船内は、彼の狩場と化した。
ユキから得た配線図と動線ログを頭の中で重ね合わせ、蒼夜は監視カメラの死角を縫い、換気ダクトを渡り、通路の段差に潜む乱気流すら踏み台にする。
意識を集中させて行う、鮮明な「予測」は、完全に封じられている。
彼に残されているのは、無意識下で常に稼働し続ける、ぼんやりとした「予感」と、純粋な体術のみ。
それでも、その感度の落ちた危険察知能力だけを頼りに、彼は、神業じみた機動で、銃弾の雨をすり抜けていた。
(こういうときは、目と耳を潰すんだよね?)
最下層のメンテナンス通路。船内通信・監視システムの幹線ケーブルが集中する中枢部。
蒼夜は天井パイプへ猫のように跳ね上がり、身を隠す。
そこでひと休憩しながら、考えた。
敵には魔法師もいる。
それも、かなり熟練の者たちが。
今のこの状態で、無傷での突破は不可能に近い。応援を待つべきか──そんな弱気が、脳裏をよぎる。
(達也みたいに最強だったらなぁ)
そんな時ふと、忘れていた記憶が、いまひらく花のような新鮮さでよみがえった。
『ねー、達也の分解ずるくない? あれどーやって倒せばいいの?』
達也との模擬戦を行い負けた時、真夜の寝室でそんな言葉を呟いた。そんなとき、父親はこう言った。
『まあまあ、そう言うなって。どんなクソゲーにも、必ず抜け道やバグ技ってのがあるもんだ』
『抜け道?』
『ああ。対達也くんってことで言うなら、彼の
「ん? なに? 一行刷り込ませるって」
『うーん、まあ、要はさ、達也くんとお前の魔法の本質を、よーく考えてみなってこと。それが理解できた時、お前の世界は変わるはずだ。きっとお前なら、
あの人は、具体的なアドバイスなどくれた試しがない。
その代わり、母親の方は懇切丁寧だ。どちらが良いというわけではないが、父からはいつも、こうして壮大な「宿題」を渡されているような気分になる。
蒼夜は、まるい目を宙に向けて考えるようにした。
達也の魔法は、特に《分解》は、対象を情報単位で解体するという、この世界の理すら捻じ曲げる規格外の力。その本質は、事象の最終的な“結果”を、問答無用で書き換えること。
それに対し、
(達也は結果を書き換え、俺は未来を予測して動く……)
蒼夜は、その決定的な差を、改めて認識した。
どれだけ未来を正確に予測しても、相手がその未来を無視して結果を書き換えるならば、自分の魔法は意味をなさない。だから、自分は模擬戦で敗北したのだ。
(……じゃあ、どうすれば良かったんだろう)
父さんの言葉を反芻する。
──初期条件。
──では、達也の《分解》の
──それは対象の『存在の構成式』に触れること。
それが、引き金(トリガー)だ。
(なら、俺がすべきことは? 未来を予測して、逃げ回ることじゃない……? もっと何か……)
思考が行き詰まる。
焦りが、じわりと胸を焼く。
蒼夜は、無意識のうちに、身を隠している天井パイプから、冷たいメンテナンス通路の床へと、そっと指先を降ろした。
──その、瞬間。
世界が、変わった。
指先が触れた、その一点から。
まるで、乾いた大地に水が染み込むように、膨大な『情報』が、彼の神経を、奔流となって駆け上ってきた。
──振動。
船底で唸りを上げるエンジンの、規則的で重い鼓動。
──気流。
換気ダクトを通り抜け、壁の隙間を縫って流れる、空気の微細な渦。
──サイオン。
船内を巡回する兵士たちが、無意識のうちに漏らす思考の残滓。警戒、焦燥、退屈。それらが、微弱なノイズとなって空間を満たしている。
──そして、電気。
壁の内側、床の下を、まるで血管のように網の目のごとく走り抜ける、膨大な電子の流れ。監視カメラへ、通信システムへ、そして、ブリッジのメインフレームへと、絶え間なく情報を運び続ける、この船の神経そのもの。
それは、未来の光景ではない。
今、この瞬間に、この船という一つの生命体を動かしている、無数の『流れ』。
アンティナイトの枷をはめられてからずっと感じていた、世界との間にあった一枚の分厚い膜が、物理的な接触によって、一時的に取り払われたかのような、鮮明な感覚。
(……ずっと当たり前のようだったけど、そっか。俺が見ていたのは、未来だけじゃない……)
彼の“眼”が捉えていたのは、【原因】から【結果】へと至る、この世界の全ての事象の、動的なプロセス──『流れ』そのものだったのだ。
その瞬間、脳内で、バラバラだったパズルのピースが、一つの形へと収束していく。
達也の《分解》を、雄大な川の流れに例えるなら、あれは、下流の【結果】を、ダムで堰き止めて無理やり変えてしまうような、絶対的な【編集権】だ。
今まで、その下流で、流れの
(──違う。俺が行くべき場所は、そこじゃない)
もっと、上流へ。
その川の「流れ」が、まだ、岩清水の一滴でしかない、その源泉。全ての始まりの起点へ。
──つまり、「魔法式が展開される」という、全ての始まりの【初期条件】そのものを、崩してしまえばいいんだ。
あの時、閃光弾を止めた《事象凍結》も、そうだ。
「爆発」という【結果】を覆したのではない。その結果を生み出すための【初期条件】──「時間の進行速度」という、流れそのものを変えたんだ。
(……そうか。父さんが言ってた「一行でいい」っていうのは、そういうことか……! なら、これもそう?)
