その週の職員会議は期末試験問題作成が予定より遅延しているため、中止となった。問題作成業務のある3年目以降の
体育科主任からは『過呼吸の件承知しました。担当生徒の健康管理・メンタル管理に万全を期し、事故のないよう指導にあたってください。』とだけ
1週間の年末年始休みに、1週間の練習中止期間を合わせた2週間の空白期間があることもかんがみ、練習量は抑え目、内容もやや緩めのものとした。タイムは概ね復帰傾向にあるが、油断はできない。翌週からは期末試験前ということもあり、練習は無しにして期末試験勉強に専念させた。
1月最終週、1週間に渡る期末試験が始まった。といっても教員側はこの期間は試験監督業務しかやることが無い。試験時間と注意事項を伝達し、試験問題と解答用紙を配布し、試験開始を宣言し、時間が来たら回答を止めさせ、解答用紙を回収して封筒に収め、それを教員室の鍵付きロッカーに保管する。その繰り返し。試験時間中は座ることも出来ず、カンニングを見張るだけだから暇で仕方がない。しかも、だんだんと
――俺の高校の先生たちもこんな気分だったのかな。
関東特有の、真っ青に晴れた冬空を窓越しに眺めながら試験時間の終わりを待つ。たまに流れてくる雲が少しだけ羨ましい。空を見るのに飽きたらカンニング監視を再開する。それにも飽きたら、加湿と空調を兼ねた暖房の炎を教室の後ろで見つめる。たった50分が数時間にも感じた。
現国の試験では、
試験期間中は競技指導もないから、解答用紙の回収と保管が終われば退勤可能だ。もちろん、何かやりたいことがあれば残って仕事もできる。教員としてはこの上なく楽な期間だ。せっかくなので、図書館で臨床心理学の本でも読もうかと思ったけど、中等部・高等部の図書館も、
試験期間が明け、
一方、教員は前週とは打って変わって地獄のような忙しさと化す。中等部入試があるため、中等部入試監督、入学試験採点、期末試験採点を分担して行う。割り当てられたのは、期末試験採点業務。〇と×をつけて採点していく単調作業。それだけではなく、教員による判断基準のブレを防ぐために、他教員の採点内容を確認する作業まである。相変わらず、誤答が面白いのが腹立たしい。
『問4. 血中に取り入れることが出来る酸素量を指す言葉を、アルファベットでなんと言うか』
『解答. VMax』
――バイクだろ!
『問7. 競バでは、一般的な競走のようなスターティングブロックを用いたクラウチングスタートではなく、ゲートを用いたスタンディングスタートを行う。理由を説明せよ』
『解答. ブロックが壊れるから』
――本当に壊せるやつが居そうで笑えねえ。
『問10.足を踵から接地させる走法をなんと呼ぶか』
『解答. テールストライク走法』
――お前は尻尾で走るのか?
点数は63点。赤点ではないが珍解答が多かった。氏名記入欄が隠されているから誰だか分からないけど、
全生徒の採点結果が確定すると、教員向けに担当生徒の成績が開示される。アドマイヤベガの体育教養の試験成績は86点。優秀だが、やはり事前に用意しておいたAという評価を覆すには至らなかった。事前作成しておいた担当教員コメントを、成績管理システムに入れた。学務職員による確認を経てから、2月最終週には生徒向けポータルサイトを通じて本人に通知される。教え子は前期も優秀な成績だった。問題ないだろう。ようやく、本来の業務である競走競技指導へ戻れる。過去のレースのデータ整理と、後回しにしていた目標体力値決定を進めることにした。
採点期間中、採点業務が夜まで続いた日のこと。帰宅途中の校内で、アドマイヤベガを見かけた。私服姿で、防寒着を着用し、背中には小さなリュックを背負っていた。こちらに気付くことも無く校舎へと入っていった教え子の表情は、去年の選抜レース直前の時のものによく似ていた。空を見上げると、星が煌めき、月は見えない。新月だ。
――天体観測かな。
年明けにカレンチャンが言っていた『新月期の天体観測』なのかもしれない。天体望遠鏡やカメラを持っている様子はなかったから、肉眼か、せいぜい双眼鏡での観測だろう。だとすると、特定の天体、例えば惑星や星団ではなく、より広い範囲の観測――天の川や星座――の観測を志向しているのかもしれない。ふと、そこまで考えて、何かが引っ掛かった。彼女のターフネームに含まれる『ベガ』を有し、彼女の妹との死別を暗示しているかもしれない星座『こと座』は、冬の今は見れるのか。私用スマートフォンを取り出し、検索をしてみた。
『こと座は、2月は明け方に見えます』
思っていたより遅い時間だ。あいつ、今夜は徹夜する気か。こんな真冬に。せめてシュラフを使って欲しい、とそこまで思考が進んでから考え直した。教え子も、自分も、今はプライベートだ。積極的に接触するべきではない。そもそも、カレンチャンに『邪魔はしたくない。』と伝えている手前、協力者の信頼を損ねるリスクも取りたくない。アドマイヤベガも高校生なら、自分で考えて行動できる年齢のはず。それに、夏の大三角を観測するとも限らない。冬の星座――ふたご座とか――を見る可能性もある。止まっていた足を動かし、寮への歩を進めた。もし風邪をひいても、1週間あれば治るだろう。
過去のクラシック三冠レースの結果をまとめた。過去10年間の平均優勝タイムは、皐月賞(2000m)が121.6秒、日本優駿(2400m)が146.4秒、菊花賞(3000m)が185.8秒。平均速度は時速59km前後だから、エリカ賞とホープフルステークスより時速1km早く走る必要が出てくる。そして、アドマイヤベガの脚質を考えると、前半での体力温存と後半での追込みが基本戦略となる。特に
練習方針は、まず序盤で他選手に先行を許す精神的余裕の強化を行うこと。次に、体力温存のために序盤は足裏全体を使って走行するミッドフット走法に慣れさせること。そして、温存する基礎体力を向上させること。最後に、追込みのための最高速度を高めることだ。これを、メンタルケアと同時進行。契約当初は思ってもなかった難題だ。ただ、ある程度信頼関係は構築できているはず。本格的な指導に踏み込んでもよさそうだと判断し、トレーニング計画を作成した。
続いて、低酸素トレーニングルームの予約状況を確認した。予約は2月中旬までは埋まっているが、それ以降はまだ空きがある。さすがにトレセンだけあり、大規模な低酸素トレーニングルームを複数用意している。慣らしを兼ねて、2月後半から3月中旬にかけて週1~2回、3月下旬の2週間は毎日予約を入れておいた。後で本人に練習方針を伝え、都合が悪い日程だけ予約を消せば良い。
と、そこでアドマイヤベガから
『今ターフにいます。練習を始めたいから来てくれる?
