6月は梅雨だから、屋外練習はほぼできない。必然的にダンスレッスンや、プールかジムでのトレーニングがメインになる。そして7月は前期期末試験があるから、正規トレーニングのみで自主練は禁止。期末試験前週からは正規トレーニングも無し。
教え子は、週1のスマートウォッチのデータ確認は続けさせてくれている。契約解除という最悪の事態は、なんとか避けられそうに思う。
前期期末試験の結果、アドマイヤベガの体育座学の成績は少し下がっていた。やはり、メンタルの問題が成績に現れている。それに加えてレース結果も振るわなかったから、体育の成績はBとせざるを得なかった。こればかりは、数字ではっきりと示されてしまう。どうにもできない。一般科目も、もしかすると成績が下がっているかもしれない。
8月の夏合宿の状況は、1年目と同様だった。信頼関係を損ねている以上当然だけど、彼女はこちらが用意したメニューのうち自分でやるメニューを選択した。トレーナーとしてできるのは、併走相手の確保と、日射病回避のための安全確保のみ。無力感だけが、ひたすら募っていく。『見捨てたわけではない』というメッセージを発そうにも、まともに会話をさせてもらえない。
夕食の後、カレンチャンと目が合った。彼女は諦めたように顔を振り、眉を下げるだけだった。ルームメイトすら、手の出しようがない状況が続いているらしい。
夜、合宿所の外に出た。スマートフォンの光を頼りに、真っ暗な浜辺へと伸びていく階段を一歩一歩下っていく。
崖の下にたどり着き、頼りない感触の砂浜を数分歩いた。目指すのは、1年前にも座った
空を見上げた。1年目の夏合宿とは違い、新月の時期。目が暗闇に慣れると、真っ黒な画用紙に砂粒を散りばめたように星が輝き、その中に一本、濃い天の川が、星空を貫いている様子が見えた。南の方向には、さそり座。その心臓部には、真っ赤に輝くアンタレスが鎮座している。東の空には、夏の大三角。アルタイルとベガの間を、天の川が境界線のように隔てていた。
天体観測には最適な夜だった。
アドマイヤベガも天体観測しに来ないかと思ってしばらく待っていたけど、彼女が姿を現す事は無かった。去年は、夜の浜辺に生徒と二人っきりという状況を警戒し、さっさと合宿所に引っ込んでしまった。そして今は、その彼女に来て欲しいのに姿を現してくれない。全く皮肉としか言いようがない。
夏合宿が終わり、お盆も明け、一般準備期から専門準備期への移行のためにトレーニングメニューの考案をしていた時のことだった。期末試験期間中は忙しくてできなかった6月以降のトレーニングデータを整理していた時、ふと、違和感に気付いた。
気になったのは消費カロリーだ。6月以降のトレーニングの消費カロリーを時系列の折れ線グラフにすると、妙にガタついている。トレーニングの内容は毎日違うから曜日ごとのバラつきはあるにせよ、今までにない傾向だった。念のため消費カロリーの目標値と報告値の差を確認すると、こちらも妙に値がバラけている。
続けて5月以前についてもグラフを作成した。すると、こちらは消費カロリーのガタつきが少なく、目標値と報告値の差もバラけていない。嫌な予感がした。
トレーニングメニューの違いによるものではないかと、最初は考えた。5月は毎週細かくメニューを調整していたからだ。しかし、メニューを細かく変えていない3月以前のデータを確認しても、やはり同じ結果だった。目標値と報告値の差のバラつきは、大きくない。
背中を冷や汗が伝う。
消費カロリーの絶対値で単純に考えても、誤った結論に至る可能性が高い。どうか自分の勘違いであってほしいと思い、トレーニングメニューがほぼ同じ2月と6月の消費カロリーを選んだうえで、目標値と報告値の比率に直した。そしてその比率を横軸、報告回数を縦軸にとったグラフ、すなわちヒストグラムを作成した。
結果は、一目瞭然だった。2月は、比率1、すなわち目標カロリー付近が最も報告回数が高く、そこから離れるにしたがって報告回数が少なくなる分布――正規分布――を描いている。一方6月は、比率1を中心に±0.2の範囲のみにデータがあり、報告回数がどこも概ね等しい分布――
一様分布が出現するのは、サイコロを振ったときのそれぞれの目の出る確率など、各事象が発生する確率が等しい現象だ。でも運動によるカロリー消費は、それに当てはまらない。確率密度関数を算出するまでもない不自然さだ。
念のため、他の月のヒストグラムも作成した。
結果は、やはり5月以前は正規分布で、6月以降は一様分布。あまりにも怪しすぎる。スマートウォッチのデータ自体を改竄するのは難しいけど、消費カロリーの目標値付近になった時点でスマートウォッチを外せば、こんな結果になるはず。外すタイミングにランダム性を持たせていると仮定すると、一様分布であることにも説明が付く。・・・つまり、6月以降の消費カロリーの報告は、偽装されている可能性が高い。でも、そんなごまかしは、大学初級レベルの統計学で簡単に見破れる。アドマイヤベガは高校生だから、数学的手段で偽装報告を見破られることを想像もできないのだろうけど。
――あいつ、また過剰な自主練に走っているのか。隠蔽までして。
戦慄が走った。これが虚偽報告だとすれば、既に3か月近くが経過している。疲労が蓄積し、負傷、骨折、事故など深刻な事態へと突き進みかねない。信頼関係が全く回復できていない、この時期に。
しかしなぜカレンチャンからの報告が無かったのか。ルームメイトなら、異変には気付くはず。
――まさか、カレンチャンにすら黙っていたのか?
慌てて、カレンチャンにチャットを送った。
『高村です。一点確認したい。6月以降、アドマイヤベガの行動や習慣で、何か変わった点はないか?例えば、夜に黙って抜け出して長く戻らないとか、よく出かけるようになったとか』
返事は、なかなか来ない。心臓の鼓動が、少しだけ早まるのを感じた。
『最近先輩は、よく夕方に買い物だったり、映画だったり、プラネタリウムだったりと、頻繁にお出かけしているようですよ。ただ、私が付いて行こうとするとよく拒否られます。でも、何度かご一緒はできました』
まさか、と思った。一人を好む性格を考えると、不自然な行動ではない。しかし、消費カロリーの捏造疑惑と合わせて考えると、非常に怪しい。
アドマイヤベガは、外出と称して夕方以降に自主トレしている可能性が高い。危険だ。