魔法科高校の時間奏者   作:cart_strange

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1話

 

 

 

『……くそ、やっぱ文明って残酷だな……』

 

 少年の呟きは、囁きにも満たない小さな音で牢の隅に落ちた。

 冷たい石の床に膝を抱え、背中を丸めたまま、その声音には諦念とも自嘲ともつかぬ色が滲んでいた。

 冗談として笑い飛ばしていた脱出プランの数々――スプーンによる壁削り、制服強奪、空想じみた囚人ごっこ。

 それらがすべて、現実の前に無惨に叩き潰された今、残っているのは乾いた虚しさだけだった。

 彼が口にした“文明”とは、彼らを監視する厳重なセキュリティシステムのことを指していた。

 音声、映像、生体、魔法干渉。あらゆる角度から感知される牢獄の監視網。

 魔法の使用は禁止されており、発動検知のタイムラグすら、わずか0.2~0.5秒という精度を持っている。

 見張りは人間に加えて、簡易AIを搭載した人型セキュリティ。逃げる術など、存在しないと思わされるには十分すぎた。

 

『今のは、まだ良かったわ。“ハトに鍵を運ばせる”よりは』

 

 沈黙を破ったのは、壁に背を預けた少女だった。

 その声は呆れ混じりではあったが、どこか安堵の響きも含んでいた。

 馬鹿馬鹿しい計画ばかり。それでも、諦めずに悪あがきしてくれるその姿に、少しだけ救われる自分がいた。

 

『それ名案だと思ったんだけどなあ……』

『お生憎様。ここは恐らく地下三層以下。ハトなんているわけないし……これだけ整備された場所に、野鳥が迷い込むはずないでしょう』

 

 冷ややかに言いながらも、彼女の口元はほんの僅かに緩んでいた。

 なんだかんだで、こうしてふざけあっていられる間は、まだ余裕があるという証だ。

 

 ーーしかし、それも束の間だった。

 

 コツ……コツ……。

 

 乾いた、けれど重みのある足音が廊下の奥から規則的に響いてきた。

 その音は、否応なく二人の空気を引き締めた。

 少女の身体がピクリと震える。背筋がこわばる。

 ふいに、身体の奥底に沈めていた感覚が蘇ってきた。あの日、あの瞬間の記憶。

 

 (……そうだ。私は、攫われたんだ)

 

 気づけば、何の前触れもなく、力づくでこの場所へ連れて来られた。

 魔法師であること――その一点が理由だった。

 それだけで、自由は奪われ、尊厳は踏みにじられる。

 そして、魔法師がこうして拘束される時に待っているのは、決してまともな未来ではない。

 脳に干渉され、能力を調整され、兵器として“再定義”される。

 あるいは、研究対象として解剖され、実験台として使い潰される。

 さらに最悪なのは、もっと――もっと汚らわしい使い道だ。

 喉がひゅ、と詰まる。

 背中に冷たい汗が流れた。視界の端がわずかに揺れる。

 思考はまとまらない。けれど、身体だけが勝手に動いていた。

 本能が、少年の背中へと手を伸ばしていた。

 なぜなのか、自分でもわからない。

 でも、あの背中の向こうにいるだけで、ほんの少しだけ恐怖が和らいだ。

 

『──よし』

 

 唐突に、少年が顔を上げた。

 その瞬間、彼女の中で“いつものバカな彼”が霧のように消える。

 

 瞳の奥に宿っていたのは、悪戯っぽさでも、ぬるい楽観でもない。

 研ぎ澄まされた“戦う者”の光──魔法師の目だった。

 

『とりあえず、ここから出るか』

 

 静かに放たれた言葉に、少女は一瞬遅れて息を飲む。

 

『……出るって、どうやってよ』

『決まってるだろ、俺の魔法だよ』

 

 少年は、ふっと口元を上げた。

 まるで、全部“織り込み済み”だったかのような笑みだった。

 だけど、さっきまでと違うのは──

 その笑みに、頼れる何かがあったことだ。

 少女は、背中に当たる少年の気配に、僅かに息を吐いた。

 恐怖が消えたわけじゃない。震えも、今もまだ残っている。

 けれど、その背中は──

 確かに、“一人じゃない”と教えてくれていた。

 

『なぁ、真夜』

『な、なに?』

『お前に一つ、頼み事をしても良いか?』

『なにかしら……? 私にできることなら何でもするわ』

 

