持ちがしっかり込められている。絵馬は彼女の優しさに少しホッとしつつ、頷き返す。
二人の間には、多くを語らずとも通じ合う、静かで確かな信頼関係が感じられた。
その後、絵馬は二宮のもとへ報告に向かう。隊長室のドアを軽く叩き、入室した彼は簡潔に切り出した。
「鳩原先輩の情報はなし 中々骨が折れそうだね」
今回の潜入で、かつての二宮隊スナイパー、鳩原未来の手がかりを掴むことはできなかった。
二宮はデスクに座ったまま、いつもの無表情で応じる。
「元々雲を掴むような話ではあるからな、期待はしていない、ご苦労だった」
その言葉は冷たく聞こえるが、二宮らしい率直さがあった。絵馬は内心で苦笑する。(この人はやっぱりこういう言い方しかできない人なんだな)。
それでも、「ご苦労だった」という労いの言葉が含まれていることに気づき、(まあ、それだけ言ってくれたならマシか)と一人で納得する。
雨取との穏やかな信頼とはまた異なる、厳しさの中に隠れた二宮との絆が、そこには確かに存在していた。
遠征艇の静かな廊下で、村上鋼と三雲修が立ち話をしていた。三雲が先に口を開く。
「村上さん、ヒュースをたててくださってありがとうございました」
彼の声には感謝と共に、どこかホッとした響きがあった。
村上は誠実な眼差しで応じる。
「いや、俺は嘘は言ってない。本当のことを報告しただけだ。ヒュースには助けられたよ」
潜入任務でのヒュースの貢献は紛れもない事実であり、村上はその功績を正当に評価していた。
三雲は小さく微笑み、もう一度礼を言う。
「そうですか…それでも、本当にありがとうございます」
軽く頭を下げた後、二人は互いに頷き合い、それぞれの道へ別れた。
最初の会議の前日のこと
三雲修は玉狛第2の隊長として、そして純粋に一人の人間として、ヒュースのために「自分がそうすべきだと思った」ことを実行しようと暗躍していた。遠征が始まる前から、彼はヒュースの立場や目的を慮り、どうにかサポートできないかと考えていたのだ。
ヒュースがアフトクラトルに来た目的は、主君であるエリン家がどうなっているかを知りたいという一心だった。だが、ボーダーの隊員として遠征に参加している以上、独断行動は許されない。規律を破れば任務全体に影響を及ぼし、最悪の場合、彼自身が拘束される可能性もある。
(アフトクラトルに着いたら飛び出して行ってしまうかとも思ったけど…)
三雲は内心、そう予想していた時期もあった。だが、その予想に反して、ヒュースは驚くほど冷静だった。ある時、彼は三雲にこう説明していた。
「アフトクラトルに辿り着いた以上ボーダーからしたら俺は用済みだ。元々アフトまでのガイドとして玉狛に入り、遠征までこぎ着けたのだからな。下手な動きをしたら拘禁される可能性がある。それは避けたい」
その言葉は淡々としていて、ヒュースらしい合理性が滲んでいる。三雲は静かに耳を傾け、彼の立場を改めて理解した。
そして、ヒュースは一呼吸置いて、こう付け加えた。
「オサム、1つ頼みがある」
その真剣な眼差しに、三雲は思わず背筋を伸ばした。
三雲はヒュースの言葉を聞きながら、内心で思う。(ヒュースが僕に改まって頼み…ということは)。いつも冷静で合理的な彼が、こんな風に切り出すのは初めてだった。
ヒュースは一呼吸置き、真剣な眼差しで続ける。
「オサム、この話は以前お前が俺をチームに入れた時のようにお前に利がある訳でもないし、交換条件もない。だがお前にしか頼めない。お前ならできると思っての…相談だ」
その声にはいつもの傲岸さや計算高さはなく、純粋な信頼が滲んでいるように感じられた。
玉狛支部でヒュースを預かるようになってから、彼は常に合理的な発言しかしてこなかった。戦術や目的に沿った言葉を選び、感情をあまり表に出さない。そんなヒュースが、僕にとって見返りのない「ただの相談」を持ちかけてきたのだ。三雲の心は、その態度に熱くなっていた。
彼は迷わず応じる。
「僕がここまで来れたのは空閑と、千佳、そしてヒュース、君のおかげだ。僕がやれることなら、手伝わせてくれ」
