星間境界 -アドマイヤベガの道標-   作:茶園真

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第三章第七節 "皐月賞"

 気になっていることがあった。アドマイヤベガの、ここ2週間のエネルギーバランスだ。食事の摂取量は1日平均3600kcal。しかし運動量は1日平均1500kcalで、彼女の基礎代謝は約2500kcal。約400kcalの食事不足ということになる。そして、PFCバランスはタンパク質(P)偏重。脂質(F)炭水化物(C)も摂取するよう指導したが、

 

『食欲が湧かない。運動量も少ないから大丈夫。私のことは、私が一番分かってるから、心配しないで』

 

という素っ気ない返信だけが返って来た。

 

――自分のことが分かっていないから、友人に辛く当たり、本番直前だというのにエネルギー補給(食事)も疎かにしているんじゃないか?

 

『食欲不振なら大丈夫じゃない』とも伝えたけど、無理やり口に食物を突っ込むわけにもいかない。保健室から『体重変化なし』という連絡が来た以上、強い対応も出来ずに本番を迎えてしまった。教え子の2週間の生活の、その答え合わせが始まる。

 

『スタートしました。まず好スタートは中でウンザーフラメンコ――』

 

 実況の声が響く。

 アドマイヤベガ(教え子)は最内1枠からの発走。ほぼ横一線のスタートだった。しかし、直後にすぐ横、2枠3番選手アドマイヤフルークが前に出る。アドマイヤベガは、速度を出さずに下位集団に沈んでいく。それで良い。勝負は後半だ。

 

――そのまま、いつも通り後半まで控えていろ。

 

 双眼鏡の向こうの教え子を、無言のまま見つめた。

 


 

 ゲートに入ってすぐ、目を閉じた。ようやくたどり着いた、クラシック三冠レース(贖罪の場)。ここに至るまでのことを思い出した。

 

 幼いころから、誰かが隣にいるような感覚がずっとあった。座敷童のようなものだ。確かにそこにいるのに、触れられない誰か。

小学生になって、知らないうちに妹が亡くなっていたことを知った時は、やっぱり、と思った。隣にいた『誰か』は、妹なのだと確信した。

 

『人は死んだらお空にのぼってお星さまになる』

 

 幼稚園の先生が、両親が、よく言って聞かせてくれた言葉。

子供騙しの言葉ではないはずだ。だって、星空を見ているときに、あの子の存在を強く感じるから。

 弥生賞直前の、3月の天体観測の夜。双眼鏡を通して星を見ることで、これまで以上に妹の存在を強く感じた。生まれてくることなく、顔を見ることも、声を交わすこともなかった、私の双子の妹。私が生まれてきたのは、神様が振ったサイコロの結果に過ぎない。この世に存在することすら許されなかった妹に、私がしてあげられることはたった1つだけ。走ること(ウマの本能)を、極めること。私と、あの子の、絶対的共通項。

 

 それなのに、エリカ賞とホープフルステークスで、あの子のことを忘れて走ってしまった。正月に、天体観測を忘れてしまった。それは取り返しようもない罪だ。許してもらおうとは思わない。だから、弥生賞では絶対に楽しまず、心を躍らせず、当然のように1位を取りに行こうと誓った。一生に一度しか挑めないクラシック三冠レースの前哨戦ごときに、私の贖罪を邪魔させるわけにはいかない。

 

 天体観測道具を片付けて部屋に戻り、眠りについた後、夢を見た。妹の夢だ。一卵性双生児の、私そっくりの妹。

 

「良かったね、お姉ちゃん。エリカ賞と、ホープフルステークス、それにお正月。楽しかった?――私を、忘れるくらいに」

 

――違う、そんなんじゃないの。

 

 声を出そうとしても、口が動かない。体も動かない。もしかしたら、そもそも体が存在しないのかもしれない。

 

「よく言うでしょ、人は二度死ぬって。一度目は、肉体が滅ぶ時。二度目は、人の記憶から消えた時。お姉ちゃんの記憶から消えたら、私は二度も――」

 

 気付いたら、ベッドから飛び起きていた。蛍光塗料がぼんやりと照らす時計を見ると、深夜2時16分(丑三つ時)だった。

 

 

 弥生賞で優勝して3週間後の4月1日。夜の天体観測の時、また夢を見た。夢の中で、私は中山レース場の観客席に居た。空には、双眼鏡で見て、写真に撮った星々。観客席は、真っ黒な喪服を着た人々で埋め尽くされていた。

