魔法科高校の時間奏者   作:cart_strange

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5話

 

 

 

 

 目覚めは、意識が深い海の底からゆっくりと浮上してくるような、鈍い感覚とともに訪れた。

 ごう、ごう、という低く単調な振動が、背中に当てがわれた硬い鋼板を通して全身に伝わってくる。微かな揺れ。錆と潮の混じった、冷たく湿った空気の匂い。

 ここは、船の中だ。

 蒼夜は、石のように冷えた床に横たわったまま、ゆっくりと瞼を持ち上げた。

 呼吸は浅く、乾いた空気が肺に突き刺さる。

 何時なのかも分からない。外界から完全に遮断された空間に時計はなく、窓もない。ここが昼の海を進んでいるのか、夜の闇に潜んでいるのかすら定かではなかった。

 天井に設けられた一灯の防水照明が、静かに、無慈悲に空間を照らしていた。その光は昼夜の区別を持たず、ただ機械的に白を放ち続ける。生命の営みを拒絶するかのような、無機質な環境。

 そして、両手首に、冷たい感触があった。

 見れば、艶のない、黒い金属でできた枷がはめられている。

 

(……なんだろ、これ)

 

 蒼夜は、眉をひそめた。

 知識として知っている、アンティナイトを組み込んだ拘束具。魔法師のサイオンの流れを阻害し、魔法の発動を封じるためのものだ。

 だが、これは、彼が知っているどのアンティナイトとも、感触が全く違った。

 通常のアンティナイトは、もっと受動的なはずだ。魔法を使おうとした時に初めて、その思考に抵抗し、ノイズを発生させる。いわば、「カウンター」型の装置。

 しかし、この黒い枷は違う。

 こいつは、生きている。

 比喩ではない。枷の内側、皮膚に接触している部分から、常に、何か“意志”を持ったものが、彼の神経に直接流れ込んでくるのを感じる。

 それは、微弱で、指向性を持った、不快なノイズの波。

 魔法を使おうとしなくても、ただ存在するだけで、彼の魔法演算領域に、持続的に負荷をかけ続けている。

 まるで、耳元で、意味不明な言葉を、絶え間なく囁かれ続けているかのようだ。

 その囁きは、魔法式の構築を邪魔するだけでなく、彼の思考そのものを、じわじわと、しかし確実に、鈍らせていく。集中力が、削られていく。

 さらに、蒼夜の異常な知覚能力は、この枷の、もっと恐ろしい本質を捉えていた。

 この囁きには、何か“信号”のようなものが含まれている。

 極めて複雑なパターンで構成された、識別コード。

 

(……あれ? なんだろ、このリズム。……もしかして、こいつ、誰かと通信してるのかな?)

 

 この枷は、単独で機能しているのではない。

 より巨大な、外部のシステムと常に連携し、自分の状態を、まるで実験動物のように、リアルタイムでモニタリングしているのだ。

 

 ──つまり、自分をここに幽閉している者たちは、単なる暴徒やテロリストではない。

 

 魔法に対して深い理解を持ち、それを封じるための知識と資金と、そして何より、四葉家に手を出すという“覚悟”を持った集団なのだ。何よりも、まるで、この四葉蒼夜という“存在”を、完全に解析し、封じ込めるためだけに、あつらえられたかのようだった。

 蒼夜はゆっくりと身を起こし、冷たい壁に背中を預ける。

 そして、目を閉じ、自らの内なる魔法演算領域へと、意識を沈めた。

 まずは、現状把握。この最悪の状況下で、自分に何ができて、何ができないのかを、正確に分析する必要があった。

 

(……ダメだ。普通の魔法は、やっぱり使えない)

 

 彼は、試しに、ごく単純な移動系魔法の魔法式を、頭の中で構築しようと試みる。

 だが、思考の第一段階、「座標を指定する」というプロセスに入った瞬間に、枷から放たれるノイズの波が、彼の思考に割り込み、座標データを意味のない情報へと霧散させてしまう。

 これでは、複数のプロセスを必要とする、通常の魔法は、一切使えない。

 

(……じゃあ、《時因位相展開》は?)

 

 彼は、思考の方向性を変えた。

 彼の固有能力である《時因位相展開》は、厳密には、彼が「構築」する魔法ではない。

 それは、彼の脳が、無意識下で常に行っている、知覚そのものだ。

 この枷は、その「感覚」にまで、干渉してくるのか?

 彼は、意識を、集中させた。

 「予測」モードへ、強制的に移行する。

 この閉ざされた船倉の、0.5秒先の未来を、視ようと試みる。

 

 ズキンッ!!

 

 脳を、内側から、万力で締め上げられるかのような、凄まじい激痛。

 枷から放たれるノイズの波が、彼の「予測」という思考に反応し、その強度を、一気に増大させたのだ。

 視界が、ぐにゃりと歪む。

 未来の映像は、ノイズの嵐にかき消され、何も視えない。

 

(……くそっ、やっぱり、意識的に使うのは、無理か……!)