言葉に込めた思いは、感謝と決意そのものだった。玉狛第2を支えてきた仲間への恩義、そしてヒュースへの信頼がそこにあった。
ヒュースは一瞬目を伏せ、静かに返す。
「…恩に着る」
その短い言葉は、彼にしては珍しく重みを持っていた。
三雲の脳裏に、いつか空閑遊真が言った言葉が蘇る。「あいつは真面目だからな」。その男が発した「恩に着る」という言葉の重さに、三雲の決意は固まった。ヒュースが何を頼もうとしているのかはまだ分からない。だが、それがエリン家に関することだとしても、自分にできることは全てやろうと心に誓った。
潜入任務の成功から数時間後、三雲修は忍田本部長の隊長室を訪れていた。ドアを叩き、入室を許可された彼は、緊張感を抑えつつも決意を胸に一歩踏み出す。
忍田がデスクから顔を上げ、三雲を静かに見据える。
「三雲か。何か用か?」
三雲は深呼吸し、言葉を慎重に選んで切り出した。
「本部長、ヒュースのことについてお願いがあります。彼が今回の任務で大きな成果を上げたことは、村上先輩や他の隊員からも報告があった通りです。ですが、彼にはもう一つ、個人的な目的があります」
忍田の眉がわずかに動き、興味を持った様子で身を乗り出す。
「個人的な目的? 続けろ」
「ヒュースは、アフトクラトル四大領主の一角、ベルティストン家の配下であるエリン家の現状を知りたいと考えています。彼が玉狛に入り、遠征に参加したのも、元々はそのためです。ただ、ボーダーの隊員として独断行動はできない。だからこそ、彼は提案してきました」
三雲は一瞬目を伏せ、再び忍田を見据える。
「これからもボーダーのアフトクラトルでの活動に積極的に協力する。ただし、エリン家に害を及ぼさない範囲で。その功績を認めていただければ、彼が単独でエリン家を調査に行ける許可をください、と」
忍田は腕を組み、しばらく黙考する。沈黙が重く感じられる中、彼が口を開いた。
「ヒュースが協力する、か。確かに今回の潜入任務では彼の知識と冷静さが大きな力になった。村上もその点を高く評価していたな。だが、彼がネイバーである以上、リスクは消えない。それをどうするつもりだ?」
三雲は即座に答える。
「そのリスクは僕が引き受けます。ヒュースは僕が玉狛に引き入れた隊員です。彼がボーダーのために動く限り、僕が責任を持って監視し、導きます。実際、今回の任務でも彼は自分の目的を優先せず、チームとして動いてくれました。彼を信じる価値はあると、僕は確信しています」
その言葉には、ヒュースへの信頼と、隊長としての覚悟が込められていた。
忍田は目を細め、三雲の表情をじっと観察する。やがて、低く呟く。
「村上がヒュースを推し、お前がそこまで言うなら、確かに見過ごせん戦功ではある。だが、エリン家への単独調査となると、ボーダーの活動方針との調整が必要だ。具体的な成果をどう積み上げるつもりだ?」
三雲は一歩進み出て、提案を続ける。
「今後もヒュースの知識を活かして、アフトクラトルの施設や収監者の情報をさらに集めます。僕が空閑や村上さんと連携して、彼が活躍できる場面を増やします。今回の5人奪還がその第一歩です。成果が上がれば上がるほど、彼の行動範囲を広げる正当性が得られるはずです。本部長、ヒュースは僕たちにとって切り札になり得ます。どうか、この提案を検討してください」
忍田はしばらく考え込んだ後、ゆっくりと頷く。
「……分かった。ヒュースが今後も成果を上げ続けるなら、その功績に応じて単独行動の許可を検討する。ただし、三雲、お前が責任を取ると言った言葉を忘れるな。彼が規律を破れば、お前にも相応の処分が下る。それでもいいな?」
三雲は迷わず答える。
「はい。それでも構いません。ヒュースを信じますし、僕が彼を支えます」
忍田は小さく息をつき、机に手を置く。
「なら、やってみろ。次の任務で結果を見せてもらおう」
三雲は深く頭を下げ、隊長室を後にした。ヒュースのために、そしてボーダーの未来のために、彼の決意はさらに強固なものとなっていた。
