魔法科高校の時間奏者   作:cart_strange

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2話

 

 

 金属製の扉が、軋む音を立てて開いた。

 それと同時に、冷たい空気が肌を刺す。廊下の奥には、赤い警報灯が点滅し、警備魔法の作動音が低く響いていた。

 

『行くぞ、真夜!』

 

 少年が少女の手を引いた。その手はあたたかく、力強かった。

 少女は戸惑う暇もなく、ただ彼の背に引かれるまま走り出す。裸足の足音が無機質な床に鳴り響く。

 施設内は、無機質な白と灰色で統一された閉鎖空間。

 壁には視線を感じる監視カメラ。天井には機械仕掛けの動きがあるたびに、機銃型の装置が回転する。

 それでも少年は立ち止まらなかった。

 

『右だ!』

 

 角に差し掛かると、迷いなく指示を飛ばす。

 

『待って、なんで分かるのよ!? そっちに行ったら、警備が──』

『来ない。今は通路の分岐を迷って、別のルートに回ってる』

『……なんで、そんなこと……』

 

 少女は思わず問いかけながらも、走る足を止められなかった。

 先を行く少年の背中には、もはや軽率さや冗談めかしさはなかった。

 魔法のような回避。事前に知っていたかのような警備の動き。

 まるで、“未来を見ている”かのような。

 

『ちょっと、あなた……いま、何してるの……? 魔法?』

『たぶん、魔法……だとは思う。だけど、よくわかんねえ。身体が勝手に動くんだ』

 

 返ってきた答えは、どこか頼りなさと不可解さが混ざっていた。

 

『目の前の未来が、こう……バラバラに分かれて見える感じ。でも“これはやばい”“これはセーフ”ってのが、なんとなく分かる。選ぶっていうより、そっちに勝手に動いてる』

 

 少女は言葉を失った。

 それは、ただの反応速度や勘の領域ではなかった。

 確かに彼は、起こる前の出来事を“知って”いた。

 

『なんなのよ、それ……予知? 未来視?』

『さあな。ただ、転生するときに何かしらの力を貰ったんだ。俺がそれを、たまたま使えただけで』

 

 言いながら、少年は廊下の天井に視線を向ける。

 照明の点滅と同時に、センサーが作動するタイミングを読む。

 右手をかざし、わずかに情報干渉の術式を展開──

 センサーが作動する0.3秒前に身を伏せ、わずかな死角を通過する。

 

『いまだ!』

 

 少女もそれに倣うように、彼の背中を信じて動いた。

 通り過ぎた直後、赤外線レーザーが警告音とともに床を焼く。ほんの数秒の差だった。

 

『い、一歩間違えたら──』

『だから間違えてねぇって。見てたんだよ、“どっちに逃げたら撃たれないか”をな』

 

 言いながらも、少年自身もその力の正体を掴みきれていないことを自覚していた。

 思考より先に体が動き、意識は“少し先の感覚”を後追いしているような妙な違和感。

 それは便利であると同時に、どこか不気味な力だった。

 だが今だけは、その違和感も悪くなかった。

 

 ──誰かを守れるなら、この力を使っていい。

 

 そう思えたのは、背後に少女の存在があったからだった。

 

『もう少しで非常階段に出る。外気の感知センサーがあるから、タイミング合わせるぞ』

『うん……分かった』

 

 少女は息を整えながら、頷いた。

 さっきまでと違い、声に芯があった。

 信じられなかった。

 最初は、ただの冗談みたいな子だと思っていたのに。

 今は、この背中が、誰よりも頼もしく思えた。

 

『大丈夫だ。お前のことは、死んでも守ってやる』

『……蒼士さん』

 

 あと少し。あと少し──

 非常扉まで、あと十メートル。

 

 ここまで来れば、もう少し。──そう思ったはずだった。

 

 その時だった。

 ゴウン、と鈍い音とともに天井の通気口が裂け、重たい塊が床へ叩きつけられるように降ってきた。

 着地と同時に、金属床がたわみ、空気がピリつく。

 視線の先、立ち上がったのは一人の男。黒い戦闘スーツに身を包み、両腕には軍用の外骨格と大型CAD。

 体格は並外れており、装甲越しでも分かる筋肉と重厚な魔力の流れが、まるで獣のような圧を放っていた。

 