 

 彼は、慌てて「予測」モードを解除し、意識を拡散させる。

 すると、脳を締め付けていた激痛が、すう、と和らいでいった。

 

(……でも)

 

 彼は、気づいた。

 意識的な「予測」は、完全にブロックされる。

 しかし、無意識下で常に稼働している、ぼんやりとした「予感」の方は、完全には、消えていない。

 ジャミングの中で、かろうじて聞こえる、遠いラジオの音声のように。

 ノイズの向こう側から、「危険」や「違和感」といった、断片的な情報だけは、まだ、彼の意識に届いてくる。

 (……なるほど。分かってきた)

 分析完了。

 この枷は、「意識的な、精密な未来予測」は、完全にブロックする。

 しかし、「無意識の、直感的な危険予知」までは、完全には殺しきれていない。

 身体が冷え切っていた。

 「使えるのは、体術と、ぼんやりとした“予感”だけ」という、極めて厳しい制約条件に、ため息が漏れる。

 

 ──勝算は見えない。

 

 敵の規模、目的、作戦思想、内部構造。何一つとして判然としない。不明な要素が多すぎる。

 まるで深い霧の中、羅針盤も持たずに投げ出されたかのようだった。

 

(……静岡の事件の犯人だったりするのかな)

 

 港湾地区で発見された、魔法師たちの無残な遺体。あの報告書で見た、“紅き双頭の龍”の刻印。

 真夜が漏らした、過去の亡霊。

 ふと、あの拉致される瞬間の光景が、脳裏に鮮明にフラッシュバックした。

 

 

 

 

 

 

 あの日の放課後、蒼夜は一人だった。

 彼が向かっていたのは、父・蒼士からこっそり紹介された、古いなじみの工房だった。表向きはアンティークの機械時計を修理する、時代遅れの店。しかし、その地下には、どんな違法な改造であろうと、金さえ積めば請け負うと噂される、腕利きのCAD技術者がいる。

 目的は、蒼士が設計した全く新しい概念のパーソナルCADの、試作部品を受け取ること。

 それは、四葉家の技術体系とは全く異なる、異世界の物理法則を組み込んだ、あまりにも実験的な代物。当然、母・真夜や、家の者には内緒の、父と息子の“秘密のプロジェクト”だった。

 だからこそ、彼は四葉の息のかかった正規の工房ではなく、普段は使わない商業地区の裏手にある、このアングラな工房へ、一人で向かっていたのだ。人通りの少ない、古い商店が並ぶ路地。どこにでもある、見慣れたはずの光景。

 その角を曲がった瞬間、空気の質が、ふと変わった。

 人の気配ではない。

 もっと根源的な、世界の“手触り”とでも言うべきものが、不自然に淀んでいる。

 空間を満たすプシオンの粒子が、まるで澱のように沈殿しているかのようだ。

 これは、魔法が使われようとしている気配ではない。

 ここにいる人間たちの、異常な精神状態──極度の緊張、殺意、そして恐怖といった「感情」が、プシオンの雲となって、この一帯の空気を、重く、粘つかせていた。

 まるで、薄く見えない膜のようなもので覆われているかのような、粘性を伴う違和感。

 

(領域干渉……? いや、もっと悪質な嫌な感じ)

 

 全身の神経が、警鐘を乱れ打つ。

 だが、彼は歩調を崩さない。ここで立ち止まるのは、最悪の選択だ。ポケットの中のCADに意識を繋ぎ、起動待機状態へと移行させる。心臓の鼓動だけが、一つ、また一つと、静かに、そして重くなっていく。

 路地を曲がった、その瞬間だった。

 中央に、ひとりの女が座り込んでいた。年の頃は三十前後、簡素なワンピースに手にはショッピングバッグ。額に汗を浮かべ、膝を抱えて、すがるような目で蒼夜を見上げていた。

 

「──たす、けて……ください……」

 

 かすれた声。不自然なほど明瞭な日本語。まるで、何度も、何度も、鏡の前で練習を重ねた“台詞”のような、整いすぎた抑揚。

 蒼夜の中で、瞬時に危険信号が最大レベルに達した。

 

(罠だよね……それも、悪質な)

 

 女の背後、建物の影。二つの気配。起動待機状態のCADが放つ、殺意を孕んだ微弱なサイオンノイズ。

 全てが、あまりにも稚拙な、三文芝居。

 だが、その稚拙さが完璧であればあるほど、蒼夜は逆に──その裏にある、“人間の匂い”を無視できなかった。

 声の、僅かな震え。表情の、筋肉の微細な痙攣。そして、目の奥で必死に隠そうとしている、演技では決して覆いきれない、極度の緊張と恐怖。

 

(うーん……なんだろう、やっぱり脅されてるとかなのかな)

 

 家族を人質に取られ、この役を演じることを強要されているのだとしたら?