複雑な
そうじゃない。
ただ、流れが生まれようとする、その一瞬に、その源泉に、ほんの小さな“石”を、一つだけ、投げ込んでやればいい。
たったそれだけの、一行だけの単純な
その小さな一点の波紋が、いずれ大きなうねりとなり、川全体の流れを変えてしまう。
アンティナイトの枷は、複雑な魔法式の構築を阻害する。
だが、流れが生まれる瞬間に。
ごく微量のサイオンで、
(──やれるかも!)
蒼夜は、ゆっくりと立ち上がった。
その瞳には、もはや迷いも、焦りもなかった。
絶望的な状況の中で、彼は、自らの力の新たな可能性と、勝利への道を、確かに掴み取っていた。
廊下の天井にあるパイプの上から、蒼夜はふわりと身を乗り出した。
踵が一人目の兵士の頸動脈の上を正確に叩き、沈む。二人目はライフルを構えたが、視界から蒼夜が滑って消える。足首を刈り、側頭部に手刀。制圧、完璧に三秒。
彼は、倒れた兵士たちには一瞥もくれず、壁に埋め込まれた金属製のメンテナンスハッチへと向き直った。ロックは単純な電子式。指先から微弱な静電気を流し、回路をショートさせると、重い音を立ててハッチが開かれた。
闇の中に、無数のケーブルが、まるで巨大な生物の内臓のように、とぐろを巻いていた。
赤、青、黄、色とりどりの光ファイバーの束。その中でも一際太く、船の神経系であることを主張している物理的な幹線ケーブル。
そして、その奥。青白い光を明滅させている、水晶のようなパーツが埋め込まれた、黒い箱。
想子波増幅器だ。
蒼夜は、その複雑に絡み合った光景を、まるで馴染みのパズルでも解くかのように、冷静な目で見下ろした。
(この船は物理回線と想子波通信の併用か。……全部切る? 切るなら両方同時だよね)
アンティナイトの抑制リングが手首で鈍く光る。魔法式は組めない。だが、蒼夜は、想子波増幅器の心臓部である水晶発振子に、そっと、指先を触れさせた。
その、瞬間ずっと、ノイズの嵐で霞んでいた彼の“視界”が、一気に、晴れた。
ああ、これこれ。
この感覚だ。
彼の指先が触れた、その一点から。
まるで、渇いた砂が水を吸い込むように、対象の“情報”が、彼の神経を、光の速さで駆け上ってくる。
アンティナイトの枷をはめられてからずっと感じていた、世界との間にあった一枚の分厚い膜が、取り払われたかのような、鮮明な感覚。
視える。
いや、視ているのではない。“分かる”のだ。
指先が触れている、その水晶の、完璧なまでの結晶構造。
シリコンと酸素の原子が、規則正しく組み上げられている、その幾何学的な美しさ。
その格子の中を、エネルギーが、川の水のように流れている、その動的な“流れ”。
原子核の周りを、電子が、雲のように回転している、その微細な“律動”。
普段なら、彼が無意識のうちに感じ取っている、世界の“当たり前”の姿。
そして、彼は、“視つけた”。
その、完璧に見える、結晶構造の中に、たった一つだけ存在する、歪み。
製造過程で生じたのであろう、ナノメートル単位の、ほんのわずかな、原子配列の乱れ。
そこだけが、エネルギーの「流れ」が、微かに淀んでいる。
そこだけが、完璧な「律動」から、ほんの少しだけズレている。
──ここだ。
この、完璧に撮影されたはずの映画フィルムに映り込んでしまった、たった一コマの“ノイズ”。
ここが、この完璧な世界の、唯一の
達也のように、設計図を知らない。
ただ、完成された建築物(現在の構造)を、外から、そして内側から、完璧に“感じ取り”、その構造上の、たった一つの弱点を、見つけ出す。それは、既存のものを削除する「破壊」ではなく、弱点を突いて、自壊へと導く「誘導」に近い、足し算の思想。
そして、その「急所」に向けてサイオンを、針のように鋭く叩き込んだ。
「──壊れろ」
脳を焼く痛み。視界の端が白く瞬き、鼻腔に鉄の味。それでも押し込み、水晶が内側から弾ける。
彼は、一番太い物理幹線ケーブルを工具で引きちぎる、その直前。ポケットから、父に渡された指先ほどの大きさの黒いチップを取り出すと、その端末を、ケーブルのデータポートに一瞬だけ、差し込んだ。
