府中より1~2℃低い高尾山の空気が、トレイルランで火照った頬を刺す。葉のない木々の枝の向こうには、2月の淡い青色の空が見え始めた。見慣れた風景だけど、枝の先端には小さな蕾のようなものが付いている。気温は低いけど、春は近い。微かな春の匂いがする。足元も、少しだけ柔らかさを増しているように思う。
高村トレーナーは、最近なんだか妙に優しい気がする。指導の時の口調が去年までより少し柔らかくて、指導内容も私の体調に気を使ってなのか、レース本番に向けて少しずつ低負荷から高負荷になるようにメニューを組んでくれている。
2月下旬からは低酸素室でのトレーニングもあるけど、3月初めの1回は新月の日だから予定を外させてもらった。天体観測を忘れてしまうなんて過ちは、二度と犯せない。正月の二の舞を演じるようなことが、あってはならない。
――それにしても、こんな軽い負荷で、本当にクラシック三冠に勝てるのかな。
高村トレーナーはしばしば私の自主練を止めようとする。他の選手より少しでも速く走るためなら、もっとたくさんの練習が必要なのでは。
あの人の言い分は分かる。適切な休養は大事だ。でも、それは他の選手たちも同じはず。それなら、起きている時間はできるだけ練習に使いたいけど、たくさん練習をすればカレンチャンや高村トレーナーが怒る。高村トレーナーとの契約を失えば、レースに出れなくなって、贖罪の場を失う。それだけは避けたい。
トレイルランコースの坂が急になる。鼓動が早まり、肺が痛くなる。でも、この感覚は嫌いじゃない。アスリートの練習というのは、こうでなきゃいけないと思う。それに、楽なトレーニングなんて、私がするべきじゃない。そんなトレーニングは、私には許されない。
標高が上がるにつれて、少しずつ視界が暗くなってきた。酸欠気味かもしれない。右腕に着けたスマートウォッチが、少しだけ重みを増した気がする。去年私が高村トレーナーを助けた時のように、今度は私が救助される側になるかもしれない。少し先にあるベンチで、5分だけ休憩しよう。
トレイルランコース途中の広場にたどり着き、設置されているベンチに腰を掛けた。ここは少しだけ視界が開けていて、谷間が見える。谷間には低い雲が垂れ込めていて、沢の方は見えない。休憩している間、何人かのトレイルランナーたちが通り過ぎて行った。皆、私に挨拶をして通り過ぎていく。ウマ娘でもないランナーが休憩せずに山を登っていくのに、クラシック三冠路線の私が休憩していていいのかな。妹が見たら、何を思うだろう。時計を見ると、4分31秒が過ぎていた。四捨五入したら5分だ。ベンチから立ち上がり、走り出す。
いつものように軽いアップダウンや平らな道、開けた道を通り過ぎ、小仏城山頂上手前の分岐に行きついた。いつもは左から上って右から下りるけど、今日は右から上ることにした。たまにはいつもと違うことをするのも、悪くはない。ラストスパート。
城山頂上の茶屋にたどり着いた。広場に並んだたくさんのベンチは6割くらいが埋まっていて、その中には学園で目にしたことがある他の
茶屋でホットココアを注文してから、人混みを離れて端っこのベンチに座る。開けた視界には、街に蓋をするように雲海が広がり、彼方には冠雪した富士山が鎮座している。
――この後、どうしよう。
いつもなら、来たルートを引き返して高尾山口駅から学園に戻る。でも、三冠レースが近付いている今、もう少し運動強度を高めても良いかもしれない。例えば、高尾山頂上を経由して帰るとか・・・。
しばらく悩んだ末、いつも通り同じルートを戻って下山することにした。週末の高尾山頂上は混んでいるから避けたい。それに、下手に自己判断をすれば、高村トレーナーからの心証を損ねる。高尾山頂上経由は、運動強度を上げる時期になってから提案してみよう。
スピードが出過ぎないように気を付けながら、山を下った。こういう時、踵にも蹄鉄が欲しいなと思ってしまう。多分レースではルール違反だ。
高尾山口駅で、高村トレーナーから渡されたスマートウォッチを見た。トレイルランでの消費カロリーは1380kcal程度。高村トレーナーが言ってた、今の時期に必要な1000~1500kcalの範囲に収まっている。確かに、これにジョギングや持久走を加えると、彼に言わせれば『過剰な自主練』ということになるんだろう。自分の感覚では足りない気もするけど、指導者には従おう。彼の指導は適切なはず。