 無視して立ち去ることは、四葉の人間として、最も合理的で、正しい判断だろう。

 だが、蒼夜としては──許容できない。

 思考、0.1秒。

 彼は、その三文芝居の舞台に、自ら足を踏み入れることを選んだ。

 

「大丈夫ですか」

 

 一歩、足を踏み出した瞬間、影から二人の男が飛び出す。右手には軍用型の旧式CAD。狙いは正確に蒼夜の四肢を捉えている。

 だが、遅い。

 蒼夜の術式が、音もなく、光もなく、ただ彼の精神の中だけで展開される。

 世界が、スローモーションになる。

 男たちが引き金を引く、先の未来。銃口から放たれるであろう魔法の弾道。その全てが、彼の脳内では、既に再生済みの映像だった。

 未来を視てから、身体を動かすのではない。

 未来を視たと同時に、身体は、もう動いている。

 彼は、銃弾が穿つであろう空間を、まるでダンスを踊るかのように、最小限の動きですり抜けると、一気に一人の懐へと潜り込んだ。

 男が驚愕に目を見開く。その、がら空きになった肘の内側。CADを保持する手首へと繋がる尺骨神経の束を、蒼夜の肘が、的確に打ち砕いた。

 ゴッ、という鈍い音。男の腕から力が抜け、CADが地面に落ちる。

 もう一人が、慌てて照準を合わせ直す。だが、その刹那。

 男の足元のアスファルトが、何の前触れもなく、砂のように崩れ落ちた。局所的な分子振動魔法。強固な足場を失い、男の体勢が、大きく崩れる。

 制圧完了まで、2秒とかからない、完璧な無力化。

 

「動くな」

 

 背後。座り込んでいたはずの女の声。冷酷で、殺意に満ちた響き。

 その手には、ナイフではなく、軍用の小型閃光音響弾が握られていた。安全ピンは、既に抜かれている。

 至近距離。魔法障壁では、炸裂によって生じる超高圧の衝撃波と網膜を焼く閃光は完全には防ぎきれない。

 

(狙いは、これか)

 

 読み切った瞬間、蒼夜の魔法演算領域が一気に臨界点まで加速した。

 対象は、女の身体ではない。彼女が持つ閃光弾、そのもの。

 達也のように分解は使えない。物理的な破壊も間に合わない。ならば、方法は一つ。

 

 やるしかない。

 

 ──《事象凍結(クロノ・フリーズ)》

 

 それは、彼の固有能力である《時因位相展開》を、防御と無力化に特化させた魔法。

 対象と定義した極小領域の事象情報に干渉し、その領域内における時間軸の進行速度に関するパラメータを、限りなくゼロへと収束させる術式。

 時間を「止める」のではない。

 対象の時間を、観測者である蒼夜の時間から「切り離し」、無限に引き伸ばすのだ。

 ピンが抜かれ、起爆シーケンスが開始されたとしても、その化学反応が完了するまでにかかる時間が、数時間、数日、あるいは数百年へと引き伸ばされる。それは事実上、現象の「凍結」に他ならない。

 しかし、8歳の少年の脳が、この世界の理を書き換えるほどの魔法を行使するには、あまりにも代償が大きすぎた。

 脳が焼き切れるような激痛。全身の神経が悲鳴を上げる。意識の全てを、たった一つの魔法式を完成させるためだけに注ぎ込む。

 その、ほんの僅かな隙を、女は見逃さなかった。彼女は閃光弾を起動させると同時に、自らの身体を庇うように地面に伏せる。

 蒼夜の術式が完成し、閃光弾の時間が凍結されるのと、女が起爆スイッチを押すのは、ほぼ同時だった。

 

 結果、爆発は起こらなかった。

 

 女が握る閃光弾は、ただの鉄の塊のように沈黙を保っている。目の前で起きた、理解不能な超常現象に、女も、体勢を立て直した男たちも、一瞬、完全に動きを止めた。

 だが、その時、蒼夜の意識は既にブラックアウトしていた。

 膨大な演算負荷に耐えきれなかった脳が、生命維持のために強制的にシャットダウンしたのだ。糸が切れた人形のように、蒼夜の身体がゆっくりと地面に崩れ落ちる。

 驚愕から我に返った男たちが、動かない蒼夜に駆け寄る。

 彼は魔法を防ぎ切った。

 しかし、その代償として、自らの自由を失った。

 蒼夜の意識は、そこで完全に途切れた──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──そして現在に至る。

 

(これ、絶対怒られるよなぁ)

 

 胸に一点の黒い染みのような後悔が残る。

 鬼の形相で叱る母親を幻視し、思わず恐怖で身震いしていると。

 

 ギャンッという、耳障りな金属音が響き渡った。

 

 鋼鉄製の扉が、蹴り開けられるようにして、乱暴に開かれた。その音は、静まり返った船倉の空気を引き裂き、敵意の到来を明確に告げていた。

 蒼夜は動かない。ただ、視線だけを開かれた扉の先の闇に注いでいた。

 まず二人、明らかに軍歴を思わせる短髪の男が、獣のような速さで飛び込んできた。その両腕は不自然に太く、皮膚の下に金属の光沢が走っている。強化兵士。彼らが構えるライフルの銃口は、寸分の狂いもなく、蒼夜の眉間を捉えていた。その瞳には、冷静さなど微塵もない。燃え盛るような、純粋な憎悪の色が宿っていた。