 その言葉に、少年はコホンとひとつ咳払いをしてから真顔で言った。

 

『なら聞くが……魔法ってさ』

『う、うん』

『どうやって発動する?』

『……もう、いやぁ。いっそ殺して』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その村は一見、何の変哲もない山村だ。村の中に平たい箱のような窓のない鉄筋コンクリート陸屋根平屋の建物があちらコチラに点在しているが、これも第三次非核世界大戦に数多く作られた防空シェルターの地上部分として日本中に見られる建造物で、このような山奥にあっても可笑しくはない。──あくまで、見かけの上では。

 しかし、この村は見かけ通りの村ではない。ここは村全体がまるごと一つの実験場、尤も、秘密主義で悪名高い『死(四)の魔法師工場』、魔法技能師開発第四研究所、その跡地であり、現在まで多くの魔法師の改良と淘汰が行われていた、四葉の本拠地である。

 そしてこの村で最も大きな館が、四葉一族本家の住まい。広大な敷地の中に建てられた幾つもの家屋の中で、比較的大きな建物が、現当主の住む母屋。

 そこには仁王立ちをした現当主の姿があった。

 

「はぁ、あなたねぇ」

 

 やれやれと肩をすくめた瞬間、滑らかな漆黒の髪が、絹ずれの音もなく揺れた。

 夜の闇を溶かし込んだかのようなその瞳が、床に正座させられている息子──蒼夜を、静かに見据えている。その双眸は、ただ見つめるだけで相手の心の奥底まで見透かすような、深淵の色を湛えていた。

 紅をうっすらと引いた唇は、閉じられていても一つの完成された芸術品のように存在感を放ち、肌は夜の光を浴びた白磁のように滑らかだ。漆黒のドレスから覗く鎖骨のラインは、見る者の呼吸を僅かに乱す魔性を帯びている。

 彼女がそこにいるだけで、場の空気が張り詰め、重心が傾く。気配を消していても、その存在感は決して拭えない。

 “夜の女王”、四葉真夜。その美しさは、もはや外見ではなく、彼女という存在そのものが放つ“魔性”としての風格だった。

 

「少しは、反省したのかしら?」

「いや、まったくだッ!?」

 

 無防備に放たれた反骨の言葉は、しかし最後まで紡がれることはなかった。

 ゴツン、という実に素朴な音が響き、白い拳が寸分の狂いもなく蒼夜の頭頂部を捉える。衝撃と、遅れてやってくるじわりとした痛みに、声にならない声が漏れた。

 叱られると分かっていても、つい本音を叫んでしまうのは、まだ幼い魂の証明。

 そして、それを“手加減しつつも本気”で、的確な一撃で黙らせるのは、母親としての真夜の、不器用で歪んだ“優しさ”でもあった。

 

「まったく……。どうしてあなたは、いつもそうやって厄介ごとばかり引き寄せてくるのかしら」

 

 呆れと憂いの入り混じったその声は、決して冷たいだけではない。むしろ、その裏には、どうしようもない息子への心配と、言葉にするのが下手な愛情の色が、確かに滲んでいた。

 

「しょうがないだろ……あいつらがムカつくことを……」

「──深雪さんを、侮辱したからなのでしょう?」

「なんだよ、分かってるなら俺は悪く──いだっ!?」

 

 再び、寸分の隙もなく拳が振るわれた。今度はタイミングすら読めなかった。

 その手は、芸術品のように細く、美しく、爪先まで丁寧に手入れされているのに、どうしてこれほどまでに“容赦のなさ”を的確に伝えられるのか。

 

「理由はどうあれ、暴力に訴えるのは許されることではありません。学校に私が呼び出されるのは、これで今月に入って何回目だと?」

「……じゃあ、母さんがやってるこれも暴力──ぐぇっ!?」

 

 三度目の“鉄槌”が、理屈を捏ねる口を物理的に封じる。もう反射で身を縮めるしかなかった。

 

 

「す・こ・し・は反省したかしら?」

「……うぃ」

 

 唇を尖らせ、不満を全身で表現する蒼夜に、真夜は深々と溜め息をついた。だが、その口元には、もはや隠しようのない、かすかな笑みが浮かんでいる。彼女は椅子へと戻ると、指先で軽く手招きをした。

