魔法科高校の時間奏者   作:cart_strange

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7話

 

 

 深夜の横須賀基地は、深い眠りに落ちていた。

 その一角、第十三格納庫だけが、まるで巨大な聖堂のように、冷たい照明に照らし出されている。内部に満ちるのは、金属と冷却オイルが混じり合った独特の匂いと、生命の気配を拒絶するほどの静寂。その静寂の中心に、それは鎮座していた。

 漆黒の機体は、闇よりも深い色合いで光を吸収し、猛禽類を思わせる流線形のフォルムは、まだ見ぬ空を渇望するように鋭い。次期魔法戦闘飛翔実験機『ヴィーヴル』。国家の最高機密であり、そして今、風間玄信の頭痛の種そのものであった。

 

「……異常なしか」

 

 誰に言うでもなく呟き、風間は手にしたタブレットのデータを再確認する。階級は大尉。彼が率いる独立魔装大隊は軍内部でも特殊な部隊だが、この『ヴィーヴル』の運用試験部隊を率いる現場責任者という役職は、彼の若さを考えれば破格の抜擢であり、同時に、四六時中、胃を焼くようなプレッシャーを伴うものだった。

 その時、背後の闇から、まるで最初からそこにいたかのように、声がした。

 

「やあ、風間くん。夜更かしは肌に悪いぜ?」

 

 警報は鳴らなかった。気配すら感じなかった。

 風間は心臓が跳ね上がるのを抑え、ゆっくりと振り返る。そこに立っていたのは、寝ぐせのついた髪に、アイロンのかかっていないヨレヨレのシャツを着た男──天城蒼士だった。

 

「蒼士さん……! 貴様、どうやってここに……いや、それ以前に何の用だ!」

「頼みがあってね。そこの黒い鳥、ちょっと貸してほしいんだ」

 

 ヘラヘラと、悪びれもせずに蒼士はヴィーヴルを指さす。風間は、こめかみに浮かんだ血管が脈打つのを感じた。

 

「か、借りるっ!? 君はこれを何だと思っているんだ! これは我が国の──」

「分かってるって、国家機密だろ? だから、散歩じゃなくて、息子の迎えに行くのに使いたいんだ」

「……理由はどうあれ、許可できるわけがない! 私の権限を越えている!」

 

 風間は、頭痛をこらえるように額を押さえた。

 この男、天城蒼士とは、数年前、ある事件がきっかけで知り合った。友人、と呼んでいいのかもしれない。だが同時に、彼は軍人としての自分の常識や秩序を、いとも容易く破壊していく歩く災害のような存在でもあった。いつもその飄々とした態度の前に、ペースを握られてしまう。

 

「……そもそも、どうやってここに入ってきた。ここの多重結界と物理セキュリティは、並の魔法師が束になっても……」

「ああ、それ? 君んとこの認証システムの、ちょっとした“バグ”を突かせてもらっただけだよ。量子暗号の生成アルゴリズムに、可愛い癖があってね。後で、レポート送っといてやるよ」

 

 悪びれもなく、国家レベルの防衛網をハッキングしたと告げる蒼士に、風間の理性の糸が、ぷつりと音を立てて切れかけた。

 

「……君という男は、本当に……!」

 

 だが、その時。風間は、ふと気づいた。

 蒼士の、その目に、いつものような、からかうような光がないことに。

 それは、嵐の前の海のように、不気味なまでに凪いでいた。

 

「……蒼士さん。一体、何があった」

 

 風間は、声のトーンを落として尋ねた。

 蒼士の表情から、笑みが消える。

 

「……俺の息子が、攫われた」

 

 その声は、普段のおちゃらけた姿からは想像もつかないほどに、冷たく、そして重い。それは、怒りという熱い感情ではなく、全てを凍てつかせる、底なしの虚無。

 

「場所は、太平洋上の座標XXX。敵は、おそらく大漢の残党。かなりの規模だ。今すぐ、俺はそこへ行く」

「……待て。その情報は、どこから……」

「黒羽からだ。だが、連中が動くのを待っていたら、手遅れになる」

 

 風間は、息を呑んだ。

 黒羽。

 四葉家の諜報部隊。

 彼らが掴んだ情報ならば、信憑性は高い。

 そして何より、目の前の男のその瞳。

 もはや人間のそれではない。己の至宝を傷つけられた神獣が、世界そのものを焼き尽くすことすら厭わないと決めたかのような、凄絶な光。

 百戦錬磨の軍人であるはずの風間が、その鬼気迫る貌に、完全に気圧された。

 

「……分かった。ならば、正規ルートで司令部に緊急出撃の許可を上申する! 私が全責任を負って説得しよう!」

「そんな悠長なことをしてる時間はねえな!」

 

 蒼士は、風間の言葉を遮ると、ヴィーヴルのコクピットへと、ひらりと飛び乗った。

 

「おい、待て、蒼士さん! それは反逆行為だぞ! 現場責任者である私の立場が……!」

「大丈夫だって。航行記録も、通信ログも、全部“掃除”しといてやるから。あんたがコーヒーを一杯飲み終わる頃には、何もなかったことになってる」

「そういう問題じゃない!」

 

 キャノピーが、水が流れるように静かに閉じていく。

 蒼士は、操縦桿を握ると、一瞬だけ、風間の方を振り返った。

 

「……済まないな、風間くん」

 

 その顔には、いつもの飄々とした笑みが、かすかに戻っていた。だが、その奥にあるものは、決して揺るがない、父親としての、絶対的な覚悟。

 

「……息子が、俺を待ってるんでね」

 

 次の瞬間。

 ヴィーヴルの魔法式駆動炉が、甲高い起動音と共に咆哮を上げた。

 莫大なエネルギーの奔流が青白い光となって機体を包み、格納庫の床をビリビリと震わせる。風圧が、風間の髪を激しく逆立てた。

 

「……だ、誰か! 誰か、奴を止めろぉぉぉ──っ!!」

 

 風間の悲痛な叫びも虚しく、ヴィーヴルは、格納庫の巨大なシャッターを内側から紙のように突き破り、夜の空へと、弾丸のように飛び去っていった。

 残されたのは、巨大な風穴の空いた格納庫と、そこから吹き込む冷たい夜風。そして、頭を抱えて、その場に崩れ落ちる、一人の若き現場責任者。

 

「…………始末書、じゃ……済まないぞ、これは……」

 

 彼の脳裏には、「軍法会議」という、絶望的な四文字が、明滅していた。

 一方、夜空を切り裂きながら、太平洋上を目指す蒼士は、ディスプレイに表示される座標を睨みつけ、ただ一言、呟いた。

 

「……待ってろよ、蒼夜。今、父さんが行くからな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ブリッジは、静かな地獄と化していた。

 点滅する赤色灯が、計器類の放つ青白い光と混じり合い、壁に飛び散った血痕を不気味に照らし出す。床には、砕けたコンソールパネルの破片と、声もなく崩れ落ちた戦闘員の巨体が転がっていた。

 空気は、硝煙とオゾンの匂い、そして濃厚な鉄の味で満たされている。

 その光景の中心で、二つの影が対峙していた。

 右足首が、焼けるように痛い。満身創痍。立っているのがやっとの状態。

 対する敵は、首の骨を折られても、何事もなかったかのように立ち上がる、人外の怪物。

 勝てるわけがない。

 脳が、生存確率の計算を始め、そして瞬時に「ゼロ」という答えを弾き出す。

 だが──! 