 そして──最後に、見覚えのある女が、まるで獲物を見定める蛇のように、ゆっくりと姿を現した。

 あの時、路地裏で弱々しい“演技”をしていた女。

 しかし今、彼女の顔にその面影は一片もない。精緻に整えられた髪、身体の線を強調する漆黒のワンピース。だが、その完璧な見た目とは裏腹に、その口元は、憎しみのあまり、わずかに引きつっていた。

 女は、蒼夜の数メートル手前で立ち止まると、吐き捨てるように、その名を呼んだ。

 

「……忌々しいな、“あの男”のガキは」

 

 その声には、歪んだ敬意などない。隠しきれない緊張でもない。そこにあるのは、長年、心の奥底で煮詰まり続けた、どす黒い憎悪そのものだった。

 “あの男”──その言葉を口にするだけで、女の脳裏に、忘れようとしても忘れられない、業火の記憶が蘇る。

 全てを焼き尽くす炎。仲間たちの断末魔。そして、その地獄の中心で、神の如く、あるいは悪魔の如く、全てを無に帰していく、一人の男の姿。

 あの男は、全てを奪った。研究も、仲間も、そして……私の兄も。

 その憎むべき男の血が、特徴が、目の前の、この子供の顔に、確かに受け継がれている。その事実が、女の心の傷を、抉るように刺激した。

 蒼夜は、わずかに顎を上げた。

 

「……あの男って、やっぱり父さんのこと?」

「あ? だとしたら何だ」

「いや、父さんのこと、凄い気になってるんだなって……恨みがすごいというか……えっと、こういう場合はなんていうんだっけ……しゅーねん……しゅーちゃく……いぞん……あ、抱かれた?」

「しねっ」

 

 女の低い声が、引き金になった。

 強化兵士の一人が、気配を殺して踏み込み、蒼夜の鳩尾を狙って、鉄骨をも砕く威力の蹴りを放つ。それは、捕獲を目的としたものではない。明らかに、内臓を破裂させるための、殺意に満ちた一撃だった。

 だが──蒼夜の身体は、攻撃を予測していたかのように、攻撃が放たれるコンマ1秒前に、既に重心を斜めにずらしていた。

 蹴りは、ほんの数ミリの差で空を裂き、背後の壁に叩きつけられ、コンクリートの破片を飛び散らせた。

 蒼夜は床に崩れるように衝撃を逃がしながら、視線だけで蹴りを放った男を射貫いた。

 

「……うへぇ、すごいパワー。でも、今の俺で避けられちゃうってことは、やっぱり弱い?」

 

 年端もいかぬ少年の口から漏れた、純粋な分析と、火に油を注ぐどころか、ガソリンをぶちまけるような侮蔑の言葉。船倉の空気が、爆発寸前まで張り詰めた。

 

「……この、クソガキがぁっ!!」

 

 女が、金切り声に近い叫びを上げる。もはや、淑女の仮面は剥がれ落ちていた。

 

「殺すなよ、ツァン! リウ! 手足を潰せ! 」

「「了解!!」」

 

 二人の強化兵士の目が、赤く、ギラリと光った。

 憎悪を隠そうともしない、剥き出しの殺意。

 彼らは、蒼夜を「貴重なサンプル」だなどとは、微塵も思っていない。彼らにとって、この少年は、長年追い求めてきた、最高の復讐の“生贄”なのだ。

 女は、憎悪に歪んだ顔で、恍惚と呟いた。

 

「……聞こえるか、天城蒼士。お前の息子が、これから泣き叫ぶ声が……。これは、お前が始めた地獄の続きなんだよ……!」

「それ、言ってて恥ずかしくないの?」

「殺すっ」

 

 

 

 

 

 

 四葉本邸・中央棟、現当主である四葉真夜の私室。

 壁一面を占める防弾防爆仕様のガラス窓の外では、陽が穏やかに傾き始め、完璧に手入れされた庭園の木々が、計算され尽くしたかのように美しい影を落としていた。しかし、その絵画のような静謐さは、この部屋に満ちる刺すような空気には一切影響を及ぼしていない。

 卓上に置かれた通信端末が、警告音を発することなく、ただ静かに光を明滅させた。最高レベルの緊急通信を示す、赤の点滅。

 真夜は読んでいた電子書籍から顔を上げることなく、細く白い指先で空中に表示されたパネルに触れた。

 

「どうかされましたか?」

『……真夜様。緊急事態が発生いたしました』

 

 スクリーンに映し出されたのは、四葉家の諜報と暗部を担う分家、黒羽家の当主である黒羽貢の姿だった。彼の表情は常に鉄の仮面のように硬質だが、その奥に隠しきれない焦燥の色が滲んでいるのを、真夜は見逃さなかった。

 

「貢さん。あなたの口からその言葉を聞くのは、久しぶりね。……まさか、蒼夜さんに何かあったとでも言うのかしら?」

 

 最後の言葉は、問いかけの形をしていながら、ほとんど確信に満ちていた。彼女の脳裏で、数多の可能性が瞬時に計算され、最悪のシナリオが導き出される。

 貢は一瞬、言葉を詰まらせた。そして、意を決したように深く頭を下げる。

 