『追いかける手間が省けたな。ここでおしまいだ』

 

 男が低く唸る。

 瞬間、視界がゆがむような錯覚とともに、空間に魔力の歪みが走った。

 

 ──来る。

 

 少年の中で、何かが“跳ねた”。

 思考より早く、視界の端に“幾つかの未来”が浮かび上がる。

 男の足の動き、肩の傾き、CADの冷却音──そのすべてが数秒先の行動パターンとして映り込む。

 言葉では説明できない。

 けれど、たしかに“見えた”のだ。どこに逃げれば助かるのか。何をすれば死なずに済むのか。

 迷いなく身体が動く。横に跳ぶ。床が焼け、熱風が背中をかすめた。

 間に合った──はずだった。

 

 しかし。

 

『ほお、読んでやがったか……なら』

 

 男のCADが、再び起動する。先ほどよりもさらに無駄のない、滑らかな動き。

 次の瞬間、未来が──“見えなくなった”。

 

(え……?)

 

 さっきまであった“感覚”が、ぷつりと途切れた。

 どこにも光がない。何も“浮かばない”。思考が宙に浮いたような不安。

 回避パターンが出ない。反応が遅れる。

 男の魔法が来る。熱が迫る。身体が動かない。もう間に合わない。

 

 ──そのとき。

 

『……下がってて、蒼士さん』

 

 静かに、けれどはっきりとした少女の声が、空気を断ち切った。

 視界の隅から現れたのは、黒髪の少女。

 凛とした瞳が真っ直ぐに敵を見据え、白い肌の下に冷たい意志を宿していた。

 その名は、四葉真夜──十二歳。けれど、その場に立った瞬間、空気は完全に彼女のものになった。

 

『……あなた達には連れ去られた恨みがありますので』

 

 敵が反応するよりも早く、空間が光に満たされる。

 彼女の周囲に、幾重にも重なる魔法式光環が浮かび上がる。

 まるで星の輪のように輝きを放ち──

 

『な、なんだこれは……!?』

『──終わりよ』

 

 その一言と共に、閃光が、降った。

 無数の熱光束が、まるで空から舞い落ちる隕石のように、怒涛の勢いで敵に降り注ぐ。

 一発一発が人間を即死させるだけの高出力。それが何十、何百と同時に放たれ、敵の回避ルートを完全に封じていた。

 男が展開した防御魔法は、一発目で蒸発した。

 二発目で外骨格が割れ、三発目で地面がえぐれ、五発目で声が絶えた。

 

『なっ……が、あ、ああああああっ──!!』

 

 叫びも、最後には音にならなかった。

 数秒後。

 そこに残っていたのは、焼け焦げた床と、崩れ落ちた金属の塊だけだった。

 魔法が、すべてを黙らせていた。

 真夜は、何事もなかったかのように歩み寄る。

 少年の前に立ち、柔らかく口を開いた。

 

『大丈夫?』

 

 優しい声音。十二歳の少女のそれだった。

 だが、少年の背筋には、まだ焼け残った空気が張り付いていた。

 

『お前……今……なにを……?』

『なにって、ちょっと怒っただけよ?』

 

 それだけを告げて、微笑んだ。

 名も、詠唱も、何もなかった。

 ただ、彼女が“そうしようと思った”だけで、世界が従った。

 

 ──この少女はいずれ、世界最強と呼ばれる。

 

 まだ誰も知らない。

 だが、その片鱗は、確かにそこにあった。

 

『……すまん、今ちょっと脳が混乱してる。頭を……その綺麗な足で踏んでもらえたら治るかも──』

『──ふんっ』

『ぎゃっ!? 足の親指だぞそこは!?』

『……私の、トキメキを、返してっ!!!』

 

 

 

 

 

 

