第三章第一節 "軌道修正"
1月7日。
今後の競技指導方針を決定するより先に、接し方を決める必要があった。
妹との死別によるサバイバーズギルトという情報は、彼女の母親が信頼の末に明かしてくれた情報だ。誰かに無闇に教えることはできない。許可を取ろうにも、そのような依頼のため再度連絡するのは気が引ける。親にとって、娘が生を受ける前にこの世を去ったという事実は耐えがたいほどの悲しみのはずだ。こちらから傷口に触れたくはない。
――なら、自分一人で対応するほかない。
対応方針としては、まずサバイバーズギルトを克服させること。妹との死別を、彼女の中できちんと消化させる必要がある。次に、『
さらに、契約解除の正当な理由を上司に説明できない以上は人事評価が最低になるはず。次の契約生徒獲得にも支障をきたすだろう。次の選抜レースは3月だけど、正当な理由なく半年間担当してきた生徒と契約を解除したトレーナーを信用する生徒がいるとは思えない。
己の頬をぴしゃりと叩く。思考を落ち着かせないと、出来ることも出来なくなる。
まず、サバイバーズギルト克服に関しては、図書館などで心理療法の本を読んで手法を学ぶほかない。徐々に実践していけばよい。
アイデンティティの書き戻しは、競技登録名「アドマイヤベガ」で呼ぶのをやめ、本名「
そして、『アドマイヤベガ』という競技登録名を栄光ある称号として再定義して認識させるためには、レースで成果を出したときに記者会見の場などで成果を称えればよいだろう。
――問題は、やはりサバイバーズギルト克服か。
最も厄介で、最も重要な課題だ。精神科医でもカウンセラーでもない自分が容易に実践できることではない。だが、やらなければならない。何か手掛かりはないかと考え、カレンチャン宛に
『高村だ。昨日は過呼吸の件の連絡ありがとう。今後アドマイヤベガのメンタルケアを図るうえで知りたいことがある。何か、彼女が習慣にしていることはないか。教えられる範囲で構わない。無理に教えろとは言わない。教えて良いと考えられる範囲で良い。』
既読はすぐについたが、返信がなかなか来ない。確かに、ルームメイトの私的な行動をそう教えられるものではないだろう。数時間後、ようやく返信が来た。
『新月の時期になると、許可を取って星を見に一人で校舎の屋上に夜間外出しています。でも、たぶん大事な時間なのでそっとしてあげてほしいです』
天体観測というのは、あまり意外なものでもない。彼女は明らかに星好きな様子を見せていた。それに、夜間の一人での天体観測に教員が付き添うというのも変な話だ。確実に不適切な関係を疑われるし、正当な理由なき時間外労働になる可能性も高い。やはり、そう簡単に突破口が見つかるわけもないか。
『ありがとう。一人になる時間はあいつにとっても大切だと思う。こちらから邪魔はしたくない。』
カレンチャンに返信し、保健室にアドマイヤベガの体調について確認のメッセージを送った。すると、養護教諭からは、確かに「水曜日までは運動禁止」という指示を確認できた。念のため、今週いっぱいは自主練も含めて運動はさせないことにする。教え子とのチャットを開き、指示を送った。
『過呼吸大変だったな。大事を取って今週はトレーニングは無しだ。来週から再開するから、それまで体調を万全に整えておいて欲しい。』
既読は昼休みになってから付いたが、いつものような素っ気ない返信すら来ない。仕方ないかもしれない。妹に関して、何か思い出してしまったことがあるんだろう。まだ精神的には立ち直れていない可能性がある。
トレーニングやコーチングに関する参考書を読み、三冠路線に向けた指導方針の策定をすることにした。これまで以上に体力向上を目指す必要がある。当然、健康管理、栄養指導に関して厳重な管理が必要となってくる。保健室、スクールカウンセラー、
スクールカウンセラーの予約は月1で良い。自己開示を避ける彼女にとっても負担が大きいだろうし、頻度を上げると怪しまれる。
『了解!アヤベちゃんガード硬いけど、最近いろいろ話せるようになったよ!』
朗らかに同期の彼女から返信が来る。頼もしい。異性の教員には踏み込めない領域というものがある。同性同士だからこその働きに期待したい。彼女も本名呼びしているあたり、良好な関係を築けているようだ。
1月13日。
年明けのトレーニングを再開することにした。とはいえ、病み上がりに近い状態なうえ、後期期末試験までは2週間しかなく、勉学にも配慮する必要がある。自主練は期末試験終了まで禁止として、正規トレーニングのみを実施することにした。