チップが、カチリ、と小さな音を立てて、船のメインフレームに接続される。
(父さんの“お守り”。役に立つといいけど)
そして、彼は何事もなかったかのように、そのケーブルを力任せに断ち切った。
その瞬間、船内の照明が一斉に非常用の赤色灯に切り替わり、けたたましい警報が咆哮した。
(目と耳は塞いだ。──さあ、こっちに来い)
怒声と軍靴の奔流が、船底の迷宮に雪崩れ込む。その中に、歩調の揃った四名が混じる。装備は軽い、腕輪型CAD。呼吸が深く、無駄がない。魔法師班だ。
機関ブロック脇通路で迎撃。
(──ヤバいとしたら、俺より魔法を撃つのが速い相手。でも、達也みたいなスピードで撃てる奴なんて、中々いないよね)
先頭の女が腕輪型CADに触れ、空気が揺らぐ。通路照明に蜃気楼の縞が走った。
それは、対象範囲の空気の屈折率を操作し、光の経路を曲げることで、対象物を歪ませたり、あるいは完全に不可視にする現象。蒼夜は、女の魔法が「光の屈折率を書き換える」という“現象の初期条件”を直感的に把握する。彼は壁際にある空調ダクトのバルブを、躊躇なく蹴り開けた。
ブシュウッ! と熱い排気が噴き出し、通路の温度が急激に乱れる。完璧だったはずの光路の設計が、予測不能な温度勾配によって破綻し、女たちの姿が、歪んだ輪郭となって闇の中に浮かび上がった。
(いけるっ!)
姿を見られたことに動揺したのか、狙撃手の男の反応が、コンマ数秒遅れた。だが、その引き金は確実に絞られる。放たれた銃弾には、弾道を自動で補正する魔法が付与されていた。銃弾自身が微弱な探査波を発信し、反射波から通路の形状と
蒼夜は、左手首の抑制リングを、壁の溶接継ぎ目に擦り付ける。抜け穴から、ごく微量のサイオンを流し込み、壁材の弾性率にごく小さな偏差を刻み込む。
狙撃手の補正アルゴリズムが、予測と異なる反射音を拾い、エラーを起こす。弾丸は、蒼夜の肩を掠めるだけで、背後の壁に突き刺さり、火花を散らした。
その火花が消えるより早く、蒼夜は床を滑っていた。
足元に、空気が泥沼のように粘りつく。だが、彼は足裏の摩擦係数を一行のコードで削ぎ落とし、その粘性を無視して、女の懐へと突進する。
脇腹へ、短い肘。女の呼吸が止まり、光学迷彩が完全に解けた。
背後の男が、床板が悲鳴を上げるほどの強力な振動を放つ。
蒼夜は、その共振のリズムの裏拍を“読んで”、膝を抜いて衝撃を殺す。そして、男が次の魔法を構築しようとする、その思考の“起点”に、指先から一行のノイズを撃ち込んだ。
男の魔法が、不発に終わる。その、コンマ数秒の硬直。
蒼夜の踏み込みと同時に放たれた直突きが、男の顎を打ち抜き、意識を刈り取った。
残るは二人。
狙撃手が、動線を塞ごうとする味方の背後から、二点バーストで射撃してくる。
蒼夜は、通路の支柱の影へと飛び込むと同時に、その表面に「硬くなれ」と、一行の命令を書き込んだ。
キンッ! と甲高い音を立てて、弾丸が柱の表面で潰れる。
硬化が砕け散る、その瞬間。
蒼夜は、柱の影から、弾丸のように飛び出した。
狙撃手に肉薄する。腕輪型CADのトリガーに、相手の指がかかるのが、スローモーションで見えた。
蒼夜は、その手首に、軽く、タップするように触れる。
相手の魔法展開の“開始”という初期条件に、偽の情報を混ぜ込む。
狙撃手の魔法は、発動する前に、霧散した。
粘性担当が後退しながら魔法を維持──通路の端、アンティナイト板が継ぎ足しになっている。蒼夜はそこへ滑り込み、板の境界に触れる。
(魔法の効率を『落とす』。たった一行の初期条件で、この流れは変えられる)
その思考が、彼の指先に収束する。
「──させない」
蒼夜がそう囁いた瞬間、女の眉間に苛立ちが刻まれる。彼女の足元に展開されていたはずの粘性強化の魔法が、一瞬、揺らいだ。 泥沼のようだった粘性が、ほんのわずかに、水っぽくなる。
(……よし、効いた!)
