夏以来の帰省に、愛犬ラッキーが大喜びで迎えてくれた。ミニチュアプードルだけあって、体重を乗せたタックルの威力が大きい。
「よーしよしラッキー、元気にしてたか?」
頭を滅茶苦茶に撫で回しながら、話しかける。12歳で、そろそろ老犬の域になるが、毛並みは綺麗で元気もある。あと何年生きてくれるかな、なんてことを考えながら久しぶりの再会を喜び合う。ラッキーは頭を下げるプレイバウのポーズを取ったかと思うと、そのまま玄関からリビングへとダッシュしていった。後を追い、リビングに足を踏み入れる。
「ただいまー・・・」
リビングには誰もおらず、ラッキーがボールを咥えてじゃれついてくる。
――父さんは多分勤務中だけど、母さんは・・・店舗の方かな。
そう考え、ラッキーに「ごめんね、後で遊ぶから」と伝え、一旦廊下に出て店舗の方に屋内から向かう。店舗に繋がるドアをゆっくりと開けると、そこにはラブラドールレトリバーのトリミングをしている母の姿があった。ドアを開ける音にこちらを振り返ると、目を丸くして声をかけてきた。
「ああ、お帰り啓一」
「うん、ただいま。でかいお客さんだね」
「おっきいけどいい子だよ~いつも大人しくてカットしやすい」
返事を返してくる母親は、4か月前より少し老けたような気がする。きっと自分も、4か月前より少しは大人になって両親に見えているのだろう。お客さんをひとしきり撫でまわしてから、リビングに戻った。するとラッキーが手のひらの匂いを盛んに嗅いできたので、手を洗った。浮気じゃないよ、と言い訳をしたけど、理解してもらえたかは分からない。飽きるまでボール遊びをしてあげた。
翌々日には姉も帰省してきた。義兄と甥・姪は義実家のほうだという。四人と一匹だけの家族が揃うのは、数年ぶりのことになる。
大晦日になると消防副署長の父親も非番となり、朝から家族で大学ウマ娘東海道駅伝の中継を見ていた。朝から夜まで12時間弱を掛けて東京大阪間を大学生のウマたちが結ぶ究極の持久走。かつての飛脚に由来する人気競技で、年末の特番として絶大な人気を誇る。トレセン学園大は学生連合で平塚付近を15位、姉の出身大は小田原付近を4位で通過していく。その様子を見守るリビングでは、両親が年末の最後の準備を進めている。
「なあ、姉ちゃん」
「ん?なに?」
トレセン学園トレーナーとして、姉に聞こうと思っていたことをいくつか尋ねることにした。
「姉ちゃんってなんで”シリウスプライド”ってターフネーム使ってたの」
ウマ娘たち本人の口から、ターフネームに込めた想いというのを聞きたかったのだ。
「うわ~懐かしいその名前・・・。昔ね、お母さんに『なんで葵って名前にしたの』って聞いたことがあってさ、その時に『葵の花言葉が、ウマのあなたにぴったりだと思ったからよ』って言われてね。葵の花言葉知ってる?」
花言葉はあまり詳しくない。葵が植物だという認識はあるが、葵がどんな花をつけるかすらよく分からない。
「いや、知らない」
「あんたモテないよ~。葵の花言葉は、『大望、野心、豊かな実り、威厳に満ちた美しさ』。そこから”プライド”って単語を連想して、全天で一番明るい星の”シリウス”にくっつけたの。それで”シリウスプライド”ってターフネーム」
そういうことか。すると、やはりアドマイヤベガというターフネームは一位に対する執念、なのだろうか。ラッキーの頭を撫でまわしながら訊ねる。
「今トレセンで担当してる子が、”アドマイヤベガ”ってターフネームなんだけど、姉ちゃんの目から見てどう?」
当事者でなければ分からない命名由来というのもあるはず。そう期待して、姉に訊ねてみる。
「ベガか~。夏の大三角だね。一等星だけど、あえてのベガってことは夏生まれか、こと座が好きなのか、それか七夕が好きとか。もしかしたら、友達や恋愛で三角関係の経験があるとかかな。結構ロマンチストなのかも。あっ、あ~抜かされちゃった」