潜入任務の成功後、ヒュースは約束通りボーダーのアフトクラトル活動に献身的に協力し続けた。トリオン変換所の調査や収監者の奪還作戦で、彼の知識と冷静な判断が次々と功績を上げていく。三雲は村上先輩や空閑と連携し、ヒュースが活躍できる場面を着実にお膳立てしていた。その結果、ボーダーの遠征部隊はアフトクラトルの内部情報をさらに深く掘り下げることに成功していた。
遠征艇がエリン家の領地近くに停泊しているその日、忍田本部長からヒュースと三雲修が隊長室に呼び出された。ヒュースの単独調査が認められるならこのタイミングだろう、と三雲は内心で考えていた。部屋に入った彼は緊張の面持ちで立ち、隣のヒュースは冷淡な表情を崩さず、静かに忍田の言葉を待つ。
忍田本部長がデスクから二人を見据え、重々しく口を開く。
「ヒュース、これまでの協力、感謝する。お前のおかげで攫われたC級隊員32名を救出することができた。今回の遠征の目的はほぼ達成できたと言ってもいいだろう」
その言葉は労いと共に、遠征の成果を認めるものだった。C級隊員の奪還とアフトクラトルの情報収集――ヒュースの貢献がなければ、ここまでの成功はありえなかった。
三雲が思わず口を開きかける。
「では…」
だが、その言葉を途中で止める。忍田の言葉の意味を考えた瞬間、胸に不安がよぎった。(と、いうことは、ボーダーにとってヒュースは…もう用済みなのか?)。彼は隣に立つヒュースに目を向ける。
ヒュースは目を閉じ、静かに耳を傾けている。その表情からは何を考えているのか読み取れない。ただ、いつも通りの冷静さがそこにあった。
忍田が話を続ける。
「正直、ここまでの成果は想定していなかったのでな、ボーダー本部と協議させてもらった。結論は…ヒュースの捕虜扱いの解除だ」
三雲は目を大きく見開いた。一瞬、言葉の意味が頭に届かず、呆然と忍田を見つめる。ヒュースが捕虜ではなくなる――それは彼が玉狛に引き入れた日から抱いていた一つの願いでもあったが、こうも突然に現実となるとは思っていなかった。
ヒュースは目をゆっくりと開き、忍田を真っ直ぐ見据える。だが、その表情に変化はなく、ただ静かに次の言葉を待つ姿勢を崩さない。
隊長室に重い沈黙が流れた。忍田の「ヒュースの捕虜扱いの解除」という言葉が響き終わり、三雲もヒュースもそれぞれの思いを胸に押し黙る。
長い静寂を破ったのはヒュースだった。彼が静かに口を開く。
「それは今この場でエリン家に帰還しても問題ないという意味だな」
その声は冷たく、感情を抑えたものだったが、言葉の裏にはベルティストン家の配下であるエリン家への強い思いが隠れているようだった。
忍田は頷き、淡々と答える。
「ああ、無論その場合、ボーダーのトリガーは置いて行ってもらうことになる。あと、そうだ、これも返しておかねばな」
そう言って、彼はデスク脇の金庫に手を伸ばし、中からブレスレットのようなものを取り出した。それはヒュースが侵攻時に使っていたトリガー、「蝶の楯(ランビリス)」だ。金属的な光沢を帯びたその装備が、忍田の手の中で静かに輝く。
「迅から預かっていた。予知でこうなることが見えていたのかもな」
忍田がそう付け加えると、ヒュースの表情が一瞬歪んだ。
「チッ」
ヒュースが小さく舌打ちする。迅悠一の予知能力がまたしても自分の運命を先読みしていたことが、どうやら気に入らないらしい。彼のプライドがその音に滲んでいた。
一方、三雲は展開の急激さに頭が追いつかず、額に汗を垂らしている。捕虜扱いの解除、エリン家への帰還、ランビリスの返却――全てが一気に押し寄せ、彼の思考が混乱していた。
(ちょっと待て…どういうことだ? ヒュースが今ここで帰る? でも…それって…)
彼の視線がヒュースと忍田の間を行き来するが、言葉にする前に状況がさらに進んでしまう。
ヒュースが忍田の言葉を受け、静かに口を開く。
「少し準備が必要だ。まだ玄界に帰るまでは時間はあるのだろう?」
その声は落ち着いており、エリン家への帰還を現実として受け止めつつも、すぐには動かない慎重さが感じられた。
忍田が頷き、注意を加える。
「ああ、だがC級隊員への追っ手がかかるかもしれん。そこまで長居はできん」
遠征の目的がほぼ達成されたとはいえ、アフトクラトル側が奪還された隊員を追う可能性は否定できない。