 ターフで、青い勝負服を着用した選手が優勝を勝ち取った。喪服の人々が、喝采を送る。

 

「弥生賞で、優勝を手にしたのは、アドマイヤベガです」

 

 機械的な実況の音声。私が観客席にいるのに、私の競技登録名(ターフネーム)が優勝者として読み上げられた。だけど、不思議と疑問に思わなかった。優勝した『アドマイヤベガ』のほうを見る。ガッツポーズをして、吠えていた。

 

「楽しかった!最ッ高の気分!これが、走るってこと!・・・お姉ちゃんが、いつもしていることなんだね!」

 

 ターフにいる『アドマイヤベガ』の声が、なぜか離れたところにいる私の耳にはっきりと届いた。そして彼女の目が、私を捉えた。

 

「ねえ、どうしてそんなところで観ているだけなの。それなら、私でも良かったよね。生まれるのも、走るのも、歓声を浴びるのも――。使わないなら、私に頂戴。体も、心も、魂も、命も、脚も、名前も、全部全部全部頂戴。できないって言うなら、せめて、双子らしく、私と同じところまで来てよ――。だってお姉ちゃんの脚、菊花賞までで――」

 

 目が覚めると、校舎の屋上だった。天体観測の途中、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。早朝の気配が迫る薄い空気が、頬を撫でていた。

 体を動かそうとした瞬間、左脚に痛みが走った。まるで誰かに強く握られたような――そんな痛みだった。

 

 2日後の土曜日の朝、トレーナーにもルームメイトにも知られないように、学園から電車で2駅離れた病院に行った。検査結果は、異常なし。骨も、靭帯も、筋肉も、神経も――どこにも異常は見つからなかった。

 

心因性疼痛(しんいんせいとうつう)かもしれません。夜更かししての天体観測はしばらく控えて、規則正しい生活をして、ストレスを減らしましょう」

 

 それだけ伝えられた。そんなの、出来っこない。『ストレス源』を忘れろと言われても忘れられない。消せと言われても消せるはずがない。天体観測だって止めるわけにはいかない。

 

 明海(あけみ)。私の片割れ。この世に存在することすら許されなかった、双子の妹。

 

 診察室を出た後、待合室の壁に貼られたカレンダーにふと目が留まった。赤と黒とグレーで彩られた数字の並びの中に、ぽつんと書かれていた文字。

 

『4月1日――仏滅』

 

 帰り道、学園まで電車には乗らず、多摩川沿いを歩くことにした。スニーカーのソールが土の感触を捉えるたび、脚に痛みが走った。

 

 しばらく歩いた後、河川敷のベンチに腰を下ろした。まだ冬の残り香を含んだ風が、髪をなびかせる。目線の先、それまで二股に分かれていた流れが、1つに合流していた。合流点の中州には土砂が堆積し、草も、木も、何も生えていない。乾いた、無表情な大地。

 だけどそのすぐ下流の河川敷には、春菊(しゅんぎく)の花が、風に揺れながら、肩を寄せ合うようにして咲いていた。

 

「・・・ふふ・・・はは・・・あはははは・・・!」

 

 なぜだか、笑いがこみ上げてきてしまった。久しぶりに、お腹の底から笑ったように思う。

 ひとしきり笑った後、呟いた。

 

「やっぱり、ちゃんと天罰は(くだ)るんだ」

 

 仏滅の日に、あの夢を見たのは偶然ではないはず。

 これは、罰だ。使命と原罪を忘れた私に、妹が冥界から罰を下しに来たんだ。

 おかしいとは思っていた。天体観測を、妹を忘れた正月休みが明けてからというもの、高村トレーナーは優しいし、苦手な美容院じゃなくて学内で髪と尻尾を整えてもらえるようになったし、高くて買えなかった双眼鏡と赤道儀は貸してもらえるようになったし、トップロードさんやカレンさんはレースに勝ったことを私に嬉しそうに報告してくるし、弥生賞は家族が見に来てくれたし、その後に高村トレーナーからは高そうなケーキをもらった。罪を犯した私にはふさわしくない、ささやかだけど確かな幸福。

 それはきっと全部、私が犯した罪を贖うための幸福が積み立てられているんだ。

希望が崩壊する瞬間。幸福から叩き落される瞬間。その時に、人は最大の絶望を感じるという。その瞬間に向けて、私の幸福が溜まっていくんだろう。

 

