魔法科高校の時間奏者   作:cart_strange

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6話

 

 

 船内は、彼の狩場と化した。

 ユキから得た配線図と動線ログを頭の中で重ね合わせ、蒼夜は監視カメラの死角を縫い、換気ダクトを渡り、通路の段差に潜む乱気流すら踏み台にする。

 意識を集中させて行う、鮮明な「予測」は、完全に封じられている。

 彼に残されているのは、無意識下で常に稼働し続ける、ぼんやりとした「予感」と、純粋な体術のみ。

 それでも、その感度の落ちた危険察知能力だけを頼りに、彼は、神業じみた機動で、銃弾の雨をすり抜けていた。

 

(こういうときは、目と耳を潰すんだよね?)

 

 最下層のメンテナンス通路。船内通信・監視システムの幹線ケーブルが集中する中枢部。

 蒼夜は天井パイプへ猫のように跳ね上がり、身を隠す。

 

 そこでひと休憩しながら、考えた。

 敵には魔法師もいる。

 それも、かなり熟練の者たちが。

 今のこの状態で、無傷での突破は不可能に近い。応援を待つべきか──そんな弱気が、脳裏をよぎる。

 

(達也みたいに最強だったらなぁ)

 

 そんな時ふと、忘れていた記憶が、いまひらく花のような新鮮さでよみがえった。

 

『ねー、達也の分解ずるくない? あれどーやって倒せばいいの?』

 

 達也との模擬戦を行い負けた時、真夜の寝室でそんな言葉を呟いた。そんなとき、父親はこう言った。

 

『まあまあ、そう言うなって。どんなクソゲーにも、必ず抜け道やバグ技ってのがあるもんだ』

『抜け道?』

『ああ。対達也くんってことで言うなら、彼の初期条件(ゼロデイ)見て、お前が先に一行、割り込ませてやればいい。まぁ、実際それが通用するかは別だけどな』

「ん? なに? 一行刷り込ませるって」

『うーん、まあ、要はさ、達也くんとお前の魔法の本質を、よーく考えてみなってこと。それが理解できた時、お前の世界は変わるはずだ。きっとお前なら、(ことわり)が生まれる瞬間に立ち会える。……ロマンあるじゃねぇか』

 

 あの人は、具体的なアドバイスなどくれた試しがない。

 その代わり、母親の方は懇切丁寧だ。どちらが良いというわけではないが、父からはいつも、こうして壮大な「宿題」を渡されているような気分になる。

 蒼夜は、まるい目を宙に向けて考えるようにした。

 

 達也の魔法は、特に《分解》は、対象を情報単位で解体するという、この世界の理すら捻じ曲げる規格外の力。その本質は、事象の最終的な“結果”を、問答無用で書き換えること。

 それに対し、時因位相展開(自分の魔法)は、未来の可能性を演算し、最も確率の高い未来を「知る」能力。

 

(達也は結果を書き換え、俺は未来を予測して動く……)

 

 蒼夜は、その決定的な差を、改めて認識した。

 どれだけ未来を正確に予測しても、相手がその未来を無視して結果を書き換えるならば、自分の魔法は意味をなさない。だから、自分は模擬戦で敗北したのだ。

 

(……じゃあ、どうすれば良かったんだろう)

 

 父さんの言葉を反芻する。

 ──初期条件。

 ──では、達也の《分解》の初期条件(ゼロデイ)とは何だ? 

 ──それは対象の『存在の構成式』に触れること。

 それが、引き金(トリガー)だ。

 

(なら、俺がすべきことは? 未来を予測して、逃げ回ることじゃない……? もっと何か……)

 

 思考が行き詰まる。

 焦りが、じわりと胸を焼く。

 蒼夜は、無意識のうちに、身を隠している天井パイプから、冷たいメンテナンス通路の床へと、そっと指先を降ろした。 

 

 ──その、瞬間。

 

 世界が、変わった。

 指先が触れた、その一点から。

 まるで、乾いた大地に水が染み込むように、膨大な『情報』が、彼の神経を、奔流となって駆け上ってきた。

 

 ──振動。

 船底で唸りを上げるエンジンの、規則的で重い鼓動。

 

 ──気流。

 換気ダクトを通り抜け、壁の隙間を縫って流れる、空気の微細な渦。

 

 ──サイオン。

 船内を巡回する兵士たちが、無意識のうちに漏らす思考の残滓。警戒、焦燥、退屈。それらが、微弱なノイズとなって空間を満たしている。

 

 ──そして、電気。

 壁の内側、床の下を、まるで血管のように網の目のごとく走り抜ける、膨大な電子の流れ。監視カメラへ、通信システムへ、そして、ブリッジのメインフレームへと、絶え間なく情報を運び続ける、この船の神経そのもの。

 

 それは、未来の光景ではない。

 今、この瞬間に、この船という一つの生命体を動かしている、無数の『流れ』。

 アンティナイトの枷をはめられてからずっと感じていた、世界との間にあった一枚の分厚い膜が、物理的な接触によって、一時的に取り払われたかのような、鮮明な感覚。

 

(……ずっと当たり前のようだったけど、そっか。俺が見ていたのは、未来だけじゃない……)