 

「……まだだっ!!」

 

 蒼夜は、恐怖を振り払うように叫び、残った左足一本で床を蹴った。

 諦めない。諦められるわけがない。

 父のように、達也のように、こんな絶望、笑い飛ばしてやる──! 

 彼は、再びカインの懐へと飛び込む。狙うは、さっきと同じ平衡感覚の破壊。

 だが、一度見せた手は、この怪物には通用しなかった。

 蒼夜が床の破片を蹴り上げるより早く、カインの腕が鞭のようにしなり、その小さな身体を真横から薙ぎ払った。 

 

「がはっ……!?」

 

 受け身を取る暇すら与えられない、暴力的な衝撃。

 蒼夜の身体は、ブリッジの壁に、まるで濡れた雑巾のように叩きつけられた。

 ゴシャッ、という鈍く湿った音。

 口から、ごぷり、と血の塊が溢れる。肋骨が、何本か砕ける感覚。

 

「……無意味な抵抗を」

 

 カインが、ゆっくりと、しかし確実に、こちらへ歩いてくる。

 その軍靴が床を踏みしめる一歩一歩が、蒼夜の命の終わりを告げるカウントダウンのように響いた。

 

(……クソ……もう、動けない……っ)

 

 痛い。

 苦しい。

 意識が、遠のいていく。

 未来が視えない。

 魔法が使えない。

 鍛え上げたはずの体術も、この怪物の前では、子供の遊びのようだ。

 

 薄れゆく意識の中、蒼夜は思った。

 結局、魔法がなければ、何もできないのか。

 達也のように、完璧にはなれない。

 父さんのように、強くもない。

 ただの、生意気なだけの、ガキ……。

 

 ふと、深雪の怒った顔。

 泣き顔。

 そして、とびっきり可愛い笑顔が、走馬灯のように脳裏をよぎった。

 

(……だめだ。ここで死んだら、アイツ、絶対、泣く)

(それだけは、絶対に、ダメだ)

(まだやりたいこと、いっぱいあるんだ。……ちゅーだって、まだしてないのに……!)

 

 そのあまりにも俗物的な、しかし、何よりも強い生存本能が、彼の脳を、最後の最後で再起動させた。その時、蒼夜の視界の端で白衣の男が映った。咄嗟に、その白衣を掴み、自らの盾とするように引き寄せた。

 

「ひいっ!? や、やめろ! 人質とは卑怯だぞ!」

「うるさい! ちょっと黙ってて!」

 

 だが、カインは止まらない。人質など意にも介さず、その光の刃を、ウォンごと蒼夜を貫かんと、振り下ろしてきた。

 蒼夜は、ウォンを盾にしたまま、必死に床を転がって回避する。

 その時、カインの刃が、蒼夜の左手首を庇ったウォンの身体を逸れ、アンティナイトの枷そのものを直撃した。

 枷は破壊されなかった。だが、その衝撃で、ロック機構が破損し、蒼夜の左手首から、枷が外れて床に転がった。

 

(──外れた!?)

 

 その瞬間、脳を締め付けていた檻が消え、情報の奔流が流れ込んでくる。一瞬、歓喜が蒼夜の心をよぎった。

 

「無駄だ。その枷は、最も近くにいる適合者、つまり君に、自動的に再装着される」

 

 その言葉通り、床に落ちた枷が、カチリ、と起動音を立て、内側のリングが青白く発光を始めた。そして、磁石のように、蒼夜の身体へと引き寄せられようとする。

 

「あー、もうっ!」

 

 蒼夜は、最後の力を振り絞り、自分に飛んでくる寸前の枷を、右手でひっつかんだ。

 だが、どうすればいい? 

 投げ捨てても、また戻ってくる。

 カインは、もう目の前だ。

 

「ははは! 終わりだな、小僧!」

 

 ウォンの高笑いが響く。

 その、あまりにもムカつく声に、カッと頭に血が上った蒼夜は、パニックのあまり、掴んでいた枷を、*一番近くにあった、手頃な“柱状の何か”に、復讐心と八つ当たりを込めて、思いっきり押し付けた! 

 

 ──ガシャン!! 

 

 という、想像していたよりも、遥かに柔らかく、そして、驚くほどジャストフィットする感触と、何かがロックされる、やけに小気味の良い音が響いた。

 

「…………ん?」

 

 蒼夜は、恐る恐る、自分の手元を見た。

 確かに、枷は、何かに装着されている。

 だが、それは、コンソールの支柱などでは、断じてなかった。

 

「……ふがっ?」

 

 蒼夜が押し付けた先。

 そう、ついさっきまで、高笑いをしていた、博士の、その“首”に。

 枷は、まるで、この瞬間のためにオーダーメイドされたかのように、ぴったりと、寸分の狂いもなく、装着され、カチリ♪ という、実に軽快な音を立てて、完全にロックされていた。

 

 ブリッジに、気まずい沈黙が流れる。

 

「………………」

「………………あ」

 

 ウォンは、首輪をつけられた犬のように、きょとんとした顔で、こちらを見ている。

 蒼夜と、ウォン博士と、そして、攻撃の手を止めたカインが、顔を見合わせた。

 

「……と、取ってくれ……」

「……あ、うん。ごめん、ついカッとなって……」

 

 蒼夜が慌てて枷を外そうと手を伸ばした、その時だった。

【警告:システム『ウロボロス・ケージ』、ターゲット再設定……エラー】

【警告:センサー装着者(ウォン)と、攻撃対象者(蒼夜)が、一致しません。プロトコルに、致命的な矛盾が発生。システムを、デバッグモードに移行します】

 

「「……え? デバッグモード?」」

 

 蒼夜とウォンの声が、綺麗にハモった。

 そして、次の瞬間。

 

(な、なんだこのクソガキは!? 私の研究を! 私の計画を! 断じて許さん! 死ね! やはり、ここで死ねぇぇぇっ!!)

 

 ──という、ウォン博士の、心の声(本音)が、まるで脳内に直接、ステレオスピーカーで流し込まれたかのように、

 蒼夜の頭の中に、クリアに、響き渡った。

 

「いってぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!?」

 

 蒼夜は、内側から巨大なハンマーで殴られたかのような、凄まじい衝撃に、その場に蹲った。

 

「な、なんだ!? 私は何もしておらんぞ!?」

「博士! 今、心の中で、俺の悪口、言ったでしょ! ものすごい勢いで!!」

「むっ!? な、なぜ、それを……!」

「あんたが考えるたびに、俺の脳みそが、物理的にダメージ受けてるんですけど!?」

「そ、そんな馬鹿なことがあるか! それに、私だって無事ではないのだぞ!」

「え?」

「この枷が……! 私の思考を、まるで掃除機のように、ものすごい勢いで吸い取っていく……! あ、頭が、クラクラする……! 気持ち悪い……! うぇっぷ……!」

「ゲロを吐くなよ! だから、考えるなって言ってんだろ、このジジイ!」

「誰がジジイだ、まだ五十代だ! 君こそ、私の思考で、勝手に苦しむのをやめたまえ!」

 

 こうして、史上最も不条理で、最も迷惑千万な思考のホットラインが、ここに開通。

 カインは、目の前で繰り広げられる、あまりにも低レベルで、シュールな口論に、さすがに困惑し、完全に動きを止めていた。

 

(そ、それでどうするの?)