「『菊花賞まで』って、そういうこと」

 

 私の使命、生きる意味は、妹への贖罪。原罪を償うこと。それだけ。なら、クラシック三冠レースで、私の体も、心も、魂も、命も、脚も、名前も、全て使い尽くして幸福をため込んで、最後に妹に捧げよう。巡る因果に身を任せよう。

 因果応報。等価交換。目には目を、歯には歯を、存在には存在を。

 

――いいよ、全て奪って。菊花賞が最後だというのなら、それでいい。勝利も、歓声も、全てあなたのもの。あなたのために、勝つから。全部捧げるから。

 

 

 息を深く吸い、吐いた。目を開く。曇天の空が目に入る。降り続く春の雨が、私の体を濡らしていく。冷たい金属製のゲートが、目の前を覆っている。周囲の選手が、私を見ていた。私だけ、スタートの姿勢を取っていないからだ。

 

――勝つ。そうすることでしか、あなたに償えないから。

 

 身体を前傾させ、右足に全体重を込める。拳を、痛いくらい強く握りしめた。

 ゲートが開く。中山、芝、2000m、右回り。3度目のコース。・・・さあ、贖罪(レース)の始まりだ。

 


 

 最初は横並びだった選手たちが徐々に内に寄り、複数の集団を形成した。アドマイヤベガ(教え子)は下位から2番目の集団、順位は13位。

 

『内からトロピカルスカイ、あるいはアドマイヤフルークがペースをリードしていきます』

 

 実況の声に、先頭集団を見ると、アドマイヤベガの同門生が先頭集団に立っていた。その直後、『トロピカルスカイ』が僅かな差で首位に飛び出た。

 

 初期加速を終えて襲歩(ギャロップ)に移行した集団が、次々と第一コーナーに入っていく。4位のウンザーシネマ以下、中位集団は混戦状態になっている。アドマイヤベガを探すと、混戦に巻き込まれない後ろ側に控えている。良い位置取りだ。

 

『今再びアドマイヤフルークがトップに立ちました。アドマイヤフルークが1バ身リード』

 

 アドマイヤベガの同門生が首位を奪い返した。逃げタイプの選手なのか、ペースを失ってしまっているのか、どちらか分からない。

 友人のナリタトップロードは、中位集団の混戦の中にいた。そして、テイエムオペラオー。彼女は、アドマイヤベガのすぐ左後ろに控えている。これまでのレースなら、もっと前にいるはずの彼女が、なぜ後方に。不気味だ。何を考えているのか。

 

 第二コーナーへと入る。

 選手たちの列が、少しずつ短くなる。アドマイヤベガが居る集団が少しずつ前へと出ていく。

 

『プチフォークロアが5番手、その前にウールシェパードが僅かに上がります』

 

 混戦状態の中位集団では細かく順位が変動しつつ、第二コーナーを選手たちが駆け抜けていく。向こう正面(バックストレッチ)へと入った。アドマイヤベガが、ナリタトップロードのすぐ後ろへとつけた。

 

『アクアオーシャンより内側、インコース8番ナリタトップロードの外後ろに、アドマイヤベガが付けています』

 

 実況がアドマイヤベガに触れた。テイエムオペラオーは相変わらず、アドマイヤベガの後ろにいる。最下位ヒガシノコクリュウ選手との差、わずか2バ身。

 1200m通過タイムは、先頭アドマイヤフルークは1分12秒。平均的ペースだ。追込みタイプのアドマイヤベガには有利とも不利とも言えない展開。

 そのままバ群は直線を駆け抜け、第三コーナーへと入った。先頭がアドマイヤフルークからトロピカルスカイへとまた入れ替わる。次位集団はウンザー冠名の3名。

 

 アドマイヤベガが、少しずつ遠心力に身を任せて外側へと出ていく。勝負を仕掛けるつもりらしい。

 

『アドマイヤベガ動いた。それをマークするようにナリタトップロードも上がってくる』

 

 実況が再びアドマイヤベガに触れる。観客席から大きな歓声が上がった。だが、その直後、ずっと後方に控えていたテイエムオペラオーが動いた。

 

『第四コーナー、テイエムオペラオーが大外を回って上がってきます』

 

 双眼鏡の狭い視野でも見逃しようもない、派手な勝負服。アドマイヤベガ、ナリタトップロードや、そのほかの追込み勢に合わせて同時に仕掛けたようだ。第四コーナー出口で一気に大外へと抜けていく。