「承知した」
ヒュースが短く答え、忍田に軽く頭を下げた。そのまま、三雲と共に隊長室を後にする。だが、最後まで三雲は口を挟むことができなかった。頭の中が整理しきれず、ただ黙ってヒュースの後ろを歩くしかなかった。
部屋を出た後、三雲はやっとの思いで声を絞り出す。
「ヒュース…」
だが、その先が続かない。祝いの気持ちと惜別の思いが胸の中で渦巻き、言葉にできない感情が彼を押し潰していた。
ヒュースとの付き合いはほんの数ヶ月。しかし、三雲にとっては本当に仲間としての時間だった。玉狛第2に引き入れ、遠征を共に戦い、時にはぶつかりながらも信頼を築いてきた。空閑や千佳もきっと同じ気持ちだろう。だが、ヒュースはどうなんだろうか。やはり彼にとって、これは目的のため、アフトクラトルに戻るための協力関係に過ぎなかったのだろうか。
そんな考えが頭を巡っていると、ヒュースが突然振り返った。そして、短く告げる。
「オサム、世話になったな」
その言葉と共に、三雲は初めて見るヒュースの表情に目を奪われた。祖国に帰れる安堵の笑顔と、その中に隠しきれない寂しさが混じる、アンバランスな顔。いつも冷淡で合理的な彼が、こんな感情を垣間見せたのは初めてだった。
その表情を見て、三雲はヒュースの気持ちを理解した。彼にとっても、この数ヶ月は単なる協力関係以上のものだったのだ。仲間としての絆が、彼の心にも確かに刻まれていた。少しホッとした気持ちが、三雲の胸に広がる。
彼は穏やかに提案する。
「空閑や、千佳にも話しに行こうか」
ヒュースが小さく頷き、二人は並んで歩き出した。別れの時が近づいているとはいえ、まだ少しだけ共有できる時間が残されていた。
遠征艇の玉狛第2隊室に、三雲修、空閑遊真、雨取千佳、そしてヒュースが集まっていた。簡素な部屋に4人が並ぶ中、ヒュースが静かに口を開く。
「忍田本部長から話があった。俺の捕虜扱いが解除され、エリン家に帰還する許可が下りた。これが別れだ」
その言葉は淡々としているが、彼の表情には微かな安堵と寂しさが混じっていた。
空閑がニヤリと笑い、軽い調子で応じる。
「良かったじゃん、目的達成、だな」
彼は笑っているが、その態度はどこかドライだ。仲間思いの空閑らしい反応ではあるが――いや、だからこそか――こういう時、彼は内心をあまり見せない。三雲はそれを横目で見ながら、遊真らしいな、と苦笑する。
対して、雨取は目を伏せ、小さな声で呟く。
「そう…そっか、ヒュースくん…これは、いいこと、なんだよね」
彼女の声は震え、あからさまに悲しそうだった。瞳に浮かぶ感情は隠しようがない。三雲はそれを見て、(やっぱり千佳も僕と同じ思いなんだろう)と胸が締め付けられる。ヒュースとの数ヶ月は、彼女にとっても大切な絆だったのだ。
ヒュースが三雲に視線を移し、静かに言う。
「オサム、玉狛支部に連絡はとれるか? 先輩…陽太郎にもあいさつをしておきたい」
陽太郎への呼び方に微かな親しみが滲む。彼にとっても、玉狛での時間は特別なものだったのだろう。
三雲は一瞬考え、少し慌てながら答える。
「あ、ああ、僕らはオペレーターの宇佐美先輩がいなくて端末がないから、鈴鳴第一の部屋に行こう。世話になった村上先輩や今先輩にも一声かけておいたほうがいいだろう」
ヒュースの別れが現実となる中、三雲は玉狛の仲間全員にきちんと挨拶させたいと思った。村上先輩や今先輩への感謝も、今回の遠征で欠かせないものだった。
ヒュースが小さく頷き、4人は隊室を出て歩き始めた。別れの瞬間が近づく中、それぞれの思いが交錯する静かな時間が流れていた。
遠征艇の廊下を、三雲、ヒュース、空閑、雨取が鈴鳴第一の部屋へ向かって歩いていた。静かな足音が響く中、ヒュースの頭にふとある名前が浮かぶ。
(ユカ…)
最初の潜入任務で同行して以来、今結花はヒュースが参加する任務に必ずついてくるようになっていた。何故かはわからない。彼女が自ら志願しているのか、鈴鳴第一の誰かの判断なのか、ヒュースには知る由もない。だが、彼はそのことに文句はなかった。いや、文句どころか、彼女の優秀さを認めざるを得なかった。情報端末を巧みに操り、的確な指示を出すその能力は、任務の成功に欠かせないものだった。
