火曜日は筋トレとビルドアップ走を実施させた。ジムで過去のトレーニングメニューを確認すると中重量長時間となっていたけど、中距離選手なら高重量短時間にするべきだから、メニューは変更させた。
水曜日はテンポ走と水泳で、走行のエネルギー効率向上と基礎体力の向上を図らせる。
木曜日はオフとして休養に充てさせた。軽いジョギングのみ許可し、それ以上の運動は厳禁。一方、自分はこの日には高等部入試の試験監督業務があった。
そして週末、金曜日。この日は併走練習となる。併走練習相手は数回ごとに変更するが、まず最初の数回はカレンチャンにした。相手チームの情報保持に気を使って聞いてこなかったけど、本人がスプリンターであることを伝えてきたのだ。中長距離のアドマイヤベガとは適性が被らないから問題ないと判断したのかもしれない。それならば、1000m程度の併走練習をすることで、カレンチャンにとっては勝利経験を積んで自信をつけてもらうことも可能だし、アドマイヤベガにとっては序盤でライバルに先行を許す精神力を強化できる。最後の1回だけ
「・・・杉崎さんがカレンチャンのトレーナーだったんですね」
杉崎先輩は呆れたような顔で口を開いた。
「知らずに俺の教え子をいろいろ利用してたのか」
『利用』だなんて人聞きが悪い。苦笑いしながら反論する。
「先輩こそ人が悪い。教えてくれる機会たくさんあったじゃないですか」
先輩とは昼食を何度か一緒に食べたし、忘年会にも顔を出していた。指導以外の業務で顔を合わせることも多かった。だが、彼は意外そうな顔をした。
「6月に担当生徒の選び方尋ねてきただろ。あの時に『なんで中等部の生徒と契約したんですか』って言ってたじゃねえか。知ってたんじゃないの」
記憶を掘り起こす。確かにそんなことを言った気がする。そういえば、カレンチャンと初めて対面した時も既視感があったはず。すっかり忘れていた。
「あ~・・・そういやそうでしたね。すんません」
教え子二人は、こちらの会話を興味深そうに耳を傾けていた。
「お二人、仲いいんですか?」
カレンチャンが訊ねてくる。杉崎先輩が先に口を開いた。
「大学が一緒なんだよ。学部は違ったけど、サークルが一緒で」
カレンチャンの大きな目が、さらに丸くなった。
アドマイヤベガには、今日の併走練習の意図を先に伝えることにした。
「この併走は勝ちが目的じゃない。あくまで、序盤で他選手に先行を許すためのメンタルトレーニングだ。だから10バ身程度までなら引き離されても気にする必要はない。いいか?」
教え子は、いつものように頷いた。
「分かった」
そして、表情を変えないままスタート地点へと歩いて行く。
杉崎先輩の方を見ると、彼も教え子に今日の併走練習の意図を伝え終わったようだ。
「じゃあ、よろしくお願いします」
杉崎先輩に改めて挨拶した。そこに、スタート地点へ移動しかけたカレンチャンが声を掛けてきた。
「おに・・・トレーナー!頑張るね!」
――おに?
「先輩、鬼トレーナーって・・・普段どんな指導してるんですか」
杉崎先輩の表情は、どこかうろたえているようにも見えた。
「・・・いやーなんでだろうな?」
他のトレーナーの指導体制にケチをつける権限はないし、二人を見る限り極端に仲が悪いわけでもないから、それ以上突っ込むのもやめておいた。先ほどの様子は、杉崎先輩をカレンチャンがからかっただけにも見える。もし杉崎先輩が本当に鬼トレーナーなら、そのうちカレンチャン側からSOSサインが出るだろう。
ターフに目を戻すと、二人は既にスタート地点に移動し終わり、こちらの合図を待っている状態だった。杉崎先輩を促し、
杉崎先輩が上の方でカメラを構え、準備完了の合図をしてきたのを確認してから教え子たちに振り返る。
「
既に何度もやった発走合図だ。ほぼ同時に走り出す二人の足音が強く響く。
想定通り、カレンチャンが即座に先頭に立つ。アドマイヤベガはだんだんと引き離され、最初の100mで2バ身ほどの差が付いた。そのまま第一コーナーに入り、両者はきっちりインを走る。第二コーナーに入る頃には3バ身差となった。備品として購入したばかりの双眼鏡で確認すると、アドマイヤベガがカレンチャンを睨みつけ、歯を食いしばっているのが見える。序盤で先行を許すことに、まだ抵抗が無いわけではないらしい。エリカ賞でも、ホープフルステークスでも、彼女は走り出しが一瞬だけ遅れていたことを思い出す。意図的に先行を許したというよりは、緊張で走り出しが遅れて序盤は後方を走ることになり、それが結果として戦略と一致しただけなのかもしれない。