『……誠に、申し訳ございません。本日16時23分をもちまして、蒼夜様のセキュリティ・ビーコンが、完全にロストしました』

 

 セキュリティ・ビーコン。

 それは、ただのGPS発信機などではない。

 蒼夜が常に身につけているパーソナルCADに、四葉の最高技術を以て極秘裏に組み込まれた、電子の命綱だ。

 このビーコンは、蒼夜自身の想子──魔法師が思考する際に発生させる、非物理的な粒子──を極微量だけ利用し、固有の暗号化が施されたサイオン信号を数秒おきに自動発信する。それは、大海に流されたボトルメールのように微弱だが、黒羽家が国内の主要都市に網の目のように配置した専用の受信ネットワークだけが、その信号を確実に拾い上げ、蒼夜の正確な位置を特定できる仕組みになっていた。

 護衛を嫌う息子を、最低限の鎖で繋ぎ止めておくための、母としての最後の砦。 それが、この魔法的監視システムの本質だった。

 

「あのビーコンがロストした……? 普通のジャミングで消せるような、安価な代物ではないはずよ。妨害電波はもちろん、並のキャスト・ジャミングでも干渉不可能な、固有の周波数帯を使用しているはずでしょう」

 

 真夜の指摘は、的確だった。

 通常の魔法妨害である《キャスト・ジャミング》は、例えるなら、ラジオの全チャンネルに無差別に強力なノイズを流すようなものだ。しかし、このビーコンは、軍事用の暗号通信のように、通常の魔法とは全く異なる、極めて特殊なサイオン周波数帯を使用している。

 さらに、その周波数は、コンマ数秒単位で不規則に変化し続ける周波数ホッピング技術の応用により、特定の周波数を狙った妨害を不可能にしているはずだった。

 

『おっしゃる通りです。それが、完全に途絶しました。まるで、その場所に最初から何も存在しなかったかのように。考えられる可能性は二つ。敵がビーコンそのものを物理的に破壊したか、あるいは……我々のシステムすら上回る、未知の領域干渉魔法を用いたか』

「……そう。つまり、攫われた、ということね」

 

 真夜は、淡々と事実を口にした。しかし、その声の底では、地殻の変動を思わせるほどの、巨大な怒りのマグマが静かに、しかし確実にその熱量を増していた。

 貢は、通信越しにその圧力を感じ、肌が粟立つのを覚えた。

 

「貢さん。犯人の目星は?」

『確証は。ですが、状況から見て、先日来より暗躍している大漢の残党……静岡の事件を起こした者たちである可能性が極めて高いかと』

「その根拠があるということね」

『はい。第一に、動機です。彼らは魔法師、特に日本の有力な魔法師に対して強い憎悪を抱いています。その象徴である四葉家、しかも次代の最有力候補である蒼夜様を狙う動機は十分。そして第二に……』

 

 貢は、一度言葉を切った。

 

『……敵の、異常なまでの情報収集能力です』

「どういうこと?」

『今回の襲撃地点。商業地区第三セクター裏の工房へ向かうルート。あそこは確かに、我々の物理的な監視網が最も手薄になるポイントの一つです。しかし、蒼夜様が今日、あの時刻に、あの場所へ向かうことを、事前に知っていたとしか思えません。まるで、彼の行動計画を全て把握していたかのような、完璧なタイミングでした』

 

 真夜の瞳が、すう、と細められた。氷のように冷たい光が宿る。

 

「……内部からの、情報漏洩の可能性を疑っているのね」

『……否定、できません。ビーコンの存在そのものを知る者は、四葉の内部でもごく一部。さらに、蒼夜様の非公式な行動スケジュールを把握できる者となると、極めて限られます。偶然が重なったとは、到底考えられません』

 

 真夜は、通信を切らず、深く椅子に身を沈め、思考の海に潜った。

 貢の言う通りだ。

 天城蒼夜という存在は、四葉家がその総力を挙げて秘匿してきた、最高機密。彼が「天城蒼士と四葉真夜の息子」であるという事実は、日本の魔法師社会、いや、世界に対しても決して公にされていない。

 その最高機密を、大漢の残党ごときがどうやって手に入れた?

 そして、四葉家の鉄壁の監視網の、針の穴のような隙間を、なぜこれほど正確に突くことができた?

 考えられるのは、ただ一つ。

 この四葉家の内部に、あるいは四葉家に極めて近い場所に、裏切り者がいる。

 蒼夜の情報を外部に売り渡し、手引きをした者が。

 真夜の脳裏に、いくつかの疑わしい顔ぶれが浮かび、そして消える。分家の者か? 使用人か? あるいは、四葉と取引のある、外部の協力者か?

