星間境界 -アドマイヤベガの道標-   作:茶園真

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第三章第八節 "食欲不振"

 その週の金曜日、いつものようにチャットで保健室から報告が来た。

 

『左脚には異常がありません。ただ、体重・体脂肪率がやや減少傾向にあります。』

 

 良い知らせと、悪い知らせ。少なくとも左脚に異常が無いことには、胸を撫でおろした。骨折は最悪の結果を招きかねない。しかし、体重が減少傾向にあるという報告が気になった。先週、皐月賞の直前の保健室からの報告では、『体重変化なし』だったはず。その点を質問してみた。

 

『先週も体重は減少していたのですが、通常の変動の範囲内でした。ただ、今週は先週よりさらに体重が減少しています。皐月賞で走ったことによる一時的減少かもしれませんが、今後も継続して体重・体脂肪率が減少し、基準以下になった場合、東京優駿には辞退勧告を出すことになります。我々としても、アドマイヤベガさんを心配しています。』

 

 異変は、皐月賞前から始まっていたようだ。そして発覚が遅れたということになる。次の東京優駿は2400m。これまでより400m長い。体重と体脂肪率が減少した状態で本番レースに挑むと、女子アスリート三主徴(FAT)ウマアスリート三主徴(HAT)が一気に顕在化しかねない。食事をさせるには、空腹にさせる必要がある。そのためには運動させるのが一番だけど、運動させるために食事を摂らせたいのだから本末転倒、デッドロック状態だ。他の方法を試す必要がある。だから、既に方針は考えておいた。

 まず、ウマ娘のDNAに好物として刻み込まれている糖質――果物・菓子類の制限を一時的に解除してでも、カロリーを取らせる。そして不足する栄養はサプリメントで補わせ、食事の際には食欲増進作用がある梅干しなどの副食を推奨する。それでダメなら、次は拒食症として通院させる。

 

――スクールカウンセラーにも知らせておくか。

 

 保健室の養護教諭は状況を知っているから、いざという時は指定校医が普段勤務する病院にスムーズに繋いでくれる。しかし、拒食症は精神疾患の1つだ。スクールカウンセラーにも伝えておくべきだろう。業務用チャット(Members)を開き、彼女とのチャット欄を開いた。

 

『渡辺先生、お疲れ様です。いつも教え子がお世話になっています。この後お時間空いていますか。直接お話したいことがあります。』

 

 返事はすぐに来た。

 

『高村トレーナー、お疲れ様です。承知しました。昼休み明けの13時から1時間であれば対応可能です。』

 


 

 眼鏡をかけた、包容力ある感じの上品な壮年の臨床心理士、渡辺みなみ氏。このスクールカウンセラーと何度か顔は合わせているけど、カウンセリング室に入るのは初めてだ。

 

「さて、お話とはなんでしょう高村トレーナー」

 

 単刀直入。話が早くて助かる。

 

「教え子・・・アドマイヤベガのことです。実は4月の初旬ごろから食事量が不足気味で、先ほど養護教員の吉田先生からは体重・体脂肪率の減少傾向を指摘されました」

「なるほど。栄養指導はされていますか?」

 

 眼鏡を光らせ、柔らかい口調で、しかし鋭く切り込んで来る。

 

「はい。管理栄養士の込山先生に監修頂く形で、週1の頻度で栄養指導しています」

 

 持参してきたノートPCの画面を見せた。

 

「なるほど・・・私は管理栄養士ではないので内容の正確性は判断できませんが、監修を受けてらっしゃるなら適切なのでしょう。・・・大変細やかに指導されていますね」

 

 お褒めの言葉を頂いたけど、本題はそこではない。アドマイヤベガの心の闇の核心――妹の死には触れないように、話を切り出した。

 

「それで、本題なのですが、教え子は・・・以前から先生が仰っているように、何らかの心的外傷を負っています。先日の皐月賞では初の2位への脱落を経験して、大きなストレスも抱えているはずです。これから事態が深刻化して、拒食症に発展する可能性があります。その時は、渡辺先生にもご助力を頂きたいと思い、事前相談に来ました」

 

 渡辺スクールカウンセラーが、眼鏡越しにこちらの目を見る。一瞬の後、深く頷いた。

 

「分かりました。事前準備は大事です。そのために、高村トレーナーにお聞きしたいことがあるのですが、構いませんか」

 

 一も二もなく返答した。

 

「はい。構いません」

 

 渡辺氏の目が細くなる。

 