 

 彼の“眼”が捉えていたのは、【原因】から【結果】へと至る、この世界の全ての事象の、動的なプロセス──『流れ』そのものだったのだ。

 その瞬間、脳内で、バラバラだったパズルのピースが、一つの形へと収束していく。

 達也の《分解》を、雄大な川の流れに例えるなら、あれは、下流の【結果】を、ダムで堰き止めて無理やり変えてしまうような、絶対的な【編集権】だ。

 今まで、その下流で、流れの未来(速さ)を読んで、必死に泳いで逃げようとしていた。だから、捕まった。

 

(──違う。俺が行くべき場所は、そこじゃない)

 

 もっと、上流へ。

 その川の「流れ」が、まだ、岩清水の一滴でしかない、その源泉。全ての始まりの起点へ。

 ──つまり、「魔法式が展開される」という、全ての始まりの【初期条件】そのものを、崩してしまえばいいんだ。

 

 あの時、閃光弾を止めた《事象凍結》も、そうだ。

「爆発」という【結果】を覆したのではない。その結果を生み出すための【初期条件】──「時間の進行速度」という、流れそのものを変えたんだ。

 

(……そうか。父さんが言ってた「一行でいい」っていうのは、そういうことか……! なら、これもそう?)

 

 複雑な魔法式(脚本)で、物語(結果)を無理やり変えようとするから、アンティナイトに邪魔される。

 そうじゃない。

 ただ、流れが生まれようとする、その一瞬に、その源泉に、ほんの小さな“石”を、一つだけ、投げ込んでやればいい。

 たったそれだけの、一行だけの単純な命令(コード)

 その小さな一点の波紋が、いずれ大きなうねりとなり、川全体の流れを変えてしまう。

 アンティナイトの枷は、複雑な魔法式の構築を阻害する。

 だが、流れが生まれる瞬間に。

 ごく微量のサイオンで、小さな石(一行のコード)を一つ、投げるだけなら……。

 

(──やれるかも!)

 

 蒼夜は、ゆっくりと立ち上がった。

 その瞳には、もはや迷いも、焦りもなかった。

 絶望的な状況の中で、彼は、自らの力の新たな可能性と、勝利への道を、確かに掴み取っていた。

 

 廊下の天井にあるパイプの上から、蒼夜はふわりと身を乗り出した。

 踵が一人目の兵士の頸動脈の上を正確に叩き、沈む。二人目はライフルを構えたが、視界から蒼夜が滑って消える。足首を刈り、側頭部に手刀。制圧、完璧に三秒。

 彼は、倒れた兵士たちには一瞥もくれず、壁に埋め込まれた金属製のメンテナンスハッチへと向き直った。ロックは単純な電子式。指先から微弱な静電気を流し、回路をショートさせると、重い音を立ててハッチが開かれた。

 闇の中に、無数のケーブルが、まるで巨大な生物の内臓のように、とぐろを巻いていた。

 赤、青、黄、色とりどりの光ファイバーの束。その中でも一際太く、船の神経系であることを主張している物理的な幹線ケーブル。

 そして、その奥。青白い光を明滅させている、水晶のようなパーツが埋め込まれた、黒い箱。

 想子波増幅器だ。

 蒼夜は、その複雑に絡み合った光景を、まるで馴染みのパズルでも解くかのように、冷静な目で見下ろした。

 

(この船は物理回線と想子波通信の併用か。……全部切る? 切るなら両方同時だよね)

 

 アンティナイトの抑制リングが手首で鈍く光る。魔法式は組めない。だが、蒼夜は、想子波増幅器の心臓部である水晶発振子に、そっと、指先を触れさせた。

 

 その、瞬間ずっと、ノイズの嵐で霞んでいた彼の“視界”が、一気に、晴れた。

 ああ、これこれ。

 この感覚だ。

 彼の指先が触れた、その一点から。

 まるで、渇いた砂が水を吸い込むように、対象の“情報”が、彼の神経を、光の速さで駆け上ってくる。

 アンティナイトの枷をはめられてからずっと感じていた、世界との間にあった一枚の分厚い膜が、取り払われたかのような、鮮明な感覚。

 視える。

 いや、視ているのではない。“分かる”のだ。

 指先が触れている、その水晶の、完璧なまでの結晶構造。

 シリコンと酸素の原子が、規則正しく組み上げられている、その幾何学的な美しさ。

 その格子の中を、エネルギーが、川の水のように流れている、その動的な“流れ”。

 原子核の周りを、電子が、雲のように回転している、その微細な“律動”。

 普段なら、彼が無意識のうちに感じ取っている、世界の“当たり前”の姿。

 

 そして、彼は、“視つけた”。

 その、完璧に見える、結晶構造の中に、たった一つだけ存在する、歪み。

 製造過程で生じたのであろう、ナノメートル単位の、ほんのわずかな、原子配列の乱れ。

 そこだけが、エネルギーの「流れ」が、微かに淀んでいる。

 そこだけが、完璧な「律動」から、ほんの少しだけズレている。

 

 ──ここだ。

 