 四葉家──その名を耳にするだけで、会話が一瞬止まることがある。

 何の変哲もない会議の場であっても、和やかな食卓の空気であっても、「四葉」の名が持つ意味は重い。

 笑みを浮かべていた者が、ふと視線を落とし、別の話題へとそらそうとする。

 まるで、その名を話題にするだけで、何かを“知られてしまう”ような、不穏な気配を伴っていた。

 十師族の筆頭。表に出ることのない影の支配者。

 彼らが本気で手を伸ばせば、政財界すらも静かに形を変えていく──そんな噂は都市伝説ではなく、裏付けのある事実として囁かれていた。

 

 その実態を誰も知らない。だからこそ恐れられる。

 

 四葉の人間は感情を持たない──

 そんな言葉が、都市部の魔法科関係者の間で真顔で語られるほどに、彼らの在り方は“人間離れ”していた。

 

 血の繋がりより力を重んじ、優秀な者を押し上げる非情な選別。

 人造魔法師の噂。

 人が“兵器”として育てられたという噂話が、冷たい事実として信じられていた。

 そして、そのすべての中心に座すのが、当主・四葉真夜。

 彼女を実際に見た者は少ない。けれど誰もが、異口同音にこう語る。

 

 ──あの女は、美しくて、恐ろしい。

 

 その微笑みは飴細工のように繊細で、息を止めて見惚れるほどに華やかだ。

 だが、その裏にあるのは、人の心を見抜き、握り潰す冷酷さ。

 四葉家とは、そういう女を戴く家だと、人々は理解していた。

 関わるべきではない。

 だけど、無視できる存在でもない。

 四葉家とは──尊敬と、畏怖と、警戒がないまぜになった“絶対的な異質”だった。

 

「……まあ、四葉の名を背負えば、それなりの厄介事はつきまとうの。あなたも、少しずつ理解していかなくちゃね」

 

 午後のひととき。

 本殿の母屋の一角、障子越しに柔らかな陽光が差し込む座敷で、真夜はゆっくりと紅茶を口に含んだ。

 白磁のカップを持つその指先には、かすかな疲労が滲んでいる。多忙な当主としての務めをこなす傍ら、こうして小さな休息の時間を息子と共有するのが、彼女にとってわずかな癒しでもあった。

 向かいの椅子に、両足をぶらぶらさせながら座っているのは、まだ八歳の蒼夜。大きなマグカップを両手でしっかりと抱え、中に注がれたミルクティーの香りに鼻をくすぐらせながら、首をかしげた。

 

「うーん……“やっかいごと”って、なんか難しいなぁ」

 

 その幼い言葉に、真夜はくすっと笑う。

 息子の無垢な言葉に触れた時、自分がまだ“母”でいられると感じられる瞬間でもある。

 

「たとえばね、蒼夜さん。あなたが“四葉”って名乗るだけで、びっくりしたり、避けたりする人もいるかもしれないってことよ」

「そっか……。でも、四葉って悪い人ばっかじゃないよね? おじいちゃんも優しいし、叔父さんたちも面白いし……。みんな仲良しなのに」

 

 その言葉に、真夜は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。彼の見ている“家族”が、恐れではなく愛情で繋がっていることが、何より嬉しかった。

 

「ふふ……あなたの感じる四葉は、そういう場所であってくれて嬉しいわ」

 

 真夜の微笑みに、蒼夜はちょっと照れたようにうつむいた。

 

「でもさ、なんで“こわい”って思われちゃうのかなぁ……」

 

 その問いかけに、蒼夜はふと父──天城蒼士に視線を向ける。

 ちょうど電子書籍を読んでいた蒼士が、目線だけをこちらに向けてきた。

 

「……なんだ? さっきからこっちチラチラ見て」

「いや、その原因って父さんなのかなーって思って」

「えっ? な、なんで?」

「だってこの前さ、酔っ払ってた時に、“フルチンで国ひとつ滅ぼした”ってでっかい声で言ってたじゃん」

「言ってない! ……いや、ちょっとだけ言ったかもだけど!? もうちょっと言い方があるだろ!」

 

 蒼士の声が裏返ったその瞬間、真夜の手が止まる。

 カップが静かにテーブルへと置かれた。その仕草には特別な怒気はない。だが、家族の誰もがそれが“警告”であることを知っている。

 