(なんで急に小声なんだ)

(これどうやって止めるの?)

(……あそこのボタンだ)

 

 蒼夜の視線が、部屋の隅にある、非常停止用のコンソールパネルを捉えた。

 そして、その前には、棒立ちになったまま、完全に状況を見失っている、カインの巨体がある。

 

(……今すぐ止めて来てよ。博士の仲間でしょ? あの備長炭みたいな人)

(貴様が苦しむのに何故停めないといけない)

(いや、自分も苦しいでしょ)

(……仕方ない)

 

「か、カイン、悪いがそこのボタを押し「悪いが貴様も排除する」 てくれなぁ!??」

「……だってさ」

「な、なぜ私まで!?」

「そりゃあ、俺と一緒にいるからじゃない? どのみち、博士捨てられちゃったんだよ。可哀想に」

「ふ、ふざける──うぉええええええっ!?」

「いってぇぇぇっ!? だから、余計なこと考えるなって、言ってるだろ!」

 

 ウォンの怒りと絶望の思考が、再び、蒼夜の脳を、物理的に殴りつけた。

 

(……それで、どうするんだね!? あそこまで、どうやって行く!)

(……博士、なんか、武器になるようなもの、持ってないの?)

(……ポケットに、おにぎりが、一つ)

(はあ? 生で!?)

(当たり前だろうが! まさか、ラップにでも包んで持ち歩くとでも!?)

(なんで、生のおにぎりを、白衣のポケットに入れてんだよ、このジジイ! 変態! ロリコン!)

(関係ない罵倒は辞めろっ! 腹が減っていたんだ、仕方ないだろうが!)

((いってぇぇぇぇぇっ!!))

 

 脳内で、再び、大惨事が発生した。

 

「……もういい! とりあえず、博士、俺を肩車して!」

「な、なぜ私が、君などを!」

「いいから! 考えたら、また気持ち悪くなるよ!」

 

 その一言が、決定打だった。

 ウォンは、渋々、蒼夜を、その老いた肩に、よろよろと乗せた。

 

(博士! あのボタン目掛けておにぎり投げるから、しっかり支えてて!)

(は、はあ? 君、片腕しか使えんだろう! 届くのかね!?)

(そこは気合でカバーする! いいから、おにぎり貸して!)

(ほ、本当に大丈夫なんだろうな……)

 

 博士から、白衣のポケットで、絶妙にぬるくなった、そして、少しだけ、糸くずの味がしそうな、おにぎりを受け取る。

 よし、と蒼夜は、投球フォームに入った。

 

(カインの動き、ボタンの位置、俺の腕力、そして、このおにぎりの空気抵抗と重心は……)

 

 ズキンッ!!! 

 投げる瞬間、彼の脳が、無意識のうちに、完璧な弾道計算(未来予測)を始めてしまった。

 

「うぐっ!?」

「うわっ!? なんだね、きゅうおえええええええええええええええっ!!!」

 

 博士が、盛大に、前かがみになった。

 当然、その上に乗っている蒼夜の身体も、シーソーのように、大きく前のめりになる。

 

「うわわわわわわわわわわわっ!?」

 

 体勢を崩した蒼夜の手から、凄まじい遠心力まで加わった、猛烈な剛速球となって。

 おにぎりが、あらぬ方向へと、放たれた。

 ボタンとは、全く違う方向に。

 鬼の形相で、こちらへ向かってこようとしていた、カインの、その、男の勲章へと──。

 

 ──―ベチャッ!!! 

 

「★★★★★★★ッ!?」

 

 言葉にならない絶叫。

 彼の股間には、一粒の米と、無残に潰れた梅干しが、芸術的に付着していた。

 どうやら、調整体の彼の身体も、そこだけは、普通の男性と同じくらい、繊細な柔らかさが在るらしい。

 カインは、両手で股間を押さえ、「こ……の……クソ、ガキ……」と呻きながら、その場に膝から崩れ落ち、網にすくいとられた魚のように全身をびくっと震わせている。

 

「……な、ナイスコントロール、博士……!」

「私は何もしておらん! というか、今度こそ本当に吐きそうなんだが!? うぇっぷ……!」

「いいから、今のうちだ! ボタンまで行くよ!」

 

 蒼夜が号令をかけるも、「おえおえ」とえづき続ける博士のせいで、一歩も前に進めない。

 

「は、早く立ってよ、博士!!!」

「む、無茶を言うな! 三半規管と、胃が、反乱を起こして、おえっ!?」

「はかせっ!」

 

 そうこうしているうちに、股間を押さえたカインが、鬼の形相で、ゆっくりと立ち上がった。

 

「……どの指から……折られたい……?」

「……指だって。めちゃくちゃ優しいね、博士」

「サイコパスかきみは!?」

 

 絶望的な状況は、どうやらまだ終わらないらしい。

 

 

 

 

 けたたましい警報音と、点滅する赤色灯が、鉄の迷宮をパニックの色に染め上げていた。

 軍靴が床を叩く硬質な音が、遠くから反響してくる。

 だが、その喧騒の只中を、一人の少女が、まるで舞踏会を歩むかのように、静かに、そして一切の迷いなく進んでいた。

 漆黒の髪が、乱れることなく肩で揺れる。白い肌は、非常灯の赤い光を浴びて、なお雪のように白い。

 その人形のように整った顔に、焦りの色はない。

 ただ、その深く澄んだ瞳の奥にだけ、大切な誰かの身を案じる、熱い光が宿っていた。

 

(──どこに居るのでしょうか)

 

 彼女は、彼が残した、ごく微かなサイオンの痕跡だけを頼りに、この迷宮を進んでいた。

 常人には知覚すらできないその痕跡を、彼女だけは、まるで夜空に輝く道しるべのように、はっきりと捉えることができた。

 その時、ふと、彼女の鼻腔を、不快な匂いがついた。

 それは、単なる汚れや黴の匂いではない。もっと根源的な、魂そのものが傷つけられ、尊厳が踏みにじられた時に発する、澱んだ絶望の匂い。

 

(……これは……)

 

 匂いの元は、通路の奥、ひときわ重厚な鋼鉄製の扉から漏れ出ていた。少女は、その扉の前に立つと、物々しい電子ロックを一瞥した。そして、ためらうことなく、そっと、白い指先をパネルに触れさせた。

 

 パキィン……! 