 アドマイヤベガの方を見ると、テイエムオペラオーよりやや内にナリタトップロードと共に入り、混戦に巻き込まれているのが見えた。

 

「まずいな」

 

 思わず、声が出た。

 


 

 私を左から抜かしたアヤベさんを見る。弥生賞の後の地下道の会話を思い出した。

 

『皐月賞は、もっと良い走りをして見せますから!』

 

 悔しさを抑えて、涙をこらえて伝えた言葉に、アヤベさんはゆっくりとこちらを振り向いてから、低い声で言った。

 

『あなたも、私も、お互いの走りを気にしている余裕なんて、無いはず――私は、ただ走るだけ』

 

 アヤベさんが何を考えているか分からない。ほんの4か月前まで普通だったのに、年明けから少しずつ態度が変わってきた。そして弥生賞の後は、授業でも、併走練習でも、アヤベさんはずっと無表情だ。

 

――でもね、アヤベさん。あなたが何を見ていようと、レースは、一人では走れないんですよ。

 

 アヤベさんの耳は前を向いている。後ろを走る私の足音を気にも留めていない。一人だけ別のレースを走っている。

 

――あなたは一体、どこを見ているんですか。今レースをしている相手は、私やオペラオーちゃんですよ。それだけじゃない。学園の16人が、あなたのライバルなんですよ。

 

 アヤベさんの目を、こちらに向けさせてやる。今ターフを走るみんなを、アヤベさんのその瞳に映させてやる。だって、私は一人じゃないから。家族と、ルームメイト(ポッケちゃん)と、クラスのみんなの期待と、沖田トレーナーの夢を背負って私はここにいる。

 アヤベさんに合わせて、外に出た。勝負だ。

 

――アヤベさんも、ご家族や、ルームメイト(カレンちゃん)や、高村トレーナーや、そして私たちが見ていることを思い出させてあげます!

 

 歯を食いしばる。息を思いっきり吸って、第四コーナーを出た瞬間にストライドを大きくして、アヤベさんを追う。

 

 アヤベさんに続いて前の選手たちの隙間を抜けて、彼女の隣に並んだ。右側、最内にいる他の選手が、視界の後ろに追いやられていく。勝った、と思った。アヤベさんの目には、私が映っているだろうか。だけど、その瞬間、左側からピンクと白の勝負服が駆け上がってきた。オペラオーちゃんだ。負けない。抜かせない。オペラオーちゃんにも、アヤベさんにも。

 脚を、腕を、大きく振るう。沖田トレーナーから言われている私の持ち味、大きなストライド。

 

 ゴールはすぐそこ、あと30m。脚がちぎれそうになる。

 あと20m。肺が痛い。呼吸が間に合っていない。

 あと10m。世界が、白黒になった。

 


 

 ナリタトップロードの追跡とテイエムオペラオーの追い上げを受けつつゴールに辿り着く直前、アドマイヤベガ(教え子)が一瞬だけ減速したように見えた。肉眼では、3人横並び。そこから僅かに遅れて、11番選手アクアオーシャン。

結果は写真判定にもつれ込んだ。場内が一瞬静まり返り――確定板が、光った。

1位、テイエムオペラオー。続いてハナ差の2位、アドマイヤベガ。そして同着2位、ナリタトップロード。

 

 これまで3連続優勝してきたアドマイヤベガにとっては、初の敗北となる。彼女の肩が、がっくりと落ちた。表情は、見えない。

 3着までは全員が友人同士。学園内でいざこざが起きないか、今から胃が痛い。アドマイヤフルーク(同門生)がどうなったかを見ると、最後の直線で最下位に沈んでいた。

 ナリタトップロードも、アドマイヤフルークも、大きな涙を流しているのが双眼鏡越しにはっきりと分かる。それ以外の選手たちも、悔しさを顔に滲ませている。テイエムオペラオー(勝者)だけが、眩い笑顔を観客席(スタンド)に向けて、手を振っている。その全員が、レース本番では打倒すべきライバル選手であり、校内では教員として関わることがある生徒(ウマ娘)だ。教え子以外のことを気にしている余裕などなくても、気にしなければならないのが教員という職の定め。つくづく、厳しい世界だと思う。

 

「高村トレーナー、弥生賞の時以来ですね」

 

 男性に後ろから声を掛けられ、振り向いた。アドマイヤベガの父親だ。後ろには、母親と、初めて見る弟もいた。綾部(あやべ)家が、中山レース場に揃っている。綾部明里(アドマイヤベガ)は、ターフの上に。それ以外は、関係者席に。分厚いガラスが一枚、家族を隔てている。

