四葉家において「監視」とは、決して不信の表れではない。
それは、異能を宿す者たちが時として秩序を脅かす存在であるという、魔法師社会における冷徹な現実に即した──極めて合理的な制度である。
現当主・四葉真夜が幼少の折に大漢の工作員によって誘拐されかけた事件は、今なお一族に深い影を落としている。以来、後継候補や突出した才能を持つ者には、“ガーディアン”と呼ばれる物理的な護衛兼監視役を配するのが常となった。
その役目は表面的にはボディーガードと大差ない。しかし、制度の本質は異なる。ガーディアンに報酬は支払われない。衣食住と必要最低限の生活支援は保証されるが、それは保護ではなく管理の延長線上にある。
一度任命されれば、任期は存在しない。辞退は許されず、唯一の解任権限はマスターまたはミストレスに帰属する。選ばれた瞬間から、その人生は“忠誠”という名の鎖に繋がれることとなる。
だが、それでもなお、多くの者がガーディアンの称号を誇りに思う。選ばれること自体が、四葉家における“絶対の信任”と“戦力評価”の証にほかならないからだ。
──もっとも、その物理的な監視制度を頑なに拒み続けている、稀有な例外が2名いる。
天城蒼士。そして、その息子・蒼夜。
理由は、驚くほど単純明快だった。
『護衛とか、いらない』
『勝手についてくんなー!』
父子揃って見事なまでの拒絶。説得も交渉も無意味と判断された末、配備されたガーディアンが任務開始からわずか数分で対象を見失い、任務失敗に終わるという前代未聞の事態を招いた。
しかも蒼士に至っては、監視を撒いたうえで、当主である真夜に向かってこう言い放ったのだ。
『だから言っただろ、無意味だって』
涼やかな表情で笑いながら、まるでそれが当然の帰結であるかのように。
さらに厄介なのは、その二人が、むしろ逆に自ら進んで「護衛になりたい」と名乗り出たことである。蒼士は真夜に。蒼夜は深雪に。
もちろん、即座に却下されたのは言うまでもない。
彼らの存在は、一族の権威構造をあらゆる意味で軋ませ、崩していく。だからこそ、四葉家は常にこの親子を“例外”として特別管理してきたのだ。
(──まあ、物理的な護衛を嫌うのは想定内。だからこそ、あの“お守り”を渡してあるのだけれど)
朝。真夜は邸内の書院で、静かにタブレットを捲りながら、苦笑とともにそんなことを思う。
あの親子がどれだけ自由奔放に振る舞おうと、彼らが電子の蜘蛛の糸から完全に逃れることはできない。蒼夜が常に持ち歩いている、あの蒼士が設計し四葉の技術で作り上げたパーソナルCAD。その内部に組み込まれた極小のチップが、彼が気づかぬうちに、その存在証明を常にこちらへ送り続けていることを、彼らはおそらく知らない。それは、母として、そして四葉家当主としての、最低限の保険だった。
そして、直近の頭痛の種である事件は、またしても、その“例外”親子によって引き起こされた。
そもそも、通常であればあり得ないことだった。 四葉家の直系、ましてや次期当主候補である蒼夜が、不特定多数の民間人が集まる公のイベントに出かけるなど。
だが、発端は夫である蒼士の、子供のような一言だった。
『なあ真夜、今度都内でやる「非戦闘魔法技術展示会」ってやつ、面白そうじゃないか? 蒼夜にも、兵器以外の魔法の可能性を見せてやりたいんだが』
もちろん、真夜は即座に却下した。危険すぎる、と。
しかし、蒼士は食い下がった。「家に閉じ込めてばかりでは、子供の好奇心は歪んでしまう」「大丈夫だ、俺がついている」。問答の末、真夜の方が折れる形となった。ただし、いくつかの絶対条件付きで。
一つ、黒羽家の精鋭諜報員四名を、影のように随行させること。
一つ、四葉の最新技術である、認識阻害フィールドを発生させるブローチを、二人とも身につけること。
そのブローチは、見た目は何の変哲もない、銀細工の小さな装飾品だった。しかし、その内部には、四葉家の技術の粋が詰め込まれている。