 

 極低温の冷気が、彼女の指先から放たれる。

 電子ロックは、一瞬にして内部まで完全に凍結し、ガラスのように脆く砕け散った。

 少女は、重い扉を、まるで羽のように軽々と押し開ける。

 その先に広がっていたのは、牢獄だった。

 狭い船室に、錆びついた鉄格子で仕切られた区画がいくつも並び、その全てに、少女たちが家畜のように押し込められていた。

 ボロボロの布切れを纏い、光のない瞳で、ただ虚空を見つめている。

 その、あまりにも悲惨な光景。

 それを見た瞬間、少女の完璧に制御されていた表情が、初めて、崩れた。

 美しい顔に浮かんだのは、深い、深い哀しみ。

 そして、その哀しみの奥底で、全てを氷の世界に閉ざしてしまいかねないほどの、絶対零度の怒りが、静かに、燃え上がっていた。

 少女は、怯える囚われた者たちに、安心させるように一度だけ、静かに微笑むと、再び、大切な一人を探すために、闇の中へと歩き出した。

 

「な、侵入者が……い……る」

 

 凍てつく氷の世界が、つくられていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ぎゃああああああ! 壁! 壁にぶつかるぅぅぅ!」

「大丈夫! 俺がバリヤー張るから! 右、右!」

「曲がれん、このスピードでは曲がれん!」

「根性で曲がるんだよ、博士! フィジカルで科学を超えて!」

 

 ブリッジの中央で、「おえおえ」とえづき続ける初老の科学者が、その肩の上で、楽しそうに操縦桿を握る少年を乗せ、鬼の形相の最終兵器に追いかけ回されながら、猛スピードで壁に激突し続けるという、地獄のような、しかし、あまりにもコミカルな光景が、繰り広げられていた。

 

「──無意味な」

 

 カインが、その無駄な動きに終止符を打たんと、最短距離で二人へと突進してくる。

 光の刃が、今度こそ、博士の心臓を正確に捉えていた。

 

「博士、ジャンプ!」

「だから無理だと言っているだろうがぁっ!」

 

 絶体絶命。

 だが、その瞬間。

 博士の革靴の底が、先程、彼自身が盛大にぶちまけた、胃の内容物に、ツルッと足を滑らせた。

 

「ふぉわっ!?」

 

 博士の身体が、まるで、オリンピックに出場するフィギュアスケーターのように、華麗なトリプルアクセルを決めながら、ありえない体勢で、後方へと、高速スピンしながら滑っていく。

 カインの拳は、その数ミリ上を、シュン、と空しく切り裂いた。

 

「今の避け方天才的じゃない!?」

「断じて違う! ただの事故だ!」

 

 肩車の上から、蒼夜が賞賛の声を上げる。対する博士は、半泣きで否定する。

 だが、カインの攻撃は止まらない。

 体勢を立て直した博士(と蒼夜)めがけて、今度は回し蹴りが襲いかかる。

 

「今度は右! ダッキングだよ、博士!」

「ダッキングの意味が分からん!」

「頭を低くするの!」

 

 蒼夜が、博士の頭を無理やり押さえつける。

 ゴシャッ! 

 カインの蹴りが、二人がさっきまで頭を置いていた場所の壁を、粉々に砕いた。

 

「ほら、できたじゃん! 博士、意外と才能あるよ!」

「私の首の骨が、ミシミシと音を立てたのだが!?」

「大丈夫、大丈夫。死にはしないって。まあ、別に、死んでもいいんだけど」

「さらっと、とんでもなく恐ろしいことを言うんじゃない、この悪魔!」

 

 カインの無表情が、初めて、わずかに苛立ちに歪んだ。

 これまで、彼の完璧な攻撃を、ここまでトリッキーにかわし続けた人間はいなかった。

 彼の攻撃が、どんどん容赦なく、そして激しくなっていく。

 

「博士、次はバク転!」

「もう黙ってくれぇぇぇぇぇっ!!」

 

 光の刃が乱れ飛ぶ中、博士は、もはやそれが自らの意思なのか、事故なのか、あるいは蒼夜の無茶苦-茶な操縦のせいなのかも分からぬまま、奇跡的な動きで攻撃をかわし続ける。

 その姿は、さながら熟練の道化師と、それを操る邪悪な主人のようでもあった。

 だが、その奇跡的な回避も、長くは続かない。

 腰を痛めた博士が、ついにぜぇぜぇと膝を折る。もはや、避けられない。

 

「……これまで、か……」

 

 おびえた、犬のような悲鳴に似た哀れな声がウォンの口から漏れる。

 同時に、蒼夜は覚悟を決めた。

 

(……やるしかない)

 

 現状で未来を予測しようとすれば、どうなるか。

 脳が焼ける。思考が、意識が、破壊されるだろう。

 だが、このままでは、確実に殺される。

 ──どちらが、マシか。

 

(──脳が焼き切れてもいい……! 一瞬でいい……! 視えろッ!!!)

 

 彼は、自らの精神を焼き尽くす覚悟で、生命の危機に瀕した瞬間にのみ発動する、本能の力で、強制的に《時因位相展開》の蛇口をこじ開けた。 

 

 ────ッッッ!!!! 

 

 声にならない、絶叫。

 地が避けて熱い溶岩が流れ出したような恐ろしい激痛。

 視界が、真っ赤に染まり、現実と情報の境界線が溶けていく。

 システムからのカウンター攻撃と、情報の奔流という、二重の地獄。

 だが、その灼熱の痛みと、ノイズの嵐の向こう側に、彼は視た。

 断片的な、しかし、決定的な「一手先の未来」。

 

 ──カインが振り下ろす光の刃。

 ──それを、自分は避けられない。

 ──しかし、その刃の軌道は、ほんのわずかに、自分の左手首──アンティナイトの枷を掠める。

 

 それは、万に一つの可能性。

 だが、今の彼にとっては、唯一の活路。

 蒼夜は、そのコンマ数秒先の未来だけを信じ、全ての回避行動を、やめた。

 そして、カインの刃が迫る中、あえて、自らの左腕を、その軌道上に、ミリ単位で調整するように、差し出した。

 

「──愚かな」

 

 カインが、抵抗を諦めたと判断し、無慈悲に刃を振り下ろす。

 現実が、蒼夜が視た未来に追いつく。

 キンッ!!! 

 光の刃が、蒼夜の腕を切り裂く寸前で、アンティナイトの枷の表面を強打した。

 凄まじい衝撃が、彼の腕を襲う。

 ガシャン! 

 枷は破壊されなかった。だが、その衝撃で、ロック機構が完全に破損し、蒼夜の左手首から、枷が弾け飛んだ。

 

(──外れ、た……!)

 

 枷から、片方だけ、解放された。

 その瞬間、蒼夜の脳を支配していた、絶対的な『静寂』が砕け散った。──そして、地獄の蓋が開いた。

 

 止まっていた時間が、動き出す。

 堰き止められていた情報の奔流が、彼の意識へと、再びなだれ込んでくる。

 

「ぐ……ぅ、あああああっ!?」

 

 脳が、焼ける。

 完全に静止していた回路に、いきなり最大級の情報量が叩きつけられ、神経が悲鳴を上げる。視界が真っ白に染まり、強烈なめまいと吐き気が、彼の身体から平衡感覚を奪い去った。鼻から、つぅ、と生温かいものが垂れる。

 

(……うるせぇ……! 頭が、割れる……っ!)