試験休み中の自主練メニューは以下の通りです。
・プールトレーニング1日5km(月~金)
・ジムでの筋トレ 1日1.5時間(月~金)
・高尾山トレイルラン15km×3回(月・水・金)
・800mインターバル×20本×3回(火・木・土)』
まず、量が過剰な気がする。彼女の体重管理は保健室に委任してるから正確な値は知らないけど、筋肉質な身長157cmのウマ娘なら、恐らく56kg程度。その場合、月曜から土曜日までは1日2000kcal以上を消費している。昨年ほどではないが、普段の練習量としては多い。しかも、ほぼ毎日有酸素運動・無酸素運動のフルメニューだ。試験明けということを考えると序盤から飛ばし過ぎだし、筋力向上も体力向上も中途半端に終わる可能性が高い。日曜日に休んでいるのがせめてもの救いと言える。カレンチャンが制止してくれたのかもしれない。
やはり、監視の目が緩むと過剰な自主練に走る傾向は変わっていないらしい。年末年始のことを考えると、今後深刻化する可能性もある。直接口頭で伝えた方が良いと考え、椅子から立ち上がり、ターフに向かうことにした。先週分の食事内容の確認は後回しにする。
「先週分の練習内容の連絡ありがとう。内容は悪くないけど少々過剰だ。一日平均2000kcalを超えている。試験明けだから1日平均1000~1500kcal程度から始めたい。そして3月中旬に3500kcal前後になるよう徐々に負荷を上げて、そこからレースに向けて徐々に負荷を減らすのが理想だ。今日は軽めのトレーニングから始める」
体操服姿でこちらを待っていた教え子は、表情を変えないまま頷いた。
「分かった」
――本当に分かってるのか?
その言葉は、口にはしなかった。信頼関係を損ねるし、精神状況を考えると言葉を選ぶ必要がある。
「じゃあ、今日はウォーミングアップとしてターフ1週を時速20km、6分程度で走ったあと、800mインターバル8本、最後に学園指定5kmコースを2周ジョギングだ。ジョギングも時速20km以下に抑えて、30分以上かけた有酸素運動を意識してほしい」
事前作成しておいたトレーニング計画表に則った内容を伝えた。消費カロリーは1100kcalほど。スマートウォッチを渡すと、素直に着用した。
「じゃあ、始める」
教え子は練習開始を宣言し、ストレッチに続いて黙々とウォームアップ、インターバルをこなすと、校外のジョギングコースに走り出していった。
アドマイヤベガが校外ジョギングから帰ってきたことを
「
「ありがとう。そろそろ蹄鉄がすり減ってきたから、次のもらえる?」
前回の蹄鉄を渡してから、1か月。標準的な交換時期より長く保ったほうだけど、途中で期末試験があり、前後で練習を抑えめにしたことや、アドマイヤベガの自主練が持久走・インターバル以外にも及んでいることを考えると妥当なところだ。安心はできない。
トレーナー室に急いで戻り、新品の蹄鉄を取りに行くことにした。その前に、別の要件もついでに伝えた。
「今後スマートウォッチも
『三冠レースに向けて練習量を正確に把握したい』というのは半分嘘だ。過剰な自主練の把握と抑制が主な目的だけど、これは本人には伝えない。
教え子はこちらの目を見て頷いた
「分かった。このあと自主練しても?」
案の定の質問が来た。
「今日の練習で既に1200kcalほど消費しているから、自主練は無しだ。今後少しずつ負荷を増やすから、自主練はそこでやれ。クラシック三冠レースは11月の菊花賞が最後だ。今の時期からそんなに練習してると、菊花賞までに脚を壊しかねないぞ」
教え子は何も言わずに頷いた。納得してくれたかは、分からない。
用語解説
女子アスリート三主徴
Female Athlete Triadの頭文字をとり"FAT"とも呼ばれる、女子アスリートが陥りがちな3つの健康管理上の問題点。以下の3症状が挙げられ、それぞれが相互に影響を与える。※実在の用語です
・利用できるエネルギーの不足
・視床下部性無月経
・骨粗鬆症
ウマアスリート三主徴
Horse Athlete Triadの頭文字をとり"HAT"とも呼ばれる、ウマ娘アスリートが陥りがちな3つの健康管理上の問題点。以下の3症状が挙げられ、やはりそれぞれが相互に影響するうえ、FATとも相互に影響する。
・骨粗鬆症を伴わない疲労骨折
・靭帯炎
・腱炎