成功を確信し、蒼夜は踏み込もうとする。
だが、遅かった。
「……甘いな、ガキが!」
女は、自身の魔法に起きた一瞬の不調を、根性で立て直した。揺らいだ粘性は、即座に元の、あるいはそれ以上の強度を取り戻す。
蒼夜の足が、再び泥沼に絡め取られるように、動きを鈍らせた。
「なっ……!?」
(……ダメか! 効率を“落とす”だけじゃ、止めきれない!)
失敗。
彼の脳裏に、その二文字が浮かんだ。
サイオンによる物理干渉は、相手の術者の技量が高ければ、こうして上書きされてしまう。
女が、ニヤリと口元を歪ませ、勝利を確信した、その時。
(……ああ、そうか。なんで、簡単なことに気づかなかったんだろ)
蒼夜の口元に、悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
(“思考”そのものをバグらせたら、どうなるんだろう?)
それは、彼が今まで使ってきたサイオンによる物理干渉とは質の違う、母譲りの、プシオンによる精神干渉の領域。
彼は、再び、女の思考パターンに、狙いを定める。
だが、今度送り込むのは、魔法の効率を落とすためのコードではない。
蒼夜の瞳が、静かに女魔法師を捉えた。
そして、彼はただ、心の中で思った。
(──混ざれ)
女魔法師の動きが、ぴたりと止まった。
彼女の眉間に浮かんだのは、苛立ちではない。稲妻に打たれたかのような衝撃と、熱烈な、しかし致命的に場違いなときめきの色だった。
足元の泥沼? 敵の少年? そんなものは、もう彼女の世界から消えていた。
彼女の足元に展開されていたはずの粘性強化の魔法は、恋の炎の前に、あっけなく霧のように消え去る。
彼女の瞳が、潤んだ光を帯びて、隣で銃を構える同僚の横顔を捉えた。
「……かっこいい……」
「……はっ?」
突然の乙女モードに、狙撃手の男が素で困惑の声を上げる。
女は、ふらふらと、まるで運命に引き寄せられるように男へと歩み寄った。
「私の、王子様……っ!」
「いや待てリン! 今は戦闘中だぞ! 敵は目の前──」
男の説得の途中、女の頭に、長年の軍事訓練で叩き込まれた本能が、強烈なツッコミを入れた。女は「はっ!」と我に返り、顔を真っ赤にして蒼夜を睨みつける。
「き、貴様! 私の純情な心に何をした!?」
女が再び粘性魔法を足元に展開するのは、ほぼ同時だった。
(──くっ、意外と精神力が強い! なら、もっと強力なやつを……。そうだ、あれだ)
蒼夜の脳裏に、数年前の記憶が鮮明にフラッシュバックした。
まだ自分がもっと小さかった頃、書斎で蒼士が真夜に何か悪戯をして、本気で怒られていた時のことだ。父がなおも軽口を叩きながら謝罪を繰り返すと、母は心底うんざりしたように、しかしその瞳の奥に隠しきれない笑みを浮かべて、こう言った。
『……あなたのその口は、謝罪よりも別のことに使った方が、よほど有効だと思うのだけれど?』
父が『え?』と間抜けな声を上げた、その瞬間。
母は、『罰として、少しだけ黙らせてあげるわ』と囁き、そして──まるで獲物を狩る女王のように、父の唇を、奪った。
幼い蒼夜には、それが何なのか分からなかった。ただ、その瞬間に母から放たれた、圧倒的で、理不尽で、有無を言わさぬプシオンの嵐だけを、彼の知覚は生データとして完璧に記憶・保存していた。
父がその場で崩れ落ち、『……まいりました』と白旗を上げた、あの謎の現象。
あれが、父の言うところの「愛という名の最終兵器」。
(──あの時の母さんのプシオンパターンを、再現!)