空いている西王線車内で、窓の外をじっと眺める。山の上から雲海が見えたということは、地上からでは曇り空だ。冬には珍しい天気だけど、新月の日じゃなくて良かった。なんとなく空を見上げているうちに、車窓に建物が増え始めた。ここは八王子。一度建物が減って、また増え始めると府中だ。聞き慣れた喧騒に包まれるようにして、学生寮へと歩みを進めた。
低酸素トレーニングは、基本的に朝から晩まで低酸素室で過ごすことになる。トレーナーもそれに付き合って一日中在室する必要はないけど、運動する際には近くにいる必要がある。特にランニングマシンでの練習時には、フォアフット・ミドルフット・ヒールストライクや、ストライド走法・ピッチ走法の確認と指導が必要となる。それ以外の休憩時間、昼休みなどは外に出て、執務ブースで練習データ整理や指導メニュー作成、日報作成などを行った。
休憩中に
三冠レース本番が近づくにつれ、徐々に自主練を解禁して運動量を増やさせていった。目安は一週間で400kcalずつの増加。走行速度や時間、筋トレ重量の増加で対応する。教え子は、やはり昨年までとは異なり素直に、そして順調にトレーニングをこなしていく。少々不気味なくらいに。
3月4日。新月。アドマイヤベガは、この日は低酸素トレーニングではなく通常の練習への予定変更を希望していたことを思い出す。
「・・・今夜は天体観測?」
トレーニング後、遠慮がちに声を掛けた。彼女にとっては、恐らく大事な習慣のはず。
「・・・なんで知ってるの」
不審そうな声が返って来る。直接聞いたわけではないから、当然かもしれない。
「先月、校舎の屋上で星を見ているのが見えたんだ」
実際には校舎に入るのを見ただけだ。でも、説得力が薄いと考えて少しだけうそをついた。
「・・・そうだけど、何。練習には支障ないようにするから」
少しだけ言葉にトゲが入っているようにも感じた。夜更かしを咎められると思ったんだろう。
「いや、咎めようとしているわけじゃない。星を見るなら、双眼鏡や赤道儀を貸そうかと思っただけだ」
備品として購入した観戦用双眼鏡は、予算が許す範囲の高級機にしたから、天体観測にも使える。赤道儀は私物だけど、大学のサークル合宿や卒業旅行で使用して以来、使う機会がない。スマートフォンアタッチメントまで買ったのに、今では実家で埃を被っているだけだった。だから、先週末実家から寮に持ってきた。
アドマイヤベガは、意外そうな顔をしていた。
「・・・そう。なら、借りておく・・・。トレーナー室に返せばいい?」
「ああ、そうしてくれ。早朝は出勤前だから、一旦寮の自室で保管しても良い」
提案を受け入れてくれて、ほっとした。この提案は、彼女のサバイバーズギルト克服の上で重要な意味を持つ。天体望遠鏡も使用しないなら、観測対象は星座か天の川の可能性が高い。そして、ふたご座や夏の大三角など、彼女の過去を象徴するような星座を、死別した妹に重ね合わせて死を悼んでいる可能性もある。『死を悼む期間が長引くほど、心的外傷は深刻化する』と、臨床心理学の本にはあった。考えすぎかもしれないけど、可能性は想定したい。その場合に備えて、天体観測の目的をすり替えようと考えたのだ。天体観測の目的がこちらの思い過ごしであったとしても、観測手段が増え、観測記録を残す手段があるのは悪いことではない。だから、言葉を付け加えた。
「天体写真を撮って、観測記録を付けてみたらどうだ?恒星と惑星の動きの違いも分かるし、流れ星や天の川も映ることがあるから、面白いぞ」
アドマイヤベガは、戸惑ったような、微笑んだような、複雑な表情を浮かべた。
3月7日。皐月賞の前哨戦となる弥生賞は、アドマイヤベガが優勝した。序盤は後方に控え、最後の直線で外から追い込むいつもの戦法。走り出しが遅れず、序盤は下位集団に控えていたあたり、並走によるメンタルトレーニングが効いたのかもしれない。2位となるナリタトップロードをゴール直前で抜き、ハナ差での1位。タイムは両者ともに2分3秒5。3位までの選手は皐月賞に優先出場できるから、クラシック三冠は友人でもあるナリタトップロードがライバルとなることが確定した。
一般的な高校スポーツでは、同校対決は珍しい。だが、競バではそれが日常だ。仲の良い友人の夢を踏みつぶさなければならない場面も出てくるはず。今後、友人の少なそうなアドマイヤベガと、ナリタトップロードとの友情に致命的なヒビが入ってほしくはない。アドマイヤベガの専任トレーナーとして、そしてトレセンの教員として、今後厳しい場面に立ち会うことになるかもしれない。写真判定の結果を示す確定板を、落ちついた表情で眺めるアドマイヤベガと、観客席に向かってお辞儀をするナリタトップロードの二人を見て、唇を真一文字に引き締めた。