 この、完璧に撮影されたはずの映画フィルムに映り込んでしまった、たった一コマの“ノイズ”。

 ここが、この完璧な世界の、唯一の急所(バグ)

 

 達也のように、設計図を知らない。

 ただ、完成された建築物(現在の構造)を、外から、そして内側から、完璧に“感じ取り”、その構造上の、たった一つの弱点を、見つけ出す。それは、既存のものを削除する「破壊」ではなく、弱点を突いて、自壊へと導く「誘導」に近い、足し算の思想。

 そして、その「急所」に向けてサイオンを、針のように鋭く叩き込んだ。

 

「──壊れろ」

 

 脳を焼く痛み。視界の端が白く瞬き、鼻腔に鉄の味。それでも押し込み、水晶が内側から弾ける。

 彼は、一番太い物理幹線ケーブルを工具で引きちぎる、その直前。ポケットから、父に渡された指先ほどの大きさの黒いチップを取り出すと、その端末を、ケーブルのデータポートに一瞬だけ、差し込んだ。

 チップが、カチリ、と小さな音を立てて、船のメインフレームに接続される。

 

(父さんの“お守り”。役に立つといいけど)

 

 そして、彼は何事もなかったかのように、そのケーブルを力任せに断ち切った。

 その瞬間、船内の照明が一斉に非常用の赤色灯に切り替わり、けたたましい警報が咆哮した。

 

(目と耳は塞いだ。──さあ、こっちに来い)

 

 怒声と軍靴の奔流が、船底の迷宮に雪崩れ込む。その中に、歩調の揃った四名が混じる。装備は軽い、腕輪型CAD。呼吸が深く、無駄がない。魔法師班だ。

 機関ブロック脇通路で迎撃。

 

(──ヤバいとしたら、俺より魔法を撃つのが速い相手。でも、達也みたいなスピードで撃てる奴なんて、中々いないよね)

 

 先頭の女が腕輪型CADに触れ、空気が揺らぐ。通路照明に蜃気楼の縞が走った。

 それは、対象範囲の空気の屈折率を操作し、光の経路を曲げることで、対象物を歪ませたり、あるいは完全に不可視にする現象。蒼夜は、女の魔法が「光の屈折率を書き換える」という“現象の初期条件”を直感的に把握する。彼は壁際にある空調ダクトのバルブを、躊躇なく蹴り開けた。

 

 ブシュウッ! と熱い排気が噴き出し、通路の温度が急激に乱れる。完璧だったはずの光路の設計が、予測不能な温度勾配によって破綻し、女たちの姿が、歪んだ輪郭となって闇の中に浮かび上がった。

 

(いけるっ!)

 

 姿を見られたことに動揺したのか、狙撃手の男の反応が、コンマ数秒遅れた。だが、その引き金は確実に絞られる。放たれた銃弾には、弾道を自動で補正する魔法が付与されていた。銃弾自身が微弱な探査波を発信し、反射波から通路の形状と蒼夜(目標)の位置をリアルタイムで演算、最適軌道へと自らを誘導する、回避不能の一撃。

 蒼夜は、左手首の抑制リングを、壁の溶接継ぎ目に擦り付ける。抜け穴から、ごく微量のサイオンを流し込み、壁材の弾性率にごく小さな偏差を刻み込む。

 狙撃手の補正アルゴリズムが、予測と異なる反射音を拾い、エラーを起こす。弾丸は、蒼夜の肩を掠めるだけで、背後の壁に突き刺さり、火花を散らした。

 その火花が消えるより早く、蒼夜は床を滑っていた。

 足元に、空気が泥沼のように粘りつく。だが、彼は足裏の摩擦係数を一行のコードで削ぎ落とし、その粘性を無視して、女の懐へと突進する。

 脇腹へ、短い肘。女の呼吸が止まり、光学迷彩が完全に解けた。

 

 背後の男が、床板が悲鳴を上げるほどの強力な振動を放つ。

 蒼夜は、その共振のリズムの裏拍を“読んで”、膝を抜いて衝撃を殺す。そして、男が次の魔法を構築しようとする、その思考の“起点”に、指先から一行のノイズを撃ち込んだ。

 男の魔法が、不発に終わる。その、コンマ数秒の硬直。

 蒼夜の踏み込みと同時に放たれた直突きが、男の顎を打ち抜き、意識を刈り取った。

 

 残るは二人。

 狙撃手が、動線を塞ごうとする味方の背後から、二点バーストで射撃してくる。

 蒼夜は、通路の支柱の影へと飛び込むと同時に、その表面に「硬くなれ」と、一行の命令を書き込んだ。

 キンッ! と甲高い音を立てて、弾丸が柱の表面で潰れる。

 硬化が砕け散る、その瞬間。

 蒼夜は、柱の影から、弾丸のように飛び出した。

 狙撃手に肉薄する。腕輪型CADのトリガーに、相手の指がかかるのが、スローモーションで見えた。

 蒼夜は、その手首に、軽く、タップするように触れる。

 相手の魔法展開の“開始”という初期条件に、偽の情報を混ぜ込む。

 狙撃手の魔法は、発動する前に、霧散した。

 粘性担当が後退しながら魔法を維持──通路の端、アンティナイト板が継ぎ足しになっている。蒼夜はそこへ滑り込み、板の境界に触れる。

 

(魔法の効率を『落とす』。たった一行の初期条件で、この流れは変えられる)

 

 その思考が、彼の指先に収束する。

 

「──させない」

 

 蒼夜がそう囁いた瞬間、女の眉間に苛立ちが刻まれる。彼女の足元に展開されていたはずの粘性強化の魔法が、一瞬、揺らいだ。 泥沼のようだった粘性が、ほんのわずかに、水っぽくなる。

 

(……よし、効いた!)