起動させると、ブローチは装着者のごく周囲に、特殊なパターンを持つ微弱なプシオンのノイズを放ち始める。それは、周囲の人々の無意識領域に「ここにいるのは、取るに足らない一般人だ」と囁きかける、精神的なカモフラージュだ。
同時に、内蔵された超小型プロジェクターが、周囲の風景に溶け込むような、最も印象に残らない服装や髪形の映像を、幻のようにその身に投影する。
精神と物理、その両面から対象の「個人情報」を偽装し、「その他大勢」の中に完全に埋没させる。これこそ、精神干渉系魔法の大家である四葉家だからこそ成し得た、究極の隠密デバイスだった。
これにより、彼らの顔や姿は、周囲の人間からは「どこにでもいる、印象に残らない親子」として認識されるはずだった。
そう、“はずだった”のだ。
蒼士と蒼夜が、その「非戦闘魔法技術展示会」に来場した日のことである。
民間・官公庁の合同開催による展示会は、平和利用をテーマとした穏やかなイベントだった。黒羽家の監視も、認識阻害も、完璧に機能していた。……事件が起きる、その瞬間までは。
事の発端は、些細な“好奇心”だった。
蒼夜が展示ブースの裏に回った際、警備用の小型索敵ドローンを偶然発見したのだ。稼働状態だったそのドローンは、彼の特異な魔法感知能力──いや、彼の存在そのものが放つ特殊なプシオン波、《時因位相展開(クロノス・フェーズ)》の余波によって、センサー類を誤作動させた。
彼の身に着けていた認識阻害ブローチは、確かに彼の姿や顔の情報を周囲に誤認させていた。しかし、彼の身体から無意識に漏れ出す、規格外のプシオンの“気配”までは、隠しきれなかったのだ。
ドローンのAIは、その未知のプシオン波を「ステルス状態の敵からのサイオン攻撃」と誤認し、即座に自衛行動を開始。
連鎖的に展示会場の他のセキュリティ機器が次々と暴走を始め、無人機のネットワークは雪崩のように制御不能へと陥った。
フロアは非常警報が鳴り響き、逃げ惑う来場者で混乱の極みとなる。たまたま現場に居合わせていた政府関係者も、蒼白の顔でこう口走ったという。
『……あの子供、いったい何者だ? 歩く電子災害か?』
その翌日。
形式的な“自室謹慎”となった蒼夜は、反省の色など微塵も見せず、むしろ目を輝かせながら父にこう言い放ったという。
『今度はドローンを逆にハッキングして操れる魔法、作ってみようかな』
──冗談であってくれ、と報告書の末尾に記された記録員の切実な願いが、事態の深刻さを物語っていた。
(……父親の方が問題かもしれないわね)
報告書を閉じ、真夜は指先で静かにこめかみを押さえる。
蒼士は異世界からの転生者。科学と魔法の境界線が、この世界の常識とは異なる価値観で形成された人物であり、既存のルールという概念の適用が極めて困難な男だ。
CADの分解を趣味とし、魔法式の基本構造を改変することに無上の喜びを見出す。彼の振る舞いは、常に“制御不能”の一歩手前で、危うい均衡を保っている。
そして、その背を見て育った蒼夜もまた、非常識の中に“順応”してしまった。
(──もはや“社会常識適応プログラム”でも本気で検討するべきかもしれないわ)
皮肉でも冗談でもなく、真夜はそう考えていた。
ふと、思考の焦点が切り替わる。今、真夜が最も警戒しているのは、蒼夜が引き起こした電子パニックではない。手元の端末には、昨夜静岡港で発生した“魔法師連続殺害事件”の報告書が表示されている。
港の倉庫地帯で、複数の魔法師と思しき人物が襲撃され、殺害された。
遺体は“原形を留めていない”──この言葉が決して比喩ではないことは、現地調査員の第一報と、それに添付された凄惨な写真が何より雄弁に物語っていた。
顔面、四肢、内臓に至るまで、徹底的に潰され、裂かれ、捻じられていた。
それが魔法の産物か、あるいは鈍器による純粋な物理的破壊かは不明。ただひとつ確実なのは、そこには「見せしめ」であり「魔法師という存在そのものへの憎悪」という、明確な意志が込められていたということ。