画面の中では、姉の出身大学のチームが5位へ転落する瞬間が映し出されていた。
「やっぱそうだよな・・・」
質問を変えることにした。
「姉ちゃんのさ、担当トレーナーってどんな人だった?」
姉は遠い目をしながら答えた。
「え~とね、アタシは中等部から入ってすぐにチームにスカウトされて、最初はチーフトレーナーに指導されてたんだけど、中2の秋頃からサブトレーナーに変わってね。成績が圧倒的だったからサブトレーナーの指導経験を積ませる相手だと判断されたみたい。優しい新任の人でさ、とにかくアタシの希望を最大限叶えられるような練習を提案してくる人だったよ。実はちょっと好きだった」
姉の恋の話なんて聞きたくはないけど、姉はこちらの気持ちを知ってか知らずか、話を続ける。
「高校卒業するときに、卒業式で告白しようかと思ってたんだけど、結局勇気が出なくて告白できなくてね~。しばらく後悔してたんだけど、大学で陸上部男子部門の先輩と仲良くなってからはすぐに忘れちゃった。その先輩が今の夫」
そうなのか。まあ、女子校だとありそうな話だ。
「ふ~ん」
話が思っていたのと違う方向にズレ始めたので、軌道修正を図ろうとしたが、姉の方が口が回る。
「アンタも気を付けないと担当の子に好かれちゃうよ~。ちゃんと断らないと懲戒処分だね、アハハ」
冗談でもやめて欲しい。そういうのは。
「止めてくれよ。それに、俺の担当の子はそんなタイプじゃないって。どっちかというと内向的で、手のかかるタイプでさ」
姉はテレビ画面を見ながら返事をしてくる。
「まあ、アンタちょっと距離感じさせる性格してるからね。アピールせずにモテるタイプじゃないか。昔はそうじゃなかったけど、高校生くらいの時かな?あの頃からちょっと雰囲気変わった。反抗期だから?」
高校時代の嫌な思い出が顔を覗かせそうになったので、全力でフタをする。姉とアドマイヤベガは、生徒としてのタイプも違いそうだから、直接参考になる情報はなさそうだ。とはいえ、姉のような万能タイプの生徒相手にうまく練習を提案しているというのは気になった。どんな練習内容だったのかを尋ねようとしたとき、テレビの中で次の区間を担当する選手たちの紹介が始まった。
「さあ、次の第3区。青山学苑大学からは2年生、ノーザンウインド選手です。かつての震災で命を落とした妹のため、そして妹の想いを継いだ自分のため、二人で走りたいと語っていました。胸ポケットには妹さんの写真を忍ばせての参加だと言います。トレセン学園でのトゥインクルシリーズ、大学の駅伝とウマ陸上を続けてきた彼女は、『トゥインクルシリーズでは結果が伴わなかった分、駅伝では結果を出したい』と語っていました。努力の末、箱根越えが待ち構える第3区担当のエースに抜擢された彼女が、今、タスキを受け取り走り出しました」
思わずテレビに見入る。トゥインクルシリーズと駅伝両方で結果を残す姉のような選手は稀だが、両方に出る選手の数も多くはない。駅伝選手の半分以上は、トレセンに入学しながらトゥインクルシリーズや地方競バへの出場が叶わなかった選手や、そもそも各地のトレセンに入学できなかった持久力特化型のウマ娘たちだ。その中でエース区間を任される選手と言うのは、夢をつかんだ一握りの存在と言える。固唾を呑んで見入り、姉の後輩でもある彼女の快走を願う。十数分後、彼女は4位への復帰を果たすと、そのまま箱根越えへと挑んでいった。
息をついた後、姉にかつての担当トレーナーの指導内容についての質問を投げかけた。姉は思い出を交えつつ、楽しそうに答えてくれる。大晦日は、そうやって暮れていった。