「……蒼士さん?」

 

 その一言。声に色はなく、けれど剣より鋭い。蒼士の背中に冷たい汗が滲む。

 

「はっ、いや違う! お前だって知ってるだろ!? 救出中に服燃えちゃったからであってだな……っ」

「うわ〜、ほんとだったんだ……! 父さん、やっぱすごい! 正義のヒーロー“ポコチン魔法師・蒼士”だ!」

「……やめてくれその称号……!」

「かっこいいのに、なんで?」

 

 無邪気な瞳でそう言われて、蒼士は耳まで真っ赤にして頭を抱える。対する真夜は、額に手を当て、深々と溜息をついた。

 

「……どうしてうちの子は、そんな方向にだけ素直なのかしら……」

「いや、まあ……子供の感性ってやつで……」

「あなたが“変な方向”に育ててるんでしょうが」

「ま、まぁ、大丈夫だって、俺のムスコだって立派に──あ、すみません」

 

 鋭い目を向ける真夜に、蒼士がすっと姿勢を正す。そのやりとりを、蒼夜はくすくすと笑いながら見つめていた。

 

「そう言えば、そろそろ達也さんたちもいらっしゃる頃ではないかしら」

「うん? ああ、確かに」

 

 ふと時刻を確認すれば、確かに彼らがこの屋敷に到着する時刻でもある。

 

「よし、なら気合い入れておままごとやらねぇとな!」

「おままごと?」

「そう、女の子たち喜ぶんだよ」

「ふふっ、そう。因みに、誰がどの役をやるのかしら」

「達也がお父さん、お母さんが亜夜子、俺が兄で深雪が妹──あと文弥がその妹で葉山さんと元蔵じいちゃんと青木さんがペット!」

「「…………は?」」

「んじゃ、行ってくるー!」

「ちょ、大物入ってなかったか今──っ!?」

 

 蒼士の声は虚しく空を切り、その後ろ姿を見送りながら、真夜は三度目の天を仰いだ。

 静寂が戻った座敷に、暫くして、ふと、ひとつの笑い声が生まれた。

 

「……ふふっ」

 

 先に吹き出したのは真夜だった。控えめながらも、どこか堪えきれなかったような笑い。その空気に釣られるように、向かいに座っていた蒼士も、肩を震わせながら笑い出す。

 

「……まったく、誰に似たんだか、あの感性は」

「本当にね。いったいどちらの影響なのかしら」

 

 口ぶりこそ他人事めいているが、視線がふと交われば、どちらからともなく小さく苦笑を漏らす。どこかで自分の責任を察しているからこそ、押し付け合いたくなるのだろう。

 無邪気な息子の突拍子もない発想は、時に大人の理解を超えてくる。だが、それが憎めないどころか、むしろ愛しくて──だからこそ、ふたりは笑うしかないのだ。

 

「……私じゃないわよ。あんな妙なネーミングセンス」

「俺でもない。……たぶん」

「嘘おっしゃい」

 

 真夜は小さくため息をつくと、すっと椅子から立ち上がる。もう冷めてしまった紅茶のカップには目もくれず、ゆっくりと蒼士の隣に歩み寄った。

 何も言わず、その右隣に腰を下ろす。そして、まるで初めからそうすることが決まっていたかのように、自然な動作で肩に小さく身体を預けた。

 

「……少しだけ、貸して」

 

 その声は囁くように小さく、どこか疲れのにじんだものだった。日々、幾多の判断を求められる立場。冷酷無比とまで言われる四葉の当主──その仮面の裏にある、ただの一人の女性としての姿を、彼女は蒼士にだけ見せることができた。

 蒼士は何も言わず、手にしていた電子書籍リーダーを閉じる。そして左腕をそっと真夜の肩に回し、その温もりを受け止める。そこに言葉はいらなかった。ただ、彼女の存在を支えることが、今の自分の役目だと理解していた。

 

「……お疲れ様。今日は、特に忙しそうだったな」

 

 蒼士の低く落ち着いた声が、真夜の耳に優しく響く。

 