そして。
報告書の末尾に添付された写真には、焼け焦げた金属片が写っていた。
その表面に、明確に刻まれていたのは──
“紅き双頭の龍”の刻印。
旧大亜連合の亡霊を彷彿とさせる、呪的で、破壊を連想させる異形の紋章。
真夜は長い沈黙ののち、ふう、と艶のある唇からため息を落とした。まっすぐに伸びたそれは、月へ届くかと思えるほどに深く、重い。過去の亡霊が、今になって自分たちの足元に手を伸ばしてきている。
「さて……どう対処すべきかしら」
「────ふむ」
柔らかな陽が射し込む書院で、九島烈は低く、興味深そうな声を漏らした。
総白髪をきちんと撫でつけ、三つ揃いのスーツを身に纏ったその老紳士は、完璧な所作で湯気の立つ紅茶を口に運ぶ。その佇まいは、軍人としての厳格さと、魔法師の頂点を極めた者としての深淵を同時に感じさせた。
その視線が、向かいに座る少年──蒼夜へと流れた瞬間、空気がごくわずかに波打った。
精神干渉系魔法。
それは、他者の“心”という、最もデリケートな領域に触れる極めて繊細な術式。特に、達人の域に達した烈が放つそれは、もはや魔法というよりは自然現象に近い。春風が頬を撫でるように、秋雨が肌を濡らすように、それは対象に違和感すら抱かせずにその深層へと到達するはずだった。
これは攻撃ではない。純粋な観察。この稀有な才能を持つ少年が、世界の情報をどのように知覚し、処理しているのか。その一端に触れたいという、老練な魔法師の純粋な知的好奇心から放たれた、隠密性を極めた“接触”。
しかし──
(……ん?)
蒼夜の瞳が、わずかに揺れた。
心の奥底に生じた違和感。それは、不快感や恐怖といった粗雑なものではない。静寂な湖面に、名も知らぬ誰かが小石を投げ入れたかのような、小さな波紋。
だが、彼の異常性は、その波紋の「質」を正確に認識したことにあった。
それは、単なる精神的なノイズではなかった。明確な指向性を持った“シグナル”。自分の精神という閉ざされた部屋のドアを、誰かが外から静かにノックしているかのような、明確な“他者”の介在。
並の魔法師であれば、たとえ達人であっても生涯気づくことすら叶わないかもしれない、烈の極めて高度な干渉を、この八歳の少年は「外部からの意図的な働きかけ」として、完全に看破していた。
「……今、じーちゃん何かした?」
問いかけた声はまだ幼さを残すが、その眼差しは鋭く、烈の顔を正面から捉えていた。
問われた内容は、あまりに単純だった。だが、その意味するところは、烈の百年近い魔法師としての常識を根底から揺るがすに足るものだった。
老人は内心の驚愕を完璧に隠し、目を細め、唇の端にわずかな笑みを浮かべる。
「やはり、感知の閾値が上がってきたな。精神干渉系の感受性が育っている証だ」
(……読まれた、のか。私の“思考”そのものが。違う、これは精神感応ではない。もっと恐ろしい。私が送った手紙を、彼はただ読んだだけではない。使われているインクの化学組成、紙の繊維の産地、そして何より、この手紙を書いた私の心理状態までを、一瞬にして完全に解析したような……そんな全能感すら覚えるほどの、圧倒的な情報解像度。恐怖も混乱も、あるいは無知ゆえの平穏もない。ただ、そこにある純粋な好奇心。……なるほど。我々が水中の音を聞くように間接的に世界を“感じて”いるのだとすれば、この子は、水そのものになって世界の全てを“知って”いるのだ。なんと、恐ろしく……そして、美しい才能か)
「やっぱり……なら良かった。じーちゃんの“声”、すごく静かだね」
「声、とはまた……」
この少年は、物理現象と精神現象の境界線を、我々とは全く違うレベルで認識している。彼にとって、空気の振動である「音声」も、プシオンの波である「思考」も、どちらも同じ“他者から発信された情報(データ)”に過ぎないのだ。 烈は、その事実を突きつけられ、背筋に冷たいものが走るのを禁じ得なかった。