 蒼夜は一瞬、躊躇した。反発したい気持ちと、逆らえないという諦観。だが、呼ばれたら行かざるを得ないのが、この絶対的な母親だった。

 しぶしぶ近づいていくと、真夜は驚くほど容易く彼の身体を引き寄せ、自身の膝の上に、すっぽりと収まるように座らせた。

 

「当分はここで、“置き人形”にでもなってもらいましょうか」

「えー、俺何もやることないじゃん」

 

 不満げに言いつつも、その声にはどこか、くすぐったそうな甘えが混じっていた。

 まだ八歳の蒼夜にとって、母親の温もりと、その身体から漂う甘い香りは──どうしようもなく心地よくて、少しだけ悔しいくらいに、安心できてしまうのだ。

 

「先ほどは、ごめんなさいね」

 

 耳元で囁かれるその声は、まるで子守唄のようだった。

 

「……別に、母さんが謝ることじゃないだろ。俺が、勝手にやったんだから」

 

 真夜の指が、乱れた髪を梳くように、ゆっくりと撫でる。その優しい手つきに、蒼夜の身体から少しずつ、尖っていた力が抜けていく。

 

「……当主としては、見過ごすわけにはいかないの」

 

 その声は、髪を撫でる手とは裏腹に、わずかに硬質さを帯びていた。

 それは彼女が母であることをやめたのではなく、“四葉真夜”という重い役割を、ほんの少しだけ背負っただけの声。

 

「でも、母親としては──深雪さんのために本気で怒ってくれたこと、私は、本当に嬉しかったわ」

 

 囁くような言葉が、蒼夜の胸の奥に、温かい雫のように、静かに染み込んでいく。

 彼は何も言わず、少しだけ首を動かして、うん、と頷いた。

 

「……まあ、その“解決方法”は、もう少しだけ考えてくれると助かるのだけれど」

「……わかってるよ」

 

 ぽつりと、蒼夜は呟く。

 唇を噛むようにして、わずかに俯いた。

 

「でも……あいつらさ、深雪の悪口、平気で言ってたんだ。陰でこそこそ、嘘混じりのことばっか言っててさ。……ああいうの、ほんと、みっともねぇよ」

 

 語尾に滲む怒気。

 それは正義感とも違う、もっと直情的な──「大切なものを守りたい」という、子供ながらの真っすぐな想いだった。

 真夜はそんな彼の横顔を、ただ静かに見つめていた。

 怒りの表情ではない。

 むしろ──嬉しさと、ほんの少しの切なさが滲んだ、そんな目で。

 

「……でも、仮にその人たちが本人に直接言っていたら?」

「……それでも俺が成敗する」

 

 その声に、真夜は小さく噴き出す。

 笑い声というよりは、微笑みの形で漏れ出た音だった。

 

「ふふ……そう。それが、あなたの“当たり前”なのね」

「……なぁ、これって変?」

「いいえ。とても──あなたらしいと思うわ」

 

 撫でる手を止めることなく、真夜は柔らかく微笑む。

 その顔には、母としての誇りと、ほんの少しの心配が同居していた。

 

「でも、あまり無茶はしないで。まだあなたは、達也さんのように──“圧倒的な力”が開花したわけじゃないでしょう?」

 

 その言葉に、蒼夜は小さくうなずく。

 

「……うん。それは分かってる。俺、まだ強くない。達也みたいに……何でも一人でこなせるわけじゃないし」

「あら。そこは謙虚なのね」

「そりゃそうだよ。だって、上には上がいるって、あいつを見てると、嫌でも分かるも」

 

 ぽつりとこぼしたその言葉に、真夜は一瞬だけ、視線を落とした。

 その顔に浮かんだのは、言葉にしがたい複雑な感情。

 

「……そうね。あの子は、少し特別すぎるのかもしれないわ」

 

 ほんの少し間を空けて、真夜は続けた。

 

「でも──あなたの“その心”は、彼にも、誰にも負けていないと思うわ」

「……そっか」

 

 蒼夜の目が、わずかに見開かれ、そして静かに伏せられる。

 自分の“心”を認められたことが、どうしようもなく照れくさくて、けれどとても嬉しかった。

 

「俺……もっと強くなるよ。父さんや母さんよりも、もっとずっと強くなってやる」

「ふふ。じゃあ、次期当主は蒼夜さんかしら」

「それは──嫌だな」

「あら? どうして?」

「だって、母さんみたいに立派な人になれる自信なんか、ないもん」

 

