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目を開ければ、そこにあったのは知らない天井だった。
泣き叫ぶことも、助けを呼ぶこともなかった。
理解したからだ。
ここは、もう、あの世界ではない──と。
それは、産声を上げたその瞬間から、脳裏に焼きついた確信だった。
記憶はあった。過去も、感情も、言葉すらも。
だが、身体は幼く、声帯も思うように動かせず、ただ胸の内だけで現実を拒み続けた。
“どうしてここにいる? ”
何百回、何千回、心の中で繰り返したか。
理由も、意味も、導き出せなかった。
ただ一つだけ確かなのは──この世界が、異常なほど「整いすぎて」いるということ。
科学と魔法が融合し、才能が数字で計られ、人の価値さえ指標化される。
生まれてから十二年、あらゆる“仕組み”が、合理的に過ぎる世界だった。
そんな環境の中で、彼は育った。
心の奥底で“異物”としての自覚を抱きながら。
彼は、模倣してきた。
幼子らしく笑い、優等生として振る舞い、規律を守り、従順に生きてきた。
けれど、胸の奥ではずっと、叫び続けていた。
“俺は、誰だ? ”
この世界に馴染もうとするたび、かつての己が剥がれ落ちていく。知らず知らずのうちに、この「歪んだ理」に染まっていく自分が──怖かった。
それでも、生きるしかなかった。
理由もなく、意味も見出せず、ただ惰性のように十二年が過ぎた。
……そして今日、彼は地下牢にいた。
理由は、わからない。
突然だった。意識を失い、気がつけば石の壁と鉄格子に囲まれていた。
暗闇の中、乾いた鎖が天井から垂れている。
かすかに濁った空気と、壁に染みついた黴の匂い。
「……そこにいるの?」
誰かの声がした。
少女の声。
年の頃は、彼と同じくらい。震えてはいたが、どこか澄んだ響きを持っていた。
彼は鉄格子の隙間から顔を向ける。
かすかな灯りが、隣の牢の奥を照らす。
そこには、一人の少女がいた。
乱れた髪。破れた制服。
けれど、目だけは……不思議なほど、静かで、澄んでいた。
「……君は、どうしてここに?」
思わず問いかけていた。
すると、少女は、少し間を置いてこう言った。
「あなたの名前、教えて。……“本当の”名前を」
彼の心臓が、一瞬だけ跳ねた。
なぜ、そんなことを──。
彼女は、何を知っている?
そう思ったその時、彼の中で、かつて封じたはずの“存在の輪郭”が、ふたたび色を帯びはじめた。
「……君は、“この世界に生まれてしまった”と、思ったことはあるか?」
男は、壁にもたれたまま、かすかに笑った。
それは嘲りでもなく、軽蔑でもなく──ただ、ひどく静かな諦めを含んだ笑みだった。
少女は黙って彼を見つめていた。
彼の横顔に刻まれた静けさは、年齢にそぐわない重みを持っていた。
彼は、まだ十二歳のはずなのに。
「俺は……目を開けた瞬間に、知っていた。ここが、“本来いるべき場所じゃない”ってことを」
囁くような声。
それは、誰かに聞かせるためのものではなく、己の記憶をなぞるための呟きだった。
「生まれたばかりなのに、言葉も、数字も、理屈も理解できた。目の前の大人たちの言葉すら、意味を持って流れ込んできた。……おかしいだろ? 俺自身が、俺を一番信じられなかった」
彼は目を閉じる。
まぶたの裏に浮かぶのは、遠いはずの記憶。
どこか別の世界で、別の名を持ち、別の人生を歩んでいた少年の面影。
「笑って生きようとしたよ。子供らしく、泣いて、喚いて、学んで──でも、それは全部“演技”だった。本心は、いつも心の奥で凍りついたままだった」
彼の声がわずかに震えた。
「それでも……それでも、生きた。誰かの顔を真似して、誰かの言葉をなぞって。そうやって十二年……この世界の“理”に染まりながらも、どこかでずっと、自分を繋ぎ止めていたんだ」
少女は、静かに彼を見つめていた。
その目には恐れも、哀れみもなかった。ただ、まっすぐな色のない眼差し。
「……今も、自分が誰か分からないの?」
そう問われて、彼は小さく頷いた。
「分からない。もう、どっちが“本当”の俺なのか──過去に縋っているのか、それとも今を否定しているのか。分からないんだよ」
ふ、と少女が呟いた。
「だったら……今ここにいるあなたが、“本当の”あなたなんじゃない?」
彼は目を見開いた。
まるで、誰にも触れられたことのない場所に、指を差し込まれたような感覚。
「あなたの過去が、どんなに異質でも。この世界にいて、呼吸して、誰かと話して──それを選んできたあなたが、今ここにいる。それは、たぶん……“本物”よ」
沈黙が落ちた。
重く、温かく、なにかが胸の底に降り積もる。
牢屋の中。冷たい石の壁に囲まれたその空間だけが、どこか世界の外側にいるように、静かだった。
彼は、初めて自分の胸の内に、微かな温もりが灯るのを感じていた。
「──そして、漆黒の夜がふたりを包み込む中、俺たちは誓い合ったんだ。お互いの“本物”を見つけようってさ……これが、俺と真夜との、あつ〜い出会い──あだっ!?」
得意げに胸を張る父の言葉の余韻が消えるより早く、ゴツッ、という実に素朴で、しかし容赦のない音が響いた。
声の主──天城蒼士は、綺麗な放物線を描いて飛んできた角砂糖の直撃を受けた頭頂部を、反射的に押さえて呻く。