 

 だが、その情報の奔流は、苦痛だけをもたらすものではなかった。彼の脳内世界に、再び『音』が戻ってきた。

 それは、空気の振動ではない。

 これから起こりうる、無数の未来の可能性が囁き合う、膨大なノイズの嵐。

 危険を知らせる不協和音。

 好機を告げる澄んだ旋律。

 物心ついた頃から、常に彼の傍らにあった、世界の本当の『音』。

 

 蒼夜の全身から、今まで抑えつけられていた膨大なサイオンが、ダムの決壊を思わせる奔流となって溢れ出した。

 そして、彼の瞳に、再び『世界』が映る。

 静止した風景ではない。

 原因と結果、過去と未来が複雑に絡み合い、常に変化し続ける、万華鏡のような事象の流れ。

 ──彼の、本当の世界が、再び動き出した。

 

「……終わりです」

 

 カインが、本能的な恐怖を振り払うかのように、再び自己加速で突進してくる。

 だが、その動きは、今の蒼夜の世界では、あまりにも遅すぎた。

 

 ──時因位相展開(クロノス・フェーズ)、全開。

 

 世界の情報が、奔流となって脳内になだれ込む。

 未来が、視える。

 

 ──だが、長くはもたない。脳が焼き切れるのが先か、こいつを倒すのが先か。

 

 カインが踏み込む0.5秒先の床、彼が光の刃を突き出す0.7秒先の空間。その全てが、完璧な軌道として描かれていた。

 

「──っ」

 

 カインの刃が、蒼夜が“さっきまでいた場所”の空気を、虚しく切り裂く。蒼夜の姿は、まるで陽炎のように、彼の背後に回り込んでいた。

 彼は、ただ指先をカインに向ける。

 

 ──リミットは、あと数秒。

 

「お前が終わりだよ。じゃあね、サイボーグさん」

 

【対象オブジェクト『カイン』へのアクセスを開始】

 

 蒼夜の表情に変化はない。

 

【対象を構成する個別情報体のスキャンを開始】

 

 この魔法に必要な時間は、本当にわずかなものだ。だが今この時、彼の脳が常人には理解不能な負荷に晒されていることを、彼自身だけが知っていた。脳を焼くような情報の奔流。だが魔法を行使する演算装置と化した蒼夜の意識に、余分な感情は映らない。

 

【パラメータ解析完了。新規シーケンスの構築を開始】

 

 蒼夜の脳が、新たな理を編纂し始める。

 それは、あらかじめ用意された魔法ではない。

 彼が「そうあるべきだ」と定義した結論に向かって、戦闘で得たコードをその場で組み合わせ、世界そのものに、新しいルールを強制する。

 

 慣性を。

 分子運動を。

 そして時間を。

 それら、世界を動かす全てのパラメータを、同時に『零』へと収束させる。

 事象には情報が伴い、情報が事象を改変する。

 魔法の基本原理に従い、カインという存在の状態改変が始まる。

 

【実行】

 

 彼の指先から放たれたのは、もはやサイオンの波という物理現象ではなかった。

 静寂、そのものだった。

 

「……な……に……が……」

 

 カインの疑問符が、音になることはなかった。

 振り上げた拳が止まる。

 床に散らばった破片の動きが止まる。

 空気中を舞う埃が、光の筋の中で凍り付く。

 凍結したのではない。静止したのだ。

 肉体が機能を停止したのではない。世界が、彼を認識することをやめたのだ。

 

 音は生まれず。

 熱は伝わらず。

 時間は、進まず。

 

 まるで、神が気まぐれに、世界という書物の一頁だけを指で押さえたかのように。

 彼の前で、世界が、息を止めた。

 

【対象オブジェクト『カイン』、個別情報体レベルでの活動停止を確認】

 

 静止した肉体は、もはや世界の理から切り離された。

 自らの死を認識することも、肉体に死を命じることもできない。静止した魂に縛られた身体は、生きることも死ぬこともできず、最後に命じられた姿勢のまま、彫像と化してそこに在った。

 

【プロセス完了】

 

 蒼夜が何をしたのか、説明できる者はいなかった。

 だがウォンは、世界の凍りつく幻影を見た。

 

「……ふぅ」

 

 彼の身体を支えていた最後の緊張の糸が、ぷつり、と切れる。視界が、ぐにゃりと歪む。

 脳が、限界を超えた負荷に悲鳴を上げ、強制的にシャットダウンを開始した。

 

(……あ……れ……? ねむ……い……)

 

 膝から、力が抜ける。

 床に崩れ落ちていく身体。

 遠のいていく意識の片隅で、彼は、狂ったように自爆スイッチを押すウォンの姿を、どこか他人事のように眺めていた。

 

【船体自爆シークエンス、起動。爆発まで、残り10分】

 

「はっはっは! もうどうでもいい! この船と共に、海の藻屑となるがいい!」

 

(……うるさい、なぁ……博士……)

 

 ピピピピピッ! 

 メインスクリーンに、新たな警告が表示される。

 

【外部より、高速飛翔体の接近を探知。所属不明。識別コード、なし】

 

 レーダーに、信じられない速度で、一つの光点がこの船へと向かってくる。

 

「な、なんだと!?」

 

 ウォンが驚愕の声を上げる。

 

(……なんか、光ってる……きれい……)

 

 蒼夜の思考は、もはや幼児退行に近いレベルまで落ちていた。

 その時、メインスピーカーから、ノイズ混じりの音声が、微かに、しかし確かに聞こえてきた。

 

『……おーい、……ざ……、……聞こえるかー? ……夜! ……そうやー!』

 

(……あ……父さんの、声……かなぁ?)

 

 朦朧とした意識が、その聞き慣れた声だけに、ぼんやりと反応する。

 

(……うるさいなぁ。今、気持ちよく寝ようとしてるのに……)

 

 その、子供の寝入りばなを邪魔された時のような、純粋な苛立ち。

 彼は、霞む目で、目の前のコンソールを見た。

 そこだけ、なぜかまだ電源が生きていて、赤いボタンが、ピカピカと挑発的に点滅しているのが目に入った。

 

(……あれ……押したら……静かに、なるかな……)

 

 もはや、それが何なのかを理解する理性はない。

 ただ、「うるさいものを黙らせるためのスイッチ」に見えた。

 蒼夜は、残された最後の力を振り絞り、血に濡れた指で、床を這った。

 

「お、おい、一体何を……!」

 

 ウォンが訝しげに見つめる中、蒼夜はコンソールにたどり着くと、渾身の力で、その赤いボタンを。

 ポチッ、と押した。

 その瞬間、船体が、わずかに揺れる。

 スクリーンの中で、飛翔体は、まるで「うわ、マジかよ!?」とでも言いたげに、ありえない角度で急上昇し、ミサイルを回避した。しかし、ミサイルは、最新鋭の追尾機能を搭載していた。

 飛翔体の背後に、吸い付くように、食らいついていく。

 そして。

 

『ちょ、待っ、 いやぁぁぁぁぁあああああああっ!!!!!!』

 

 ドォォォォォン!!! 

