アドマイヤベガに、ようやく勝負服が届いた。青を基調に金の帯やアクセサリを配し、菱形をモチーフとしたデザイン。星空のようだ。全体的に露出は少ないが、スカートは短い。空気抵抗はそこまで大きくはなさそうに見える。脚や腕・肩などの可動部には動きやすさを配慮している。さすがにトレセン学園との契約がある服飾デザイナーだけある。何日か慣らしを兼ねて勝負服姿でのトレーニングを実施させたが、おおむねタイムは陸上ユニフォームとは変わりがない。
自主練に関してはプールでのトレーニングを指示した。プールであれば全身の筋肉を使うためバランスよく筋トレができるうえ、消費カロリーの割に身体への負担が軽く、健康リスクが低い。監視員も配置されているため、過剰な練習の抑制や事故防止も可能だ。
乙名史氏からは律義に広報部を通したアポイントメントがあり、応接間での取材を受けることにした。ただし、応接間に広報担当者を同席させることで言った言わないの水掛け論を防止する。
「なるほど、それが今の練習内容ですか」
ソファに腰かけた乙名史氏が頷きながらメモを取る。
「・・・ふふ、お戯れはよしてください、高村トレーナー。これ、本当のプランではないですよね」
――余計なところに勘が鋭い女だな、こいつ。
正規トレーニングで必要な練習を終わらせ、可能な限り自主練は短時間で済ませる休養重視スタイル。思春期女子の体調管理という繊細な話題を含むために男性トレーナー一人で全てを担当せず、保健室・管理栄養士・スクールカウンセラー・女性
「高村トレーナーのことですから、ご自身を犠牲にした素晴らしい構想をまだ隠していらっしゃるんですよねぇ・・・!?」
こちらの心を射貫くような目線が真っすぐと注がれる。負けじと目を逸らさずに答えた。
「教員は自己犠牲などしません。公私の分離を徹底する。それがあるべき指導者の姿です」
完璧な理屈のはず。しかし、彼女は柔らかく微笑むと、核心に迫ってきた。
「なるほど・・・完璧な理屈、ですね。でも、選抜レースで進路妨害、逃走までしたアドマイヤベガさんがわずか半年であそこまでの成長を見せている。マニュアルだけじゃ、きっと足りない何かがあるはずです」
――最初からマークされていたか。あの選抜レースを知っているとは。
「・・・自分は一人のトレーナーであり、生徒の心まで支援することはできません。成長があるとすれば、その主体は彼女です」
苦し紛れに答えを絞り出した。アドマイヤベガの過剰な自主トレ、その原因と思われる心の傷について嗅ぎつけられることは絶対に避けなければならない。
「ええ、そうですよね。主体は、いつだって本人。それでも、生徒さんたちが、誰かの信頼に支えられて伸びる瞬間って、必ずあるものだと思うんです。思春期の女の子なら、なおさらのはずです」
――なんて食えない女だ。相当な美人だけど、顔に騙されると致命的な結果になりかねない。
「指導者に信頼を寄せることと、実力が伸びることは別物です。トレーナーがするべきことは、本人が立ち上がれるように環境を整えること。それだけです」
――この女は、こちらがどれだけ言葉を選び、構えようとも、その隙間から何かを嗅ぎ取ろうとする。徹底的に防戦するほかない。
結局取材はその後30分に渡って続いた。丁重な挨拶とともに応接間を乙名史氏が退出していったあと、背中に大量の汗をかいていることに気付く。さすがに汗臭いまま15歳女子の前に出るわけにもいかないから、この日は自主練だけで終了することにした。
廊下を歩きながら、少しだけ呼吸を整える。
――油断はできない。
あの女は、月刊誌に載せる美談のためだけに動いているわけじゃない。おそらく、もっと根の深いものを探ろうとしている。目的は分からない。好意的に考えれば、表面的な内容に留まらない熱量ある記事を書きたいだけ。だが、もし好奇心本位のお涙頂戴ストーリーを欲しているのなら、それは何としても封じる必要がある。
アドマイヤベガの心の傷。彼女自身もまだ言葉にできないその痛みを、他人の好奇心に晒すわけにはいかない。
自分が背負うべきものだ。どれだけ汗をかこうと――
それは、生徒を守るために当然支払うべき代償だ。
顔を洗い、鏡の中の自分を一瞥し、何も言わずにタオルで顔を拭った。
業務用スマートフォンを取り出し、アドマイヤベガにチャットで連絡する。
『今日はこのまま解散。プールトレーニングが終わったらいつも通りプロテインを飲み帰宅しろ。プールトレーニング以外の自主トレは禁止だ。』