 素直な言葉。

 どこか拗ねたようで、けれど本音だった。

 真夜は彼を見つめながら、ほんの少しだけ目を細める。

 

「……まだ八歳なのよ。これから、何にだってなれるわ」

 

 優しく言いながら、彼の頬にそっと手を添える。

 

「うーん……でもさ、母さんの仕事、すっごく大変そうだし……俺、ムカついた相手に笑顔なんて、できる気がしないよ」

「ふふっ。そういう意味では、深雪さんの方が向いてるのかもしれないわね」

 

 微笑む声の中に、ほんの少しだけ哀愁が混じる。

 真夜はふと、遠くを思うように目を細めた。

 

「……ただ、あの子。姉さんに少し似て、心を閉ざしがちなところがあるから。優しい子だけれど、その分、誤解されやすいかもしれないわ」

「あー……確かに、母さんの方が、見た目はふんわりしてて優しそうだもんね。……中身は、深雪の方が、ずっと優しいけどっ!?」

 

 言った瞬間、頭に鈍い衝撃が走った。

 

「その減らず口、閉じなさい」

「はい、ごめんなしゃい……」

 

 どこか懐かしいような、他愛もない会話。

 気づけば蒼夜は、背中をすっかりと母の身体に預けていた。

 その温もりが、背骨から胸へ、心の奥へと静かに流れ込んでくる。

 もう少しだけ、この時間が続けばいい──

 そんな、子供らしい、わがままな願いが心に浮かんだ。

「……深雪のこと、ちゃんと守れるように、頑張らないとな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 その子は、まるで春先の雪解け水に洗われた、一輪の白梅のようだった。

 まだ八歳という年齢にふさわしく、身体は小柄で、顔立ちにはあどけなさが残っている。

 けれど、彼女がそっとその場に姿を現すだけで、張り詰めていた空気がふわりと澄んでいく。そんな不思議な静けさと気品が、自然と周囲に漂いはじめる。

 名は、司波深雪。

 光が当たると、漆黒の髪の中にわずかに青が混じり、まるで氷の結晶のような透明な艶を放っていた。ぱっちりとした瞳は、夜の湖を思わせる深く静かな黒。年齢にそぐわぬ理性の光を宿していたが、ふとした瞬間には、それが潤んで揺らぐ。

 肌は雪のように白く、滑らかで、陶器を思わせるほど繊細だった。その背筋は真っすぐで、幼さの中に秘めた育ちの良さが、自然とにじみ出ていた。

 まるで完璧な彫刻に命が吹き込まれたかのように、儚く、可憐で、それでいて内には揺るがぬ意志を秘めた少女──それが、八歳の司波深雪だった。

 そして今、その完璧な少女の眉は、きゅっと寄せられ、小さな唇は不満げに引き結ばれていた。

 

「……ちゃんと、反省してくださいっ!」

 

 凛とした声だったが、その語尾は、涙をこらえるかのように、ほんの少しだけ震えていた。

 怒っている。だが、それ以上に、心配で、悲しくて、どうしようもない、という感情がその声には満ちていた。

 

「す、すみません!」

 

 蒼夜は、条件反射で床に額をこすりつけた。今日に入って何度目になるか、もう数えられない完璧な土下座だった。

 理由は、単純だ。

 学校で、深雪のことを陰で侮辱しているのを耳にした。それが、どうしても我慢ならなかった。

 

「……その、私のことで、蒼夜さんが怒ってくださったのは……その、本当は、とても、うれしい、です」

 

 深雪は視線を落とし、小さな手を胸元で固く握りしめながら、ぽつりとそう告げた。その声は、消え入りそうなほど小さい。自分のために誰かが傷つくことを、彼女は何よりも恐れていた。

 

「……ですけど……蒼夜さんが、怪我をするのは、わたし……いやです。悲しい、です」

 

 蒼夜の声は短く、けれど真っ直ぐだった。

 それは、ただの謝罪ではなかった。「次も、君のためならやる。だが、君を悲しませないように、もっとスマートにやる」という、彼の不器用な誓いだった。つまりバカである。

 

「……ごめん。次は気を付けるね」

 