「ええ……朝からずっと気の抜けない予定ばかりで。でも、蒼夜と話していたら、少しだけ楽になったの。あの子の存在って、本当に不思議……それにね」

 

 言いながら、真夜は肩口に顔を寄せたまま、ふっと微笑む。

 

「あなたがいるから、私は折れずにいられるのよ」

 

 そのひとことに、蒼士の胸の奥にふわりと灯がともる。普段は決して口にしないような想い。そんな脆さを、自分にだけ預けてくれるという事実。それは、彼にとってこの上なく尊いものだった。

 

「……そんな甘いこと言ってると、“極東の魔女”の仮面が剥がれちゃうぞ?」

 

 からかうような言い方とは裏腹に、手は優しく彼女の髪を撫でていた。

 

「あなたの前で仮面なんて、最初から被った覚えはないわ」

「そりゃあ光栄」

 

 そう言いながら、蒼士はそっとクッションを膝の上に置いた。

 

「──少し、寝るか?」

「ええ、そうするわ」

 

 真夜の頭が蒼士の膝の上にそっと乗る。頬が布地に触れたその瞬間、真夜は静かに瞼を閉じた。春の風が障子越しに吹き抜け、庭の枝を優しく揺らしている。ふと香る花の匂いに包まれながら、座敷には穏やかな午後の気配が満ちていた。

 そこには、“四葉家”の名が持つ圧力も、異質な恐怖もない。ただ、ひと組の夫婦が寄り添い、静かに息を重ねるぬくもりだけがあった。

 

「元蔵さんたちがペットって……みんなで“ワン”とか“にゃー”とか言うのかな。なんか、こう、ぐっと来るものがあるというか、さすが死神の名は伊達じゃないな」

 

 唐突に思い出したのか、蒼士が苦笑まじりに呟いた。

 

「やめて。考えただけで胃が痛くなってくるわ……」

「まぁ唯一の懸念点があるとしたら、俺のコスプレ用品を蒼夜が持ち出してないかってことだな」

「……ちょっと待って。それは一体、どういうことかしら?」

「えっ……あー……昔、お前に付けてもらった猫耳とかさ? メイド服、チャイナドレス、ナース、巫女服……あとは──」

「──黙りなさい」

 

 その先を言う間もなく。

 ごすっ、と音を立ててクッションが沈む。真夜の拳が、ごく流れるような軌道を描いて蒼士の脇腹に突き刺さった。

 淡々とした口調とは裏腹に、その一撃には愛情と呆れと、ほんの少しの羞恥が絶妙なバランスで混ざっていた。

 

 「ぐふっ……お、俺の脇腹が……」

 

 蒼士は小さく呻いた。彼の膝の上で、真夜の頭がわずかに揺れたものの、膝枕は無事だった。

 ふたりの間には、不思議な静けさが広がっていく。

 笑いの余韻の中で、真夜がふと、ぽつりと呟いた。

 

「私ね、あなたのお陰で幸せよ」

「急に死亡フラグみたいなのを立てるなよ。まだこれからだろ?」

「……そうね」

 

 真夜は微笑みながら応じる。その唇に浮かぶ微かな笑みは、穏やかな愛情のかたち。

 

「お前が寿命を全うしそうになったときさ──もう一度、今のセリフを言わせるからな」

 

 蒼士の言葉に、真夜の肩がわずかに震えた。

 

「それまで、覚悟しとけよ?」

「……ふふっ、ばか。もう十分すぎるくらい幸せよ」

 

 真夜は思わず目を細めた。

 

 

 

 

 

 

 

 四葉本邸の地下訓練場。

 無機質なコンクリートの床に、淡い光が等間隔に射している。天井から吊られたライトが、対峙する二人の少年の影を静かに浮かび上がらせていた。

 

 右──天城蒼夜、八歳。

 左──司波達也、同じく八歳。

 

 二人の間には、言葉にならない空気が流れていた。

 だが、それは敵意ではない。

 信頼と敬意。

 そして、幼いながらも確かに存在する“勝ちたい”という純粋な感情。

 

「じゃあ……始めよっか、達也」

 

 蒼夜の身体が、爆ぜるように踏み込んだ。床を蹴る音すら、ほとんどない。無駄な力を極限まで削ぎ落とした低姿勢の突進は、教え込まれた通りの理想的な動き。右足に乗せた重心から、鞭のようにしなる腰の回転を乗せ、拳を滑らせるように突き出す。

 

 だが──その拳は、空を切った。

 

(え──?)