蒼夜がほっと胸を撫で下ろすと、烈は平静を装って紅茶を一口含んだ。
「魔法の鍛錬は、怠っていないようだな」
「うん。魔法って、すごく楽しいから」
その言葉に、九島烈は初めて微笑を深めた。戦場を歩き、死線を越えた者にしか持ち得ない、静かな慈しみがその表情に宿っていた。
「なるほど……“貴重な意見”だな」
「きちょうな意見?」
「そう。この世界には、魔法師を“兵器”としてしか見ない者が多い。魔法そのものを、破壊の手段としか捉えぬ者たちがな」
蒼夜は小さく首を傾げた。
かつて四葉家もまた、“人造魔法師”という狂気の末路に手を染めた一族だった。だが、蒼夜の知る四葉は違った。魔法は学び、成長し、誇るべき知性の技術だった。少なくとも、父と母の在り方からは、そう学んでいた。
とはいえ──彼もまた、時折夢に見る。
血と肉が崩れた死体の記憶。焼け焦げた大地。泣き叫ぶ声。
あれが何かは分からない。ただ一つ確かなのは、魔法には「人の心を砕く力」があるということ。
「……じーちゃんは、魔法ってどうあるべきだと思う?」
真正面からの問いに、九島烈は静かに目を閉じた。
しばしの沈黙。その沈黙には、幾多の時代を歩んだ者の、深い呼吸のような重みがあった。
やがて、彼は静かに答える。
「──魔法とは、世界にとって“異物”だと私は思っている」
その響きは予想を超えた。蒼夜の瞳が揺れた。
「異物、って……」
「人が本来持たぬ力だ。自然の摂理を超え、現象を支配する──それは“神の領分”に触れる行為だ」
蒼夜は、口を閉じたまま黙って聞いた。
「だからこそ、魔法師には“己を制する力”が必要だ。魔法とは、振るう力ではない。“治める力”でなければならん」
それは、長い旅路を経た者の戒めだった。
烈の言葉には、かつて制御不能の兵器として散った者たちへの鎮魂が滲んでいた。
「魔法は、万能の力ではない。むしろ、その逆だ。力に溺れた者は、最も大切な“人間性”を喪う」
「……じゃあ、魔法って使っちゃいけないの?」
烈は微かに笑みを浮かべた。
「否。使うなとは言わん。だが、魔法を“知り”“敬う”のだ。愛することも、恐れることもできる者こそが、真に魔法を扱う資格を持つ」
「……敬う、か」
「そうだ。魔法とは、命を救う翼にもなれば、魂を裂く刃にもなる。いずれにせよ、それを選ぶのは“術”ではない。“心”だ」
──だからこそ。
「蒼夜。お前が、恐れずに魔法を愛し続けられるなら──それだけで、私は満足だ」
「……うん。俺、人として強くなる」
「期待しているぞ。未来の希望よ」
──そして。
その厳かな雰囲気は、次の一瞬で粉砕された。
「じゃあ、じーちゃん、これやろ!」
蒼夜の声が弾んだ。手にした袋から何かを取り出す。
「ふむ……?」
烈が眉根を寄せた瞬間、空気が変わった。
少年の両手に掲げられていたのは、ものに目を見開く。
「それは……」
それは、布というにはあまりに面積が心許なく、衣服と呼ぶにはあまりにも着用者のプライバシーに配慮がない、恐るべき代物であった。闇の深淵をそのまま切り取って仕立てたかのような漆黒のそれは、異常なまでの伸縮性を誇る一枚の続き布。身体のあらゆる起伏、筋肉の微細な隆起、果ては骨格のラインまでもを慈悲なく浮き彫りにする、恐るべき密着性能を秘めている。おそらくは、着用者の肉体を極限まで空気抵抗から解放するための特殊な戦闘服、あるいは己の身体の限界と向き合う求道者が用いる修行着の一種であろう。これを身につけることは、すなわち社会的な羞恥心を捨て去り、純粋な肉体言語で世界と対話する覚悟の表明に他ならない。
一説によれば、新体操の妖精や氷上の舞姫たちが、重力を無視したかのような三次元機動を可能にするのも、この「第二の皮膚」がもたらす恩恵なのだとか。
要するに、それは「着用者の尊厳と引き換えに、驚異的な運動性能を約束する、漆黒の悪魔的契約書」とでも言うべき、極めて哲学的な衣類──レオタードだった。