 スクリーンが、一瞬、真っ白に染まった。

 飛翔体は、追尾ミサイルの直撃を受け、夜の空に美しい花火となって消滅した。

 

「………………」

「………………」

 

 ブリッジに気まずい沈黙が流れる。蒼夜とウォンは、顔を見合わせた。

 

「……」

「……」

 

(……静かになった……まぁ、頑張ったよね)

 

 蒼夜は、満足げに小さく頷くと、今度こそ本当に、意識を手放した。

 残されたウォンは、一体何が起きているのか呆然としていた。

 しかしそれもつかの間。

 

「──あなたが蒼夜さんを……ここまで痛めつけたのですね?」

 

 さらなる絶望が、彼の背後から静かに忍び寄っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 意識が、深い、深い海の底から、ゆっくりと浮上してくる。

 鼓膜を揺さぶる無骨なローター音。身体を包む、硬いシートの感触。そして、鼻腔をくすぐる、硝煙と潮風が混じり合った、生々しい匂い。

 

(……ヘリの、中か……)

 

 重い瞼を、ゆっくりと持ち上げる。

 最初に目に飛び込んできたのは、見慣れない、灰色の金属で覆われた機内の天井だった。狭い窓の外は、まだ暗い。どうやら、自分は、あの船から救助された直後らしい。

 

(……助かった、のか……)

 

 その事実を認識した瞬間、全身から、張り詰めていた糸が切れるように、力が抜けていく。

 ズキリ、と、頭の奥で、まだ鈍い痛みが脈打った。情報の奔流が脳を焼いた、あの時の後遺症。だが、それすらも、自分が生きている証のように感じられた。

 

「…………ん……」

 

 小さく身じろぎをすると、隣から、はっ、と息を呑む気配がした。

 視線を、横に向ける。

 そこに、彼女はいた。

 漆黒の髪。

 雪のように白い肌。

 非常灯の赤い光を受けて、宝石のように輝く、深く澄んだ瞳。

 司波深雪が、こちらを見つめていた。

 その美しい瞳は、驚きと、安堵と、そして、堪えきれないほどの悲しみで、潤んでいた。

 

「……蒼夜、さん……?」

 

 か細い、震える声。

 まるで、夢を見ているかのように、信じられないものを見る目で、彼女は蒼夜の名を呼んだ。

 

「……深雪……ただいま」

 

 掠れた声で、なんとかそれだけを言うと、深雪の瞳から、ぽろ、と、大粒の涙が溢れた。

 

「……っ……! よ、かったです……! 本当に……!」

 

 彼女は、嗚咽を堪えるように、小さな手で口元を押さえる。

 

「蒼夜さんが、目を、覚ましてくださって……! もう、このまま……!」

 

 その、あまりに純粋で、ひたむきな想い。

 自分がいかに、彼女を深い不安の底に突き落としていたのかを、蒼夜は改めて思い知らされた。

 だが、それと同時に、最大の疑問が浮かぶ。

 

「……あれ? でも、なんで深雪がここにいるんだ? 俺たち、救助ヘリの中だよな?」

 

 その何気ない問いに、深雪の肩が、びくうっ! と、跳ね上がった。彼女は、みるみる顔を青くさせると、あからさまに視線を逸らし、早口で、捲し立てるように言った。

 

「そ、それは……! その、蒼士さんから座標の連絡を受けて、叔母様が手配してくださった救援部隊のヘリに、わたくしも、その、たまたま、偶然、乗せていただいただけです!」

「…………そっか。……無茶するなぁ」

 

 呆れと、心配と、そして何より、自分のためにそこまでしてくれた彼女への、どうしようもない愛しさが、彼の胸を満たす。

 深雪の顔が、今度は羞恥で真っ赤に染まった。

 彼女は、もう何も言えなくなり、俯いて、自分の指先をいじるだけだった。

 蒼夜は、そんな彼女を見ながら、改めて思う。

 この温かい時間が、日常が、自分が守りたかったものなのだ、と。その日常に帰りたかったのだ、と。

 彼は、そっと彼女の手に自分の手を重ねた。

 

「…………ごめん。……心配、かけた」

 

 その言葉に、深雪は、ふるふると、首を横に振った。

 そして、おそるおそる、といった体で、そっと、彼の手を握り返した。

 

「……いいえ。……謝らないで、ください。……ただ、蒼夜さんが、無事で……本当によかったです……っ」

 

 握りしめて手に、彼女の温かい涙が、ぽつり、ぽつりと落ちる。

 

「俺、深雪をいつも困らせてばかりだね」

「そ、そんなことは……!」

 

 否定してくれる彼女の涙を、そっと、指先でぬぐう。

 思えば、いつもそうだ。自分が無茶をするたびに、彼女は、こうして心を痛め、涙を流す。

 笑っていてほしい。ただ、それだけなのに。

 自分がこれから進もうとしている道は、きっと、今よりもっと、彼女を悲しませることになるのかもしれない。

 それでも──。

 

「俺さ──」

 

 

 

 

 

 

 

「……ん……」

 

 蒼夜の唇に、何か柔らかい感触があった。

 

「……………………え………………?」

「──深雪はいつまでも、蒼夜さんのお側にいますから」

 

 彼女はそう言うと、悪戯が成功した子供のように、こてん、と彼の肩に頭を預け、静かに目を閉じた。

 

「……………………え………………?」

 

 残された蒼夜は、何がなんだかさっぱりわからないで呆然としていた。ヘリは二人を乗せて、静かに、夜明けの空を家へと向かっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 蒼夜が救出されてから二日後。

 四葉の母屋に客人が来た。

 客人は異相の持ち主だった。老齢故か筋肉は落ちているが肩幅は広い。若い時分は堂々たる偉丈夫だったことが座っていても窺われる。 頭はつるりと剃り上げた僧形。だが着ている物は見るからに高級そうなブランドブランドもののスーツだ。それがごく自然に似合っている。単に高級品慣れしているという感じではない。オーダーメイドの高級スーツが象徴する世俗の権勢が内側から滲み出ている感があった。 灰色の太い眉にどんぐり眼。眉目秀麗というタイプではないが、風格のある顔立ちだ。ただ、白く濁った左目が相対する者に異様な圧迫感を与える。異相という印象もこの左目によるところが大きいに違いない。

 

「──以上が、事の顛末になります」

 

 真夜は、数時間前に貢から受けた最終報告書の内容を脳裏で反芻する。

 今回の事件、当初疑われた四葉家内部からの情報漏洩の可能性は完全に否定された。裏切り者は、いなかったのだ。敵は、奴らが私的に利用した国家レベルの広域監視システム──衛星軌道上からの広域サイオン探知システムを使い、蒼夜の特異なサイオン波を天から見下ろすように「観測」していた。

 拿捕した偽装貨物船は自爆・沈没。主犯格のドクター・ウォンは無力化され、今は四葉の監視下に置かれている。攫われていた少女たちも、四葉家の責任において保護し、心身の回復を全面的に支援する手筈を整えた。

 そして何より──息子が、無事に戻ってきた。

 その事実だけが、この地獄のような心労の中で、唯一の救いだった。

 

 ウォンたちが使用していた、蒼夜の魔法を完全に遮断する特殊な拘束具。その中核には、彼らが秘匿する「未公開の魔法式妨害技術」が使われていた。彼らは、十師族の知らぬところで、その牙を研いでいる。

 

 母親としての真夜は、今すぐにでもその牙城に乗り込み、息子を傷つけた愚か者たちを一人残らずこの手で塵に変えてやりたいと、魂が叫んでいた。あの小さな身体に残された無数の痣や傷跡を思い出すだけで、腹の底が煮えくり返る。