記者会見では、久しぶりに正式なターフネーム『アドマイヤベガ』で彼女のことを呼んだ。
「"日刊アスリート"です。アドマイヤベガ選手、本日は弥生賞優勝おめでとうございます。今のお二人のお気持ちをお聞かせ願えますか」
スポーツ新聞からの、王道ともいえる質問だ。
「皐月賞への出場権を獲得でき、安堵しています」
アドマイヤベガは、淡々と答えた。3度目の記者会見にしては落ち着いている。
「よくやってくれたと思います。一等星ベガの名を冠するアスリートとして、ふさわしい走りだったと感じています」
過度に修飾的な文章にならないよう、彼女の
「"月刊トゥインクル"乙名史です。弥生賞優勝おめでとうございます。トレーナーから見て、今回の怒涛の追い上げの末の優勝の鍵は、一体何だったのでしょうか?」
相変わらず、乙名史氏が質問を勢いよく投げかけてくる。月1程度の頻度で学園に現れては取材をしてくるこの女の扱いには、未だに慣れなない。
「アドマイヤベガが、やるべき練習をこなし、身に付けるべき能力を身に付けることができた。それに尽きると思います」
当たり障りのない回答だが、これで良い。月刊トゥインクルのアドマイヤベガ特集の記事が出るまでは、警戒心を解くべきではない。アドマイヤベガにも、自分にも、様々なメディアから質問が飛んでくる。下手なことは言えないし、口を滑らせて彼女の本名を漏らしてしまう訳にもいかない。数か月ぶりの記者会見に、トレーナーの方が緊張してしまった気がする。
代休明けの3月9日。
『高村トレーナー、夜に失礼します。今日のアヤベさんは少し様子が変でした。レース後に地下道で話したのですが、前までと違って、何か、こう、鬼気迫る感じというか。周りが見えていない感じというか。アヤベさんのこと、注意して見てあげたほうがいいかもです。差し出がましかったらごめんなさい!』
心配していた矢先にこれだ。記者会見でも、ウイニングライブでも、特に変わった様子は無かったのに、目の届かない範囲で何かトラブルがあったらしい。
『報告ありがとう。代休を取っていて連絡が遅れた。うちの担当が何か迷惑を掛けてしまったようで申し訳ない。あいつ、どんなことを君に言っていた?』
返事はすぐに来た。
『いえ、私は気にしていないので大丈夫です。ちょっと心配になっただけなので、アヤベさんの発言内容は気にしないでください!』
・・・どこまでも模範的な生徒だ。人格者と言って良い。自分が負けた相手の心配を、その日のうちにする精神的余裕があるとは。高校生と言えど、学級委員長だけある。アドマイヤベガよりもナリタトップロードの方が指導しやすかっただろう。
――何を考えているんだ俺は。
頭を振り、余計な考えを打ち消す。指導契約を結んだ相手に対して、無責任なことを考えてしまった。アドマイヤベガと契約を結んだ以上、アドマイヤベガの指導に全力を尽くすのが責務だ。
『分かった。担当トレーナーとしてちゃんと見ておく。あいつの無礼については重ね重ね申し訳ない。今後も、彼女の友人であって欲しい。今後何か変わったことがあったら連絡をくれると助かる』
返事はまたしても即座に届いた。
『はい!私もアヤベさんのこと大事ですから、大丈夫ですよ!』
ため息をついた。ナリタトップロード然り、カレンチャン然り、アドマイヤベガの友人達には助けられてばかりだ。
カレンチャンは、2月7日の萌黄賞で優勝していた。アドマイヤベガの弥生賞優勝というタイミングに合わせて、実家近くのケーキ屋で買った季節限定ガトーショコラを二人に贈呈した。カレンチャンには『貸し一つ』へのお返しという意味もある。もちろん、彼女のトレーナーの杉崎先輩には事情を説明して了承を得てある。
萌黄賞から1ヶ月遅れとはいえ、女子中学生には強力なプレゼントになるはず。今後もアドマイヤベガのことで協力してもらうため、必要な投資でもある。たった1000円のケーキ一つで協力を継続してもらえるならむしろ安い。カレンチャンからは、
――ナリタトップロードにも、そのうち何かお礼を渡さないといけなくなるかも知れないな。
アドマイヤベガの専任トレーナーとしては情けないばかりだけど、担当生徒の友人を巻き込んで支援体制を構築するのは悪い手ではないはず。クラシック三冠は、目前に迫っている。