12月26日、中山レース場。芝、2000m。天候、晴れ。出走者11名。アドマイヤベガは4枠4番。事前ファン投票では1位人気らしい。
控室で準備運動しているアドマイヤベガの表情は、エリカ賞の時と比べて落ち着いている。阪神レース場ほどではないが、ここもカーブ半径がトレセンのダートより小さい。とはいえ、レース場の概要は頭に叩き込ませた。問題ないだろう。
アドマイヤベガの姿を見る。よく似合う勝負服。一点気になるのは、ネクタイだ。ネクタイピンが無いから、走るときに邪魔になるかもしれない。練習中は指摘してこなかったが、本番では何が起きるか分からない。
「アドマイヤ、俺の予備のネクタイピンを渡す。勝負服に合うよう金色の方を。使うかどうかは任せるけど、ネクタイが煽られるのが気になるなら使ってくれ」
アドマイヤベガは素直にネクタイピンを受け取った。
最後にタブレットを渡し、最終確認を自分でさせているとき、ナリタトップロードが激励に来た。
「お邪魔ではないですか?ミーティング中とかでは」
と訊ねてくる彼女の態度は、模範的生徒のものだ。アドマイヤベガも少しは見習って欲しいと思いつつ、席を外した。
5分後、ナリタトップロードと共に、アドマイヤベガが廊下に出てきた。ナリタトップロードはこちらに会釈をすると、そのまま観客席へと走りさった。
時刻は15時過ぎ。そろそろパドックに行く時間だ。そう伝えようとすると、アドマイヤベガから声を掛けられた。
「トレーナー、じゃんけん・・・ぽん」
アドマイヤベガはチョキ。対するこちらはパー。
「あっちむいてホイ」
――負けた。
指の方向に合わせ、上を向いてしまった。
ゆっくりと顔を下ろし、教え子に向きなおる。
不敵な笑顔を浮かべた彼女は、力強く頷くと、
「行ってくる」
とだけ残し、パドックに向かっていった。
わずか3週間でよくメンタルがここまで成長したものだと思う。やはり
控室に施錠する。足早に関係者席へと向かった。
冬の陽射しに、レース場の芝が淡く光っている。
吹き抜ける風は冷たいが、胸の奥には、かすかな温かさが残っていた。
――あれだけ脆かった生徒が、今、自らの足で歩き出している。
焦らず、追い立てず、ただ支え続けた。
それが、少しずつでも彼女の力になっているのだとしたら。そう願い、ゆっくりと関係者席の階段を上った。
選手たちが次々とターフに集まり、ゲートへと入っていく。
しばしの沈黙が流れた。
ゲートオープン。
乾いた音とともに、各選手が一斉に飛び出す。
アドマイヤベガを確認すると、わずかに出遅れていた。だが、問題ない。これは想定通りだ。勝負は後半にある。後ろに控え、全体を見回せるポジションに付くことが重要だ。
中山レース場は、第一コーナーにたどり着くまでに二段階の上り坂がある。序盤から力を使えば、最後の直線で体力が残らない。ここは体力を温存し、流れに逆らわずに運ぶべきだ。バ群は全体としてややばらけているが、まだ大きな差はついていない。各自、互いに探り合いながらの出方。アドマイヤベガは中団の外側に位置している。このまま、無理なく進めばいい。
第一コーナーは、上り坂との複合で負担が大きい。大きく外に膨れることはないはず――そう考えて見守ったが、教え子は柵からわずかに外れた、約2メートルほど外側を走っている。後続の選手たちに囲まれ、インへ寄ることができないようだ。それでも、耳を後ろに向け、わずかな音の変化を拾おうとする様子が見える。冷静だ。パニックになっていない。
第二コーナー。ここでも大きな位置取りの変化はない。ペースは依然として落ち着いている。アドマイヤベガには有利な展開だ。第二コーナーを抜けると、
バラけていた間隔が徐々に詰まりだす。互いに接触を避けながら、前へ出ようとする動きだ。順位に大きな変動はない。教え子も重力に抗うことなく、流れに乗ってペースを上げた。浮き足立つことはない。坂を下る勢いに任せるのではなく、主導権を重力に奪われてはいない。
――マークされている。
エリカ賞での入賞が、注目を集めたのかもしれない。
第三コーナーで、ここでアドマイヤベガが動いた。まず、9番選手の外へとじわじわ進路を取り、並びかける。勝負をかけるには少し早い。だが、迷いはないように見える。9番選手を外から一気に抜き去り、さらに外へと膨らみながら、次位集団の先頭へと並ぼうとしている。まだ直線まで距離があることに不安を覚えたが、教え子は加速を続け、先頭集団に並んだ。
第四コーナーを回りきると、