年が明けた。朝から近所の神社に初詣に出かけると、近所の人たちから声を掛けられた。「活躍テレビで見てるよ」「かっこいい」「クラシック頑張って」と、口々に褒めてくれる。面映い感じもしたたけど、それ以上に自分の活躍をみんなが認めてくれることが嬉しかった。トレーナーは少し口うるさくて、「支えるだけ」という当初の言葉から離れてきているけど、でもその口うるささが少し心地よいとすら感じる。あのトレーナーとなら、クラシック三冠も夢じゃない。そんな気がする。
帰宅すると、両親からお年玉を貰った。
「
という言葉とともに、私と弟にそれなりの額を入れたお年玉袋が渡された。
私も、予め母から返してもらっていたお年玉を、6歳年下の弟に渡した。
「ありがとうお姉ちゃん!」
と弟は無邪気に喜ぶと、トレセン学園での話をせがんで来た。いつまでも話が終わらないな、なんて思いながら、トレセン学園のこと、レースのこと、トレーナーのことを話してあげる。両親は、そんな私たちをニコニコ見つめていた。
2日になると、男子大学生たちの箱根駅伝の往路中継が始まった。トゥインクルシリーズや年末の東海道駅伝との違いがまだよく分かってない弟から解説を求められたけど、私にもよく分からない。男子は、やっぱり私たちウマと比べると速度が遅いから戦略も戦術も違うはずだ。全力疾走に近い競バと、持久走の駅伝という違いもある。でも、ペース配分やフォームはところどころ似ている。だから、そういった面についての説明をしてあげた。
3日の復路になると、弟が見に行きたいと言い出した。仕方ないから、家族総出で国道15号線に向かい、弱々しい太陽と乾燥した北風に晒されながら、男子大学生たちが走る姿を応援した。私たちが応援した区間では、エンジ色のユニフォームの
三が日が過ぎ、1月5日の日曜日に家を出た。両親と弟は私が見えなくなるまで手を振ってくれた。トレセン学園の学生寮の自室に戻ると、ルームメイトのカレンさんが先に戻ってきていた。
「アヤベさんおかえりなさい!あけましておめでとうございます」
その言葉と共に深々とお辞儀をしてくる。今をときめく中学生インフルエンサーらしい態度のなかに、こうした育ちの良さが見え隠れするあたりが、この子を放っておけない理由なのかもしれない。
「ええ、明けましておめでとう。その、今年も、よろしく」
少し詰まりながら言葉を返すと、彼女は顔を輝かせて、
「はい!今年もよろしくお願いしますね!」
と言ってきた。そして、年末年始の思い出を話してくれた。話を聞く限り、ご両親は娘に甘いみたい。カレンさんの性格からして想像はついていたけど、でも礼儀正しいところを見るとただ甘やかしていただけでもなさそうだ。彼女が年末年始のことを話し終わると、今度はこちらの年末年始について訊ねてきた。
「私?私は・・・両親と、弟と、駅伝見たり、初詣行ったりしてた」
もう少しうまく伝えられないかな、と思うけど、記憶を探ってもそれしか説明する言葉が出てこない。
「アヤベさん、楽しい年末年始だったんですね。安心しました」
少し落ち着いた様子で、彼女は声をかけてくる。なんだか少しだけ、大人びて見えた。
「ええ・・・その、楽しかった」
カレンさんはにっこりと笑うと、
「私、お手洗いに行ってきますね」
と言い残して部屋を出ていった。
一人になった部屋でふと、机の上の月齢カレンダーを確認した。そろそろ次の新月が近いはず。妹に、レースのこと、家族のこと、色んなことを語りかけたい。直近の新月は・・・
「・・・あ」
声が出た。血の気が引いていくのを感じる。
月齢カレンダーには、1月2日が新月だと書かれていた。
「うそ・・・」
幼いころから、ずっと続けてきたこと。妹のことを知ってからは、一度たりとも欠かしたことがない習慣。新月の夜の天体観測。
「私・・・忘れてた?」
頭を殴られたような衝撃が走った。
視界が歪み、月齢カレンダーしか見えなくなる。そんなはずはないと必死で否定するけど、目の前のカレンダーは厳然たる事実を示している。