「これね、深雪にも見せたら、しばらく口が開いたままだったの! かっこよかったのかな!?」
「…………蒼夜よ。私の知る限り、感動と絶句は魔法式レベルで構造が異なる。老骨の余に、それは禁忌の領域への挑戦状だと……そうは思わないのかね?」
「うんうん、大丈夫! ほら、じーちゃん腕上げて! スパンデックスが伸びるから!」
蒼夜の手際の良さは容赦がない。あれよあれよという間に、布が老人の肩へと広げられていく。
「ま、待て……私にも尊厳が……っ!」
「はははははっ、じゃ、やろうか」
──もはや、地獄絵図であった。
歴戦の魔法師が、たった8歳の少年の『善意』という名の物理的暴力の前に、なすすべもなく屈していく。世界のパワーバランスが崩れる歴史的瞬間を、誰も目撃していなかったのは、せめてもの救いだった。
烈が全てを諦め、涅槃の境地へと旅立とうとした、ちょうどその時。
「失礼いたしま──す……え?」
襖が開き、現れたのは完璧な立ち振る舞いで静かに佇む四葉真夜だった。彼女の完璧に制御された表情筋が、生まれて初めて「どの感情を出力すべきか」という問いに対する答えを見失った。
「……老師。これは……一体、どのような新手の精神修行ですか?」
「……見ての通りだ。真夜、頼む。私をここから脱出させてくれ。座標はどこでもいい、シベリアの果てでも構わん」
助けを求める老人の姿は、これから己の身に起こる理不尽の全てを受け入れ、来世に期待する修行僧のような、澄み切った絶望の表情を浮かべていた。
そして、その絶望に追い打ちをかけるように、破壊神が降臨する。
「おーい! ここかー? って、なんだこの空気──って、ぬおおっ!? なっつかしいィィィッ!!」
豪快な声とともに、天城蒼士がデリカシーという概念を玄関に置き忘れたまま乱入。その目に、漆黒の悪魔的契約書が映る。
「それ! 俺が昔、真夜にプレゼントしたやつの色違いじゃねえか! いやー、あれは芸術品だった。特に後ろ姿の曲線美が……なあ、真夜!」
にこやかに、妻に同意を求めるという愚行中の愚行。
次の瞬間、室内の温度が絶対零度に向かって急降下し、空間が夜で満たされた。
「……遺言は、それであってるかしら。あなた?」
「え、ちょ、待って! 愛ゆえの発言! 不可抗力! あとで違うバージョン買って帰るからァァァーーーッ!!!!」
闇の世界に響き渡る断末魔をBGMに、蒼夜がやれやれとばかりにため息を吐いた
「……四葉は、変わったな」
「そう?」
「ああ。良くも悪くも……いや、これは良いことなのだろうな。騒々しく、“人間らしく”なった」
不思議そうに見つめる蒼夜の頭をそっと撫でながら、烈は誰よりも四葉の“過去”を知る男として、静かに実感していた。
「蒼夜」
「ん?」
「お前が“普通”と思っているこの光景は、かつて多くの犠牲と涙の上に築かれた、奇跡のようなものだ。いずれその意味を知った時──両親に、感謝するのだぞ」
「……うん、わかった!」
今はまだ、意味は分からずとも。
少年は元気よく返事をした後、純粋な瞳でこう続けた。
「光宣くんに着せてみてもいい?」
誰か四葉と縁を切ってくれと、烈は静かに願った。
「──しかし、蒼夜もずいぶん大きくなったものだな。もう、8歳になるのか」
先程までの喧騒が嘘のような静寂の中、九島烈がふと視線を遠くに流しながら漏らした一言には、幾多の時代を見つめてきた者だけが持つ柔和な響きと、過ぎ去りし日々を慈しむような深い色が混ざっていた。
「はい。子供の成長というのは、時に恐ろしいほどの速度で、私たちの時間を追い越していくものですね」
真夜はそう応じながら、手にしたティーカップにそっと視線を落とす。澄んだ琥珀色の紅茶の液面が、彼女の心の機微を映すかのように、わずかに揺れた。
「ほんの数年前までは、私の後ろをついて歩くだけだった赤子が……今では、時折、私の方がその背中を追いかけているような気にさえなります」
