星間境界 -アドマイヤベガの道標-   作:茶園真

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第四章で一旦本格的なシリアス展開は終わります。この章では、2年目夏合宿後までを描きます。アドマイヤベガの心理状態で言うと、サバイバーズギルトを克服するまでです。


第四章 -軌道共鳴-
第四章第一節 "安全基地司令の交代"


 高村トレーナーを怒らせてしまった。あの人が、あんな顔をするなんて思わなかった。でも、当然かもしれない。私はあの人の過去を何も知らない。『何も失ったことが無い』なんて、私の勝手な推測でしかない。エリート校と言われている中央トレセンの新任トレーナーなら、良い家に生まれて、家族に大切に育てられて、良い大学を出て、完全無欠の人生を送ってきたスポーツ科学のエリート揃いのはず。それでも、何かを失った過去が、あの人にもあるらしい。私の知らない、どこかで。

 

 そして、トレーナーが年明けから優しかったのは、単に私の過去を母から聞いていたからだった。『大切な教え子』ではなく、『可哀そうな生徒』として見ていた。だから、優しくしてくれていたんだ。いかにもエリート校の教員らしい対応。やっぱり、あの人は『何かを失った経験』があったとしても、中央のトレーナー(エリート)だ。そして、私はその人の優しさに甘えて、彼の怒りを買ってしまった。あんなことを言わなければ、もうしばらく『高村トレーナーは私を大切な教え子として見てくれている』という幻想に浸っていられたのに。もう遅い。幻想は覚めたし、トレーナーは私を許してはくれないだろう。

 

 東京優駿で6位だったから、積み上げた『幸福』が足りなくて、贖罪のための差し押さえが始まったらしい。それか、弥生賞優勝した時点で『幸福』の蓄積が十分になって、返済が始まってしまったのかもしれない。でも、どちらでも良い。

 

 こうなってしまったのも、全て自分のせいだ。原罪を忘れ、使命を忘れた私には、ふさわしい苦しみ。でも、それで良い。もともと私は独りが良かった。トレーナーと契約したのも、レース参加権を得るためだけで、指導をしてほしかったわけじゃない。あの人に期待していたわけじゃない。私はもう16歳。未成年だけど、一人で判断できる歳。一昔前なら大人として扱われていた年齢だ。

 私は、勝つ。ひとりで戦って、ひとりで勝つ。

 次のレースは、10月の京都新聞杯と、11月のクラシック三冠レース最終戦、菊花賞。

 教室の窓から、空を見る。夏至を前にして、日が長くなってきた。トレーニング時間も、それに併せて伸ばすべきだ。

 

 


 

 東京優駿での惨敗のあと、アドマイヤベガ(教え子)は完全に心を閉ざしてしまった。会話は最低限で、業務用チャット(Members)の返答は輪をかけて素っ気なくなった。完全に、指導契約を結んだ1年前の関係に戻ってしまった。それどころか、信頼を損ねてしまった分さらに悪いかもしれない。仕方ない。7歳も年下の生徒に、一瞬とはいえ本気で怒鳴ってしまった。・・・大切な教え子に、感情をぶつけてしまった。あの子の安全基地であろうとしたのに、自らそれをやめてしまった。既に打つ手はない。こうなってしまっては、プロの手を借りるほかない。渡辺スクール(S)カウンセラー(C)に、連絡を入れた。

 

『渡辺先生、お疲れ様です。教え子について重要な相談があるのですが、対応可能な時間帯はありますでしょうか』

 

 数分後、返答が来た。

 

『高村トレーナー、お疲れ様です。明後日までは生徒さんの予約で定時まで埋まっているので、明々後日の11時からお昼までなら対応可能です。いかがされますか』

 

 選択の余地はない。すぐに了承した。

 

『明々後日の11時でお願いします』

 

 

 翌々日、カウンセリング室を訪れた。渡辺SCは、いつものような柔和な笑顔を浮かべる。

 

「こんにちは。先日の東京優駿、残念でしたね。アドマイヤベガさん落ち込まれてたでしょう」

「ええ、かなり・・・荒れてました」

 

 俯きながら答えた。床に反射する自分の顔は、情けない表情をしていたように思う。

 

「それで、本日のご用件は」

 

 渡辺SCは、即座に本題へと話を移してくれた。

 

「実は、渡辺先生にお話ししていなかったことがあります。教え子、アドマイヤベガについて。今日はそれを、先生にお話ししようと」

「・・・分かりました。お聞きします」

 

 渡辺SCの顔が、真顔になった。話を始める前に、一つだけ確認を取った。

 

「その前に、個人情報が絡むので、機密保持誓約書を書いていただけませんか。不躾なお願いで申し訳ないのですが」

「分かりました。生徒さん向けのものしかないですが、それでよければ」

 

 誓約書にお互い署名したのち、これまで誰にも言えなかった言葉を、口に出した。

 

