星間境界 -アドマイヤベガの道標-   作:茶園真

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第三章第六節 "クラシック三冠"

 クラシック三冠の審査結果がURAから届いた。弥生賞で優勝した以上当然ではあるけど、審査結果は『出走可』だった。クラシック三冠レース専用出走IDは”13091F8”。今後半年以上に渡って使用することになるIDだから、業務用PCのメモ帳、業務用スマートフォンのメモ帳に記録し、さらにアドマイヤベガ本人にも業務用チャット(Members)で知らせて分散バックアップを図る。アドマイヤベガからは『分かった』とだけ返事が来ていた。

 

気になるのは、ナリタトップロードから連絡があった『鬼気迫る感じ』『周りが見えていない感じ』という態度だ。トレーナーには見せず、友人には見せる態度ということは、友人に甘えているだけとも解釈できる。具体的な内容も分からないまま説教する訳にもいかないけど、放置もできない。思いのほか、精神状態は良くないのかもしれない。スクールカウンセラーとの面談結果は、相変わらず『何らかの心的外傷、ストレスによる抑圧が見受けられるが、根本原因は不明』だ。自分が対処する他ない状況に変化はないらしいうえ、クラシック三冠を目前にしたプレッシャーもかかっているようだ。

対応を加速させる必要があると判断し、体育科主任に業務用チャット(Members)で連絡を入れた。

 

『お疲れ様です。明日は文献資料調査のため出張とします。行先は母校の中央図書館です。』

 

主任はすぐに了承してくれた。

 

 

 翌3月10日、水曜日。

 JR高田馬場駅からバスで15分。大隈記念講堂前のバス終点で降り、正門からキャンパス内に入り徒歩5分。キャンパスを一度抜けてグランド坂の横断歩道の先にあるのが、早稲田大学中央図書館。学園内の図書室では生徒たちに見られる可能性があるため、年明けから何度かこちらに足を運んでいる。出身学部のスポーツ科学部がある所沢キャンパスの図書館ではなく、本部キャンパスの中央図書館に来たのは、スポーツ科学ではなく心理学に関する資料を読むためだ。本部キャンパスにも教育やスポーツコーチングに関する資料はあるから、決して不適切な選択でもない。

 

OBカードを受付に提示し、入館ゲートを通り抜ける。広いオフィスビルのような内装に本棚が立ち並ぶ光景は、学生時代から見慣れている。春休みのこの時期、大学生たちの姿はまばらだ。いつもの通り心理学の本を何冊か本棚から取り出し、必要なページを複写室でコピーしてもらう。続いて、研究書庫受付へと足を向けた。卒業後は初めての利用となる。

 

研究書庫受付で、持ってきた荷物をロッカーに預け、OBカードを提示した。PCの持ち込み申請をした後、地下への階段を下り、知の地層を1歩ずつ潜っていく。乾燥した空気、張り詰めた静寂、古い本特有の、草の匂いとほんの少しのチョコレート香を混ぜたような匂い。分厚い防火扉に、厳重な消火設備、監視カメラ。膨大な知の蓄積を守るための地下基地のような雰囲気。ここに来る人間は、そう多くは無い。

 

地下2階まである研究書庫には、開学の明治時代以降の図書資料が収蔵されている。当然、太平洋戦争や、戦後の大震災、気象災害、事件・事故、病気で、近しい存在を失った人々の嘆きに関する論文や資料も。

サバイバーズギルトへの対処に関して、参考となりそうなものがあれば片っ端から読み、上限までコピーする。コピーできない範囲は、要点をPCのメモ帳にまとめた。何度も資料を読んでいるなかで、アドマイヤベガのような片割れが死産となった双子(バニシング・ツイン)に関する資料を何度か目にした。ただ、その全てが母親を対象としたものであり、双子の生き残りに焦点を当てた資料にはなかなか行き当らない。そこに、ウマ娘やアスリートという条件を加えると、もはや絶望的なほどに数は少ないはず。アドマイヤベガと同一の状況を見つけるのは困難だろう。母校に医学部が無いのも影響しているだろうか。

 

――競走部に入れていたら、そこからの伝手(ツテ)もあったのかもな。

 

駅伝に出ようと思って競走部の入部試験を受け、タイムが足りず落ちた思い出が蘇ってきてしまった。” if ”を考えても仕方がない。思考リソースは、この先自分がやれることに割くべきだ。

