星間境界 -アドマイヤベガの道標-   作:茶園真

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第三章が終了し、次から物語後半の四章へと入ります。四章ラストまでシリアス展開が続く予定です。


第三章第九節 "東京優駿"

 東京優駿。15時30分発走、東京レース場、芝、2400m(左) 、晴、良。トレーニングの成果が出ていれば、アドマイヤベガにも勝ち目があるレース。そのはずだった。

いつも通り後方に控える走り。第三コーナー付近、大ケヤキを過ぎたあたりからテイエムオペラオーとナリタトップロードが外に出て追込みをかけた。そこから遅れ、第四コーナー。ようやく大外に出て追い上げを開始したアドマイヤベガは、最後の直線で首位のナリタトップロードに迫った。あと少しで1位。しかし、ゴール直前で急減速し、これまでで最も低い順位の6位に終わった。ゴールを過ぎた後、彼女は右わき腹を抑えながら左脚をかばうような走りをしていた。

 

左脚の骨折だと思った。ウマアスリート三主徴(HAT)の1つ、骨粗鬆症を伴わない疲労骨折。それは競走能力の喪失、あるいは長期間のリハビリを要する状態を意味する。気が付くと、関係者席を立って医務室に向かって走っていた。

 

――やはり、どれほど恨まれても、東京優駿には出すべきではなかった。

 

しかし、医務室で対面した教え子に負傷は無かった。医師に訊ねても、骨折やヒビは無いという。神経にも、筋肉にも、靭帯にも、腱にも、どこにも異常なし。保健室からの報告と同じ。軽度の肉離れの見落としを警戒してテーピングだけの処置で済ませたとのことだった。

 


 

 アドマイヤベガのご家族を見送った後、控室の中で何も言わず俯く教え子と向き合う。わずか7週間前と同じ光景。左脚の異常は、メンタルが原因だろうか。何があったのか教えて欲しいけど、本番で惨敗した後の選手に無理に問いただしたり、叱責するのは悪手中の悪手。特に、アドマイヤベガにとっては。

 

どこから対応を間違えたのか。年明けにカレンチャンから過呼吸を知らされ、母親から妹の死を知らされたあの日、即座にスクールカウンセラーに情報を共有し、例え本人に恨まれてでもメンタルケアをプロに任せるべきだったのか。それとも、その前――クラシック三冠への出場を相談された時点で、却下しておくべきだったのか。

思考が過去に向いていることに気付き、これまで何度も人生の指針にしてきた言葉を思い出す。

 

――思考リソースは、”if”ではなく、これからできることに。

 

目の前の教え子は、明らかに精彩を欠いている。次のレースは、菊花賞の前哨戦となる10月京都新聞杯。今から4か月もある。その間には、期末試験、夏休みと夏合宿がある。まずは1か月の移行期(リフレッシュ)、期末試験に向かわせつつの一般準備期、そして夏休み以降の専門準備期というサイクル予定に従いつつ、メンタルケアを最優先とした対応をするべきだ。この状況では、スクールカウンセラーとの面談頻度も上げざるを得ない。

 

アドマイヤベガが、顔を上げ、こちらに涙目を向ける。何か言うべきだと思った。だけど、今回の結果は最悪の上を行く最悪の状況。公私の事情が複雑に入り組んでいる。あまりにも複雑で深刻な状況に、適切な言葉が出てこない。単なる惨敗ではない。そして、前回勝利を誓ったテイエムオペラオー(歌劇少女)にも、そしてナリタトップロード(クラスメイト)にも負けた。

 

「・・・ずっと勝ち続ける選手なんていない。誰もが、どこかで敗北を経験する。そこから弱点を学ぶことで、次に勝てるようになる」

 

我ながら、苦しい言葉だと思った。今のアドマイヤベガが求めている言葉は、こんな言葉ではない。スクールカウンセラーの言う通り、高校生アスリートは『今』を生きている。アスリートに限らない。高校生当時の自分も、他の人も。第一志望学部に落ちたかつての自分に、今の自分が『大学受験で第一志望に落ちるやつは珍しくない』などと伝えても、何の慰めにもならない。

 

「・・・G1を無敗7冠達成した選手もいるのに?・・・薄っぺらい慰めの言葉なんて、要らない。クラシックは、一生に一度しか挑めない。次なんてない」

 

やはり。意味は無いらしい。確かに、そんな選手も過去に居た。自分の姉(シリウスプライド)も、常に3位以内に居た。

 

「・・・確かにそうだな。だけど、全レースで1位の選手も居ない。そして今は、他人じゃなくて、自分を見るべき時だ。次の京都新聞杯と、菊花賞で勝つためには何をするべきかを考えないと」

 

その瞬間、アドマイヤベガが立ち上がり、大きな音を立てて椅子が後ろに倒れた。拳は強く握られ、今にも血が流れそうなほどに爪が食い込んでいる。

 