 

 一瞬、視界から達也の姿が掻き消える。だが錯覚ではない。確かに達也はそこにいた。ただ、その“存在感”が、まるで霧のように薄くなる。体術的な技術──いや、魔法の“気配の断絶”すら伴う動きだった。

 

 肩口に鈍い衝撃。

 

 振り返るより先に、蒼夜の身体がたたらを踏んで後退する。背中を取られたのだと気づいた時には、すでに達也は距離を取って静かに構えていた。

 

「……やっぱ、すごいな」

 

 蒼夜の唇から、自然とその言葉が漏れる。

 

 この一撃は本気ではない。殺気も力も抑えられていた。だが、見えない。感じられない。それが“怖い”とさえ思うほどに、達也の動きは洗練されすぎていた。

 体格はほとんど同じ。年齢も、訓練歴も似たようなもののはず。それなのに、立っている“地平”がまるで違う。

 

(何が違うんだ……)

 

 体捌きか、予測か、重心の置き方か。いや、全部だ。すべてが“完璧”すぎる。

 蒼夜は拳を握り直した。

 悔しい。でも、それ以上に──嬉しい。

 この男に並びたい。この男と戦い続けたい。心の奥で、強くそう願っていた。

 次の瞬間、地面を蹴る。

 今度はフェイントを混ぜて、重心の揺さぶりを加える。達也の目の動きがわずかに変化した。読み合いが始まっている。蒼夜の中に、熱が灯る。

 

 けれど、やはり──速い。

 

「──っ!」

 

 右の拳を突き出した、その懐の下から、真空の刃のような達也の蹴りが滑り込んできた。脛の神経を的確に捉えられ、全身に痺れが走る。重心を崩され、体勢が乱れた。

 そこからの数合は、一方的だった。蒼夜は後退を強いられ、防戦に徹するしかない。だが、彼の顔は苦しさではなく、歓喜に、爛々と輝いていた。

 

(届かない。でも──背中は、見えてる)

 

 だからこそ、追いかけたい。

 だからこそ、何度でも、この壁に挑みたい。

 

「いいよ、達也。魔法、使って」

 

 その一言に、達也の表情がわずかに揺れた。

 それは、無邪気な許可ではなかった。蒼夜は“それ”を知っている。だからこそ、恐れもせずに促しているのだ。

 

 ──《分解》。

 

 対象の構成情報そのものに干渉し、物理的な存在すら消去してしまう司波達也の異能。

 それは破壊ではなく、「抹消」に近い。空気中の分子だろうと、複雑な魔法構造だろうと、“存在の構成式”に触れた瞬間、そこにあったものは情報単位で解体される。

 

 その危険性ゆえ、達也はふだん決して気軽に使おうとはしない。だが今、目の前の友はそれを知った上で、真正面から受け止めるつもりでいる。

 

「本当に……いいのか?」

「うん。だって俺たち、そういう“勝負”をするためにここにいるんでしょ? それにお互いの魔法披露するの何気に初めてじゃん」

 

 蒼夜は、にこりともせずに真っ直ぐ達也を見据える。その眼差しは、挑戦であり、絶対的な信頼だった。

 

「行くぞ、蒼夜」

 

 一言だけの宣言。そして、無音の発動。

 達也の「精霊の眼」が、蒼夜の右肩の構造情報を完全に捉える。

 その視線がロックオンされた瞬間、そこに存在していた空間の一部が、“無”に還った。

 だが、その“無”が生まれるコンマ01秒前、蒼夜の身体は、既にそこになかった。

 

(──今、“視た”……!)