ヒュース自身、ここまでの功績を上げられたのは、彼女のサポートなしではありえないと考えていた。最初の任務でトリオン体ではしゃいでいた様子や、トリオン体のくびれを指摘した時の慌てぶりが、ふと思い出される。いつも冷静な彼にとって、彼女とのやり取りはどこか新鮮だったのかもしれない。
だが、今、端末を借りるために鈴鳴第一の部屋へ向かうということは、当然、彼女が自分がボーダーを離れることを知るところとなる。その時、ユカはどんな顔をするのだろうか。笑って送り出すのか、それとも雨取のように悲しそうな目を向けるのか。いや、もしかしたら淡々と任務報告を続けるだけかもしれない。そんな、ヒュースらしくないことを考える自分に、彼は内心で驚いていた。
胸にザワつく何かを感じ、彼は無意識に歩調を緩める。その小さな変化に気づいた三雲が振り返るが、ヒュースはすぐに表情を整え、何事もなかったかのように歩き続けた。
遠征艇内の鈴鳴第一の隊室に、三雲、ヒュース、空閑、雨取が入室した。部屋には村上鋼と今結花がおり、簡単な挨拶を交わす中、ヒュースが村上に近づく。
「ムラカミ、これまでの協力に感謝する。俺がここまで動けたのはお前の判断のおかげだ。ありがとう」
ヒュースの声は静かだが、真摯な感謝が込められていた。
村上は穏やかに頷きつつ、内心で別の考えを巡らせていた。ボーダーがヒュースの捕虜扱いを解除する思い切った判断の裏に、上層部の思惑を感じ取っていた。
(ネイバーであるヒュースの功績をもみ消し、ボーダー単独の手柄にする腹づもりか…)
だが、それは想像に過ぎない、と彼は一蹴する。今はヒュースの別れを受け止めるべき時だ。
一方、三雲が今に歩み寄り、穏やかに依頼する。
「今先輩、すみません。玉狛支部に連絡を取るために端末を借りられますか? ヒュースが…ボーダーを離れることになって」
その言葉を聞いた今は、一瞬、目を丸くする。衝撃が彼女の胸を突き刺した。だが、すぐに表情を整え、冷静に頷く。
「うん、分かった。すぐ回線を開くよ」
彼女はデスクに向かい、情報端末を操作し始める。その手つきは淀みないが、心の中は抑えきれぬ波で揺れていた。
ヒュースがデスクに座ろうと近づき、今が作業を終えて立ち上がる。その瞬間、二人の視線が交差した。今の端正な顔が、一瞬だけ歪む。感情が溢れそうになり、それを隠しきれなかった彼女は、慌てて部屋を出ていく。
ヒュースはその背中を見ながら、(ユカ…)と一瞬気にかける。だが、まずは陽太郎ら玉狛の面々に別れを伝えるべきだと気持ちを切り替え、端末に向かう。
「オサム、回線は繋がったか?」
三雲が急いで確認し、「ああ」と答える。ヒュースは端末越しに玉狛支部への挨拶を始めていた。
その様子を横で見ていた雨取千佳は、今の異変に気づく。まだ幼いながらも、同じ女性として何かを感じ取ったのだろう。彼女は静かに立ち上がり、今を追いかける。
村上がそれを見て、足を止める。
雨取に任せるべきだと思った。今の気持ちを考えると、男の自分より彼女の方が上手くやってくれるだろう。
遠征艇の静かな休憩室。雨取千佳が扉を開けると、そこにはコップを片手にうなだれている今結花の姿があった。
「今先輩!」
雨取が声をかけると、今は小さく肩を動かすが、視線は床に落としたままだった。
「失礼します」
雨取は静かに近づき、今の隣に腰掛ける。彼女の手には何も持たず、ただ純粋な気持ちで隣に寄り添った。少しの沈黙の後、雨取がポツポツと話し始める。
「ヒュースくんって、アフトクラトルに戻ってくるために玉狛第2に入隊したんですよね。私、人を撃てなくて…あの時、ヒュースくんに助けてもらったことがあって。それから、遊真くんとすごく仲良しで…」
彼女の声は控えめだが、ヒュースの良いところを今に知ってほしいという思いが込められていた。今結花があまり知らないであろう彼の一面を伝えたい――きっと今先輩はヒュースくんのことが好きなんだ、だったらもっと彼について知ってほしい。そんな純粋な気持ちが、雨取を動かしていた。