第二コーナーを抜け、
――こんなものだろう。
トレーナーとしては想定通りだ。最大で10バ身は離されることを想定していたから、6バ身ならむしろ想定よりアドマイヤベガが速く走ったという事だ。
教え子たちは、クールダウンを兼ねた
「悔しいか?」
アドマイヤベガは、目も合わせず、何も言わない。言葉を続けた。
「エリカ賞、ホープフルステークスで続けて優勝して自信がついて、クラシック三冠に向けてモチベーションが高まっているところで負けたのは確かに悔しいだろうけど、適性が違う選手の得意距離で負けたという事実は、君自身の強みを否定する材料だと思うか?」
アドマイヤベガは、目を伏せたまま顔を振った。理解はしてくれたらしい。
「最初にも伝えた通り、これは勝つための併走ではなく、先行を許す精神的余裕を持つための併走だ。スプリンターのカレンチャンが1000mで君に勝つのは当然だし、そこは重要じゃない。・・・あと、ちょっと確認したいこともあるから、しばらく休憩していてくれ」
伝えたいことは伝えた。ターフへと降り立ち、向かうのはスタート地点。アドマイヤベガのスタート地点は、内側だった。
「あった」
目当ては足跡だ。アドマイヤベガのものを追跡していく。
スタート直後は、蹄鉄の跡、すなわち蹄跡だけが残っている。初期加速のためだから当然だ。そのまま足跡から目を外さずに200m先の第一コーナーを目指した。
――あいつらはあっという間に走るのに、俺らには遠いな。
当たり前のことを考えながら走り、第一コーナー直前で一度足を止めた。このあたりでは、既に初期加速が終了して巡航状態、つまり
目的は達した。そろそろ併走のためにターフを開けてくれていた他チームが練習を再開するから、急いで足跡の写真を撮り、大外のラチ沿いを逆走する形で
カレンチャンは杉崎先輩と共にターフで練習を再開していた。座席に所在無さげに座っていた
「君は常にフォアフット走法で走っている。だけど、クラシック三冠は2000m、2400m、3000mと距離がどんどん伸びる。常にフォアフットで走ると体力を温存できない。最初の加速と、最後の追い込み以外は、爪先とヒールを同時に接地させるミドルフット走法を今後は意識してほしい」
アドマイヤベガは少し不服そうな顔をした。
「でも、去年はフォアフットで走れって・・・」
そう指導したのは事実だから、反論自体はもっともだ。
「確かにそう教えたけど、あれは君がヒールストライクで走りがちだったから、高速走行に有利なフォアフットを先に身に着けてもらいたかったんだ。エリカ賞もホープフルステークスもジュニア級だからそれで勝てた。距離も2000mで、体力消耗も激しくはない」
彼女の反応を確認すると、不服そうな様子は消えていた。
「でも、今後は他の選手のレベルも上がる。同じ2000mでも数秒は早く走らないと勝てなくなる。距離が長い東京優駿と菊花賞は体力温存も重要だ。ただ全力で走ればいいってものじゃなくなる。だから、今後はエネルギー効率がいいミドルフット走法も身に着けていこう」
教え子は一瞬の間の後に頷いた。内心は分からないけど、去年までと比べてやけに素直だ。サバイバーズギルトに起因する自己肯定感の低下が、さらに進行しているのではないか――そんな不安が、ただの杞憂であることを願う。
併走の後は、速度持久力向上を目的にペースランニング5kmをさせて終わらせた。併走で体力を消耗していることもあり、最初は1kmあたり100秒程度。これを、皐月賞直前には75秒程度にしたい。
練習終了後、アドマイヤベガに土日の自主練予定を尋ねた。
「・・・土曜日は高尾山でトレイルランしてこようと思う。後はジョギングか、持久走を」
やはり、自主練は過剰気味だ。URAのコーチングハンドブックの内容を思い出しながら指示する。
「専門準備期の今にそれは多いな。土曜日はトレイルランだけで十分だ。それ以上は却って筋力の低下を招く。日曜日は休養に充てたい。軽いジョギング程度をするアクティブレストでもいいけど、本格的な練習はしてほしくない」
教え子は、またしても素直に頷いた。
「・・・分かった。スマートウォッチも付けておく」
素直なのは指導者としてありがたいことだけど、去年までと反応が違うのがやはり気になる。信頼関係が深まってきたと解釈するべきか、年明けの過呼吸事件――サバイバーズギルトの表面化――が影響しているとみるべきか。いずれにせよ、注意深く観察する必要がありそうだ。