 蒼夜の声は短く、それでも真っ直ぐだった。

 謝罪の中には、悔しさと照れ、そして何よりも、深雪の気持ちを受け止めたという意思がにじんでいる。

 

「……はい。お願いします」

 

 深雪は、ふわりと笑った。

 それはまるで花がほころぶような微笑みで、蒼夜の胸に温かな安堵が広がった。

 

「ふふっ、どうやら仲直りは済んだようね」

「は、はい、お母様」

 

 深雪が、はっとしたように振り返り、照れくさそうに笑う。

 その様子を、少し離れた縁側から静かに見守っていたのは──司波深夜。

 四葉真夜の一卵性の姉にして、深雪の母。

 その隣に寄り添うように立つのは、淡い茶色の髪を春風に揺らす、護衛であり親友の桜井穂波だった。

 

「じゃあ、お二人とも。おやつの時間になさいますか?」

 

 穂波が、柔らかな笑みを浮かべて声をかける。

 

「食べるっ!」

「私も……いただきます」

 

 蒼夜は即答で手を挙げ、深雪も少しだけ頬を染めながら、淑女のように小さく頷いた。

 その微笑ましい対比に、穂波はくすくすと笑みを漏らした。

 

「そんなに慌てなくても、お二人の分は、ちゃんとご用意してありますから」

 

 席に着き、目の前に並べられた菓子に目を輝かせながら、ふと蒼夜が尋ねた。

 

「そういえば、達也は?」

「達也さんなら、今は達郎さんのところに居ますよ」

 

 深夜が、穏やかな声で応えた。

 蒼夜は「ああ、なるほど」と納得したように頷く。

 

「またCADの話でも聞いてるのか」

「ええ。最近は特に熱心ね。一体何を作ろうとしてるのかしらねぇ」

「うーん、俺にはさっぱりだな……。ああいう、細かい作業とか、地道な計算とか、考えただけで頭痛くなる」

 

 蒼夜が、心底うんざりしたように言うと、深雪が不思議そうな顔で、小さく首を傾げた。

 

「……でも、蒼夜さんも、よく魔法を“組み替え”て、新しい魔法を作っていらっしゃいますよね? あれも、計算が必要なのではないのですか?」

 

 その純粋な疑問に、蒼夜は「あー、それな」と、少し照れくさそうに頭を掻いた。

 

「俺の“組み替え”は、達也がやってるみたいな、面倒な計算じゃないんだよ。なんて言うか……もっと、感覚的なもんなんだ」

「……感覚的、ですか?」

「うん。達也は、たぶん、ブロックを一個一個、設計図通りにきっちり積み上げて、凄いお城を作ってる感じ。でも俺は、『こんな形のお城があったら面白くない?』って閃いたら、粘土みたいに、ぐにゃーって一気に形ができちゃう感じ。だから、途中の細かい計算とかは、逆に苦手なんだ」

 

 その、あまりに子供らしく、しかし天才の本質を的確に捉えた説明に、深夜と穂波は、思わず顔を見合わせて、小さく微笑んだ。

 片や、論理と計算を極める「工学的な天才」。

 片や、直感とひらめきで道を切り拓く「芸術的な天才」。

 質は違えど、二人とも、間違いなくこの世界の常識を塗り替える才能の持ち主だった。

 

「ふふっ、蒼夜さんは、そちらの分野は、あまりお得意ではなさそうですものね」

 

 深雪が、納得したように、くすりと笑う。

 

「おい、深雪だって人のこと言えないだろ?」

「そ、そんなことありませんっ。私は、兄様のお手伝いができるように、ちゃんと勉強して……」

「はいはい、目が泳いでるぞー。ほら、こっち見ろって」

 

 蒼夜のからかいに、深雪がぷいっと顔をそむける。その頬は、夕焼けのように、ほんのりと赤く染まっていた。

 その何気ないやり取りを、深夜と穂波は、まるで春の陽だまりを見つめるかのように、優しい目で見守っていた。

 今日もまた、変わらない日常が、ここにある。

 小さな口喧嘩と、小さな仲直りを繰り返しながら、この特別な子供たちは、少しずつ、未来へと歩んでいく。

 誰が知るだろう。

 これが、十師族の筆頭であり、世界の影の支配者とまで呼ばれる一族の、穏やかな日常の一コマであることを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 波が静かに岸壁を舐める音が、薄暗い夜の埠頭にかすかに響いていた。