「次の菊花賞は3000m・・・2400mでダメなら、勝てるわけがない」

 

絶望する彼女を落ち着かせるため、過去のレース実績を伝えて希望を持たせようとした。業務用PCを開いて、レース結果をまとめた表を示す。

 

「・・・1年前の選抜レースは1600m、そこから半年後のエリカ賞は2000m。400m増えても優勝しただろ。今から諦めてどうする」

 

しかし、彼女は表情を変えない。そのまま手を机に付きながら、独り言のように呟いた。

 

「妹に勝利を絶対に捧げると誓ったのに。弟に応援の手紙ももらったのに・・・」

 

もはや、こちらの言葉が耳に届いているかすら定かではない。

そして、『妹』という言葉。

生を受ける前にこの世を去った双子の片割れ、綾部明海(あやべ あけみ)

彼女の口から直接聞くのは初めてだ。どう反応するべきか、迷った。しばらく考え込み、そして、踏み込むべきだと判断した。

 

「・・・妹って、明海(あけみ)さんか」

 

その瞬間、アドマイヤベガの全身の動きが止まり――ゆっくりと顔を持ち上げ、こちらを向いた。

 

「なんで、トレーナーが、その名前を知ってるの」

 

影の中に光る鋭い目つきに、一瞬心臓が止まりそうになった。触れてはならないところに、触れたかもしれない。しかし、一度口に出してしまった。もう戻れない。

 

「・・・正月の、過呼吸の時に。お母様が、教えてくれた。知られているのは不快だろうと思って、ずっと黙ってたんだ」

 

彼女の目が、さらに鋭くなった。その裏にある感情は、怒りか、失望か、その両方に見える。

 

「仮に君と妹さんが逆の立場だったとして、君は・・・綾部明里は、勝負の世界に挑む妹さんの結果が振るわなかったら、あの世から妹さんを呪うのか?」

 

彼女は、眉間に深い皺を寄せ、こちらを睨みつけてくる。まるで、ヘビに睨まれたカエルのように、動けなくなった。

 

「私は、呪わない。絶対に。でも、あの子がそうだとは限らない」

 

聞いたことが無いほど低い声。鼻柱にも寄りはじめた深い皺は、感情が爆発寸前であることを示している。机が軋む音が聞こえた。対応を間違えれば、圧倒的な身体能力の矛先が、自分に向くかもしれない。最悪を通り過ぎた先の、さらに最悪の展開が脳裏をよぎった。

アドマイヤベガとの距離は、1m。こちらはまだ着席中。護身術の実戦経験はない。杉崎先輩や、桐生院を始めとする同期との練習だけだ。控室のドアは、内開き。鍵をかけたかは、記憶が曖昧。

感情を刺激するような言葉は、避けるべきだ。

 

「・・・君が呪わないなら、君の妹さんだって――」

 

その瞬間、ついにアドマイヤベガが叫んだ。

 

「高村トレーナーに、何が分かるって言うの。中央でトレーナーやって、人生の成功者で、今まで何も失ったことがないくせに!」

 

『何も失ったことがないくせに』――

 

その言葉を聞いた瞬間、小学生以降の記憶が蘇った。

自分はウマ娘になれないと気付いた時のこと。祖母が亡くなった時のこと。物心付く前から飼っていた、兄弟のような存在だった猫が寿命を迎えた時のこと。塾の同級生だった友人を失った時のこと。大学受験で第一志望どころか第二志望にすら落ちた時のこと。箱根駅伝に出たかったのに、競走部の入部試験に落ちた時のこと。そのすべてが、一瞬で脳裏を駆け巡った。

気が付くと、自分も椅子を倒して立ち上がっていた。

 

「・・・この俺が、何も失わずに生きてきたと思っているのか?!君より7年長く――」

 

『君より7年長く生きている分だけ、失敗も、喪失も、経験している』。その言葉は、最後まで言えなかった。

 

目の前の教え子が、身を縮こませて、怯えた顔をしていた。

圧倒的身体能力を持つとは言え、7歳年下の、16歳の、女子生徒だ。我を忘れ、大声を上げてしまうなんて、指導者としてあってはならない。それも密室内で。教職課程や研修で、散々言われたことのはずだ。

 

「・・・ごめんな。俺の過去は、君には関係ないことだ。・・・今はお互い冷静になれない。今後のことは、落ち着いてから学園で話そう。涙は、ストレス物質を洗い流してくれるから、思いっ切り泣いておけ。俺は席を外す」

 

ゆっくりと後ずさりして、控室を出る。深呼吸をした。

リノリウムの床を見下ろすと、ひどい顔の男が微かに反射していた。

頭を振り、しばらく歩いた。行先はトイレだ。震える手で業務用スマートフォンをスーツの胸ポケットから取り出し、チャットアプリを立ちあげ、カレンチャンのチャット欄を開いた。音声通話ボタンを押すと、数秒の呼び出し音の後に、鈴を転がすような声がした。