「高村トレーナーが私に話せる限りで良いので、アドマイヤベガさん、本名綾部明里(あやべあかり)さんのこれまでの指導情報を聞かせていただけますか」

 

 去年6月に契約してから、10か月。アドマイヤベガの妹(綾部明海)のことは知らないふりをして、これまでの指導状況を伝えた。

 

渡辺先生は、時折質問を交えながら、メモをとりつつ話を聞いてくれた。

 

「高村トレーナー、ありがとうございます。よくここまで記録をたくさん残していますね」

「・・・ええ、手のかかる生徒ですから」

 

 彼女の顔が、少しだけ笑顔に戻った。

 

「生徒さんを、一番近くで見るのは担当トレーナー、つまり高村トレーナーです。その高村トレーナーに、念のためお伝えしておきたいことがあります」

 

 アドマイヤベガではなく、自分に。何だろう。

 

「高村トレーナーが栄養指導や、自主練制限をするとき、『あなたの人生はこれからも長く続くのだから、競技だけに全てを投じるのはやめなさい』といった言い方は、しないであげてください。これまで、トレーナーがそうしてきたように」

 

 確かに、そういう事を言っても生徒には響かないだろう。だけど理由を言語化できない。

 

「はい、分かりました。しかし、なぜ?」

 

 渡辺先生は、分かりやすく説明してくれた。

 

「高校生活が終わっても、その先に長い人生が続くことを知っているのは、高村トレーナーも、私も、既にそこを通り過ぎているからです。当時の失敗も、人生の糧として消化し終えている。――でも、あの子たちは先の見えない勝負という世界の真っただ中にいます。そこに大人が『競技だけが人生ではない』という事実だけを伝えても、あの子たちはそれを『自分の努力を、目標を、生きる意味を否定された』と感じるでしょう。だから、私たちはあの子たちに寄り添い、正しい方向へ歩けるように支える必要があるんです。引っ張るのではなく」

 

 さすがは、スクールカウンセラーだけある。説明が分かりやすくて、内容も明快だった。確かに、自分が過去の苦しかった時期に親や教師から『今じゃなくて将来を見なさい』と言われても、『俺のことを何もわかってない。そんな薄っぺらい言葉は要らない』と反発していただろう。

 時計を見ると、13時54分。約束の時間が終わりかけていた。座席を立ち、一礼してから退席しようとしたその時、唐突に呼び止められた。

 

「それと、高村トレーナー。あなたも気を付けてくださいね。あなたは真面目で熱心なようですが、仕事に入れ込み過ぎると、いつか心のバランスを崩しますよ。そういうトレーナーを、私は何人か見てきました。私の相手は生徒なので、何もできませんでしたが・・・」

 

 ・・・生徒のことを相談していたはずなのに、いつのまにか自分もカウンセリングされていたらしい。敵わないな、プロには。

 

「分かりました。教員として、生徒との適切な関与の範囲に留まるよう気を付けます」

 

 部屋を出た。アドマイヤベガの引退は、遅くても高校3年生となる来年度。指導期間の残りは、最長で2年弱だ。それなら、耐えられるだろう。一息つくのは、その後で良い。   

 スーツのジャケットの皺を伸ばして、体育科教員(トレーナー)棟への帰路についた。

 


 

 アドマイヤベガ(教え子)はその後も食欲不振が続いた。食べるよう指導しても結果は芳しくない。仕方ないので、トレーニング前には毎回アスリート向け栄養補助食とサプリメントを目の前で摂取させ、なんとかトレーニングで消費するエネルギーと栄養だけは補わせていた。

 食欲不振の理由は明確。妹の死、本番レースのプレッシャー、そして皐月賞での敗北。しかし、この状況が続けば東京優駿でも敗北するどころか、出場さえ叶わないかもしれない。そんなことになれば、食欲不振はますます深刻化し、アスリートとしてどころか、普通の女子高生としての生活すらできなくなる。女子アスリート三主徴(FAT)ウマアスリート三主徴(HAT)、どちらが先に顕在化するのかは分からないし、それは重要な問題ではない。重要なのは、健康を保たせることだ。

 

 皐月賞から東京優駿までは、7週間。そのうち1週間は既に休養に使わせた。中間準備期として、トレーニングメニューを1週間ごとに細かく調整する必要があるのに、栄養指導とメンタルケアに時間と労力を吸われていく。指導の合間に事務仕事を片付け、まとまった時間を捻出して指導計画を練る日々。母校の中央図書館に行く時間すら惜しくて、臨床心理学の本を何冊か私物として購入して毎日退勤後に読み込んでいる。土日すら、暇があればネットでスポーツコーチングや心理療法の学術論文をネットで探して読み込んでしまう。