 

 《時因位相展開(クロノス・フェーズ)》。

 達也が《分解》を発動させるという“原因”を感知した瞬間、蒼夜の脳内には、そこから派生する無数の未来の可能性が、走馬灯のように流れ込む。

 右肩が消滅する未来。左に避けて、右足が消滅する未来。後ろに跳んで、腹部が消滅する未来──。

 その、絶望的な未来分岐図の中から、彼は、たった一つだけ存在した「右肩を、コンマ数秒早く、後ろに引くことで、分解の座標指定からギリギリで外れる」という、極めて確率の低い、生存の未来を“選択”した。

 

 

「……すごいな。俺の《分解》を、避けたのか」

 

 初めて、達也の無感動な声に、純粋な驚きが混じった。

 

「……まだいけるよ」

 

 蒼夜は、その驚きに対し、静かに言葉を返した。

 だが、次の瞬間。

 

「なら……これはどうだ?」

 

 達也の思考が、さらに加速する。

 一体ではない。二点。蒼夜の右肩と、左足。その二箇所を、0.1秒のディレイをかけて、同時に《分解》する。

 未来の選択肢を、意図的に潰しにかかる、あまりに非情な一手。

 蒼夜の脳が、悲鳴を上げる。

 右肩を避ければ、左足が消える。左足を庇えば、右肩がなくなる。

 

 (……くっ、詰み、か……!?)

 

 その瞬間、彼は、賭けに出た。

 自らの《クロノス・フェーズ》の演算を、意図的に乱し、「前方に突っ込む」という、達也が予測していないであろう、自殺行為にも等しい偽りの未来を、達也に“誤認”させた。

 達也の「精霊の眼」が、その偽りの未来を捉え、照準がわずかに前にずれる。

 その、一瞬のズレ。

 蒼夜は、前ではなく、真下へと、全身の力を抜いて崩れ落ちた。

 彼の頭上が、二条の《分解》によって、空間ごと抉り取られる。

 

「っ……やるな、蒼夜……!」

 

 その意表を突く動きに、達也の反応が一瞬、遅れた。

 その隙を突き、床を滑りながら間合いを詰めた蒼夜が、掌から不可視の衝撃波を放つ。

 空気が歪み、達也の足元が、わずかにふらついた。

 

 だが──

 その時、達也の瞳は、既に、崩れ落ちた蒼夜の、その先の着地点を捉えていた。

 まるで、その反撃すら、計算の内だったとでも言うように。

 

 ──未来は、読み切れなかった。

 

「……しまっ──」

 

 蒼夜の頬に、ひやりとした“存在の揺らぎ”がかすめる。寸前で身を捩じり、倒れ込むようにして地面を滑った。

 達也がそっと手を下ろす。

 

「俺の勝ちだな」

 

 息を切らしながら、蒼夜は口元に苦笑を浮かべた。

 

「……やっぱ、達也には敵わないや」

「でも、一回は驚いたぞ。まさか《分解》避けるとは思わなかった」

「へへ……そりゃ、俺だってちょっとは成長してるもん」

 

 ふたりは顔を見合わせると、同時に笑った。

 

 ──まだ八歳。

 だが、未来に立つ天才たちは、確かにここにいた。

 

 

 

 

 

 地下訓練場──その観測室の奥、分厚い防音ガラス越しに、ふたりの少年が並んで歩いていく姿が見えた。

 戦闘は、すでに終わっている。

 空気には、まだ仄かに魔法演算の残滓が漂っていた。残響のように揺れる微細な魔法式の欠片。それらが沈殿し、再び静寂へと溶け込んでいく様は、まるで激しい嵐の通過を証明するかのようだった。

 

「……やれやれ、これは驚かされたな。まさか、あの分解を真正面から凌ぎきるとはな」

 

 四葉英作は、静かに茶をすすりながら呟いた。声に驚きと、そして深い安堵が滲む。

 

「しかも、一度や二度の読みではない。戦いの最中、即座に“上をいかれた”状況に対応していた……我々の若い頃とは、比べるのもおこがましいな」

 

 その隣で、元蔵がゆっくりと頷く。

 