 

「はい、カレンチャンです。どうしました、高村トレーナー。珍しいですね、音声通話なんて」

「・・・ああ、そうだな。・・・(あや)・・・アドマイヤベガなんだけど、学園までの帰り、付き添ってあげてくれないかな。6位で、今だいぶ荒れてる。今の俺には対応できそうにない」

「・・・分かりました。アヤベさんは控室にいますか?」

「ああ。場所は・・・分かるか。激励に来てくれたもんな。頼む」

「高村トレーナー、また杉崎トレーナーの大学時代の話聞かせてくださいね」

 

ここでも代金請求か。良いだろう。杉崎さんのエピソードなんて、女子中学生に教えられる範囲に限っても、文字通り売るほど知ってる。それ以外も、たくさん。

 

「ああ、特上ネタを用意して待ってる。それと、泣いてると思うから、気を遣ってあげて欲しい」

「・・・優しいですね。高村トレーナー」

「いや、そんなんじゃないよ。詳しくは言えないけど、さっき声を荒げてしまった。謝ったんだけど、君からも伝えておいてくれないかな。俺が謝っていたって」

「杉崎トレーナーの大学時代のお話、もう1つで手を打ちます」

 

抜け目のない奴。だけど、その等価交換を求める姿勢が、却ってありがたかった。

 

「取引成立だ。頼んだ。このあとアドマイヤベガの担当インストラクターに連絡して車出してもらえないか訊くから、後で連絡する。OKだったら車で帰って欲しい」

 

 

続いて、同期の歌唱ダンス指導教員(インストラクター)にも音声通話を掛けた。たった3kmとは言っても、今のアドマイヤベガは、中学生(カレンチャン)には荷が重いかもしれない。心無い取材や、ファンの目線からも遠ざけたい。

 

「高村くん?どうした?」

 

心配そうな調子の声。レースの結果を知っているのだろうか。

 

「・・・今日のレース見てたか?」

「・・・うん、残念だったね」

 

児玉(こだま)の声が沈んでいることが、スピーカー越しにも分かる。

しかし指導教員二人揃って落ち込んでいるわけにもいかない。本題を切り出した。

 

「児玉さ、東京レース場まで車出してあいつを学園まで連れ帰ってくれない?記者やファンから遠ざけたい。選手エントランスじゃなくて通用口使えないか交渉してみるから、後で連絡する」

「わかった。今教員室出て駐車場に向かってる。控室はどこ?」

「306番控室。ルームメイトの子にも付き添い頼んでる」

「りょーかい、任せといて。二人とも完全護衛で連れ帰るから」

 

頼もしい。こういう時、同期というのは涙が出るほどにありがたい。

 

「ありがとう。今度、なんか奢るよ」

「いいって、そういうのは。あー・・・でも、覚えとく」

「怖いなあ、払える範囲で頼むよ。じゃあ」

 

スマホをポケットに仕舞い、1階の警備室に向かった。通用口の使用許可は、あっけないほど簡単に取れた。よくあることらしく、対応が慣れていた。

 

警備室を出た時、乙名史記者がロビーにいた。彼女はこちらを見つけると、深く礼をし、そのまま会見会場へと入って行った。入賞しなかった選手に用がないのか、それとも気を遣ってくれたのかは分からない。でも、どちらにせよありがたかった。今取材を受けたら、冷静さを保つ自信はない。

 

 




登場人物 No.03

児玉 武美(こだま たけみ)

中央トレセン 音楽科所属 歌唱ダンス指導教員(インストラクター)
高村の同期の23歳。神奈川県横浜市出身。都内国立大を卒業後にトレセンに着任。職員番号1045661。
インストラクターは担当生徒のプロデュース業務を事務職員ともに分担して兼務する。インストラクターに個人・チームという区分はないため、彼女はアドマイヤベガの他に7人の生徒を担当している。

東京優駿レース結果
15:30発走 東京 芝2400m(左) 晴 良

順位選手名タイム着差
1ナリタトップロード2:25.4
2テイエムオペラオー2:25.61.1/4
3アクアオーシャン2:26.02.1/2
4モーニングタイ2:26.01.3/4
5ローズ2:26.43/4
6アドマイヤベガ2:26.4ハナ
6カラスノヌレハ2:26.4同着
8ウンザーシネマ2:26.71.3/4
9グッドレース2:26.81/2
10プチフォークロア2:27.01.1/4
11ヒガシノコクリュウ2:27.21.1/2
12クルーズオンターフ2:27.33/4
13トウホクザオウ2:27.51.1/2
14ヨロンブルー2:27.81.3/4
15ドーントレス2:27.93/4
16ウンザーフラメンコ2:28.32.1/2
17メイラッシュ2:28.3クビ
18フユショウグン2:30.5
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