アドマイヤベガはさらに加速した。芝を蹴り上げるたびに、空気を切り裂く音が耳に届く。その後ろ、ぴたりと張り付くように、10番選手が追いすがる。二人は、先頭を走っていた8番選手を抜き去った。拳を握る。10番選手との差は、約1バ身。追い上げを許せば、勝利は逃げる。最後の上り坂が迫る。重力が全身にのしかかり、脚が、背中が、肺が、悲鳴を上げているはずだ。だが、アドマイヤベガは歩を緩めない。わずかに体を前傾させ、地を押し込むように駆けあがる。
坂を登り切った。あとは、ゴールまでの平地。後ろを振り返る必要はない。視線の先に、ゴール板だけを見据える。距離は――縮まらない。握りしめる拳に、汗が滲んだ。
そのまま、二人は並び立つようにしてゴールへと飛び込んだ。
いつのまにか止めていた息を吐いた。ここで上位から脱落していたらと思うと肝が冷えるが、素晴らしい結果だ。思いのほか成長しているらしい。確定板を見ると、アドマイヤベガ一位が確定した。タイムは2分4秒1。空気抵抗が大きい勝負服でありながら、エリカ賞よりも2秒早い。相当な筋力が付いているはずだ。
――油断はできないな。
そう自戒した。3週間で相当な筋力がついているということは、相応の負荷がかかっている。今回はよくても、いつ栄養不足から事故が起きるか分からない。なんとか自主練の抑制を強めていかないと。
こちらの心配をよそに、教え子は拳を振り上げていた。
「…一着、勝った。トレーニングの成果は出せたみたい。上手く走れたっていう手ごたえもある。」
そう興奮気味に控室で話す教え子からは、抑えようもない喜びが感じられる。
「おめでとう。だが、まだこれからだ」
そう伝えると、
「・・・言われなくても分かってる。これからも走り続ける、勝ち続ける。もっと速く、もっと強く。絶対になってみせる、一番に輝く星に」
力強く話す彼女の様子に、不安を感じる。この勝利が、過剰な自主トレを肯定することに繋がってはならない。だが、今ここでそれを言うのも、勝利に水を差すことになってしまう。苦い顔をしながら、口をつぐむほかなかった。
記者会見の場には、案の定
質問タイムになると真っ先に手を挙げ、いつもの調子で質問を投げかけてくる。
「『月刊トゥインクル』の乙名史です。アドマイヤベガさん、本日は素晴らしいご活躍でしたね。次走の展望などあればぜひお聞きしたいのですが、いかがお考えですか?」
アドマイヤベガがこちらを向く。指導者として、こちらの意見も聞きたいのだろう。事前に決めていた通りの回答をするよう促した。
「クラシック三冠路線へ」
乙名史氏の顔にやや驚きの表情が浮かぶ。何をそんなに驚くのか。演技なのか?
「でしたら、それは、つまり、次に見据えるのは」
アドマイヤベガは頷き、言葉の続きを発する。
「はい、皐月賞です」
周囲の記者たちからはどよめきが漏れた。
ウィニングライブが終わってから学園に戻り、入口で彼女に声をかけた。
「年末年始についてだけど―」
すると、こちらの言葉を遮るようにして彼女は力強く言い放つ。街灯が放つ光が、彼女の顔の力強さを強調する。
「正月休みは不要。弟たちへのお年玉は母に預けているし、大丈夫。それとこれ、ネクタイピン返す。使わなかったけど、お守りとしてポケットに入れてた。また次のレースで貸して」
返却されたネクタイピンを受け取りつつ、内心少し驚く。
――こいつ弟がいたのか。大人びた態度は姉として身に着けた物なんだな。
9月の家庭訪問の時には気づかなかった。お年玉をあげるという事は年齢が離れているんだろう。
「いや、ちゃんと帰って家族に顔を見せてやれ。俺も帰省するからトレーニングは見れない。長期休暇中に事故を起こされると対処しようがない」
年明け以降の三冠路線を意識してモチベーションが高まっているのは結構だが、さすがに年末年始まで練習させるわけにもいかない。病院や多くの店も閉まるし、学園も長期休み体制になり、万が一の時のサポート体制は万全ではない。それに、皐月賞は4月だからまだ余裕はある。家族に会う事で心の傷も多少は癒えるはずだ。
「そう・・・なら、そうするけど・・・」
やや不満げな態度を見せる教え子と別れを告げ、寮に戻ることにした。ついでに買い物もしたいが、どうしよう。職住近接が過ぎると買い物が億劫だ。そのうち引っ越したいな、そう考えながら、寮に向かった。私用スマートフォンで
『明日帰省する。姉ちゃんはいつ帰って来るの』
数分後、母親から連絡がきた。
『
姉ちゃんに、トレセン時代の話をいろいろ聞いてみよう。トレーナーとして何か得るものがあるかしもしれない。