「うむ。あの歳で……あれほどの戦闘思考を持ち、なおかつ“余裕”すらある。達也の戦闘センスも規格外だが──蒼夜も、引けを取らぬ」

 

 英作の眼差しが、訓練場の二人に向けられる。視線は鋭さを帯びているが、そこにはどこか、孫を見るような温かさがあった。

 

「──強さだけではない。あの子たちには、“信頼”がある。だからこそ、あのレベルでやり合える。遠慮も、躊躇もない。互いの全力を理解し、正面から受け止めようとしていた」

「うむ。蒼夜が、“彼の分解を真正面から受ける覚悟”を見せたとき、確かに、あの子は一段、階段を登ったな……」

 

 元蔵は、しみじみとした声でそう口にした。老いた身体には似つかわしくない鋭い観察眼が、なお健在であることを物語っていた。

 

「達也くんは……本当に異質だ」

 

 その言葉に、元蔵も無言で同意する。観測ログの映像を巻き戻せば、幾度も確認できるのだ。彼が敵意と見なしたものに、どれだけ容赦がないかを。

 

「分解。対象の構成要素を直接視認し、魔法の演算をすっ飛ばして“存在そのもの”を破壊する。CADも不要──もはや魔法というより、現象の操作だ」

「精霊の眼を通じて座標情報を補足し、無音・無詠唱で対象を削除する。少年の姿をしているが、あれは“人間”じゃない。“兵器”だ」

 

 淡々と語られる達也の恐ろしさ。それはすでに魔法師の枠すら逸脱していた。

 だが。

 

「……それでも、あの子は“孤独”だ」

 

 英作の声は、ふいに柔らかさを帯びた。

 

「強すぎるがゆえに、“恐れ”と“役割”だけを背負わされてきた子供。だが……蒼夜と並ぶ姿は、まるで“等しい友達”だった。まるで、達也の心がほんの少し、救われているように見えた」

「そうだな」

「2人の強さは、やがて四葉の名を──否、“魔法師社会”全体を揺るがすやもしれんな。兄上は、どう思われる?」

 

 その問いに、元蔵は一拍、考えるように沈黙した。

 そして、ふっと微笑む。

 

「安泰であると、信じたい。だが……」

「だが?」

「同時に、不安もある。力を持つ者が真に望む“優しさ”を忘れぬように、周囲が導けるかどうか──それは、我々年長者の務めだろう」

 

 その言葉には、四葉家を率いてきた者としての、静かな覚悟が込められていた。

 

「そして蒼夜もまた、真夜の息子であり、蒼士の子でもある。二人の資質が混ざり合い、さらなる高みを目指せる器だ」

「うむ。そして──真夜の血脈が持つ、あの“精神干渉系”の素質も、すでに片鱗を見せている。まだ制御には遠いだろうが、いずれ……」

 

 英作が言いかけたとき、観測室の扉がふと開いた。

 そこに現れたのは、紅茶の香りをまとった真夜だった。

 

「──どうやら、私達の息子たちが、少し騒がせたようですわね」

 

 優雅な口調に、英作も元蔵も肩の力を抜く。

 

「いやいや、素晴らしいものを見せてもらった。我々がこの齢まで生きていて、本当に良かったと思える時間だったよ、真夜」

「……感謝いたします。ですが、まだまだ、蒼夜は未熟です」

 

 そう言いながらも、真夜の口元には確かな誇りが浮かんでいた。

 その笑みに、元蔵がふっと小さく頷く。

 

「未熟であるからこそ、これからが楽しみだ。我々の“未来”が、こうして生まれてくる」

 

 観測室のガラス越し、並んで歩く達也と蒼夜。その背中が、四葉家の未来を映していた。

 

「ところでお父様、英作叔父様」

「なんだ?」

「ん?」

「……あまり踏み込みたくはなかったのですが……頭のソレはなんですか?」

「「……これをつけたら蒼夜と深雪が喜んでくれたんだ」」

「……他の子供達が引いてる時点で、察して下さい」

「「す、すまん」」

 

 老いも若きも、そして家族も。 こうして“今”を共に笑えることが──何よりも幸せなのだと、誰もがどこかで実感していた。

 





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