 だが、今は憶測で動く時ではない。犯人捜しは後だ。最優先事項はただ一つ。

 

「……貢さん」

『はっ』

「これは、単なる誘拐事件ではないわ。四葉家に対する、明確な“戦争行為”よ。そうでしょう?」

『……御意』

「ならば、こちらも戦争をもって応える。黒羽の総力を挙げなさい。諜報、索敵、分析、全ての部門を最大レベルで動かして。手段は問いません。どんな非合法な手段を使っても、一刻も早く、蒼夜の居場所を特定して下さい」

 

 その命令は、もはや母のものではなかった。“夜の女王”として下された、絶対の勅命だった。

 

『承知、いたしました』

 

 貢が深く頭を下げたのを確認し、真夜は一方的に通信を切った。

 そして、間髪入れずに別の回線を開く。数回のコールの後、聞き慣れた、今は世界で最も信頼する男の声が応えた。

 

『真夜か。聞いたよ』

 

 天城蒼士の声は、普段の軽やかさを潜め、嵐の前の海のように、不気味なほど静かだった。

 

「ええ……蒼士さん。申し訳ないけれど、あなたにも動いてもらうわ」

『ああ、当然だ。もう動いてる』

 

 静かな声で、彼は続けた。

 

『まったく、俺たちの息子に手を出すなんて、連中はとんでもない間違いを犯したな』

「そうね。巻き込んでしまった以上、私たちで終わらせましょう」

『そうだな』

 

 それは、ただの親としての会話ではなかった。

 現代魔法という枠組みすら超越しかねない、世界最強の魔法師夫婦が、たった一人の息子を奪還するために、世界そのものを敵に回すことを決意した、静かな宣戦布告だった。

 

『心配するな。必ず、連れて帰る』

「……ええ。信じてるわ」

 

 通話を終えた真夜は、ゆっくりと立ち上がる。

 彼女は窓辺に歩み寄り、夕陽に染まる己の領地を見下ろした。

 その美しい瞳には、もはや母としての不安や悲しみの色は一片もなかった。あるのは、己の至宝を傷つけた全てのものを、この世界の事象情報から完全に消去するという、“夜の女王”の、絶対的な意志だけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 鋼鉄の通路を、蒼夜は影のように疾走していた。

 ごう、ごう、と船底から響く単調なエンジン音。等間隔に並ぶ防水照明が、無機質な灰色の壁を頼りなく照らし、彼の前後に伸びる影を不気味に揺らめかせる。

 背後から、甲高い発砲音と、弾丸が壁を抉る金属音が断続的に響く。

 

「いたぞ! 小僧、そこを動くな!」

 

 怒声と共に放たれた複数の銃弾が、蒼夜の身体があった空間を正確に撃ち抜く。

 だが、その時にはもう、彼の身体はそこにない。

 

 彼の意識は、常に未来を「観測」している。

 敵が引き金に指をかけ、筋肉を収縮させる──その未来を視た瞬間に、彼の身体は既に次の回避行動へと移行している。頭をわずかに傾け、肩を少しすくめ、一歩踏み出すタイミングをコンマ数秒ずらす。

 それは、超人的な反射神経による「回避」ではない。未来の弾道を完璧に「知っている」からこその、最小限の動きで構成された「無駄のないすり抜け」。まるで、降りしきる雨の中を、一滴の雨粒にも濡れずに歩くような、神業じみた機動だった。

 両手首にはめられたアンティナイトの枷が、魔法式の構築を執拗に阻害してくる。攻撃魔法は使えない。使えるのは、彼の思考そのものである《時因位相展開》と、純粋な体術のみ。

 

(……うーん)

 

 通路の分岐点で一瞬立ち止まり、気配を殺しながら、蒼夜は思考を巡らせる。

 

(敵の武器とか、練度、そしてこの船の大きさ。四葉ほどじゃないけど、結構強い敵だよね)

 

 彼らは、自分を殺す気がない。四肢を狙った正確な射撃は、明らかに蒼夜を無力化し、再捕獲することが目的だ。

 なぜ、これほどまでに執着する?

 四葉家の後継者だから? いや、それだけでは説明がつかない。この執念の根底には、もっと個人的で、深い何かが渦巻いている気がする。

 

(……やっぱり前言ってた国滅ぼしたってやつかなぁ)

 

 脳裏に浮かぶのは、あの飄々とした、それでいて世界の理すら覆しかねない規格外の父の姿。彼がこの世界の人間ではないという事実は、蒼夜も知っている。ならば、この因縁は、この世界の過去からではなく、父が渡ってきた“向こう側”から続いているものだとしたら──。

 

 思考の最中、ふと、通路の奥から微かな異臭が鼻をついた。

 血と汗、そして、もっと根源的な、生命が尊厳を奪われた時に発する澱んだ匂い。

 追手の気配が遠のいたことを確認し、蒼夜は音もなく匂いの元へと近づく。

 そこにあったのは、重厚な鋼鉄製の扉だった。覗き窓から、薄暗い室内の光が漏れている。

 ためらいはなかった。

 彼は、扉の横にある、電子ロックの制御パネルを、睨むように見つめた。

 

(……これって昔のやつだよね)

 

 この時代、セキュリティの主流は生体認証だ。しかし、逆に、魔法によるハッキングを警戒するような軍事施設や非合法な拠点では、あえて、このような物理的な入力が必要な、旧式のロックが併用されることがある、と父が言っていたのを思い出す。

 

(……んん?)