そして、彼女は少し迷いながらも、次の話題に移る。
「それで…ヒュースくんが今先輩をどう見てるか、私、知ってるんです。少し悪いかなって思うけど、ヒュースくんって自分で絶対言わないから…」
雨取は小さく息をつき、続ける。
「遠征選抜試験の前に、一緒に遠征に行きたい人を選ぶ時、ヒュースくん、今先輩を入れてました。理由は『相手にした時の厄介さ』って言ってたけど…つまり、優秀ってことですよね。遠征に来てからも、今先輩のこと、いっぱい褒めてました。『戦術レベルが高い』って。ヒュースくんらしいですよね」
今結花は静かに聞いていた。言葉を発することはなかったが、コップを持つ手が震えている。彼女の端正な顔は俯いたままだったが、その震えが感情の波を物語っていた。雨取の純粋な言葉が、彼女の心に深く刺さっていたのだ。
あの最初の任務から、ヒュースくんが出る任務には全て志願した。今思えば、やっぱり彼のことが気になっていたのだろう。
最初の任務でも、他の任務でも、彼は私を頼りにしてくれた。褒めてくれた。彼は無駄なことは本当に言わない。そんな彼が言うならお世辞でも何でもない、真実なのだろう。
それを思い知れば思い知るほど、最初の任務で言われた「一番整っている」という言葉が深く刺さってくる。
意識をしてしまう。
今は雨取千佳の言葉を聞きながら、内心で感情が渦巻いていた。
(雨取ちゃんは優しい…。気を使って追いかけてきてくれて、私の気持ちに気づいて…ヒュースくんのことを教えてくれて…)
彼女の純粋な思いやりが、胸に温かく刺さる。だが、同時に、その優しさが今を苦しめていた。
(でも、純粋だからこそ、残酷だ…。私はヒュースくんへの気持ちに気づいてしまった。そして今、もっともっと強くなった。想いが、表に出てきてしまった)
最初の潜入任務から始まった小さな感情が、雨取の言葉で一気に膨らみ、心を埋め尽くしていた。抑えようとしても、もう隠しきれなかった。
(ネイバーと玄界人の恋…小説だったらロマンチックかもね。けど実際は…あまりにも遠すぎる)
ヒュースがエリン家に帰る現実が、彼女の想いを無情に突き放す。彼がネイバーであること、彼女が玄界人であること――その距離は埋めようがない。気づくと、頬を涙が伝っていた。コップを持つ手は震えたまま、静かに涙を落としていた。
その時、休憩室に静かな声が響く。
「チカ、あいさつはすんだ。ほかの2人は部屋に戻っている。お前も戻れ」
ヒュースの声だった。玉狛支部への連絡を終え、雨取を探しにここへ来たのだろう。
雨取はちらと今を振り返る。その瞳に心配が浮かんでいたが、言葉にはせず、ぺこりと頭を下げて休憩室を出ていく。足音が遠ざかり、静寂が戻った。
休憩室には、今結花とヒュースだけが残された。彼女の涙はまだ止まらず、俯いた顔を隠すようにコップを握り続けていた。
休憩室に残された今結花とヒュース。静寂の中、ヒュースがゆっくりと彼女に近づき始める。周りに音がないため、彼の靴が床を叩く音がコツ、コツとよく響いた。
「俺はこれから主君の家に戻る。恩義を尽くすために」
コツ。
今が俯いたまま、小さく呟く。
「嫌だ…」
涙が頬を伝う声は、か細く震えていた。
ヒュースは一歩進み、淡々と続ける。
「アフトクラトルは今内紛状態にある。戦いになるかもしれない」
コツ。
今が首を振る。
「嫌だ…」
その言葉は拒絶というより、感情の叫びに近かった。
彼はさらに近づき、低く言う。
「…死ぬかもしれない」
コツ。
今が顔を上げ、涙に濡れた目で訴える。
「聞きたくない」
声が詰まり、彼女の手からコップが滑り落ちそうになる。
ヒュースは最後の言葉を前に、もう一歩踏み出す。
「その前にユカ…お前に言っておかなければならないことがある」
コツ…。
そして、今の目の前でピタッと止まった。
彼は片膝をつき、今結花の涙で歪んだ顔に目線を合わせる。その瞳はいつも通り冷たくもあり、だがどこか熱を帯びていた。そして、真っ直ぐに告げる。
「俺はお前を愛している」