トレーナー室に呼び出して2週間ぶりに見る教え子の顔は、さほど変わりないように見える。しかしその表情の裏には、死別した妹に対する想いが満ちているはず。丁重に扱う必要があるが、かといって察されるのも良くない。慎重に対応しなければならない。
「体調はもう大丈夫か?」
何事も無かったように問う。
「・・・ええ。土日、軽い自主練はした。後でデータは渡すから」
――また指示に違反してる。
こちらの怪訝な顔を読み取ったのだろう。彼女もまた不満そうな表情を浮かべながら、
「・・・休養もちゃんととったから」
と言ってきた。本当なら良いのだけど。軽いジョギングや水泳程度であって欲しい。
と、そこに突然ドアが開いて、見覚えがある生徒が顔を覗かせた。カレンチャンだ。
「あ、いたいた!アヤベさんと高村トレーナー!ちょっといいですか?」
随分と
「うん、何の話?」
カレンチャンは、いつのもような明るい声で話を続けた。
「実はアヤベさんの髪についてなんです」
髪。特に気にしたことはなかったけど、何かあるんだろうか。
「聞いてくださいよ、高村トレーナー。アヤベさんったら昨日、髪が伸びてきたからって自分で購買にハサミ買いに行って切るって言いだしたんですよ!信じられます?いつも自分で適当に切ってたんですよ!こ~んなに綺麗な髪なのに!」
そういいながら、彼女は教え子の肩に手を置き、こちらに迫って来る。思わず椅子を後ろにずらした。
「・・・ほっといて」
教え子は、眉を吊り上げながらカレンチャンに抵抗する。
女子高生が髪を自分で切る、というのはあまり聞く話ではない。最もお洒落に気を遣うだろう年代で、そんなことがあるのか?
そこまで考えて、ふと契約直後に
『サバイバーズギルト患者は、自己肯定感の低下を伴う。』
確かそう書いてあったはず。自分で適当に髪を切るのも、その表れかもしれない。
カレンチャンは、話を続ける。
「だめですよ~アヤベさん。今日ゴールドシチーさんがヘアサロン開くんです。予定が合うときの不定期オープンで大人気なんですよ~。行きましょ!高村トレーナー、アヤベさんお借りしていいですか?」
髪を綺麗にカット・ケアする、というのは自己肯定感の向上に役に立つはず。この状況では、トレーニングよりも優先されるべきだ。
「ああ、良いよ。行ってこい」
快諾の意志を伝えるが、アドマイヤベガ本人はまだ抵抗する。
「レースに関係ない話なら、行きたくない」
彼女らしいと言えば彼女らしい反抗だ。仕方ない、適当なことを言ってでも向かわせよう。
「綺麗にヘアカットとケアしてもらったほうが、髪をまとめやすい。練習の準備や後始末の時間も減る。レース中は自然に髪がなびいた方が空気抵抗も減る。それに、本番レース直後や記者会見は写真も撮られる。後の世まで残る写真にはまともに映った方が絶対に良い。行ってこい、
その瞬間、彼女の顔に微かに驚きのような表情が走った。ようやくヘアケアの意義を理解してくれたらしい。
「ほらほら、高村トレーナーもこう言ってますよ。ゴールドシチーさんのサロンに通ってるのも実力者ばかりです。行きましょ!アヤベさんご
教え子は、強引にカレンチャンに手を引っ張られてトレーナー室の外へと走り出していった。
「あやべ」
そう呼ばれた瞬間、少し驚いた。去年まではずっと正式なターフネーム「アドマイヤベガ」で呼ばれていたから。だから、周囲が私を呼ぶ愛称「アヤベ」をなぜ急に使い出したんだろうと思った。でも、すぐに理解した。これは、愛称じゃなくて本名「綾部」のほうだ。公私分離を徹底する高村トレーナーが、友人からの愛称を使うとは思えない。校内は彼にとっては『公』なんだろうけど、私たちにとっては『公と私の狭間』みたいな場所だ。それに、正月にお母さんが言ってた。高村トレーナーから家庭訪問や電話での相談を何度かされている。誠実なトレーナーだって。なら、私のことは個人ではなく、「綾部家の娘」と認識しているかもしれない。だから、ターフネームじゃなくて本名で呼んだのも、なんとなく分かる。
――それでも、少し、調子が狂う。
入学以来、周囲からは本名で呼ばれることは少ない。それに、愛称が苗字と同音なせいか、彼からも愛称で呼ばれたように感じてしまった。意識しないと、変な空気になるかもしれない。彼が公私を徹底する以上、こちらもそれに応えないと。