 

 成功を確信し、蒼夜は踏み込もうとする。

 だが、遅かった。

 

「……甘いな、ガキが!」

 

 女は、自身の魔法に起きた一瞬の不調を、根性で立て直した。揺らいだ粘性は、即座に元の、あるいはそれ以上の強度を取り戻す。

 蒼夜の足が、再び泥沼に絡め取られるように、動きを鈍らせた。

 

「なっ……!?」

 

(……ダメか! 効率を“落とす”だけじゃ、止めきれない!)

 

 失敗。

 彼の脳裏に、その二文字が浮かんだ。

 サイオンによる物理干渉は、相手の術者の技量が高ければ、こうして上書きされてしまう。

 女が、ニヤリと口元を歪ませ、勝利を確信した、その時。

 

(……ああ、そうか。なんで、簡単なことに気づかなかったんだろ)

 

 蒼夜の口元に、悪戯っぽい笑みが浮かんだ。

 

(“思考”そのものをバグらせたら、どうなるんだろう?)

 

 それは、彼が今まで使ってきたサイオンによる物理干渉とは質の違う、母譲りの、プシオンによる精神干渉の領域。

 彼は、再び、女の思考パターンに、狙いを定める。

 だが、今度送り込むのは、魔法の効率を落とすためのコードではない。

 蒼夜の瞳が、静かに女魔法師を捉えた。

 そして、彼はただ、心の中で思った。

 

(──混ざれ)

 

 女魔法師の動きが、ぴたりと止まった。

 彼女の眉間に浮かんだのは、苛立ちではない。稲妻に打たれたかのような衝撃と、熱烈な、しかし致命的に場違いなときめきの色だった。

 足元の泥沼? 敵の少年? そんなものは、もう彼女の世界から消えていた。

 彼女の足元に展開されていたはずの粘性強化の魔法は、恋の炎の前に、あっけなく霧のように消え去る。

 彼女の瞳が、潤んだ光を帯びて、隣で銃を構える同僚の横顔を捉えた。

 

「……かっこいい……」

「……はっ?」

 

 突然の乙女モードに、狙撃手の男が素で困惑の声を上げる。

 女は、ふらふらと、まるで運命に引き寄せられるように男へと歩み寄った。

 

「私の、王子様……っ!」

「いや待てリン! 今は戦闘中だぞ! 敵は目の前──」

 

 男の説得の途中、女の頭に、長年の軍事訓練で叩き込まれた本能が、強烈なツッコミを入れた。女は「はっ!」と我に返り、顔を真っ赤にして蒼夜を睨みつける。

 

「き、貴様! 私の純情な心に何をした!?」

 

 女が再び粘性魔法を足元に展開するのは、ほぼ同時だった。

 

(──くっ、意外と精神力が強い! なら、もっと強力なやつを……。そうだ、あれだ)

 

 蒼夜の脳裏に、数年前の記憶が鮮明にフラッシュバックした。

 まだ自分がもっと小さかった頃、書斎で蒼士が真夜に何か悪戯をして、本気で怒られていた時のことだ。父がなおも軽口を叩きながら謝罪を繰り返すと、母は心底うんざりしたように、しかしその瞳の奥に隠しきれない笑みを浮かべて、こう言った。

 

『……あなたのその口は、謝罪よりも別のことに使った方が、よほど有効だと思うのだけれど?』

 

 父が『え?』と間抜けな声を上げた、その瞬間。

 母は、『罰として、少しだけ黙らせてあげるわ』と囁き、そして──まるで獲物を狩る女王のように、父の唇を、奪った。

 幼い蒼夜には、それが何なのか分からなかった。ただ、その瞬間に母から放たれた、圧倒的で、理不尽で、有無を言わさぬプシオンの嵐だけを、彼の知覚は生データとして完璧に記憶・保存していた。

 父がその場で崩れ落ち、『……まいりました』と白旗を上げた、あの謎の現象。

 あれが、父の言うところの「愛という名の最終兵器」。

 

(──あの時の母さんのプシオンパターンを、再現!)