 コンテナが無数に積み上げられた無人の港──その静寂を破るように、乾いた足音が二つ、石畳を打ち続けていた。

 夜風が潮の匂いを運び、古びた外灯がギィ……と軋む。

 光の下で、ふたりの男が対峙していた。

 一人は、三十代前半と見える男だった。

 くすんだグレーのスーツは着崩しており、右手には軍用の携行型CAD。

 その目元には焦りと苛立ちがにじみ、喉の奥に小さな呼吸音が漏れている。

 状況を掌握しきれず、だが敵意だけは消せずにいた。

 対する男は、黒いロングコートを羽織った無口な人物。

 年齢は四十代、いや、もしかするともっと上かもしれない。

 しかし、その背筋は一切の緩みなく伸びており、ただそこに立っているだけで、場の空気を完全に支配していた。

 威圧するわけでもなく、威張る様子もない。だが──重い。

 

「……何者だ」

 

 若い男が口を開いた。わずかに声が裏返る。

 無理もない。そこにいるのは、ただの“魔法師”ではないと、本能が訴えていた。

 しかし、返ってきたのは沈黙だった。

 男は何も言わず、ただじっとこちらを見ているだけだった。

 だが、その視線が胸の奥を貫いた。

 冷たい鋼鉄のように、容赦なく、まっすぐに。

 心臓がどくんと跳ねた。まるで、すべてを見透かされたような錯覚。

 呼吸がうまく整わない。焦りが膨らむ。

 

「……ふざけるな!」

 

 怒りに任せて叫ぶ。

 CADが手の中で起動し、構成が展開される。

 ──先手を取るしかない。黙って睨まれるだけの時間が、もう限界だった。

 

 魔法式を起動しようとした刹那、背中に冷たいものが走った。

 ぞくり、と。

 まるで、こちらの動きを“見ていた”かのように──男の身体がわずかに傾いた。

 滑らかに、軽やかに、そして無駄のない動きで、発動の前段階からすでに行動を“済ませて”いた。

 

「な……」

 

 術式の起動タイミングを読まれた? 

 いや違う。予測ではない。これは確信──そう、未来を“知っている”者の動きだった。

 

「ふざけるなぁッ!!」

 

 怒りと焦りが混ざった叫び声とともに、三つの術式を同時に展開する。

 熱波、衝撃波、拘束──どれかが当たれば良い。すべてを避けきるのは不可能なはずだった。

 

 だが──

 視界から、相手が“消えた”。

 風がすり抜ける音だけが残る。

 次の瞬間には、男は数歩先に立っていた。先ほどの位置には、何もない。

 目を疑う間もなく、さらに動いた。

 気づけば、至近距離に立っていた。目の前。息がかかるほどの距離。

 

 無表情。恐怖すら感じないほど、感情の気配がなかった。

 

「っ……!」

 

 反射的に魔法を起動しようとした──その瞬間だった。

 脳の奥で、何かが崩れた。

 構築しようとした術式が、焼き切れるように“壊れた”。

 空間に走らせた座標がゆがみ、情報が書き換わる。

 何が起きた? どうやって? いつ? 

 理解が追いつかない。

 

「……なにが……」

 

 震える声が、口から漏れる。

 CADはまだ手の中にある。男はポケットにすら手を入れていない。

 それなのに、完全に追い詰められていた。

 逃げなければ。

 その本能だけが、ようやく指先に命令を送ろうとした、その瞬間。

 

 視界がぐるりと反転した。

 地面が急速に迫ってくる。

 頬にコンクリートの冷たさが触れる。

 倒れた。だが意識は飛んでいない。身体は動く。

 何が起きたのかだけが、分からなかった。

 気がつけば、男はもう背を向けていた。

 淡々とコンテナの影へと歩いていくその背中を、言葉も出せずに見送るしかなかった。

 理解はできない。けれど、はっきりと分かる。

 あの男は、名も、術も、何一つ語らずに、すべてを支配していた。

 そう──

 あれは、予測ではない。演算でもない。

 未来を“読んでいる”のではない。

 “見えている”のだ。

 

「……こっちは終わったよ……いや、いいんだよ。お前ら守れるように頑張らねぇと……ああ、分かった……じゃあ今日も拘束ぷれ……あ、切られた」

 

 深い闇の中に、男の声が溶け込んでいった。

 

 

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