第四章第一節 "安全基地司令の交代"
高村トレーナーを怒らせてしまった。あの人が、あんな顔をするなんて思わなかった。でも、当然かもしれない。私はあの人の過去を何も知らない。『何も失ったことが無い』なんて、私の勝手な推測でしかない。エリート校と言われている中央トレセンの新任トレーナーなら、良い家に生まれて、家族に大切に育てられて、良い大学を出て、完全無欠の人生を送ってきたスポーツ科学のエリート揃いのはず。それでも、何かを失った過去が、あの人にもあるらしい。私の知らない、どこかで。
そして、トレーナーが年明けから優しかったのは、単に私の過去を母から聞いていたからだった。『大切な教え子』ではなく、『可哀そうな生徒』として見ていた。だから、優しくしてくれていたんだ。いかにもエリート校の教員らしい対応。やっぱり、あの人は『何かを失った経験』があったとしても、
東京優駿で6位だったから、積み上げた『幸福』が足りなくて、贖罪のための差し押さえが始まったらしい。それか、弥生賞優勝した時点で『幸福』の蓄積が十分になって、返済が始まってしまったのかもしれない。でも、どちらでも良い。
こうなってしまったのも、全て自分のせいだ。原罪を忘れ、使命を忘れた私には、ふさわしい苦しみ。でも、それで良い。もともと私は独りが良かった。トレーナーと契約したのも、レース参加権を得るためだけで、指導をしてほしかったわけじゃない。あの人に期待していたわけじゃない。私はもう16歳。未成年だけど、一人で判断できる歳。一昔前なら大人として扱われていた年齢だ。
私は、勝つ。ひとりで戦って、ひとりで勝つ。
次のレースは、10月の京都新聞杯と、11月のクラシック三冠レース最終戦、菊花賞。
教室の窓から、空を見る。夏至を前にして、日が長くなってきた。トレーニング時間も、それに併せて伸ばすべきだ。
東京優駿での惨敗のあと、
『渡辺先生、お疲れ様です。教え子について重要な相談があるのですが、対応可能な時間帯はありますでしょうか』
数分後、返答が来た。
『高村トレーナー、お疲れ様です。明後日までは生徒さんの予約で定時まで埋まっているので、明々後日の11時からお昼までなら対応可能です。いかがされますか』
選択の余地はない。すぐに了承した。
『明々後日の11時でお願いします』
翌々日、カウンセリング室を訪れた。渡辺SCは、いつものような柔和な笑顔を浮かべる。
「こんにちは。先日の東京優駿、残念でしたね。アドマイヤベガさん落ち込まれてたでしょう」
「ええ、かなり・・・荒れてました」
俯きながら答えた。床に反射する自分の顔は、情けない表情をしていたように思う。
「それで、本日のご用件は」
渡辺SCは、即座に本題へと話を移してくれた。
「実は、渡辺先生にお話ししていなかったことがあります。教え子、アドマイヤベガについて。今日はそれを、先生にお話ししようと」
「・・・分かりました。お聞きします」
渡辺SCの顔が、真顔になった。話を始める前に、一つだけ確認を取った。
「その前に、個人情報が絡むので、機密保持誓約書を書いていただけませんか。不躾なお願いで申し訳ないのですが」
「分かりました。生徒さん向けのものしかないですが、それでよければ」
誓約書にお互い署名したのち、これまで誰にも言えなかった言葉を、口に出した。
「アドマイヤベガの心の傷の正体は・・・サバイバーズギルトです。双子の妹さんが死産になっていたようで、そのことにずっと苦しんでいます」
渡辺SCの目が見開かれた。
彼女の妹のこと。
「なるほど。それなら、アドマイヤベガさんの態度全てに納得がいきます。明らかに彼女は心的外傷を負っていましたし、本番レース前だとしてもストレス抑圧が過剰でした。そして、あの子のアイデンティティが、本名ではなくターフネームのほうに癒着しているという推測も、恐らく正しいでしょう。本名で呼ぶ時と、ターフネームで呼ぶ時で反応が違いましたから」
やはり、プロは自分より早く、そして的確に異常性を見抜いていたらしい。
「高村トレーナーがこれまで実践してきた、『安全基地を構築する』『本名とターフネームを使い分けることで、アイデンティティを戻す』『勝利時にターフネームを称えることで、ターフネームの意味を再定義する』『天体観測の意味をすり替える』は、いずれも適切な対応です。独学でよくここまで」
素人対応ながら、方針は間違っていなかった。そのことに、少しだけ救われた気がした。
「母校の中央図書館で、心理学の本を結構読みまして」
「・・・熱心ですね。臨床心理士としてはあまり手放しで褒めたくはないのですが。そして、
臨床心理学の本の内容を思い出しながら答えた。
「『
彼女は大きく頷いた。
「その通りです。そして、その2つは、患者ご本人が自己開示することが必要不可欠で、高村トレーナーにも対処困難なものでした。ただ、唯一のチャンスはありました。分かりますか」
数秒考えたが、分からない。渡辺SCは、その様子を見て話を続けた。
「東京優駿の後に『妹に勝利を捧げると決めたのに』と、アドマイヤベガさんが仰っていた時です。高村トレーナーは『明海さんのこと?』と訊ねてしまいました。そこは、『あなたが話したいと思えるようになるまで待つよ』と伝えるべきでした」
頭を抱えた。素人が見よう見まねで治療を試みた結果が、取り返しのつかない信頼崩壊だ。
「そう落ち込まず。実は、先日の面談で、アドマイヤベガさんは少し自己開示をしてくれました。高村トレーナーが教えてくださった情報を使えば、うまく自己開示を誘導できます。念のため私からもご実家に連絡して、ご家族から直接妹さんのことを伺えば体裁も整います」
頭を上げた。口元に柔らかな笑みを湛え、力強い目線を送って来る彼女の顔を見た。この上なく、頼もしく見えた。そして、心配していたことを1つだけ訊ねた。
「
すると、渡辺SCは少しだけ意外そうな顔をし――笑った。
「高村トレーナー、私もウマですよ?もう『ウマ娘』なんて歳ではありませんけど、それなりに力はあります。それに、面談の時はいつも若いウマのSCを部屋の外に待機させています。現役相手とはいえ、2対1なら、負けません。それに、私も昔はターフで走ってました――強くはありませんでしたけどね。だからこそ、あの子たちの心理は知り尽くしています。かつての当事者として。そして、現役の臨床心理士として」
全身の力が、抜けていく感じがした。この人は、どこまでもプロだ。最初から、こうしてプロに依頼しておくべきだった。
椅子から立ち上がり、深々と頭を下げた。
「渡辺先生、どうか、僕の教え子を頼みます」
渡辺SCは、力強く言ってくれた。
「お任せを――時間はかかるかもしれませんが、最大限の努力をします。それと、高村さんにもお願いしたいことが」
この状況でも、自分にやれることがあるらしい。
「はい、何でしょう」
「いまの綾部さんは、高村トレーナーとの感情的衝突によって、安全基地を失ったと思っているはずです。・・・でも、『そうではない、自分はあなたのことを心配しているよ』というメッセージを、発してあげてください。それが、彼女を救うことに繋がります」
失った信頼をどこまで取り戻せるかはわからない。でも、やれるだけのことはやるべきだ。目を見て、頷いた。
「分かりました」