蒼夜が、記憶の底からその「最強の感情データ」を引っ張り出し、持てるプシオンの全てを注ぎ込んで解き放った。その瞬間、女魔法師の理性のダムが、轟音と共に決壊した。
「ああもう! 知らないっ! 任務なんて、どうにでもなれぇぇぇっ!」
愛の逃避行を決意したヒロインのように叫ぶと、彼女は全ての魔法を解除し、驚きに目を見開く狙撃手の男に突進した。
「え、ちょ、リン!? 正気に──」
「責任取りなさいっ!!」
「むっ!?」
男の悲鳴は、情熱的なキスの音に遮られた。
それだけでは終わらない。
愛の衝動に突き動かされた彼女は、男を床に押し倒し、その上にまたがった。幼い蒼夜が記憶していた、あの日の母と全く同じ体勢で。
「お、おいリン! 重い! 息が! ちょ、どこ触って……んむっ! んーっ! んぐっ……!」
狭い通路で、もはや放送コードぎりぎりの、極めて情熱的な光景が繰り広げられる。その隙に、蒼夜はふらつく足取りで冷静に二人の背後に回り込み、後頭部にそれぞれ手刀を叩き込み、強制的にシャットダウンさせた。
赤色灯が回り続ける。息は荒い。こめかみが、先程よりもずっと激しく痛む。
(……ぐ……っ、頭、痛ぁ……。母さんが、父さんを無力化する時のやつ、やっぱり、燃費悪いな……でも、なんでわざわざ跨るんだろう。護身術の一種かな)
8歳の少年はまだ知らない。
自分が今しがた再現したものが、どれほど強力で、そして自らの精神を削る諸刃の剣であったのかを。そして、なぜ母があの時、父に跨っていたのか、その本当の意味も。
「……通信班が落ちた? 博士、ブリッジの警備を──」
ヘッドセット越しの叫びが、床で気絶している男女の腕輪から漏れた。
けたたましい警報音と、点滅する赤色灯が、鉄の迷宮をパニックの色に染め上げていた。
軍靴が床を叩く硬質な音が、あちこちから反響し、一つの座標へと収束していく。機関ブロック──蒼夜が仕掛けた陽動の罠に、船内の兵士たちが面白いように吸い寄せられていくのが、気配で分かった。
激痛の残る頭を押さえながら、蒼夜は荒い息をつく。だが、その口元には、不敵な笑みが浮かんでいた。
(……全員、こっちきてるね)
敵の戦力を船底の迷宮に引きずり込むための、最高の花火。本当の狙いは、がら空きになるはずの、最上階。
全ての指揮系統が集まる場所──ブリッジだ。
彼は、警報が鳴り響く喧騒を背に、再び闇の中へと駆け出した。
やがて、重厚な隔壁扉の前にたどり着く。【BRIDGE】と書かれたプレート。ここが、この鉄の怪物の頭脳。
扉の電子ロックを解除し、音もなく内部へと滑り込む。
そこは、不気味なまでに静まり返っていた。計器類の放つ青白い光だけが、広々としたブリッジを幻想的に照らし出している。
巨大なメインスクリーンを背にして、一人の男が静かに立っていた。
「ようこそ。お待ちしておりましたよ、天城蒼夜くん……いや、四葉蒼夜くん」
穏やかな、まるで大学教授のような声音。
そこに立っていたのは、年の頃は五十代だろうか、痩身で、神経質そうな男だった。
糊の効いた清潔な白衣を、まるで身体の一部のように、隙なく着こなしている。
綺麗に切り揃えられた白髪は、一筋の乱れもなく、その理知的な額にかかっていた。
一見すると、穏やかな学者のそれだ。
しかし、よく見れば、その瞳の奥には、長年の研究による深い疲労の色と、自らの理論だけを信奉する狂信者の、乾いた光が不気味に同居していた。
「……驚きました。まさか、たった一人でここまでたどり着くとは。やはり、あなたは“彼”の最高傑作だ」
「……やっぱり父さんを、知っているんだね」
「知っているとも。我々の一族が、同胞たちが……彼の“神の御業”によって、文字通り塵芥と化したあの日を、忘れることなどありえません」
ウォンの声には、憎しみというよりも、むしろ畏怖と憧憬に近い響きがあった。
「天城蒼士……突如としてこの世界に現れ、我々が長年積み上げてきた魔法体系を嘲笑うかのように、たった一人で一個師団を壊滅させた男。……だからこそ、我々は知りたかった。あの神にも等しい男が、この世界で何を生み出すのかを。そして、あなたは生まれた。……彼の血と、四葉の魔女の血を受け継いだ、奇跡の子。あなたこそは、我々が失った全てを取り戻し、さらなる高みへと至るための、唯一無二の“
今までの連中は、自分のことを単なる復讐相手としか思っていなかった。
しかし、彼のその言葉に、蒼夜は全てを理解した。
彼の目的はもはや復讐ではない。自分を研究し、父を超える存在を、自分たちの手で再現すること。あの牢獄にいた少女たちは、そのための実験台ということだろう。
蒼夜の口から、氷のように冷たい声が漏れた。