 席を立ち、頭を下げた。

 

「娘さんに、初の首位脱落を経験させてしまいました。申し訳ありません」

 

 父親は穏やかな声で言った。

 

「頭を上げてください。勝負の世界とは、そういうものです。娘も、それを覚悟であの世界に立っているはずです」

 

 頭を上げた。しかし、いくら勝負の世界が厳しいからといって、その世界に立つ者がその言葉に甘えることはできない。

 

「・・・はい。ですが、トレーナーの職務は、教え子に勝利を積ませることです」

「そうかも知れません。ですが、大事なのは高校生時代に全てを賭けることではなく、長く続く人生の基礎としての高校生時代をどう作るかです。この敗北も、娘の将来の糧となるはずです」

 

 驚嘆した。これが、人の親というもの。再び、頭を下げた。

 

「トレーナーさん、娘に『かっこよかったよ』と、伝えていただけますか」

 

 アドマイヤベガの母親だ。再び頭を上げ、口を開いた。

 

「はい・・・娘さんには、会って行かれないのですか」

 

 すると彼女は顔を伏せ、悲し気な表情をした。

 

「・・・高村トレーナーにお伝えした通り、娘は大きなものを抱えこんでいます。今の状況で娘に会っても、あの子の重荷になるだけだと思うんです。弥生賞の時のように、あの子が1位を取っているときに、思いっきり褒めてあげたいんです。だから、高村トレーナーが、今はあの子の傍にいてあげてください」

「・・・分かりました」

 

 綾部(あやべ)家3名の帰り際、それまで何も言わなかった弟が口を開いた。

 

「おじちゃん!俺のねーちゃんかっこよかっただろ!」

 

 『おじちゃん』という言葉に苦笑いしてしまった。自分も小学生の頃、高校生くらいが大人に見えて、大学生以上は皆おじさん・おばさんに見えていた。23歳の自分は、10歳そこらの少年にしてみれば、紛う事無き『おじちゃん』だろう。自分も、かつて姉を担当していたトレーナーのことを内心『おっさん』と思っていた。年末の姉の話では彼は新卒、つまり今の自分と同世代だ。

 一歩前に出て、彼の前にしゃがみこんだ。

 

「ああ、君のお姉ちゃんは最高にかっこいいぞ」

 

 彼は、両親に怒られながら関係者席を退出していった。

 

(まさる)!人におじちゃんって言わないの!」

 


 

 明里(あかり)がレースで走るたび、もう一人の娘の位牌を仏壇から持ち出す。選抜レースと、エリカ賞と、ホープフルステークスでは、テレビの前に。弥生賞と、皐月賞では、観客席に。遺骨も遺影も遺品もない明海(あけみ)がこの世に存在していたことを証明するものは、妻の妊娠時のエコー写真と、そして小さな位牌だけだ。

 

 アドマイヤベガ(ベガに憧れる)。妻のかつての競技登録名(ターフネーム)『ベガ』を襲名して広大なターフを走る娘は、荒海を往こうとする舟のように小さく見える。しかし、厳しい勝負の世界へ果敢に挑むその姿は、馬車に斧を振るう蟷螂(とうろう)でもある。明確に、残酷に、厳然と、大衆の面前で勝敗の結果が示されるレースを走る彼女たちを、誰が『子供』と侮れるだろうか。大人のアスリート達と、何も変わらない覚悟を背負ってあの場に立っているだろうに。

 

 明里は、小さい頃はよく笑う子だった。しかしいつからか段々と無口になり、ポニーカップに出て、双子の妹の胎内死を妻から知らされて以降、さらに笑わなくなった。中央トレセン中等部受験に失敗してからは、いつも塞ぎ込んでいた。それが、高等部受験に成功した年の年末の帰省で、久しぶりに笑うようになってくれていた。

 娘を救ってくれたのは、級友の子たちなのか、ルームメイトの子なのか、それともあの律儀な青年なのか。・・・恐らくは、全員。しかし、娘のトレーナーを務める、あの高村という青年が果たす役割は大きいはず。娘の心の闇の原因を作ってしまい、そして全寮制故に普段はそばに居てやれない私達親に代わり、唯一娘を近くで見守ってくれている大人が、あの青年だ。娘とは、7歳差。教員や保護者というよりは先輩、あるいは兄に近い存在なのかも知れない。新卒2年目なら、未熟な点も多いはず。それでも、親としては、彼を信頼するしかない。家庭訪問や定期的な電話連絡をしてくる彼は、少なくともその信頼に応えようとする意思がある。レースで勝利に導くことより、大事なのは娘に真剣に向き合おうとする姿勢の方だ。