 

 教え子も教え子で、態度が素っ気ない。3月初旬頃までの信頼関係は、完全に消滅したように思う。カレンチャンやナリタトップロードに対する態度も同じようなものらしい。スクールカウンセラーとの面談は『態度が硬化していて、相当なストレス下と推察されます』だ。構築してきた『安全基地』を、当の利用者本人が拒否している。本人に状況を改善しようとする意志が無ければ、助けられるものも助けられない。

 そして、大型連休が明けた翌々週。保健室から報告が来た。

 

『体重・体脂肪率減少傾向が顕著です。このままのペースでは、6月初頭にBMIが20、体脂肪率が18%を切ります。保健室としては、5月エンドまでに改善の傾向が見られない場合、東京優駿への出場に懸念を表明せざるを得ません』

 

 黄色信号。いや、もう赤信号かもしれない。強権発動をするしかないと判断した。

 翌日、教え子をトレーナー室に呼び出した。

 

 

綾部(あやべ)さあ、頼むからちゃんとご飯食べてくれ」

 

 アドマイヤベガは、少しだけやつれた顔で、しかし平然と、いつもの回答を口にする。

 

「食欲がない。最低限必要な分は摂取してるし、サプリも飲んでる。私のことは私が一番――」

「分かってないからこうして呼び出して指導しているんだよ。そこをまず理解してくれ」

「・・・」

 

 自分の姉(シリウスプライド)の姿を思い出す。小学校中学年の頃、自分がウマ娘にはなれないと気付いた時は嫉妬の対象にもなったけど、それ以外は常に自分にとっての憧れ、自慢の存在であり続けた。目の前の教え子と性格タイプは違うけど、競技成績は似ている。姉は初戦(デビュー)から4連続優勝した。

 

「皐月賞の後で君の弟――(まさる)くんに言われたよ。『俺の姉ちゃんかっこよかっただろ』って。弟に誇れる姉であり続けてやれよ」

「私の家族は、他人のあなたには関係ない」

「そうだな、俺は君の家族じゃないから他人だ。でも俺は君のご両親の承認を受けて君の指導をしている。無関係じゃない。指導契約書を見るか?」

「・・・・」

 

 机の上には、去年サインした契約書を置いてある。必要とあらば声に出して読み上げるつもりだ。

 

「良いか?保健室からは東京優駿のドクターストップ予告を受けている。東京優駿に出られても、このままだと綾部(あやべ)の体は菊花賞を前にどこかが故障する。俺はそれを防ぐ義務があるから、出走を取り消して医療機関の診断を仰ぐ必要が出てくる。それで良いのか。あれだけ出たがっていたクラシック三冠レースを、初戦2位のまま途中離脱して」

 

 そこまで言うと、アドマイヤベガは下を向いた後、低い声で言ってきた。

 

「・・・よく、ない。絶対にクラシックは最後まで走る」

 

 ようやく、欲しかった言葉を引き出せた。開け放しておいたトレーナー室ドアの向こうに向かって声を掛ける。

 

「だ、そうだ。カレンチャン。しばらくこいつの食事の監視頼む」

 

 ドアの陰から、教え子のルームメイトの笑顔が覗く。

 

「は~い。アヤベさん、ごめんなさい。全部聞いてました。しばらくは、私と一緒にご飯食べましょうね。土日も一緒です!」

 

 目を見開き、固まっていた教え子は、一瞬だけこちらを睨みつけたのちにドアの方に向かって呟いた。

 

「カレンさん・・・なんで・・・」

 

 カレンチャンを、事前に呼び出して証人として利用させてもらうことにしていたのだ。この役回りを依頼した時、『杉崎先輩の大学時代のエピソード』との引き換えという形で承諾された。そんな情報を何に使うか知らないけど、せいぜい杉崎先輩との交渉に使うか、からかうか、担当トレーナーの恥ずかしい一面を知って心理的優位性を確保したいかのいずれかだろう。教え子の健康と引き換えに、先輩には犠牲になってもらった。

 

――悪く思わないでくださいね、杉崎先輩。

 


 

 ()から、手紙が来た。家を出て1年と少し。少しだけ字が上手になって、言葉遣いも成長していた。手紙の内容は、デビューから3連続優勝、皐月賞で2位入賞したことに対する賞賛と、東京優駿への期待を込めた、応援メッセージだった。父と、そして母がいつもレースを楽しみにしていることも書かれていた。