 しかし、四葉家当主としての真夜が、それを冷徹に諫める。

 彼を明確な敵として断罪するには、相手が大きすぎる。ここで全面戦争を仕掛ければ、四葉家とて無傷では済まない。それは、ようやく手に入れたこの穏やかな日常を、再び戦火に晒すことを意味する。

 息子を傷つけた者たちへの燃え盛る怒りの矛先が、政治という名の、掴みどころのない曖昧な霧の中に溶けていく。そのどうしようもないもどかしさが、彼女の心を苛んでいた。

 今は、耐える時だ。

 だが、この借りは、決して忘れはしない。

 いずれ必ず、倍にして返す──。

 

「蒼夜が無事で何よりだ」

「はい。病院で治療中ですが、命に別状はないそうですので」

「そうか。すまなかった」

 

 男はそういうと、労りを含んだような男の言葉に、真夜がふっ笑う。

 

「ええ、本当に。──つきましては、どう責任を取っていただきましょうか」

 

 ピクリと、男の雰囲気が変わる。

 

「──何が言いたい」

「あら、何か含みのある言い方でしたか?」

 

 真夜は可愛いらしくきょとんと首を傾げてみせるが、男の顔から、表情が消えた。

 

「構わん。言ってみろ」

「では、言わせていただきます」

 

 最高潮に高まる緊張感。

 

「随分と体たらくでいらっしゃいましたのね。愛しい我が子が、あなた様のお仲間に随分とお世話になっていたというのに」

「貴様こそ、管理がなっておらん。愛があるなら管理も徹底したらどうだ」

「その言葉、そっくりお返しします」

 

 時が止まってしまったかの如き緊迫感の中。

 

 そして。

 決定的な一言。

 

「──次同じようなことがあったら…………今度こそ、蒼夜さんに嫌われてしまいますよ?」

「──すまなかった!!」

 

 慌てて額を地面にこすりつける。

 真夜は見えない所で思わず、口元を怪しく三日月にした。何も彼のせい、とは言えない。己の管理不足も棚に上げた、ささやかな腹いせだった。

 

「そうですか。では、今後はそちらの内部情報も、ある程度は共有していただけると」

「当たり前だ! 命に代えても守ろう!」

「ついでと言っては何ですが、今回使用された拘束具、こちらで解析しても?」

「……ふむ」

「蒼夜さんにあげれば喜ぶと思うのですが──」

「──許可する」

「ありがとうございます」

「して、真夜よ」

「ええ、承知しております。是非会ってあげてください」

「そ、そうか!」

 

 ぱあっと顔を輝かせる男に、真夜は確信した。少なくともこの老人は、蒼夜に甘い。そして、四葉家に明確に楯突くことはないだろう、と。

 やがて、お詫びのブリキのロボットを丁重に(しかし有無を言わさず)蒼夜の元へ届けさせ、満足げに帰っていった彼を見送った後、真夜は一人、謁見室の静寂に身を浸した。

 厄介な暴走分子は、ひとまずあの古狸に任せればいい。こちらの本丸は別にある。

 一つ、大きく、息を吐いて、テーブルの呼び鈴を手に取った。

 

「葉山さん。例の通達について、お返事しておきましょう──」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 場所は、都心から遠く離れた箱根の山中。

 表向きは由緒ある会員制の料亭として知られるその場所の、最も奥まった一室。窓の外には、人の手によって完璧に計算され尽くした日本庭園が広がっているが、その美しさに目を向ける者は、誰もいなかった。

 部屋にいるのは、三人の老人。

 一人は、九鬼正義。かつては国防陸軍魔法師部隊の要職を歴任し辣腕を振るったが、穏健派の台頭により主流から外された元将官。今なお燻る野心と古い人脈だけが、彼の力の源泉だ。

 一人は、龍堂実篤。バブル期に日本の重工業を裏から牛耳ったとまで噂された経済界の古強者。表向きは引退したものの、その莫大な個人資産と旧時代のコネクションを武器に、今も水面下で暗躍している。

 そして、上座に座る最も年嵩の老人、西園寺。旧華族の流れを汲む名門の末裔として、かつては政財界と魔法師社会を繋ぐ重鎮と目されていたが、時代の変化と共にその影響力にも翳りが見える男。今回の計画は、彼にとって一世一代の復権を賭けた大博打でもあった。

 

「……九鬼卿。例の“船”からの連絡が、完全に途絶したそうだな」

 

 最初に口火を切ったのは、西園寺だった。その声は、古井戸の底から響くように静かだが、有無を言わせぬ重みがあった。

 

「はっ。今朝方を最後に、一切の通信がロスト。……拿捕されたか、あるいは、自沈したか。いずれにせよ、“実験”は失敗に終わったと見るべきかと」

 

 九鬼は、悔しさを滲ませながらも、事実だけを淡々と報告する。

 

「失敗、か。実に高くついた失敗じゃな」

 

 三条実篤が、深くため息をついた。その皺深い顔には、投資に失敗した経営者のような、冷徹な計算の色が浮かんでいる。

 

「旧大漢の残党ごときに、我がグループの最新技術まで提供してやったというに。戦闘強化人間二体に、あの《ウロボロス・ケージ》。それでも、たった一人の子供を捕らえきれんとは。費用対効果が、まるで見合わん」

「……相手が、ただの子供ではなかった、というだけの話です」

 

 九鬼の言葉に、部屋の空気が一層重くなる。

 

「……そして、先程、魔法協会を通じて、四葉から“返答”が」

「ほう。して、夜の女王は、何と?」

 

 西園寺が、かすかに興味を示したように、問うた。

 

「……まず、『お心遣いには、深く感謝いたします』と。その上で、『誠に残念ながら、息子はその日、先の事件で救出した子供たちと、遊園地へ行く約束があるため、ご辞退させていただきたく存じます』と」

「……ほう。遊園地、か」

「はい。そして、葉山からの“補足報告”によれば、真夜当主は、こう付け加えたそうです」

「『英雄になるよりも、友達との約束の方が大事だと、息子も申しておりましたので』と」

「……くくっ」

 

 龍堂が、思わず、喉の奥で笑った。

 

「……つまり、腹の中では『貴様らの作る英雄になど、うちの息子は興味ないわ、この老害どもが』と、そう言っているわけか」

 

 九鬼の言葉に、西園寺は、ゆっくりと首を横に振った。

 

「いや。まだだ。……まだ、彼女は“迷って”いる」

「……と、申しますと?」

「もし、あの小娘が、本気で我々を潰す気であれば、こんな回りくどい返答はせんよ。魔法協会など通さず、直接、我々の喉元に、見えざる刃を突きつけてきたはずだ。……彼女が“表”のルートで、しかも言葉を繕って返してきたということは、彼女もまた、我々と事を構えることの危険性を、正しく理解している、ということだ。……まだ、交渉の余地は、ある」

 

 西園寺は、ゆっくりと目を開けた。その瞳には、老獪な政治家だけが持つ、深淵のような光が宿っていた。

 

「……事を急ぎすぎた。一度、引く。天城蒼夜という存在を、力で排除、あるいは管理するという計画は、一度凍結する。あの親子は、我々が直接手を下して良い相手ではないことが、これで証明された」