 

 彼の目が、パネルの数字ボタンの表面を、異常なまでの集中力で捉えた。

 それは、もはや単なる「見る」という行為ではなかった。

 彼の固有能力である《時因位相展開》は、彼が意識せずとも、常にバックグラウンドで稼働し、周囲の事象情報を、常人では認識すらできない、極めて高解像度の“データ”として、無差別にスキャンし続けている。

 彼の脳には、今、この瞬間に、膨大な情報が流れ込んでいた。

 ボタン表面の、ナノメートル単位での凹凸のデータ。

 最後にここを通過したであろう看守が残した、指紋の微細な渦と、皮脂の分子構造。

 そして、照明の光が、それぞれのボタンの表面で、どのように反射・拡散しているかの、微細な角度のデータ。

 

(……これだ)

 

 彼は、その膨大な情報の濁流の中から、一つの、決定的な「パターン」を見つけ出した。

 指紋ではない。

 摩耗だ。

 人間の指から分泌される微量の皮脂や汗は、酸となって、長期間、同じボタンを押し続けることで、表面のコーティングを、ミクロン単位で、しかし確実に劣化させる。

 彼の“眼”には、特定の四つのボタンだけが、他のボタンとは明らかに、その光の反射率が異なって見える。

 「4」「8」「1」「5」。

 使われている数字は、分かった。

 

(……だけど、順番が分からない。4桁の組み合わせなんて、試してる時間はないのに……!)

 

 彼がそう思った、その瞬間。

 彼の魔法演算領域が、彼の意志とは無関係に、第二段階の処理を開始した。

 それは、未来予測ではない。

 スキャンした膨大な「摩耗データ」を、超高速でパターンマッチングにかける、無意識下での解析処理。

 「最も摩耗が激しい(=最も古くから、頻繁に押されている)ボタン」「次に摩耗が激しいボタン」……というように、データの微細な差を、自動的に序列化していく。

 そして、その序列化されたデータと、彼が本などで得た人間の行動心理学の基本的なパターン(「パスワードは、昇順や降順に設定されやすい」など)を照合し、最も確率の高い組み合わせを、一つの“答え”として、彼の意識に提示したのだ。

 それは、彼が推理したのではない。

 彼の脳が、スーパーコンピュータのように、膨大なデータから、最も確からしい答えを「計算」し、彼に教えてくれたのだ。

 彼は、その脳が弾き出した「1」「5」「8」「4」という数字を、迷いなく打ち込んだ。

 ピッ、という電子音と共に、緑色のランプが点灯する。

 ガコンッ、という重い音を立てて、扉のロックが外れた。

 扉を開けた瞬間、蒼夜は息を呑んだ。

 

 そこは、牢獄だった。

 狭い船室に、錆びついた鉄格子で仕切られた区画がいくつも並んでいる。そして、その全てに、少女たちが家畜のように押し込められていた。

 年は十代半ばから後半だろうか。自分よりは年上に見える。全員が日本人、あるいは東アジア系の顔立ちをしていた。

 だが、その姿はあまりに悲惨だった。着ているものはボロボロの布切れと化し、長い間入浴もしていないのだろう、肌は汚れ、髪はもつれている。室内には、先程感じた悪臭が満ち満ちていた。絶望という感情が、物理的な匂いとなって空間に飽和しているかのようだった。

 少女たちは、突然開いた扉と、そこに立つ見慣れぬ少年の姿に、一様に息を呑んだ。

 その中で、一番手前の牢にいた一人の少女と、目が合った。

 怯え、驚き、そして諦念。あらゆる感情が混ざり合った、光のない瞳。

 その瞳が蒼夜を捉えた瞬間、少女は「ひっ」と短い悲鳴を上げ、まるで恐ろしい何かから身を守るように、両腕で頭を抱えて蹲った。

 その、あまりに純粋な恐怖の迸り。

 それが、引き金になった。

 

(──やめろ、来るな、さわらないで、いや、いやだ、助けて、誰か、誰か──)

 

「……っ!?」

 

 声ではない。

 言葉ですらない。

 純粋な恐怖と苦痛、そして絶望の感情が、増幅されたプシオンノイズとなって、少女の瞳から蒼夜の精神に直接流れ込んできた。

 それは、蒼夜が意図した「読心」では断じてない。

 少女の魂が、耐えきれないほどの苦痛の果てに砕け散り、その破片──残留思念が、周囲に無差別に垂れ流されているのだ。

 そして、蒼夜の異常なまでの精神干渉への「受信感度」が、その垂れ流された魂の叫びに、テレビのチャンネルが合うように、完璧に同調してしまった。

 脳裏に、断片的な映像が焼き付く。

 白衣の男たち。冷たい実験台。腕に突き立てられる注射器。意味の分からない魔法式を強制的に身体に書き込まれる、神経が焼き切れるほどの激痛。抵抗すれば、容赦なく振るわれる暴力。仲間が、目の前で“失敗作”として処分されていく光景。光のない部屋で、ただ繰り返される、終わりなき実験の日々──。

 

「ぐ……ぅ、ぁ……っ!」

 