仮に同一の症例が無くとも、サバイバーズギルトへの対処法というのはそう大きく変わるものではない。いくつもの資料を読み漁る中で、アドマイヤベガにとっての『心理的安全基地』を構築することが重要らしいと分かってきた。ならば、競走競技指導教員(トレーナー)歌唱ダンス指導教員(インストラクター)、養護教諭、スクールカウンセラー、ルームメイト、クラスメイト、友人など、多数の人間で安全基地を構成していきたい。

本当はスタッフ研修科生徒も『安全基地』に加えたいけど、残念ながらアドマイヤベガの交流範囲には居ないらしい。そしてご家族を『安全基地』に加えるのは、やめておいた。全寮制だから普段は接点が少ないし、サバイバーズギルトの原因が死別した妹にあるとなると、家族は却って安全基地としては不向きの可能性があるからだ。

資料を読みながら、アドマイヤベガへの対処方針を考え続けた。

 

昼過ぎに入館したのに、気付くと夕方だった。地下は太陽光が差さないから、時間の経過にどうしても鈍感になる。そろそろ府中に帰らないと明日が辛い。図書館は逃げないし、続きはまた今度で良いだろう。コピーした内容の確認を受けた後、帰宅の途についた。

 

 

 3月12日、金曜日。この日、以前から度々練習を重ねてきた中等部・高等部卒業式があった。年次が2つ上の先輩個人トレーナーたちの多くが、初めて担当した生徒(ウマ娘)を送り出すことになり、中堅・ベテラントレーナーたちのチームからも多数の卒業生が門出の日を迎えた。

 

中等部卒業に漕ぎ着けたのは、入学者のうち96%ほど。しかし、卒業生の3割に当たる100名近くは、競技を諦めて一般高校へ外部進学していく。そして、高等部を卒業できたのは、中等部入学者の63%と、高等部入学者の77%。この場に居ない37%と23%は、志半ばで競技を引退して外部進学あるいは転学した者ということになる。僅かな中途編入生は、もはや計算に入れるだけ無駄なほど定着率が低い。

よほどのことが無ければ100%卒業できるスタッフ研修科とは、完全に別世界だ。

 

卒業を祝うめでたい日であると同時に、競技の世界の厳しさを思い知らされた日でもあった。無事卒業を迎えられて歓喜の涙を流す者だけではなく、一般高校への外部進学という現実を前に失意に沈む者、競技場(ターフ)を去る級友を見送る涙を流す者、競技成績が振るわないまま高校卒業を迎えて消化不良といった表情の者も目立つ。担当生徒(ウマ娘)を卒業の場に立たせられなかったことに涙を流すトレーナーも何人か見かけた。

2年後の自分が、果たしてどんな顔をしているのかは分からない。アドマイヤベガの精神状況如何では、最悪の結果になるかもしれない。満開の桜と、風に吹かれて散る桜吹雪が、却って目に痛かった。

 


 

 弥生賞に優勝した後、やっと実感できる程度に練習量が増えてきた気がする。土曜日の自主練では高尾山トレイルランに加えて持久走が許可されて、消費カロリーは3月中旬に2700kcal前後に達し、3月後半の2週間に渡る本格的な低酸素トレーニングでは3500kcalに達した。保健室の検査でも、最大酸素摂取量(VO2Max)は221ml/kg/分だった。ようやく去年までのような、妹に恥じることのない練習量に戻ってきたと思う。

相変わらず高村トレーナーは練習量管理と栄養管理に小うるさいけど、弥生賞優勝はその指導の成果なのかもしれない。なら、彼の指導は受け入れよう。こちらも、敢えて反抗する意味もない。そんなことより、大事なのは次の皐月賞で優勝すること。中山レース場、芝2000m。これまで2度走ったコースだ。問題ないはず。

 

 

 年度が替わり、4月1日。この日は、クラシック三冠直前最後の新月。先月から高村トレーナーが貸してくれている双眼鏡と赤道儀を使うのは、2度目になる。

 

双眼鏡で見る星空は、確かに息を呑むような美しさだった。プレアデス星団、和名『すばる』があんなに多くの星々から成っているなんて。知識として知っていることと、目で見ることは大きく違う。オリオン大星雲や、ふたご座M35星団も見えた。肉眼で見る星空も好きだけど、双眼鏡で見る星空も美しい。いつか、天体望遠鏡を買おうと思った。

赤道儀は、同梱されていた説明書の通りにやってもなかなか北極星(ポラリス)との軸合わせがうまくいかずに苦労したけど、一度完了すれば楽だった。あとはスマートフォンのカメラを天体撮影モードにして、いろいろな方向の星空を撮影してみた。ふたご座、おとめ座、おおいぬ座、カシオペア座、オリオン座、冬の大三角、春の大三角、北斗七星。そして、恒星(スター)とは異質な明るさを放つ惑星(プラネット)も数個。