「では、どうするのです」

 

 九鬼が、上座の男を見据える。

 

「“サンプル”の確保が失敗した今、次の手は?」

 

 西園寺は、初めて、楽しそうな笑みを浮かべた。

 

「……幸い、あの子供は、父親とは違うようだ」

「……と、申しますと?」

「報告によれば、彼は、“裁き”を望んだ、と。……そこに、付け入る隙がある」

 

 西園寺の口元に、笑みが深まる。

 

「彼は、まだ子供だ。正義を信じ、秩序を信じている。ならば、我々がすべきことは一つ。……彼を、我々の“秩序”の側に取り込むのだ」

「……まさか!」

 

 龍堂が、息を呑んだ。

 

「そうだ。彼を、十師族の一員として、魔法協会の、そしてこの国の防衛の一翼を担う者として、“飼い慣らす”。彼に、守るべき“社会”と“責任”を与え、その牙を、我々の望む方向に向けさせる。……彼が信じる“正義”の執行者として、な」

 

 それは、武力による排除よりも、ずっと狡猾で、そして残酷な計画だった。

 一人の少年が抱く純粋な正義感を、国家という巨大なシステムの中に組み込み、骨抜きにしていく。

 自由な神獣を、鎖に繋がれた番犬へと変えるために。

 

「……その方向で動くよう、伝えよ。四葉の内部から、彼を“公の人間”へと、ゆっくりと、そして、丁寧に誘導していくのだ。……我々が再び牙を剥く、その時まで」

 

 老獪なる神々は、静かに頷き合った。

 その瞬間。

 

「──そりゃダメだろ、若人の青春の邪魔をしちゃさ」

 

 凛とした静寂を破るように、場違いなほど軽やかな声が、部屋の隅から響いた。

 三人の老人が、膝の辺りに突然水をかけられたような不気味さを覚える。

 声は、どこから? 

 庭か? 

 廊下か?

 いや、違う。もっと近い。

 この部屋の、内側から──。

 

「……何奴!」

 

 九鬼が殺気を迸らせ、即座に魔法を発動させようと意識を集中させる。だが、何も起こらない。魔法式が、思考の段階で霧散していくかのような、奇妙な無力感。

 その狼狽を嘲笑うかのように、部屋の最も暗い隅の闇が、ゆらりと揺れた。そこには、いつからいたのか、寝ぐせのついた髪の男が、壁に寄りかかるようにして立っていた。天城蒼士だった。

 

「やあ、どうも。息子が世話になったみたいで」

 

 へらり、と笑うその顔に、敵意はない。だが、その場にいるだけで、室内の物理法則が書き換えられたかのような、絶対的な圧力が三人を襲う。呼吸が浅くなり、思考が鈍る。この料亭を包んでいたはずの幾重もの結界も、物理的な警備も、この男の前では意味をなさなかったのだと、彼らは本能で悟った。

 

「……貴様、どうやってここに……」

 

 龍堂が、かすれた声で絞り出す。

 

「んー? ちょっと散歩してたら、面白そうな悪巧みが聞こえてきたからさ。うちの息子の将来設計を勝手に立ててくれるなんて、親切なご老人たちもいたもんだ」

 

 蒼士は、ゆっくりと三人の前に歩みを進める。一歩、また一歩と近づくたびに、見えない重力が彼らの肩にのしかかってくるようだった。

 

「飼い慣らす、ねぇ。無理だと思うぜ、それは。あいつは俺と、あの真夜の息子だ。あんたらが用意した鎖なんざ、食いちぎってオモチャにするのが関の山だ」

 

 その目は笑っている。だが、その奥にある光は、恒星の核のように、触れるものすべてを焼き尽くすほどの熱量を宿していた。

 西園寺は、生涯で初めて、死というものを現実として意識した。目の前の男は、自分たちが弄んでいた「力」という概念とは、次元が違う。これは、理不尽そのもの。抗うことすら許されない、神話レベルの災害。

 

「さて、と」

 

 蒼士は、三人の目の前で立ち止まると、やれやれとばかりに首を鳴らした。

 

「あんたらさ、今回の件で、誰のテーブルをひっくり返したか、ちゃんと理解してるか?」

 

 その問いに、誰も答えられない。蒼士は、まるでバーカウンターで勘定書きでも確認するかのように、楽しそうに指を折りながら続ける。

 

「まず一人目、うちの息子(バカ)。あいつはまだガキだが、やられたらやり返すってことだけは、しっかり俺が教え込んだから。将来有望だぜ?」

「次に二人目、俺の(ハニー)。まあ、色々あって普段は猫かぶってるが、一度タガが外れたら、この国ごと引っ掻き傷だらけにしかねない……そういう女性でね」

 

 そして、蒼士は最後に親指を立て、自分自身を指した。

 

「──で、最後がこの俺。見ての通り、ただのしがない平和主義者さ。だから、揉め事は好まないんだが……借りは返す主義でね。あんたらが俺の息子にくれた『恐怖』、『痛み』は、きっちり100倍にして、これからゆっくりと配達してやる」

 

 宇宙がこの部屋ひとつになったような緊張が、部屋いっぱいに、はりつめる。

 

「……ああ、利子はまけておくから、ちゃんと払えよ? 俺たちは毎度幸運を届けるほど、お人好しじゃないんでね」

 

 その言葉を最後に、蒼士の姿は、再び闇の中へと、音もなく、溶けて消えた。

 残されたのは、死よりも深い沈黙と、三人の老人だけであった。

 誰も、動けない。

 誰も、言葉を発せない。

 やがて、九鬼が、震える指先で、蒼士が去り際に、テーブルの上に、“何か”を置いていったことに気づいた。

 それは、上質なベルベットでできた、小さな、黒い袋だった。

 

「……なんだ、これは……」

 

 三条が、かすれた声で、問う。

 誰も、それに触れようとはしない。

 まるで、猛毒の蛇でも見るかのような目で、その袋を見つめている。意を決したように、九鬼が、その袋の、絹の紐を、震える指先で、ゆっくりと解いた。

 

 袋の口が、開かれる。

 

 ───…………………………びちゃ。

 

 中から、ぬるり、とした感触と共に、何かが、テーブルの上に、転がり落ちた。

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 それは、ビー玉のように、丸く、そして、濡れていた。

 テーブルの、磨き上げられた黒い漆塗りの表面に、赤い、細い筋を引きながら、それは、ゆっくりと転がり、そして、止まった。

 

 まだ、微かに、温かい。

 裏側には、引きちぎられた、血管と視神経の白い繊維が、生々しく、付着している。

 青い、瞳。

 茶色い、瞳。

 そして、黒い、瞳。

 その三つの“眼球”は、まるで、まだ生きているかのように、部屋の照明を、ぬらぬらと、反射させながら。

 静かに。

 ただ、静かに。

 まるで、魂だけが、まだそこに在るかのように。

 そこにいる、三人の老人たちを、じっと、見つめ返していた。

 

 ──我々は、人間を相手に、喧嘩を売ったのではない。

 ──我々は、この世界の(ルール)そのものに、喧嘩を売ってしまったのだ。

 

 そう悟ったその日から。

 彼らの地獄が始まった。

 

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