「……そんな事のために、あの子たちを実験したの?」
「失敗作ですよ。あんなものは。ですが、その犠牲があったからこそ、今、こうして本物の“奇跡”が、私の目の前にある」
ピキッ、と蒼夜のこめかみに、青い血管が、わずかに浮かび上がった。
「狂ってるよ、あんた」
「その狂気を産んだのは、君の父親なのですよ。彼は、我々から秩序も未来も、そして、“正気”すらも奪っていったのですから」
その、静かながらも、確信に満ちた言葉。
もはや、これ以上の問答は、無意味だ。
蒼夜は、投げかけるのをやめた。
「いかがですかな? あなたが我々に加わっていただけるなら、手荒な真似はしませんが。……怖いでしょう? 自らの全てが、見知らぬ誰かに、筒抜けになっているというのは」
「そりゃ怖いよ。いい年こいた大人が、そんなアホみたいなこと言ってるんだもん」
「……残念です。交渉の余地はない、と」
ウォンは、心底残念そうに首を振ると、よくわからないリモコンのスイッチを押した。
その瞬間、蒼夜の全身を、見えない圧力が襲った。
「ぐ……っ!?」
両手首のアンティナイトが、赤熱したかのように激しい阻害信号を発し始める。魔法演算領域そのものを、内側から直接握り潰されるような激痛が走る。
「……なに、これ……っ!」
「領域制御型のカウンター魔法システムーー
ウォンは、講義をする教授のように、愉悦を隠さずに説明を始めた。
「あなたを捕らえている、そのアンティナイト。あれが、あなたの思考に抵抗して発する微弱な阻害信号を、このブリッジ全体に設置した増幅器で捉え、数十倍にして、あなたにだけ送り返しているのですよ。通常のアンティナイトが、あなたが魔法式を“構築”しようとするのを妨害するだけなのに対し、このシステムは、あなたの“思考”そのものを、攻撃に転用する」
蒼夜は、最後の抵抗として、彼の能力の根幹である《時因位相展開》を発動させようとする。
だが、未来を予測しようと思考を巡らせた、その瞬間に、これまでとは比較にならない激痛が、奔流となって脳を灼いた。
「無駄ですよ」とウォンは笑う。
「その“眼”で未来を視ようとすればするほど、あなたの脳はより活発に思考する。その思考が、より強力なフィードバックとなって、あなた自身を内側から破壊する。……まさに、自らの尾を喰らう蛇。永遠に抜け出せない、自己矛盾の檻です」
意識的な「予測」だけでなく、彼を今まで導いてきた、無意識下の「予感」すらも、その思考の源流から、完全に断ち切られていく。
脳が、悲鳴を上げている。
そして、蒼夜は、生まれて初めて、ある“感覚”を味わっていた。
“完全な、静寂”だ。
彼の脳内では、物心ついた頃から、常に、未来の可能性を示す無数のノイズが、嵐のように吹き荒れていた。それが、彼の日常だった。
だが、今。
(……何も、感じない……)
未来が、視えない。
危険を知らせてくれる、虫の知らせすらない。
常に自分を導いてくれた、絶対的な羅針盤を、突然奪われたかのような、底なしの焦りと恐怖。
だが、同時に。
(……あれ? なんだ……? 身体が……軽い……?)
生まれてからずっと、彼の身体の奥底に、鉛のようにこびりついていた、慢性的な倦怠感が、嘘のように、消え失せている。
常に情報を処理し続けていた脳が、生まれて初めて、本当の「休息」を得たのだ。皮肉なことに、敵が作り出した最悪の檻の中が、彼にとって、生まれて初めての「安息の地」でもあった。
「さあ、おとなしく眠りなさい、蒼夜くん」
「いやだね」
「……おや。まだ、その口が利けるとは。ですが、それも今のうちですよ」
注射器を手に、ウォンがゆっくりと近づいてくる。
蒼夜は思わずため息を漏らした。
「……あのね、博士」
その言葉と同時に、ブリッジの巨大なメインスクリーンが、ノイズと共に真っ赤に染まった。
【主機制御システムへのアクセスを確認。全隔壁、緊急ロックダウンを開始します】
「なっ……!? ば、馬鹿な! 船のメインシステムは、最高レベルのプロテクトが……! いつの間に、どこからアクセスを……!?」
「え、これ閉じ込められるの!? 聞いて無いよ!?」
「それはこっちのセリフなんだがっ!?」
ガ……ガガガガガッ!!
船全体が大きく軋む音を立て、ブリッジの全ての出入り口が、分厚い隔壁によって完全に封鎖されていく。
「えっと……二人っきりだね?」
「……なんだその色気のないセリフは。よくその迂闊さでここまで来れたものだな」
「まぁ、とりあえず、ここには誰も来ないってことだよね」
「──っ」
蒼夜の瞳が、狩人のそれに変わる。
──今俺一番身体軽いから、結構強いよ?