飾り気のない、ヒュースらしいストレートな言葉が、今結花の心に突き刺さった。彼女の震えが一瞬止まり、目を見開いて彼を見つめる。涙がさらに溢れ、言葉にならない感情が彼女を包み込んでいた。
ヒュースの言葉に、今は更に俯き、顔が見えなくなった。涙が床にぽたりと落ちる。ヒュースは片膝をついたまま、彼女を真っ直ぐ見つめ続けていた。
今結花の身体が震えている。やがて、彼女は静かに、だが震える声で喋り出した。
「死ぬかもしれない戦いに今から赴く男が、愛しているですって?」
その声の調子が少し変わったように感じられた瞬間――バッと顔を上げ、彼女は手に持っていたコップの水をヒュースに撒き散らした。
「それがアフトクラトルの流儀なの? ふざけないで! 無責任もいいところ…イライラさせられるわ!」
怒鳴りながらも、その目には涙が溢れていた。怒りと悲しみが混じり合い、彼女の感情が爆発していた。水をかぶったヒュースの顔に滴が伝うが、彼は動じず、ただ呆然と「ユカ…」と呟く。
今結花は勢いよく立ち上がり、さらにまくし立てる。
「私の答えが知りたいなら、あなたが言う恩に報いた後、生きてまた、私の目の前に現れなさい! 絶対に、命をかけて、答えを聞きに来なさい!」
泣きながら、今まで出したことのないほどの感情をぶつけていた。声は震え、涙が止まらず、彼女の全身がその想いを訴えていた。
ヒュースはその言葉を全て受け止め、口元を緩める。だが、その目は決意に満ちていた。彼は今結花を見据え、低く、しかし力強く返す。
「ああ、必ず、約束だ」
その言葉には、彼女への愛と、主君への恩義を果たし生きて戻る覚悟が込められていた。
ヒュースは約束通り準備を整え、エリン家へと旅立った。遠征艇は彼を見送った後、救出したC級隊員32名と共に玄界のボーダーへと帰還した。別れの瞬間は静かで、玉狛第2や鈴鳴第一の隊員たちそれぞれが胸に複雑な思いを抱えながらも、ヒュースの新たな道を尊重した。
程なくして、アフトクラトルは本格的な内紛状態に突入した。その後の詳細な情報は途絶え、ボーダーに届くことはなかった。
あの遠征から5年が経った。今でも時々ネイバーが現れて、人を襲う。世界はまだまだボーダーを必要としているみたいだ。
ボーダーという組織はドンドン大きくなって、私たち鈴鳴第一のメンバーも変わった。隊は解散して、来馬隊長はボーダー上層部に昇進。鋼くんは本部長補佐として忙しそうにしてるし、太一はトリオン兵部隊の企画開発に異動して、相変わらず騒がしくやってる。私? 私は増えに増えたB級部隊の統括オペレーター。どこまで大きくなるの? この組織? なんて思いながら、毎日忙しく端末とにらめっこしてる。
ヒュースくんのことは忘れたわけじゃない。あの休憩室での言葉、「俺はお前を愛している」って真っ直ぐな告白も、「必ず戻る」って約束も、全部覚えてる。でも、私も戦場の怖さは知ってる。命がけの戦場では、あんな約束がなんの意味もなさないこともあるって、分かってるから。期待はしないようにしてるの。だって、そうしないと前に進めないから。
それでも、ふとした瞬間に彼のことを思い出すよ。「ユカ」って呼ぶ声とか、冷静で真面目な顔とか…。でも、それでいい。今はただ、この大きなボーダーの一員として、やるべきことをやってるだけ。
ボーダー本部の食堂は、昼時の喧騒で賑わっていた。10代の若い隊員たちがテーブルを囲み、他愛のない話を繰り広げている。
「やっぱ小佐野先輩じゃね? 昔モデルやってたらしいし!」
A隊員が大きな声で言うと、B隊員が即座に反論する。
「いや、帯島隊長でしょ! あの健康的な魅力、たまんねぇよ」
今結花は少し離れた席で一人食事をしながら、その会話を聞いて苦笑する。(よくまぁあんな大きな声でこんな話ができるものだ)空調に乗って声が届いてくるので、聞くつもりはなくても耳に入ってくる。
C隊員が新たな名前を挙げる。
「俺は今先輩かな! 大和撫子って感じで素敵じゃね?」
今結花の内心が軽く反応する。(ほうほう、わかってるね君ぃ)。他愛のない会話とはいえ、褒められて悪い気はしない。
だが、D隊員が話を続ける。