「アドマイヤベガの心の傷の正体は・・・サバイバーズギルトです。双子の妹さんが死産になっていたようで、そのことにずっと苦しんでいます」

 

 渡辺SCの目が見開かれた。

 彼女の妹のこと。競技登録名(ターフネーム)に込められている可能性がある異様な意味の多さ。生徒の重大な個人情報を誰にも明かせず、なんとか自力で対処しようと心理療法を独学し、対応を図ってきたこと。そして、東京優駿の後に感情的な衝突をしてしまったこと。その全てを聞き終えた渡辺SCは、深く頷いた。

 

「なるほど。それなら、アドマイヤベガさんの態度全てに納得がいきます。明らかに彼女は心的外傷を負っていましたし、本番レース前だとしてもストレス抑圧が過剰でした。そして、あの子のアイデンティティが、本名ではなくターフネームのほうに癒着しているという推測も、恐らく正しいでしょう。本名で呼ぶ時と、ターフネームで呼ぶ時で反応が違いましたから」

 

 やはり、プロは自分より早く、そして的確に異常性を見抜いていたらしい。

 

「高村トレーナーがこれまで実践してきた、『安全基地を構築する』『本名とターフネームを使い分けることで、アイデンティティを戻す』『勝利時にターフネームを称えることで、ターフネームの意味を再定義する』『天体観測の意味をすり替える』は、いずれも適切な対応です。独学でよくここまで」

 

 素人対応ながら、方針は間違っていなかった。そのことに、少しだけ救われた気がした。

 

「母校の中央図書館で、心理学の本を結構読みまして」

「・・・熱心ですね。臨床心理士としてはあまり手放しで褒めたくはないのですが。そして、悲嘆(グリーフ)ケアとして高村さんの対処は適切ですが、不十分な点もあります。分かりますか?」

 

 臨床心理学の本の内容を思い出しながら答えた。

 

「『物語療法(ナラティブセラピー)』と、『別れの儀式』が無いことでしょうか」

 

 彼女は大きく頷いた。

 

「その通りです。そして、その2つは、患者ご本人が自己開示することが必要不可欠で、高村トレーナーにも対処困難なものでした。ただ、唯一のチャンスはありました。分かりますか」

 

 数秒考えたが、分からない。渡辺SCは、その様子を見て話を続けた。

 

「東京優駿の後に『妹に勝利を捧げると決めたのに』と、アドマイヤベガさんが仰っていた時です。高村トレーナーは『明海さんのこと?』と訊ねてしまいました。そこは、『あなたが話したいと思えるようになるまで待つよ』と伝えるべきでした」

 

 頭を抱えた。素人が見よう見まねで治療を試みた結果が、取り返しのつかない信頼崩壊だ。

 

「そう落ち込まず。実は、先日の面談で、アドマイヤベガさんは少し自己開示をしてくれました。高村トレーナーが教えてくださった情報を使えば、うまく自己開示を誘導できます。念のため私からもご実家に連絡して、ご家族から直接妹さんのことを伺えば体裁も整います」

 

 頭を上げた。口元に柔らかな笑みを湛え、力強い目線を送って来る彼女の顔を見た。この上なく、頼もしく見えた。そして、心配していたことを1つだけ訊ねた。

 

綾部(あやべ)は現役の競走バです。仮に、東京優駿の後の自分のように感情を下手に刺激して彼女が激昂した場合、先生に危険が及ぶのでは」

 

 すると、渡辺SCは少しだけ意外そうな顔をし――笑った。

 

「高村トレーナー、私もウマですよ?もう『ウマ娘』なんて歳ではありませんけど、それなりに力はあります。それに、面談の時はいつも若いウマのSCを部屋の外に待機させています。現役相手とはいえ、2対1なら、負けません。それに、私も昔はターフで走ってました――強くはありませんでしたけどね。だからこそ、あの子たちの心理は知り尽くしています。かつての当事者として。そして、現役の臨床心理士として」

 

 全身の力が、抜けていく感じがした。この人は、どこまでもプロだ。最初から、こうしてプロに依頼しておくべきだった。

 椅子から立ち上がり、深々と頭を下げた。

 

「渡辺先生、どうか、僕の教え子を頼みます」

 

 渡辺SCは、力強く言ってくれた。

 

「お任せを――時間はかかるかもしれませんが、最大限の努力をします。それと、高村さんにもお願いしたいことが」

 

 この状況でも、自分にやれることがあるらしい。

 

「はい、何でしょう」

「いまの綾部さんは、高村トレーナーとの感情的衝突によって、安全基地を失ったと思っているはずです。・・・でも、『そうではない、自分はあなたのことを心配しているよ』というメッセージを、発してあげてください。それが、彼女を救うことに繋がります」

 

 失った信頼をどこまで取り戻せるかはわからない。でも、やれるだけのことはやるべきだ。目を見て、頷いた。

 

「分かりました」

 

 

 

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