 蒼夜は、こめかみを両手で押さえ、思わず膝をついた。

 他人の絶望が、まるで自分の体験であるかのように、脳を直接灼く。

 これが、彼女たちが味わってきた現実。これが、この船で行われていることの、真実。

 そして、その流れ込んできた映像の中に、蒼夜は見覚えのある光景を見つけた。

 いや、見覚えがある、というのとは違う。

 知りすぎていた。

 

 ──管で繋がれたまま命を絶たれた身体。

 ──冷却装置に閉じ込められたまま意識を奪われた、まだ生きている“死体”。

 ──人間であることを否定され、ただの数字で呼ばれる少女たち。

 

 それは、毎晩のように彼を苛んできた、あの夢の光景そのものではなかったか。

 鉄の天井の下、屍の山が築かれていた、あの地獄。

 あの夢は、ただの悪夢ではなかった。あれは、どこかで実際に起きた、あるいは今まさに起きている、現実の記録だったのだ。

 全身の血が、急速に冷えていく感覚。

 今までバラバラだったパズルのピースが、おそろしく、そして完璧に組み上がっていく。

 

(……そっか)

 

 父は、この少女たちが受けているような、非人道的な実験が行われている施設を発見し、それを終わらせるために、たった一人で全てを破壊したのだ。

 その結果生まれた憎しみが、長い時を経て、息子である自分へと向けられている。

 そうだとしたら、全てに説明がつく。

 自分を攫った者たちの、あの異常なまでの憎悪と執念。

 静岡の港で、魔法師を獣のように嬲り殺していた男たちの、あの歪んだ復讐心。

 彼らは、父によって地獄を奪われた者たちの、末裔。

 

 自分の才能を初めて呪った。

 高すぎる感受性ゆえに、見たくないものまで、知りたくない魂の痛みまで、鮮明に感じ取ってしまう。

 静かにしろ、と心の中で叫んでも、少女たちの絶望の奔流は止まらない。

 だが、その濁流の中で、蒼夜の心は不思議と静まり返っていった。

 恐怖は、ない。

 混乱も、もうない。

 ただ、心の奥底から、氷のように冷たく、そして鋼のように硬い感情が湧き上がってくる。

 蒼夜は、震える唇を固く噛み締め、ゆっくりと顔を上げた。

 その瞳から、8歳の子供が浮かべるべき無邪気な光は、完全に消え失せていた。

 地獄の釜の底を覗き込んだ者だけが宿す、絶対零度の光。

 その瞳で、蒼夜は目の前の牢獄を見据えていた。脳内に流れ込んできた少女たちの絶望の奔流は、彼の精神を蝕むどころか、逆に彼の思考を極限まで研ぎ澄ませていた。

 怒り。それは確かにある。だが、その炎は彼の心を焼き尽くすのではなく、不純物を焼き払い、一本の揺るぎない鋼の意志を鍛え上げていた。

 

「もう、大丈夫だから」

 

 その言葉は、もうただの子供のものではなかった。

 怯えていた少女たちが、はっと顔を上げる。彼のあまりに落ち着き払った、それでいて有無を言わせぬ力強さを秘めた声に、何かを感じ取ったのだ。

 蒼夜は、一番手前の牢の鉄格子にそっと手を触れた。冷たい感触。だが、それだけだ。アンティナイトの枷は、彼の魔法式の構築を依然として阻害している。物理的に破壊するには、あまりに頑丈すぎる。

 

(今、ここで助けても、みんなを連れてこの迷路みたいな船から逃げるのは、無理だ。このお姉さんたち、ちゃんと歩けそうにない。下手に動いたら、敵に見つかって、みんな死んじゃう)

 

 思考は、驚くほど冷静だった。

 一人残らず、生きてここから連れ出す。

 それが、自分の戦いだ。

 彼は、先程目が合った少女に向き直った。彼女はまだ怯えながらも、蒼夜から目を逸らさずにいる。その瞳の奥に、まだ消えぬ意志の光を見た。

 

「お姉さん、名前は?」

「……ゆ、き……」

 

 かろうじて絞り出された、か細い声だった。

 

「ユキお姉さん。俺は蒼夜。必ず、助けに来る。だから、それまで他の人たちを励ましてあげて。お願いできる?」

 

 ユキと呼ばれた少女の瞳が、わずかに見開かれる。

 

「……でも、あなたも……」

 

 子供じゃないか、と続くはずだった言葉は、蒼夜の静かな視線に遮られた。

 

「俺は、大丈夫。それより、敵の情報を教えてほしい。研究員の数とか、兵士の数、見回りの時間とか、この船がどうなってるか……分かる範囲でいいから」

 

 彼の真剣な問いかけに、ユキは戸惑いながらも、必死に記憶をたどって答えてくれた。断片的な情報。だが、蒼夜にとっては、暗闇を照らす何よりの道標だった。

 情報を聞き終えた蒼夜は、静かに頷いた。 

 

「ありがとう。……その前にちょっと寝てもいい?」

「へ?」

「いやー、疲れちゃって。ちょっと休憩」

 

 それだけを言うと、彼は彼女の檻の中で静かに眠った。

 

 

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