 

 残り2戦となったクラシック三冠に全てを捧げる。そのことに変わりはないのに、思いのほか、嬉しかった。この幸福もきっと、罪を贖うために積み立てるためのもののはず。・・・それでも、弟に恥じる姉でありたくはない。弟にとっては、競技の世界から消える最後の瞬間まで、自慢の姉であり続けたい。悔しいけど、高村トレーナーの言う通りだ。

 

――ありがとう、ごめんね、(まさる)。お姉ちゃん、頑張るから。

 


 

 カレンチャンの協力を得て、2週間。教え子の体重・体脂肪率減少傾向には歯止めがかかり、なんとか増加傾向に持ち直した。保健室によれば、BMIは20.5、体脂肪率は18.5%。昨年末まで比べるとまだまだ低いし、出走直前の値としては基準ギリギリだけど、保健室からの辞退勧告は出なかった。ただし、今後も継続して注視対象となるとは言われた。それで構わない。今までだってそうしてきた。

 

 そして、6月6日、東京優駿。教え子にとっては初となる、東京レース場。学園から3kmの地点にある、中央トレセンお膝元。これまで本番で右回りしか経験してこなかった教え子にとっては初の左回りで、かつ2400mという距離。この1か月半、左回りでの併走練習や、スタミナ強化のためのトレーニングをなんとか積ませてきた。梅雨を目前にした初夏の風が、ターフの芝をさざめかせていく。昼食はわざわざ学生食堂まで足を延ばして、目の前で食事を摂らせた。レース直前の準備としては、問題ないはず。

 

 しかし、出走前の控室でいつものようにあっちむいてホイ(ルーティン)、そして金のネクタイピン(お守り)の貸し出しをしようとしたら、両方とも拒否された。契約当初のように、『一人』で走ろうとしている。完全にメンタル不調としか思えないけど、それにしても1月ではなく3月以降に急に悪化し始めた理由が分からないし、こちらの対処も間に合っていない。出走させたのは、彼女の身体や将来のことを考えると、間違いかもしれない。スタート直前だというのに、そんな考えばかりが頭をよぎる。

 

 メンタルと体重をすり減らした彼女が、『最も運のある選手が勝つ』と言われる東京優駿で、勝利を掴むことができるかは分からない。だけど、トレーナーとしては教え子の勝利を信じ、観客席から見守ることしかできない。

 

――今日は俺の誕生日だ。プレゼントには、勝利を頼む。

 

 心の中でだけ、冗談半分に呟く。自分の誕生日なんて教え子には無関係で、公私混同甚だしい。余計なプレッシャーを与えるわけにはいかない。関係者席にいる今は、運を司る神に祈るくらいしかできない。

 

 フルゲート、18名の出走。教え子は、最内側2枠からのスタート。友人のナリタトップロードとテイエムオペラオーは、それぞれ6枠と7枠。皐月賞最下位の同門生アドマイヤフルークは、出走していない。

 

 ファンファーレの音が高らかに鳴り響く。実況者が、出走選手を紹介していく。

 

『皐月賞では堂々のハナ差2着を獲得したアドマイヤベガ、2番人気です。そして1番人気、アドマイヤベガ選手と同着2位だったナリタトップロード。日本ダービーで両者はリベンジなるか――』

 

 歓声が大きくなった。確認している余裕は無かったけど、事前ファン投票では教え子が2位らしい。ナリタトップロードのほうがに人気が集中したのは、皐月賞の最後の追い上げが評価されたからだろう。でも、追い込みならアドマイヤベガだって負けてはいないはず――ベストコンディションなら。

 

 各選手が続々とゲート入りしていく。テイエムオペラオーが、ライバルたちに何かを演説している様子が見えた。声は聞こえないけど、振る舞いは歌劇(オペラ)そのものだ。あいつの辞書の中では、『レース場』と『舞台(ぶたい)』が同義語なのかもしれない。

 教え子の様子を見る。表面上は落ち着いているように見えるけども、内心は分からない。他者の内心なんて、誰にも分からない。だから、信じるほかない。

 

 15時30分。全員が前傾姿勢を取り――ゲートが開いた。双眼鏡の先、選手が横一線で飛び出していく。

 

『クラシック三冠レース第二戦、東京優駿。通称日本ダービー。今スタートが切られました!』

 

 実況の声が、大きく響いた。

 

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