 

 蒼夜が、記憶の底からその「最強の感情データ」を引っ張り出し、持てるプシオンの全てを注ぎ込んで解き放った。その瞬間、女魔法師の理性のダムが、轟音と共に決壊した。

 

「ああもう! 知らないっ! 任務なんて、どうにでもなれぇぇぇっ!」

 

 愛の逃避行を決意したヒロインのように叫ぶと、彼女は全ての魔法を解除し、驚きに目を見開く狙撃手の男に突進した。

 

「え、ちょ、リン!? 正気に──」

「責任取りなさいっ!!」

「むっ!?」

 

 男の悲鳴は、情熱的なキスの音に遮られた。

 それだけでは終わらない。

 愛の衝動に突き動かされた彼女は、男を床に押し倒し、その上にまたがった。幼い蒼夜が記憶していた、あの日の母と全く同じ体勢で。

 

「お、おいリン! 重い! 息が! ちょ、どこ触って……んむっ! んーっ! んぐっ……!」

 

 狭い通路で、もはや放送コードぎりぎりの、極めて情熱的な光景が繰り広げられる。その隙に、蒼夜はふらつく足取りで冷静に二人の背後に回り込み、後頭部にそれぞれ手刀を叩き込み、強制的にシャットダウンさせた。

 赤色灯が回り続ける。息は荒い。こめかみが、先程よりもずっと激しく痛む。

 

(……ぐ……っ、頭、痛ぁ……。母さんが、父さんを無力化する時のやつ、やっぱり、燃費悪いな……でも、なんでわざわざ跨るんだろう。護身術の一種かな)

 

 8歳の少年はまだ知らない。

 自分が今しがた再現したものが、どれほど強力で、そして自らの精神を削る諸刃の剣であったのかを。そして、なぜ母があの時、父に跨っていたのか、その本当の意味も。

 

「……通信班が落ちた? 博士、ブリッジの警備を──」 

 

 ヘッドセット越しの叫びが、床で気絶している男女の腕輪から漏れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 けたたましい警報音と、点滅する赤色灯が、鉄の迷宮をパニックの色に染め上げていた。

 軍靴が床を叩く硬質な音が、あちこちから反響し、一つの座標へと収束していく。機関ブロック──蒼夜が仕掛けた陽動の罠に、船内の兵士たちが面白いように吸い寄せられていくのが、気配で分かった。

 激痛の残る頭を押さえながら、蒼夜は荒い息をつく。だが、その口元には、不敵な笑みが浮かんでいた。

 

(……全員、こっちきてるね)

 

 敵の戦力を船底の迷宮に引きずり込むための、最高の花火。本当の狙いは、がら空きになるはずの、最上階。

 全ての指揮系統が集まる場所──ブリッジだ。

 彼は、警報が鳴り響く喧騒を背に、再び闇の中へと駆け出した。

 やがて、重厚な隔壁扉の前にたどり着く。【BRIDGE】と書かれたプレート。ここが、この鉄の怪物の頭脳。

 扉の電子ロックを解除し、音もなく内部へと滑り込む。

 そこは、不気味なまでに静まり返っていた。計器類の放つ青白い光だけが、広々としたブリッジを幻想的に照らし出している。

 巨大なメインスクリーンを背にして、一人の男が静かに立っていた。

 

「ようこそ。お待ちしておりましたよ、天城蒼夜くん……いや、四葉蒼夜くん」

 

 穏やかな、まるで大学教授のような声音。

 そこに立っていたのは、年の頃は五十代だろうか、痩身で、神経質そうな男だった。

 糊の効いた清潔な白衣を、まるで身体の一部のように、隙なく着こなしている。

 綺麗に切り揃えられた白髪は、一筋の乱れもなく、その理知的な額にかかっていた。

 一見すると、穏やかな学者のそれだ。

 しかし、よく見れば、その瞳の奥には、長年の研究による深い疲労の色と、自らの理論だけを信奉する狂信者の、乾いた光が不気味に同居していた。

 

「……驚きました。まさか、たった一人でここまでたどり着くとは。やはり、あなたは“彼”の最高傑作だ」

「……やっぱり父さんを、知っているんだね」

「知っているとも。我々の一族が、同胞たちが……彼の“神の御業”によって、文字通り塵芥と化したあの日を、忘れることなどありえません」

 

 ウォンの声には、憎しみというよりも、むしろ畏怖と憧憬に近い響きがあった。

 

「天城蒼士……突如としてこの世界に現れ、我々が長年積み上げてきた魔法体系を嘲笑うかのように、たった一人で一個師団を壊滅させた男。……だからこそ、我々は知りたかった。あの神にも等しい男が、この世界で何を生み出すのかを。そして、あなたは生まれた。……彼の血と、四葉の魔女の血を受け継いだ、奇跡の子。あなたこそは、我々が失った全てを取り戻し、さらなる高みへと至るための、唯一無二の“聖遺物(サンプル)”なのですよ」

 

 今までの連中は、自分のことを単なる復讐相手としか思っていなかった。

 しかし、彼のその言葉に、蒼夜は全てを理解した。

 彼の目的はもはや復讐ではない。自分を研究し、父を超える存在を、自分たちの手で再現すること。あの牢獄にいた少女たちは、そのための実験台ということだろう。

 蒼夜の口から、氷のように冷たい声が漏れた。

 

「……そんな事のために、あの子たちを実験したの?」

「失敗作ですよ。あんなものは。ですが、その犠牲があったからこそ、今、こうして本物の“奇跡”が、私の目の前にある」

 

 ピキッ、と蒼夜のこめかみに、青い血管が、わずかに浮かび上がった。

 