 

ココアを一口飲む。

 

何枚も写真を撮っていて、気付く。青い星と、白い星、赤い星がある。表面温度が高い星ほど青っぽくなるとは言うけれど、写真で見ると肉眼で見るよりもはっきりと分かる。写真に収めた中で一番青っぽいのは、シリウスとスピカ。表面温度は、シリウスが9900ケルビン(K)、スピカが25000ケルビン(K)らしい。両者とも、競技登録名(ターフネーム)やチーム名に使われることが多いだけある。

そして、私の競技登録名(ターフネーム)にある『ベガ』の表面温度は、9500ケルビン(K)

 

――表面温度が高ければ高いほど、 星は青く染まっていく。 私の心も、願いも。

 

シリウスやスピカにも負けない、私の勝負服のような青い輝きを、妹に捧げよう。スマートフォンの画面を切り、双眼鏡も傍らに置き、もう一度肉眼で満天の星空に向かい合った。

 

――待っててね、明海(あけみ)。お姉ちゃん、頑張るから。

 


 

 4月に入り、クラシック三冠初戦となる皐月賞が直前に迫ってきた。この時期は、身体能力の向上ではなく維持と洗練が主眼の、レースに向けた調整期間となる。メニューもそれに合わせたものに変更したうえで負荷を4~6割程度に下げ、本番で全力が出せるよう調整(テーパリング)していく。教え子の体調的にも、ベストのタイミングだ。

 

週末、月刊トゥインクル5月号に掲載予定となるアドマイヤベガ特集の最終稿が添付されたメールが届いた。乙名史氏の態度の不審さに、事前確認をさせて欲しいと申し込んでいたからだ。今となっては、「ファン獲得によるアドマイヤベガのモチベーション向上」という当初の目論見はあまり意味を成さなくなってしまった。ファンを獲得したところで、サバイバーズギルトが治るとは思えない。アドマイヤベガがファンをモチベーションにするタイプではないことも分かってきた。

とはいえ、クラシック三冠期間中にファンが増えるに越した事はない。ライバルばかりに応援の声が飛び、アドマイヤベガが悪役(ヒール)扱いされるのと、アドマイヤベガにも応援の声が飛ぶのでは、精神的負担はまるで違うはずだ。せめて良い記事を書いていてくれと祈るような気持ちで、トレーナー室に施錠したうえで原稿を開いた。

 

『沈黙の青き一等星、空を駆ける──アドマイヤベガの覚悟と、その“支導者”』

 

――あの女らしい形容詞たっぷりの美文だ。どんな記事を書いたんだ。

 

人が今の自分の表情を見たら、『怪訝そうな顔』と表現するだろう。そのまま本文の方へと読み進めた。

 

『沈黙こそが、彼女の意志だった。クラシック三冠を目指し、静かに燃えるアドマイヤベガ。その背には、言葉にされることのない“願い”が宿っている。そして彼女を導くのは、若きトレーナー・高村氏。取材中、彼は一貫して自らを「支援者」と表現した。だが、彼は支えることにすべてを賭けている。彼の支えを受け、静かな青が、今、音もなく飛び立とうとしている――』

 

またしても形容詞まみれの書き出しだ。胃もたれしそうになる。

 

『高村氏は、自身の指導姿勢をこう表現する。「支援者として、彼女の可能性を信じ、支え続けるだけです」と。だが、それはあくまで彼の謙遜だ。実際には、理論とデータに裏打ちされた戦略的指導に加え、インストラクターや養護教諭、管理栄養士との連携を行うという、高度な指導体制である。彼自身は、それらを「当然のこと」として淡々と進めている。アドマイヤベガ選手も、高村氏の指導体制に強い信頼を寄せているようだ。選抜レースでの手痛い降着と直後の逃亡とは対照的な、エリカ賞以降の3連続優勝という結果がそれを物語っている――』

 

途中から、内容がまともになってきたように感じた。相変わらず美文めいている一方、アドマイヤベガの過去や背景を詮索したり、お涙頂戴のストーリーをでっちあげるような内容ではない。長い長い記事の最後は、こう締めくくられていた。

 

『彼女が走ることに込める意味は、おそらく永遠に語られることはないだろう。だが、それでいい。語られぬからこそ、彼女の走りは強く、そして、美しい。

(文責:乙名史悦子)』

 

――思っていたよりは、悪くない記事だった。

 

警戒心を解くつもりはない。だけど、これ以上警戒する必要もないのではないか。様子を見ようと思った。

 