 

 だから、どうか、高村トレーナー。娘を、頼みます。

 

 


 

 観客席(スタンド)棟内のホールで、記者から取材を受けた。

 

「本日はお疲れ様でした。アドマイヤベガ選手、クラシック三冠レース初戦皐月賞、2位おめでとうございます。今どのようなお気持ちですか」

 

 アドマイヤベガ(教え子)は、沈痛な面持ちでしばらく沈黙したのち、ようやく口を開いた。

 

「・・・今日は慣れたレース場で1位を取り、家族に勝利を捧げたかったのですが、うまくいかず悔しいです」

 

 続いて様々なメディアから質問が飛んできたが、これ以上は負担を掛けられない。早々に取材を終わらせ、アドマイヤベガを控室へと連れ帰った。

 

 今の彼女の精神状況を考えると、薄っぺらい慰めの言葉を掛けるのは逆効果だと思った。椅子に腰かけたまま俯く教え子としばらく向き合い、十数分。ようやく、かける言葉を思いついた。

 

「強かったな、テイエムオペラオー」

 

 先行型の中距離選手だと思っていたのに、あんな追い込みもできるとは。しかも、直線が短い中山レース場で。

 アドマイヤベガは、何も言わない。

 

「競技の世界は、こういうこともある。自分がベストコンディションでも、それを上回るライバルがあっけなく上を行く。だからといって、これまでの蓄積が消滅したわけじゃない。君のご家族は、『格好良かった』と仰っていた。――次は勝つぞ、あの歌劇少女に」

 

 それだけ伝えて、控室を出た。閉鎖空間で感情的なやり取りをすると、どうしても精神負荷は高くなる。今は、彼女に一人の時間が必要だと思った。

 

 ウイニングライブを関係者席で観ていて、どこかアドマイヤベガの動きがぎこちないことに気付いた。弥生賞のライブでは小慣れた動きを見せていたし、練習量は適切に管理しているはず。怪我も把握している限りは無い。すると、食事不足の影響か、レースで負傷したか、それとも他にどこか、見落としがあるか。隣の席に座る歌唱ダンス指導教員(インストラクター)に声を掛けた。

 

「なあ、児玉(こだま)。アドマイヤベガの動き、なんかおかしくね?」

 

 彼女も違和感には気づいていたらしい。

 

「うーん、なんか、左脚をかばってる?のかなあ。ちょっと違和感ある。次のダンスレッスンの時に見ておくね」

 

 左脚と聞いて、不安になった。遺伝性の歪みがある箇所だ。蹄鉄は定期的に交換させているし、保健室からも異常は報告されていない。もしかすると、やはりレースで負傷したのかもしれない。念のため、次の保健室の予約日までの4日間は休養として、自主練もやめさせることにした。

 分かってはいたけど、あいつの状態は、『ベストコンディション』ではない。絶対に。

 




皐月賞レース結果
15:35発走 中山 芝2000m(右) 雨 良

順位選手名タイム着差
1テイエムオペラオー2:00.7
2アドマイヤベガ2:00.7ハナ
2ナリタトップロード2:00.7同着
4アクアオーシャン2:00.7アタマ
5ウンザーフラメンコ2:00.91
6ウンザーシネマ2:01.22
7ウールシェパード2:01.3アタマ
7メイラッシュ2:01.3同着
9ウンザープラティン2:01.41/2
10プチフォークロア2:01.51/2
11タイキスサノオ2:01.5アタマ
12ヒガシノコクリュウ2:01.81.3/4
13オェングスバード2:01.93/4
14トロピカルスカイ2:02.0クビ
15イデノブライアンナ2:02.13/4
16ノクドブースター2:02.1ハナ
17アドマイヤフルーク2:05.8


用語解説 : 着差
ある競バ選手がゴールに到達した時点における、前の選手との距離差。単位は『バ身』。一バ身の長さは2.5m。これは競バのシンボルとされる『女神像』のモデルとなったウマ娘が両腕を広げた時の長さに由来すると言われることもあるが、そのウマ娘が走る際の歩幅(ストライド)の長さに由来するという説もある。
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