その言葉に、九島烈はかすかに目を細めた。
「……ほう。魔法の、か」
「はい」と真夜は微かに頷く。
「先日、遊びのつもりで、基礎的な知覚系の魔法式をいくつか教えたのです。ですがあの子は、その日の夕食までには、それを自分なりに組み替え……“音”の色を視るなどという、私ですら思いもよらなかったような術を編み出していました。まるで、文字を覚えたての子供が、突然、美しい詩を詠み始めるかのように」
烈は、興味深そうに「ほう」と息を漏らした。それは、単なる才能という言葉では片付けられない、異常なまでの発想の飛躍だ。
この世界の魔法師は、通常、「視覚」は視覚、「聴覚」は聴覚として、それぞれの現象を独立したものとして捉え、その能力を強化する。しかし、この“音の色を視る”という発想は、全く違う。彼にとって、「音(空気の振動)」も「色(光の波長)」も、どちらも同じ「世界を構成する情報(データ)」に過ぎないのだ。そのデータを、まるでパソコンでファイル形式を変換するように、自在に組み替えてしまう。それは、この世界の理を、まるでゲームのプログラムコードを読み解くかのように捉えている者の発想だった。
「その成長は、驚きであり、誇りです。……ですが、」
真夜は、そこで一度言葉を切り、ティーカップをソーサーに戻した。カチャリ、という小さな音が、室内の静寂を際立たせる。
「……あまりにも、速度が速すぎるのです。老師。いつかその才能が、あの子自身の制御を超えて、奔流のように溢れ出してしまうのではないかと……そう思うと、ほんの少し、恐ろしくなります」
その声は夜の湖面のように穏やかだったが、言葉の端々には、息子が自分たちの理解を超えた「何か」へと変貌していくことへの、母としての偽らざる恐怖が滲んでいた。
蒼夜はもはや、“子供”という枠に収まりきらない。
その才能の鮮烈さは、目を細めるほどに眩しく、そして同時に──目を逸らしたくなるほどに、危うい光を放っている。いつかその輝きが、彼自身の身を焼くことにはならないか。真夜の胸をよぎるのは、そんな母親としての根源的な恐怖だった。
「……君の息子だ。その魂に刻まれた異能も、背負う覚悟も、他の子供とは根本が違う。君が抱くその恐怖は、至極当然のものだろう」
九島烈の声には、安易な慰めはなかった。
それはただ、事実を事実として受け止めた者の静かな断言だった。
「その才能は、祝福であると同時に、否応なく背負わせてしまう、重い宿命でもある。数多の才能が、その輝き故に自らを焼き尽くしていく様を、私は嫌というほど見てきた」
烈の言葉は、真夜の不安を肯定し、そして、その先へと導く。
真夜は、その言葉に促されるように、一度ゆっくりとまぶたを伏せ、まるで胸の内に溜まった澱を吐き出すかのように、細く長い息を落とした。
「──けれど、老師。あまりに強すぎる光は時に、闇に潜む悪しきものを呼び寄せます」
「……静岡での事件のことか」
烈の言葉は静かだったが、その内側には、全てを見通しているかのような鋭さが潜んでいた。
真夜は黙って一呼吸置き、静かに頷く
「はい。港湾地区で発見されたのは、若い魔法師たちの、あまりに無残な遺体。……もっとも、黒羽に身元を調査させたところ、いずれも非合法な薬物の売買や、魔法を使った恐喝などで生計を立てていた、ならず者たちだったようですが」
真夜は、事実だけを淡々と、何の感情も込めずに告げた。
「彼らがどのような人間であろうと、私には関係ありません。同情も、憐憫も。ですが、老師。問題はそこではない」
真夜の白魚のような指先が、ティーカップの縁を、まるで獲物の喉笛をなぞるかのように、ゆっくりと撫でる。その優雅な仕草の裏に、悔恨ではなく、絶対的な支配者としての冷徹な怒りが込められていた。
「事件が起きたのは、“私たちの管轄エリア”であるということです。そこで、誰の許可もなく、これほど残忍な見せしめが行われた。殺されたのが、たとえ害虫であったとしても、です。……これは、四葉家に対する、極めて悪質な挑戦状に他なりません」