「狂ってるよ、あんた」

「その狂気を産んだのは、君の父親なのですよ。彼は、我々から秩序も未来も、そして、“正気”すらも奪っていったのですから」

 

 その、静かながらも、確信に満ちた言葉。

 もはや、これ以上の問答は、無意味だ。

 蒼夜は、投げかけるのをやめた。

 

「いかがですかな? あなたが我々に加わっていただけるなら、手荒な真似はしませんが。……怖いでしょう? 自らの全てが、見知らぬ誰かに、筒抜けになっているというのは」

「そりゃ怖いよ。いい年こいた大人が、そんなアホみたいなこと言ってるんだもん」 

「……残念です。交渉の余地はない、と」

 

 ウォンは、心底残念そうに首を振ると、よくわからないリモコンのスイッチを押した。

 その瞬間、蒼夜の全身を、見えない圧力が襲った。

 

「ぐ……っ!?」

 

 両手首のアンティナイトが、赤熱したかのように激しい阻害信号を発し始める。魔法演算領域そのものを、内側から直接握り潰されるような激痛が走る。

 

「……なに、これ……っ!」

「領域制御型のカウンター魔法システムーー自己矛盾の円環(ウロボロス・ケージ)です」

 

 ウォンは、講義をする教授のように、愉悦を隠さずに説明を始めた。

 

「あなたを捕らえている、そのアンティナイト。あれが、あなたの思考に抵抗して発する微弱な阻害信号を、このブリッジ全体に設置した増幅器で捉え、数十倍にして、あなたにだけ送り返しているのですよ。通常のアンティナイトが、あなたが魔法式を“構築”しようとするのを妨害するだけなのに対し、このシステムは、あなたの“思考”そのものを、攻撃に転用する」

 

 蒼夜は、最後の抵抗として、彼の能力の根幹である《時因位相展開》を発動させようとする。

 だが、未来を予測しようと思考を巡らせた、その瞬間に、これまでとは比較にならない激痛が、奔流となって脳を灼いた。

 

「無駄ですよ」とウォンは笑う。

 

「その“眼”で未来を視ようとすればするほど、あなたの脳はより活発に思考する。その思考が、より強力なフィードバックとなって、あなた自身を内側から破壊する。……まさに、自らの尾を喰らう蛇。永遠に抜け出せない、自己矛盾の檻です」

 

 意識的な「予測」だけでなく、彼を今まで導いてきた、無意識下の「予感」すらも、その思考の源流から、完全に断ち切られていく。

 脳が、悲鳴を上げている。

 そして、蒼夜は、生まれて初めて、ある“感覚”を味わっていた。

 “完全な、静寂”だ。

 彼の脳内では、物心ついた頃から、常に、未来の可能性を示す無数のノイズが、嵐のように吹き荒れていた。それが、彼の日常だった。

 だが、今。自己矛盾の円環(ウロボロス・ケージ)が、その常時稼働していた嵐(バックグラウンド処理)を、強制的に、完全に、黙らせていた。

 

(……何も、感じない……)

 

 未来が、視えない。

 危険を知らせてくれる、虫の知らせすらない。

 常に自分を導いてくれた、絶対的な羅針盤を、突然奪われたかのような、底なしの焦りと恐怖。

 だが、同時に。

 

(……あれ? なんだ……? 身体が……軽い……?)

 

 生まれてからずっと、彼の身体の奥底に、鉛のようにこびりついていた、慢性的な倦怠感が、嘘のように、消え失せている。

 常に情報を処理し続けていた脳が、生まれて初めて、本当の「休息」を得たのだ。皮肉なことに、敵が作り出した最悪の檻の中が、彼にとって、生まれて初めての「安息の地」でもあった。

 

「さあ、おとなしく眠りなさい、蒼夜くん」

「いやだね」

「……おや。まだ、その口が利けるとは。ですが、それも今のうちですよ」

 

 注射器を手に、ウォンがゆっくりと近づいてくる。

 蒼夜は思わずため息を漏らした。

 

「……あのね、博士」

 

 その言葉と同時に、ブリッジの巨大なメインスクリーンが、ノイズと共に真っ赤に染まった。

 

【主機制御システムへのアクセスを確認。全隔壁、緊急ロックダウンを開始します】

 

「なっ……!? ば、馬鹿な! 船のメインシステムは、最高レベルのプロテクトが……! いつの間に、どこからアクセスを……!?」

「え、これ閉じ込められるの!? 聞いて無いよ!?」

「それはこっちのセリフなんだがっ!?」

 

 ガ……ガガガガガッ!! 

 

 船全体が大きく軋む音を立て、ブリッジの全ての出入り口が、分厚い隔壁によって完全に封鎖されていく。

 

「えっと……二人っきりだね?」

「……なんだその色気のないセリフは。よくその迂闊さでここまで来れたものだな」

「まぁ、とりあえず、ここには誰も来ないってことだよね」

「──っ」 

 

 蒼夜の瞳が、狩人のそれに変わる。

 

 ──今俺一番身体軽いから、結構強いよ? 