そして、思い出す。この1か月、ほとんど妹のことを考えていなかった。
――いつからだろう。いつから、私は妹のために走ることを忘れていたんだろう。
使命を忘れ、原罪を忘れて。
自分の愉楽、欲求――そんなもののために。
いつから、『私自身』なんかのために、生きてしまっていたんだろう・・・
――エリカ賞で、ホープフルステークスで、私は妹のことを少しでも思って走っていたっけ
今となっては分からない。
息が、苦しい。いくら吸っても、酸素が脳に届かない。胸が苦しくて、痛くて、座ってすらいられなくなる。
暗くなる視界の中、幼いころの記憶が蘇った。ポニーカップクラブの入団レースで、優勝したのになぜか悲しくなって泣き出してしまった時のこと。しばらくして、母が教えてくれた時の言葉だ。
『アヤベちゃん、あなたには…本当は妹がいたの。双子の妹よ。・・・生まれてくることは、できなかったけれど』
――ごめんなさい。あなたのことを、忘れてしまって。
遠くで、カレンさんの声が聞こえた気がした。
年明け初出勤となる1月6日午前10時過ぎ。執務デスク上のノートPCの電源を投入した。PCに接続されたデスク上の外部ディスプレイにログイン画面が映し出されるのを待ち、忘れかけていたパスワードを入力してログイン。続いて勤怠管理システムに真っ先にログインし、年末の勤怠状況を上司に提出する。
それが終わると、
新着メッセージを確認すると、カレンチャンからのメッセージがトップに来ていた。クリックしてチャットを開く。
『高村トレーナー、明けましておめでとうございます。緊急の連絡です。同室のアドマイヤベガ先輩が、昨日1月5日の昼過ぎに過呼吸を起こして倒れました』
「・・・は?」
心臓が跳ね上がる。一体何が起きたんだ。
『先輩は私が保健室に運び、今朝まで保健室のベッドで様子を見ていました。保健室の先生は、水曜日までは運動を控えて様子見をするよう言ってました』
ひとまず安心したが、事態が深刻なことに変わりはない。原因はメンタルか、それともまたしても過剰な自主練か。
『高村です。連絡ありがとう。一点確認したいんだけど、アドマイヤベガは休暇中に自主練していた?』
既読は付かない。いまは授業時間中だ。次の休憩は10時50分。1分が10分にも感じる。指導日誌整理や、クラシック三冠路線に向けた指導計画考案もしなければならないが、手に付かない。
10時50分になってすぐ、カレンチャンから連絡がきた。
『いえ、先輩は1月5日の昼過ぎに帰って来ました。ご実家の方で自主練をしていなければ、練習はしていないはずです』
となると、原因は精神的なものの可能性が高い。休暇中に練習していなかったかを保護者に確認して、可能性を絞り込まなければ。
そこまで考え、ふと最悪の可能性に思い至る。9月の家庭訪問で対面した教え子の両親は、娘想いに見えた。しかし、もし仮にそれが表面上のもので、実は娘には過剰なプレッシャーをかけていたとしたら?そのプレッシャーからの解放で過呼吸を起こしたとすれば、保護者への確認は事態を悪化させる可能性がある。その可能性を確認するため、続けてカレンチャンに返信する。
『わかった。あとでご両親にこちらで確認しておく。一点確認したいけど、アドマイヤベガは帰省の思い出について何か語っていたか?楽しかったとか、大変だったとか、腹が立ったとか。』
すぐに返信が来た。
『先輩は楽しかったと言ってました。表情からは嘘とは思えません』
ならば、家族が原因の可能性は薄い。両親に電話して自主練の有無を確認するべきだ。
『わかった。ありがとう。後はこちらで対応しておきます。今後も何か異常があったら連絡をくれると助かる。』
それで会話を終わらせるつもりだったが、彼女からはさらにメッセージが返ってきた。