その言葉が終わるか、終わらないか。
蒼夜の身体が、床を、滑った。
思考ではない。
軽い身体が、ただ、本能のままに、動く。
ウォンの、驚愕に歪んだ顔面めがけて、蒼夜の小さな身体が、砲弾のように、突き刺さった。
「ごふっ!?」
まともに衝撃を受けたウォンの身体が、数メートル、後方に吹き飛ぶ。
壁に叩きつけられ、崩れ落ちる。
「……な、ぜ……動ける……
「そりゃ、普通の子供じゃないからね。四葉の血って、あんたが思ってるより、ずっと、頑丈にできてるんだよ」
血反吐を吐く博士の前に、蒼夜はゆっくりと、しかし、一切の油断なく歩み寄った。
「……復讐で生まれるものは何もないけど、復讐しないと晴らせない恨みがあるのも事実だと思う。……あんた達の、父さんへの恨みは、少しだけ分かった気がする」
蒼夜は、静かに語りかける。
「だから、その対象が俺になるのは仕方ないのかなって、どこかで思ってた」
だが、彼の瞳が、氷のように冷たく光る。
「でも、あの子たちは関係ないじゃん。 なんで、あんた達の復讐に、あの子たちを巻き込んだの? 」
「黙れっ! 貴様に、我々の悲願が分かってたまるか!!」
「その悲願に、あんなか弱い女の子の命が必要なの?」
「当然だとも! 進化に犠牲は不可欠な要素だ」
「……そうやって人の悲しみばっかり作ってるから罰が当たったんだよ。父さんは理由なく人殺しなんかしないもん。そんな弱い人じゃない。理由があったんでしょ? アンタたちが滅ぼされる理由が」
蒼夜の純粋な問いが、ウォンの心の最も痛い部分を抉る。
「その様子を見る限りだと、やっぱりそうなんだね。ちょっとだけホッとしたよ」
蒼夜は、ウォンの目の前で、しゃがみこんだ。
そして、その瞳を真っすぐに見据えた。
その目に宿る絶対的な圧に、ウォンは、息を呑んだ。
「どのみち、今も尚こうして、この世で一番、敵にしちゃいけない相手に喧嘩を売ったんだ。なら、覚悟してよ?」
その言葉は、もはやただの子供のものではなかった。
四葉という絶対的な闇の、後継者としての、冷徹な、宣告だった。
静寂に満ちたブリッジに響き渡った、まさにその時だった。
ゴウンッ!!
轟音と共に、完全に閉鎖されたはずの隔壁扉の一つが、内側から、まるで粘土のように歪み、弾け飛んだ。
砂煙と火花の中から、一人の男が、ゆらりと姿を現す。
年の頃は二十代半ば。東アジア系の、彫刻のように整った無表情な顔。身体の線を浮き彫りにする、機能性を突き詰めた漆黒の戦闘服。その両腕には、銀色の腕輪型CADが装着されている。
だが、これまでの敵と決定的に違うのは、その「気配」だった。ツァンやリウが放っていたのは、まだ人間的な感情の熱量だった。
しかし、この男から発せられるものは、何もない。
まるで、完璧に調整された機械のように、感情のノイズが一切ない。ただ、その場にいるだけで、周囲のサイオンの流れが淀み、魔法という概念そのものが歪められるかのような、絶対的なプレッシャー。
「き、貴様は……カイン!? なぜ、お前がここに……! 私の許可なく動くことは……!」
ウォンが、まるで悪魔でも見たかのように、恐怖に顔を引きつらせる。彼の計画では、この男は最後の最後まで投入されることのない、切り札中の切り札のはずだった。
カインと呼ばれた男は、ウォンを一瞥だにせず、その氷のような視線を、蒼夜へと向けた。
「状況が変わった。これより、当方が全権を掌握する」
その声もまた、何の抑揚もない、合成音声のような響きを持っていた。
「……これより、あなたの捕獲、及び、無力化を開始します」
(……こいつ、今までの奴らとは、レベルが違う……!)
思考が、そのまま攻撃となって脳を焼く。一瞬でも深く相手を分析しようものなら、内側から万力で締め上げられるかのような激痛が走り、意識が飛びかける。
「──ま、待て、カイン! そいつを生きたまま……!」
ウォンの制止の声は、届かない。
カインが、床を蹴った。
その瞬間、彼の身体の輪郭が、陽炎のようにブレた。
──来る。
いつもなら、ここで蒼夜の脳内には、鮮明な未来の軌道が描かれるはずだった。
だが、何も視えない。
“眼”が、完全に塞がれている。
彼に残されたのは、ただ、純粋な鍛え上げられた「反応」だけ。
カインの動きは、他の連中と直線的な爆発力とは全く違った。
まるで重力を無視したかのように、三次元的な軌道を描き、予測不能な角度から、蒼夜の死角へと滑り込んでくる。その手には、眩い光が、まるで意思を持ったかのように短剣の形へと収束し、輝いていた。それは物理的な金属の刃ではない。純粋なエネルギーそのものが、殺意の形を取ったかのような、異質な光の刃だった。
(……速い、だけじゃない。動きが、読めない……!)