 

 その言葉が終わるか、終わらないか。

 蒼夜の身体が、床を、滑った。

 思考ではない。

 軽い身体が、ただ、本能のままに、動く。

 ウォンの、驚愕に歪んだ顔面めがけて、蒼夜の小さな身体が、砲弾のように、突き刺さった。

 

「ごふっ!?」

 

 まともに衝撃を受けたウォンの身体が、数メートル、後方に吹き飛ぶ。

 壁に叩きつけられ、崩れ落ちる。

 

「……な、ぜ……動ける……自己矛盾の円環(ウロボロス・ケージ)は……ごふっ」

「そりゃ、普通の子供じゃないからね。四葉の血って、あんたが思ってるより、ずっと、頑丈にできてるんだよ」

 

 血反吐を吐く博士の前に、蒼夜はゆっくりと、しかし、一切の油断なく歩み寄った。

 

「……復讐で生まれるものは何もないけど、復讐しないと晴らせない恨みがあるのも事実だと思う。……あんた達の、父さんへの恨みは、少しだけ分かった気がする」

 

 蒼夜は、静かに語りかける。

 

「だから、その対象が俺になるのは仕方ないのかなって、どこかで思ってた」

 

 だが、彼の瞳が、氷のように冷たく光る。

 

「でも、あの子たちは関係ないじゃん。 なんで、あんた達の復讐に、あの子たちを巻き込んだの? 」

「黙れっ! 貴様に、我々の悲願が分かってたまるか!!」

「その悲願に、あんなか弱い女の子の命が必要なの?」

「当然だとも! 進化に犠牲は不可欠な要素だ」

「……そうやって人の悲しみばっかり作ってるから罰が当たったんだよ。父さんは理由なく人殺しなんかしないもん。そんな弱い人じゃない。理由があったんでしょ? アンタたちが滅ぼされる理由が」

 

 蒼夜の純粋な問いが、ウォンの心の最も痛い部分を抉る。

 

「その様子を見る限りだと、やっぱりそうなんだね。ちょっとだけホッとしたよ」

 

 蒼夜は、ウォンの目の前で、しゃがみこんだ。

 そして、その瞳を真っすぐに見据えた。

 その目に宿る絶対的な圧に、ウォンは、息を呑んだ。

 

「どのみち、今も尚こうして、この世で一番、敵にしちゃいけない相手に喧嘩を売ったんだ。なら、覚悟してよ?」

 

 その言葉は、もはやただの子供のものではなかった。

 四葉という絶対的な闇の、後継者としての、冷徹な、宣告だった。

 静寂に満ちたブリッジに響き渡った、まさにその時だった。

 

 ゴウンッ!! 

 

 轟音と共に、完全に閉鎖されたはずの隔壁扉の一つが、内側から、まるで粘土のように歪み、弾け飛んだ。

 砂煙と火花の中から、一人の男が、ゆらりと姿を現す。

 年の頃は二十代半ば。東アジア系の、彫刻のように整った無表情な顔。身体の線を浮き彫りにする、機能性を突き詰めた漆黒の戦闘服。その両腕には、銀色の腕輪型CADが装着されている。

 だが、これまでの敵と決定的に違うのは、その「気配」だった。ツァンやリウが放っていたのは、まだ人間的な感情の熱量だった。

 しかし、この男から発せられるものは、何もない。

 まるで、完璧に調整された機械のように、感情のノイズが一切ない。ただ、その場にいるだけで、周囲のサイオンの流れが淀み、魔法という概念そのものが歪められるかのような、絶対的なプレッシャー。

 

「き、貴様は……カイン!? なぜ、お前がここに……! 私の許可なく動くことは……!」

 

 ウォンが、まるで悪魔でも見たかのように、恐怖に顔を引きつらせる。彼の計画では、この男は最後の最後まで投入されることのない、切り札中の切り札のはずだった。

 カインと呼ばれた男は、ウォンを一瞥だにせず、その氷のような視線を、蒼夜へと向けた。

 

「状況が変わった。これより、当方が全権を掌握する」

 

 その声もまた、何の抑揚もない、合成音声のような響きを持っていた。

 

「……これより、あなたの捕獲、及び、無力化を開始します」

 

(……こいつ、今までの奴らとは、レベルが違う……!)

 

 思考が、そのまま攻撃となって脳を焼く。一瞬でも深く相手を分析しようものなら、内側から万力で締め上げられるかのような激痛が走り、意識が飛びかける。

 

「──ま、待て、カイン! そいつを生きたまま……!」

 

 ウォンの制止の声は、届かない。

 カインが、床を蹴った。

 その瞬間、彼の身体の輪郭が、陽炎のようにブレた。

 

 ──来る。

 

 いつもなら、ここで蒼夜の脳内には、鮮明な未来の軌道が描かれるはずだった。

 だが、何も視えない。

 自己矛盾の円環(ウロボロス・ケージ)が、彼の思考そのものを、ノイズの嵐でかき消していく。

 “眼”が、完全に塞がれている。

 彼に残されたのは、ただ、純粋な鍛え上げられた「反応」だけ。

 カインの動きは、他の連中と直線的な爆発力とは全く違った。

 まるで重力を無視したかのように、三次元的な軌道を描き、予測不能な角度から、蒼夜の死角へと滑り込んでくる。その手には、眩い光が、まるで意思を持ったかのように短剣の形へと収束し、輝いていた。それは物理的な金属の刃ではない。純粋なエネルギーそのものが、殺意の形を取ったかのような、異質な光の刃だった。

 

(……速い、だけじゃない。動きが、読めない……!)