続けて言う。
「残留思念から読み取れたのは、衝動的で粗雑な魔法式の痕跡。ですが、そこには明確な“意思”がありました。標的は、“魔法師”という存在そのものに向けられた、純粋で、歪んだ憎悪です」
烈の眉がわずかに動いた。
「復讐、か」
「はい。加害者は、旧・大漢の魔法師の残党と見られています」
真夜の美しい瞳に、一瞬だけ、過去の幻影が陽炎のように揺らめいた。かつて己が受けた屈辱。そして、それに対する四葉家の苛烈すぎる報復。血で血を洗う憎悪の連鎖は、焦土の上の静寂をもって終結したはずだった。だが、憎悪の残り火は、決して消えてはいなかったのだ。
「蒼士さんと私が背負った記憶。そして、四葉という家がかつて世界に振るった力……その業火の熱が、長い時を経て、今になって私たちの足元に届いた──そんな気がしてなりません」
数秒の沈黙が、重く室内を満たす。
九島烈は、ただ黙って耳を傾けていた。彼女がその胸の内にある全ての言葉を紡ぎ終えるまで、決して遮らなかった。
「蒼夜は、その業火の中から生まれた子です。終わったはずの戦争。焼き尽くしたと信じていた過去の遺恨が、なお彼の未来に、消えぬ影となって残っている」
真夜は、吸い寄せられるようにそっと目を上げた。
窓の外、完璧に手入れされた庭園では、青々とした芝の上を、蒼夜が深雪たちの手を引いて走り回っていた。澄み切った空に響き渡る無邪気な笑い声が、風に乗って微かに届いてくる。それは、あまりにも平和で、そしてあまりにも、脆い光景だった。
「──あの子には、何も知らずにいてほしかった。“世界の綻び”にも、“過去の罪”にも、決して触れることなく、ただ陽の当たる場所だけを歩んでくれたらと……そう、何度も、何度も願いました」
けれどその願いが、我が子を想う親としての、叶うはずのない淡い幻想でしかないことを、彼女はとうに悟っていた。
「もう、気づいているのです。あの子は。この世界が、ただ美しいだけでも、優しいだけでもないということに」
九島烈は、そっと瞳を細めた。
「彼の目は、見ている。……物事の表面を彩る虚飾ではなく、その奥底に横たわる、因果の深層を」
その言葉に、真夜は微かに笑んだ。
それは、寂しげな、けれど確かな誇りに満ちた微笑だった。
「きっと、私たちが何者であるかを知っても、私たちの過去を知っても、蒼夜は決して誰かを責めたりはしないでしょう。誰かの罪を暴き立てるのではなく──自分が見出した正しさを道標に、未来を歩いていくはずです」
そして、ひとつ、息を吐くように言った。
「……私にできることは、ほんの少しの願いを託すことだけ。あの子の才能が、彼自身の鎖にならぬように……」
九島烈は、ゆっくりと上体を傾けると、静かな声で応じた。
「ならば、君がなすべきことはひとつ。──その歩みに、傘を差してやることだ」
真夜が目を見開く前に、彼は続けた。
「罪の雨が降るならば、濡れぬように。逆風が吹きつけるならば、その小さな背を支えてやる。過去が暗い影を落とすなら、君がその背中に、ひとすじの光を灯してやることだ。──それが、親というものだろう」
それは、幾多の戦場を駆け抜け、魔法師世界の頂点を極めた男としてではなく、ただ一人の、孫を想う祖父としての、深く、温かい愛の言葉だった。
真夜は、ただ黙って、深く頭を垂れる。
彼女が返すべき言葉は、もはやそこにはなかった。
それは、“夜の女王”とまで恐れられた四葉真夜が──
たった一人の“母親”として、そっと神に捧げた、無言の祈りだった。
「して、真夜よ」
「なんでしょう」
「……まさかとは思うが、あの格好は、君の趣味では……」
「ええ。何か問題でも?」
「………………」
「冗談です」
「……心臓に悪い冗談は、やめてくれんか」
二日後。
穏やかな日常を引き裂くように、その報せは届いた。
──蒼夜が拉致された。