『念のため伝えておきます。これは絶対に誰にも言わないでください。誰かに教えたりしたら、全力で蹴り飛ばします。
先輩、意識が薄れるなかで「ごめんなさい、あけみ」と何度か呟いてました。誰のことかは分かりませんけど、先輩のトレーナーだから伝えておきます』
あまりにも重要なヒントをくれたこと、自分を信頼してくれていることに深く感謝した。中等部の生徒としてはかなり大人びている。
『分かった。絶対誰にも言わない。教えてくれたことに感謝する。』
すぐに教え子の実家に電話を掛けた。永遠に思える呼び出し時間が過ぎたが、実際は10秒ほどだろう。
「はい、綾部です」
何度か話したことのある母親の声だ。
「私、中央トレセンにて娘の明里さんの担当トレーナーを務めております高村と申します。明けましておめでとうございます」
電話の向こうの母親は、にこやかに返事を返してくる。
「明けましておめでとうございます、高村トレーナー。今年も、明里のことをよろしくお願いいたします。」
これから、大事なことをこんな楽しそうな母親に伝えなければならないと思うと心が沈む。
「はい。実はですね、昨日娘さんが寮に帰った後に過呼吸を起こしたそうです。今は回復しているのですが、数日間は運動禁止とのことです」
電話の向こうからは、言葉を失った様子が伝わって来る。
「保健室にルームメイトの子が運んでくれたそうです。・・・まず一点お聞きしたいのですが、娘さんは休暇中に自主練などをされていました?」
「・・・いえ、ずっと家族団らんの連休でした」
やはり。これで原因は精神的なものだと確定していい。
「ありがとうございます。実は・・・娘さんは入学直後から何かを抱え込んでいる様子でした」
指導契約を締結する前の様子を思い出す。
「夜遅くまで練習したり、一人が良いと言ったり、走ることは自分だけが背負う事だと言ったりと、担当トレーナーとしてとても心配しています。娘さんが何を抱え込んでいらっしゃるか、お母様は心当たりはございませんか」
沈黙がトレーナー室を満たした。やがて、電話の向こうの母親が口を開いた。
「その・・・こんなことをトレーナーにお話しするのは変かもしれませんが・・・」
やはり、何か心当たりがあるらしい。
「はい。なんでしょう」
続きを促した。
「実は・・・明里には、妹がいたんです。正確には、いるはずだったんです」
過去形ですらない。それは、つまり――
「明里は双子で、本当は『明るい海』と書いて
言葉を、失った。
単に、ポニーカップ時代に喧嘩別れした友達や、トレセン受験で明暗が分かれた友人が居たとか、その程度のことだと思っていた。だが、そんなものではなかった。
そして、『
「そう・・・だったんですね・・・。その、お話ししづらいことを話して頂き、ありがとうございます」
電話の向こうの母親は、涙声で言葉を続けた。
「いえ、娘のトレーナーであれば、いつかはお話しなければならないことだと思っていました。明里は、今も妹のことを忘れられず、一人で苦しんでいるのかもしれません。高村トレーナー、どうか、娘のことをお願いいたします」
新任教員には、あまりにも重すぎる。だが――
「はい。これからも全力で娘さんを支えます。トレーナーとして、明里さんの競技生活と学生生活を」
全てが繋がった。
彼女を初めて目にした時から感じていた違和感と強迫感は、死産となってしまった双子の妹―
知ってしまった以上、無かったことにはできない。しかし直接言葉にして触れられる話題でもない。どう対処しろというのか。スクールカウンセラーに話して対応を仰いでも、重大な個人情報の漏洩として問題視される可能性が高いし、そうでなくとも誰がカウンセラーに話したのか本人は疑うだろう。そして確実に情報の流れ上には
その時、ふと脳裏に強烈な違和感が走った。