 

 蒼夜は、思考するよりも早く、身体を捻って回避する。

 その光の刃が彼の頬を掠めただけで、数本の髪が焦げ、焼き切れた。背後の、分厚い強化金属で覆われていたはずのコンソールパネルに、まるで熱したナイフでバターを切ったかのように、音もなく、一本の黒い切断線が走る。

 

「……っ!」

 

 完全に、防戦一方だ。

 未来という、絶対的なアドバンテージを失った今、彼は、ただの、身体能力の高い子供に過ぎない。

 しかも、相手は、これまでの敵とは比較にならないほどの、洗練された戦闘技術と、魔法の精密さを兼ね備えている。

 

(……なんだよ、これ……! 達也との稽古より、キツいじゃないか……!)

 

 蒼夜の心に、初めて、本物の焦りが生まれる。

 今まで、彼は、無意識のうちに、魔法に、そして何よりも、未来が視えるという、その絶対的な安心感に、頼りきっていたのだ。

 その全てを失った自分は、こんなにも、無力なのか? 

 

(……情けない……!)

 

 魔法に頼りすぎていた自分が、どうしようもなく、嫌になる。

 不安と恐怖と絶望で首まで心臓が飛び上がったように息苦しい。

 その、思考の乱れ。

 コンマ数秒の逡巡が、命取りになった。

 カインのフェイントに、反応が遅れる。

 彼の本当の狙いは、蒼夜の体勢を崩し、その回避ルートを塞ぐことだった。

 上段の斬撃を避けた、その先。

 そこは、壁と、そして、待ち構えていたカインの、回し蹴りの軌道上。

 完全に、逃げ場を失った。

 

「……終わりです」

 

 カインの踵が、蒼夜の小さな身体を壁ごと砕かんと、振り抜かれる。

 その時、ふと、達也との稽古の記憶が蘇った。

 

『……人間の弱点は、大人になっても、強化人間になっても、変わらない場所にあるからだ』

『弱点? どこのこと?』

『平衡感覚だ。……このうちの二つを同時に、短時間だけ狂わせれば、どんな達人でも、赤子同然になる』

 

(……平衡感覚……!)

 

 脳の回路がショートするかのような閃光と激痛が走る。だが、その痛みこそが、この暗闇で唯一の道標だった。その瞬間、蒼夜の瞳から、迷いの色が消えた

 彼は、迫りくる蹴りを避けない。

 逆に、一歩、その懐へと踏み込む。

 カインが、至近距離で攻撃の軌道を修正しようと、わずかに体勢を崩した、その一瞬。

 蒼夜は、床に落ちていたコンソールパネルの小さな破片を、残っていた左足で、ピンポイントで蹴り上げた。

 金属片は、鋭い回転をしながら、カインの顔面、その眼球へと吸い込まれるように飛んでいく。

 

「……!?」

 

 カインの無表情が、初めて、わずかに揺らいだ。

 咄嗟に顔を背け、腕で庇う。

 視覚情報を、一瞬だけ強制的に遮断する。

 そして、その同じタイミングで、蒼夜は踏み込みながら、彼の軸足、そのアキレス腱を、靴のつま先で、針のように鋭く、抉るように突いた。

 接地感覚を、強制的に麻痺させる。

 

「なっ……!?」

 

 視覚と足元の感覚を同時に失った完璧な肉体が、脳からの信号と身体の状況が一致せず、致命的なバランスの崩壊を起こす。無様に、大きく、たたらを踏む。

 その、がら空きになった首筋の延髄。人体の最重要神経の束に、蒼夜の左手の手刀が、吸い込まれるように、的確に叩き込まれた。

 カインは、声もなく、床に崩れ落ちた。

 一撃。

 達也の教えを、完璧に実践した、理想的な無力化だった。

 だが、その代償は大きかった。

 無理な体勢から、達人のバランスを崩すために踏み込んだ右足首が、ゴキリ、と嫌な音を立てた。

 

「ぐ……っ!」

 

 右足首の骨が軋む音と、酷使し続けた脳が上げる悲鳴が、同時に全身を貫いた。激痛に、思わず顔をしかめる。

 これで、本当に動けない。

 が。彼は勝ったのだ。そう悟った。

 

「……素晴らしい、反射神経です」

 

 背後から、声がした。

 床に倒れていたはずの、カインの声だった。

 蒼夜は、信じられない思いで振り返る。

 カインは、首の骨が、ありえない角度に折れ曲がったまま、ゆっくりと立ち上がっていた。

 そして、ゴキリ、ゴキリ、と、自らの手で、首を元の位置へと戻していく。

 

「……ですが、私には人間の急所は通用しません」

「……うわー。それ、ズルじゃん。完全にチートキャラじゃん……」

 

 蒼夜は思わずため息をこぼした。

 

 

 

 

 

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