「──その、身の毛もよだつような妄言を、息子の前で披露するのはやめて頂戴。そもそもあなた、どこからともなく現れて、拘束されていた私の前で『状況が全く飲み込めないんですけど助けてください』って、情けなく震えていたじゃないの」
向かいに座る女──四葉真夜は、心底呆れたように眉をひとつ跳ね上げた。だが、その冷ややかな表情とは裏腹に、紅をひいた唇の端は、隠しきれない笑みの形に、うっすらと綻んでいた。彼女の指先が、テーブルの上の角砂糖入れを、まるでCADでも操作するかのように、静かになぞっている。
「おいおい、そこは俺の話に乗ってくれよ、真夜! 息子にかっこいいとこ見せたいだろ、ロマンってもんが台無しだ!」
「嫌よ。事実とは似ても似つかない思い出に脚色を加えて、純粋な息子に聞かせる気?」
「脚色じゃなくて、愛に基づいたクリエイティブな脚本だよ。もうちょっと、夢のある話をさ──」
「──夢より現実。私の前では、真実こそが正義だもの」
ぴしゃりと一言。
その言い回しがあまりにも真夜らしくて、蒼士は肩をすくめる。
「……なぁ、まだあの時のこと、根に持ってるのか? 俺、あのときピンポイントで“あそこ”に転生してさ、正直ちょっとテンパってたんだよ。アレは仕方なかったろ?」
「別に。あなたのことを“危機に駆けつけてくれる王子様”だなんて、微塵も思わなかったわ」
「ぐっ……やっぱり根に持ってるじゃねぇか! ……その割には昨日も、あんなにかわいぐぇっ!?」
テーブルの下、見えない角度から放たれた、的確すぎるハイヒールの踵が、蒼士の脛をピンポイントで抉った。椅子ごとぐらつき、情けない悲鳴が漏れる。
「……何か言ったかしら?」
「……なんでも……ありません……」
真夜は、何も見ていない、という涼しい顔で、静かに紅茶に口をつけた。
その一連の動作は、相変わらず水が流れるように優雅で、気品に満ちている。
彼女の名を知らぬ魔法師は、まずいない。
四葉真夜──“極東の魔王”“夜の女王”。その名は、畏怖と共に語られる。
だが、その彼女が、今は穏やかな眼差しを、テーブルの向かいへと向けていた。
「蒼夜さんはこんな大人になってはいけませんよ?」
にこり、と笑ってみせるその表情は、厳しくもどこか柔らかい。
息子への視線は、魔法師の“当主”ではなく、ただの“母親”のそれだった。
「おいおい、失礼だなぁ……男はみんな、心にロマンを飼ってる生き物なんだよ」
「ロマンチストが聞いて呆れるわね。あなたの心にいるのは、現実から目を逸らした、頭がお花畑の珍獣でしょう?」
「へいへい、どうもね。夢見る中年で悪うござんしたよ」
「あら、拗ねないで頂戴。冗談よ。あなたは立派な……“現実の地獄を知った上で、それでも夢を見ようとする、救いようのないロマンチスト”だもの」
「……それ、結局、褒めてんのか貶してんのか、どっちなんだ!?」
思わず机に突っ伏す蒼士の姿に、真夜は今度こそ、くすくすと控えめに肩を揺らして笑った。
言葉のやり取りは、まるで子供の喧嘩だ。
だが、その一つ一つの応酬には、互いの全てを知り尽くし、受け入れた者にしか出せない、絶対的な信頼と親密な“空気の呼吸”があった。
向かいのテーブルに座る少年──蒼夜は、そのやり取りを黙って見ていた。
呆れているような目つきは、半分は演技だ。その奥には、目の前の光景が愛おしくてたまらない、という温かな眼差しが宿っていた。
──やっぱり、このふたりは、お似合いだ。
彼は思う。
父は、まるで太陽のように自由奔放で、時に無邪気すぎるほどだ。
母は、まるで月のように静かで、全てを見通す威厳に満ちている。
全く違う光を放つ二つの星が、互いに引かれ合い、一つの軌道を巡っている。そして、そのちょうど中間地点に、自分がいる。その事実が、どこか誇らしかった。
「……ねぇ、お父さん、お母さん」
蒼夜がふと口を開いた。
その声にふたりが同時に視線を向ける。
「どうした、蒼夜?」
「何かしら?」
互いに声が重なる。それは、この家では当たり前の光景だった。
蒼夜は少しだけ目を伏せて、そして、まるで確かめるかのように、顔を上げた。
「……二人はさ、出会って、結婚して、後悔したことって、ある?」
一瞬だけ、時が止まったかのような静寂が落ちた。
蒼士と真夜の視線が、ふと交差する。その瞳には、あの薄暗い地下牢で出会った、十二歳の少年と少女の面影が、一瞬だけ宿っていた。
そして、その沈黙はすぐに破られる。
「「ないな(わ)」」
見事なハモりだった。
言葉の温度も、タイミングも、寸分の狂いもなく揃っていた。
もちろん、父が先程語ったような「“本物”を見つける誓い」などという、甘ったるいやり取りは、実際には存在しない。 蒼夜は、母の性格からして、そんな少女漫画のような展開になるはずがないことを、よく知っていた。
だが、それでも。
あの薄暗い牢獄での出会いが、この二人にとって、互いの人生を決定づける、かけがえのない瞬間であったことだけは、疑いようのない真実だった。その真実を、後悔するはずがない。
蒼夜は思わず、くすりと笑う。
その笑みが、どこまでもあたたかく、自然に滲む。
──今日もまた、変わらない日常が、ここにある。
それだけで、十分だった。