なぜ綾部明里は、「アドマイヤベガ」という
慌てて、電話の向こうに向かって言葉を続けた。
「あの、さらにひとつ確認させてください。『アドマイヤベガ』というターフネームですが、これはいつ頃、どなたが付けられたのでしょうか?」
母親は、少し唸ってから語りだした。
「・・・ポニーカップのクラブに入団して半年くらい経った頃だったと思います。本番レースに向けて、ターフネームが必要だからと。ターフネームを考えたのは本人で、私達は英語辞典を貸したりしただけだったと記憶しています」
すると、あの競技登録名は純粋に本人の願いが込められたもののはず。
「分かりました。ありがとうございます。今後も、何かありましたら連絡させていただきます。失礼します」
電話を切った。
競技登録名の由来について、重大な事実が浮かび上がってきた。気付けば、椅子から立ち上がっていた。
そのままホワイトボードに大股で近づき、彼女の
『アドマイヤベガ』
単にこの競技登録名は、冠名アドマイヤ+一等星ベガという組み合わせだと思っていた。冠名+勝利の執念を込めた単語、という競技登録名は珍しいものではないし、そこに母親の競技登録名を襲名するのも良くある話だ。だが、電話で聞き出した情報―アドマイヤベガの妹「明海」が死産となっていたという情報―を組み合わせると、全く違う構造が見えてくる。
まず、「アドマイヤベガ」という競技登録名全体について。これは、「冠名アドマイヤ+一等星ベガ」という組み合わせであることは間違いない。だが、他にも意味がありそうだ。アドマイヤすなわち”Admire”には「憧れる」「賞賛する」という意味がある。その場合、「ベガ(母親)に憧れる」とも、「ベガを称賛する」とも取れる。前者はそのままの意味だが、後者は、もしかして「妹から賞賛される一等星ベガになる」という意味を込めているのではないか?そして、彼女は星が好きだ。「一等星ベガが好き」という解釈もできる。さらに、極めつけは彼女の苗字。「アドマイヤベガ」という文字には、「綾部」をカタカナ表記した「アヤベ」の3文字が含まれている。
次に、「ベガ」だ。単に母親への憧れ以外にも、ベガを選んだ理由がありそうだ。そもそも、星を選んだ理由は何だ?「
手が震える。思いついたままに、情報をホワイトボードに書き込む。
『アドマイヤベガ
・近藤シューティングスターズ出身の冠名アドマイヤ+一等星ベガ(確定)
・ベガ(母親)に
・妹から
・星が好き→星に
・「綾部」をカタカナ表記した「アヤベ」の3文字が含まれている
ベガ
・「
・明海→「星の海」の連想?
・一位→一等星ベガの連想?
・「綾」からの「織」姫の連想?
・織姫と彦星の七夕伝説=妹との死別?』
鳥肌が、立った。
名前に込められた要素を数えると、10個もある。これ以外にもまだあるかもしれない。
普通、彼女たちの競技登録名に込められる意味というのは、多くて3つだ。本名をもじっただけの競技登録名すらある。
しかし、『アドマイヤベガ』という競技登録名に込められているかもしれない意味は、あまりにも多すぎる。異常だ。
本名、趣味、母への憧れ、亡き妹への贖罪、過去、未来。そのすべてが込められている可能性がある。・・・この名前は、彼女の未来をも縛っている。アイデンティティも、本名ではなく競技登録名のほうに癒着している恐れがある。
――この名前で彼女を呼ぶ限り、彼女の心の傷は癒えないどころか、悪化する可能性が高い。
「このターフネームは・・・呪いだ」
震える声で呟いた。
この名前で呼んではいけない。そう直感した。
登場人物 No.02
高村啓一の8歳年上の姉。既婚者で、息子と娘の二児の母。
中央トレセン学園から青山学苑大学に進学し、現在はスポーツ用品メーカー勤務。
トゥインクルシリーズと大学駅伝双方で結果を残した稀有な存在として有名。競技者時代の