蒼夜は、思考するよりも早く、身体を捻って回避する。
その光の刃が彼の頬を掠めただけで、数本の髪が焦げ、焼き切れた。背後の、分厚い強化金属で覆われていたはずのコンソールパネルに、まるで熱したナイフでバターを切ったかのように、音もなく、一本の黒い切断線が走る。
「……っ!」
完全に、防戦一方だ。
未来という、絶対的なアドバンテージを失った今、彼は、ただの、身体能力の高い子供に過ぎない。
しかも、相手は、これまでの敵とは比較にならないほどの、洗練された戦闘技術と、魔法の精密さを兼ね備えている。
(……なんだよ、これ……! 達也との稽古より、キツいじゃないか……!)
蒼夜の心に、初めて、本物の焦りが生まれる。
今まで、彼は、無意識のうちに、魔法に、そして何よりも、未来が視えるという、その絶対的な安心感に、頼りきっていたのだ。
その全てを失った自分は、こんなにも、無力なのか?
(……情けない……!)
魔法に頼りすぎていた自分が、どうしようもなく、嫌になる。
不安と恐怖と絶望で首まで心臓が飛び上がったように息苦しい。
その、思考の乱れ。
コンマ数秒の逡巡が、命取りになった。
カインのフェイントに、反応が遅れる。
彼の本当の狙いは、蒼夜の体勢を崩し、その回避ルートを塞ぐことだった。
上段の斬撃を避けた、その先。
そこは、壁と、そして、待ち構えていたカインの、回し蹴りの軌道上。
完全に、逃げ場を失った。
「……終わりです」
カインの踵が、蒼夜の小さな身体を壁ごと砕かんと、振り抜かれる。
その時、ふと、達也との稽古の記憶が蘇った。
『……人間の弱点は、大人になっても、強化人間になっても、変わらない場所にあるからだ』
『弱点? どこのこと?』
『平衡感覚だ。……このうちの二つを同時に、短時間だけ狂わせれば、どんな達人でも、赤子同然になる』
(……平衡感覚……!)
脳の回路がショートするかのような閃光と激痛が走る。だが、その痛みこそが、この暗闇で唯一の道標だった。その瞬間、蒼夜の瞳から、迷いの色が消えた
彼は、迫りくる蹴りを避けない。
逆に、一歩、その懐へと踏み込む。
カインが、至近距離で攻撃の軌道を修正しようと、わずかに体勢を崩した、その一瞬。
蒼夜は、床に落ちていたコンソールパネルの小さな破片を、残っていた左足で、ピンポイントで蹴り上げた。
金属片は、鋭い回転をしながら、カインの顔面、その眼球へと吸い込まれるように飛んでいく。
「……!?」
カインの無表情が、初めて、わずかに揺らいだ。
咄嗟に顔を背け、腕で庇う。
視覚情報を、一瞬だけ強制的に遮断する。
そして、その同じタイミングで、蒼夜は踏み込みながら、彼の軸足、そのアキレス腱を、靴のつま先で、針のように鋭く、抉るように突いた。
接地感覚を、強制的に麻痺させる。
「なっ……!?」
視覚と足元の感覚を同時に失った完璧な肉体が、脳からの信号と身体の状況が一致せず、致命的なバランスの崩壊を起こす。無様に、大きく、たたらを踏む。
その、がら空きになった首筋の延髄。人体の最重要神経の束に、蒼夜の左手の手刀が、吸い込まれるように、的確に叩き込まれた。
カインは、声もなく、床に崩れ落ちた。
一撃。
達也の教えを、完璧に実践した、理想的な無力化だった。
だが、その代償は大きかった。
無理な体勢から、達人のバランスを崩すために踏み込んだ右足首が、ゴキリ、と嫌な音を立てた。
「ぐ……っ!」
右足首の骨が軋む音と、酷使し続けた脳が上げる悲鳴が、同時に全身を貫いた。激痛に、思わず顔をしかめる。
これで、本当に動けない。
が。彼は勝ったのだ。そう悟った。
「……素晴らしい、反射神経です」
背後から、声がした。
床に倒れていたはずの、カインの声だった。
蒼夜は、信じられない思いで振り返る。
カインは、首の骨が、ありえない角度に折れ曲がったまま、ゆっくりと立ち上がっていた。
そして、ゴキリ、ゴキリ、と、自らの手で、首を元の位置へと戻していく。
「……ですが、私には人間の急所は通用しません」
「……うわー。それ、ズルじゃん。完全にチートキャラじゃん……」
蒼夜は思わずため息をこぼした。