 

 4月18日、中山レース場。バ場は良好だが、生憎の雨。屋内にある関係者席からは、多くの観客が色とりどりの傘や合羽で雨を凌いでいる様子が見える。双眼鏡でコースを覗くと、芝が雨露を纏い、春の慈雨に歓喜しているかのようだ。

ホープフルステークス、弥生賞に続いて3度目となるこのレース場に張り詰める空気は、温かい春雨とは対照的に興奮と緊張を纏っている。数多の選手が挑み、敗れてきたクラシック三冠。その初戦。

 

コース取り・ペース配分・走法の最終確認、あっちむいてホイ(ルーティン)金のネクタイピン(お守り)の貸し出し、そしてエレベーターへの送り出し。控室では、今まで通りの流れだった。唯一違うのは、ナリタトップロードが弥生賞以降は激励に現れなくなったこと。同じレースに出る以上は当然でもある。そして彼女に代わり、カレンチャンが激励に顔を出してくれるようになった。

 

何か思い詰めているのか、緊張しているだけなのか、教え子がずっと無表情なのが気になった。だが、トレーナーにできることは既にない。

 

今回のレースには、強豪チーム”リギル”のテイエムオペラオーが3次登録での参戦を果たしていた。出走者リストが発表された時、弥生賞に居なかった強豪チームの参戦に慌てて確認を取ると、夏の選抜レース後に逃走したアドマイヤベガを追跡する際、行先を教えてくれた生徒だった。

 

――『オペラ』という競技登録名(ターフネーム)、少女歌劇団員のようなド派手な勝負服、そしてやたら芝居じみた話し方。キャラづくりと演出が徹底している。過去のレース実績から見ても、よほどの自信家だな。

 

さらに、同門の近藤シューティングスターズ出身者『アドマイヤフルーク』まで出場している。二人の友人と、一人の同門生と競わなければならない状況は、精神的にも負担が大きいはず。だからといって、遠慮もできない。相手もまた、隙あらばアドマイヤベガの夢を踏み潰す覚悟を持ってあの場に立っている。

 

息を吐き、出走の瞬間を待つ。

15時35分――。双眼鏡の中でゲートが開き、17名が一斉に走り出した。

 




用語解説 『トレセン学園』
学校法人私立日本ウマ娘トレーニングセンター学園、通称中央トレセン。

東京都府中市に所在する、中等部・高等部・大学から成るウマ娘専門教育機関。
中等部・高等部は競走科とスタッフ研修科の2科が設置され、大学は教育学部のみの単科大学(カレッジ)

中等部・高等部
中高一貫教育を実施している女子校。
『美貌と身体能力を併せ持つアイドルアスリート』であるウマ娘が生徒であることから、プライバシー保護・トラブル防止のために全寮制を採用している。

競走科の入学定員は中等部が約340名、高等部は約110名。中等部入学者が高等部卒業に辿り着く割合は毎年約6割、高等部入学者が高等部卒業に辿り着く割合は毎年約8割となっている。
卒業生のうち8割は他大学への外部進学、1割がトレセン学園大への内部進学、1割が就職という進路を選択しているが、いずれの進路においても芸能界またはスポーツ界と関わる選択をする者が6割程度を占める。

スタッフ研修科は中等部・高等部ともに45名前後が毎年入学する。卒業生の9割がトレセン学園大へ内部進学し、残り1割が他大進学を選択する。


大学
教育学科・社会科・理学科の3学科を擁する教育学部のみの女子単科大学(カレッジ)で、大学院は博士前期課程(修士課程)のみまでの設置。入学定員は約150名。受験資格として『ウマであること』を要求しないため、少数ながらウマ娘以外(ヒト)の女子学生も在籍している。

入学者は高等部スタッフ研修科からの内部進学者が半数強を占めており、続いて競走科からの内部進学者と外部入学者が同程度ずつとなっている。

部活動として有名なものに体育会競走部があり、年末の東海道ウマ娘駅伝に出場しているが、アスリート適性が低い傾向にあるスタッフ研修科出身者と外部入学者、速度特化型で持久力が低い傾向にある競走科出身者という学生構成ゆえに強豪チームとはならず、学生連合での出場が主。過去にトレセン学園大チームとして出場した際の最高順位は、20チーム中9位。

卒業生・修了生の進路はトレセン学園(地方トレセン含む)のトレーナーが4割、URAを含む民間企業への就職が2割、一般中高を含めた小中高教員が2割、教員以外の公務員が1割、他大学博士後期課程への進学が1割となっている。
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