「でも小佐野先輩は諏訪部隊長とできてるらしいし、帯島隊長も弓場部隊長といい仲らしいじゃん?」
C隊員が聞き返す。「今先輩は?」
D隊員が少し声を潜めて答える。
「知らない、でもネイバーに彼氏を攫われたって噂聞いたことあるぜ」
今結花は内心で苦笑する。(ちょっと違うけど…まぁいいや)。確かにヒュースはネイバーに「攫われた」わけじゃないけど、細かいことは気にしないことにした。
ちょうど食事を終えたその時、食堂にアラートが鳴り響く。ネイバーが現れる前兆――ゲートの反応を探知した音だ。今結花は即座に立ち上がり、オペレーター室へと急ぎ足で向かった。
部屋に飛び込むと、先に詰めていた後輩オペレーターが端末を操作している。
「状況は!?」
今結花が鋭く確認すると、後輩が素早く答える。
「小規模なゲートが1つです。珍しいですね」
「モニター回して」
今結花が指示を出し、モニターに映像が映し出される。後輩が状況を補足する。
「人型…ですかね。武装とかしてなさそうですけど」
今結花の目がモニターに釘付けになる。
「………!!! まさか…」
いつも攻めてくるトリオン兵ではなく、人型のネイバーがたった1人で現れた。防衛任務にあたっていたB級隊員たちは戸惑いを隠せなかった。過去の歴史から、人型のネイバーは強いと相場が決まっている。事実、目の前に現れたそのネイバーは素手だというのに、全く隙がない。鋭い眼光と堂々とした立ち姿が、不用意に手を出せばこちらがやられるという雰囲気を放っていた。
隊員たちが緊張の中、武器を構えて対峙していると、その人型ネイバーが両手を上げ、落ち着いた声で言った。
「ボーダーに用がある。怪しいと思うなら拘束でもなんでもしたらいい、連れて行け」
不遜な物言いと合理的な判断が混じったその言葉に、隊員たちは一瞬顔を見合わせる。
モニター越しにその声を聞いた今結花は、息を呑んだ。懐かしい響き、不遜でありながら冷静な物言い、そして状況を即座に判断する合理性――間違いない。彼女の胸に5年前の記憶が鮮やかに蘇る。ヒュースだ。
涙が溢れそうになるのをぐっと堪え、彼女は隣に立つ村上鋼に素早く提言する。
「鋼く……村上本部長補佐! ここは私の指揮で、彼をボーダーに案内して構いませんね?」
一瞬「鋼くん」と呼びそうになった癖を慌てて修正し、正式な肩書きで確認する。
村上はモニターを一瞥し、小さく頷いた。
「ああ、任せる」
その短い言葉に信頼が込められていた。今結花は深呼吸し、マイクに向かって指示を出した。
今結花はオペレーター室で指示を出し終えると、即座に席を立ち、全速力で走り出した。廊下にいる人を顧みず、入り口へと向かう。足音が廊下に響き、心臓が激しく鼓動する。
割り切っていたつもりだった。5年前の別れも、ヒュースとの約束も、戦場の現実を知る者として期待しないようにしてきた。でも、今、あのモニターに映った人影を見た瞬間、心は動き出した。あの日からずっと止まっていた時間が、ようやく再び流れ始めたのだ。
ボーダー前では、B級隊員が慎重に動いていた。人型ネイバーを中央に置き、四方を固めるフォーメーション。妙な動きを見せれば即座に拘束できる態勢だ。その中心で、ヒュースはゆっくりと歩みを進めていた。両手を軽く上げたまま、隊員たちの緊張した視線を冷静に受け止めている。
ボーダーの自動ドアが静かに開いた。その瞬間、全速力で走ってきた今結花が、ヒュースへと飛びついた。
「ヒュースくん!」
彼女の勢いに押されながらも、ヒュースはしっかりと受け止める。5年ぶりの温もりが、二人の間に広がった。
「おかえり、おかえり! ヒュースくん!」
今結花の声は涙と喜びに震え、彼の胸に顔を埋める。
ヒュースは彼女を抱きしめ、低く、だが優しく答える。
「待たせた、ユカ…答えを…聞きに来た」
あの日の約束を果たすため、彼は生きて戻ってきたのだ。
秋のボーダーに暖かい風が吹き抜けた。隊員たちの緊張が解け、周囲が静かに見守る中、二人の再会は穏やかな光に包まれていた。
名前の「今」と時間を表す「今」がビックリするほどややこしいですね
今先輩かわいいよ
ヒュースもかわいい